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10月3日(水) no.1



 
21世紀の作家達が受け継いだもの 桝谷秀一
映画祭はじまる! 加藤初代
全ては小川さんに直結する 小川知宏






21世紀の作家達が受け継いだもの
「日本パノラマ」「アジア千波万波」「ネットワーク企画上映」作品選考 
桝谷秀一


「インターナショナル・コンペティション」

ビデオ作品解禁へ

今回からビデオ作品の応募も可能になった。山形12年の歴史の中で、大きな変更である。そのせいもあって、応募数も700本を超えた。ドキュメンタリー映画のスタッフ体制といえば、ぎりぎり小規模のものであったが、それでもフィルムの頃は数人のスタッフワークだった。それが、ビデオ作品になると、作家一人での制作というのが圧倒的だ。非常に個人的な切り口で、身近なところから広がりを持っている作品が多い。ただ、かつてのスケール感が薄れていっている気がする。ドキュメンタリー映画の今後の方向性は、当分はそちらに向かうだろう。

「アジア千波万波」

インターナショナル・コンペティションとの差はなくなった

「インターナショナル・コンペティション」がビデオ作品を解禁したことにより、「アジア千波万波」とのプログラムの考え方を見直す時期にきていると言える。映画祭'89 の、なぜアジアからのドキュメンタリー映画がないのか?という問い掛けから始まったこのプログラム。アジアの作家を育てるという小川紳介監督の志を継承してきた結果は、十分に実っている。もはやコンペとの差は無いといっていいほどだ。今年の傾向としては、社会性やテーマといった大上段に構えるのではなく、身近な個人の視点から社会が見えてくるような作品が多いことだろう。成熟した作品であると同時に、まだまだ若さと勢いのある作品ばかりで、コンペ以上の魅力に溢れている。

「日本パノラマ」

10年後を見据えて

「日本パノラマ」は1991年、第2回の本映画祭のスペシャルイベント、「日本映画パノラマ館」(企画運営YIDFFネットワーク、コーディネーター斎藤久雄)から、毎回形を変えながらも、その時々の日本のドキュメンタリー映画の今を表現し続けてきた。1991年のパノラマ館のサブカタログを見ると「21世紀の作家たちへ」とある。コーディネーターの斎藤久雄と数年前に何気なく話していて、当時の作品選考について聞いたことがあった。そのなかで「10年後も映画を撮っているであろう作家を選んだ」というのが印象的だった。この時紹介された作家達のほとんどが、いまだに映画、映像と関わりを持ち続けているのはたしかだろう。さらに言えば、現代の若い作家達の作品から、その影響を垣間見ることができる。初回のパノラマ館の凄さは、次の時代のことも見据えていたからに他ならない。 今回の私の関わった「日本パノラマ」もそうした継続性を念頭に置いた、作家性のしっかり感じられる作品を選んだ。また、他者に観せること、作家自身が外に向かおうとすること、自身の境界線からはみ出していこうという再生の意志を持ったものをプログラムしたつもりである。10年後にも彼らの新作に出会えることを期待しつつ。

「ネットワーク企画上映」

キナ臭い時代だからこそ忘れてはいけないこと

近頃なぜかチャールストンが流行っているという噂は聞かないが(岡本喜八監督作品を参照されたし)、米でのテロ事件以前から、日米共にタカ派的政治家がリーダーになった。バブルの後の強い指導力を求める傾向の結果なのだろう。そうした時代だからこそ、自国の歴史をきちんと認識することがより問われるのではないだろうか。特集1「大東亞戦争的記憶〜忘れられた人たち」は、そういう視点から作品を選んでみた。 また、特集2「山形を撮る」シリーズは山形でつくられた、あるいは山形を撮った作品を紹介している。「ネットワーク企画上映」は、これまで映画祭外の上映だったが、今回、正式に映画祭プログラムとなった。



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映画祭はじまる!
あなたはなぜ映画を観るのですか?
加藤初代


 テレビをつけると、人気アイドルグループの女の子が言っていた。「この衣装、女子プロみたいですよね。」続いて流れる映像。赤いフリルの服を着て歌う彼女。その姿は松田聖子に代表される80年代のアイドルより演出過剰だけれど、その演出はなんの意味ももたない。どこかで見たことのある映像かもしれないけれど、なんの記憶にも残らない。けれども「女子プロみたい」の一言で、その映像はあたらしい意味を持ってわたしの記憶に残ってしまった。グループ一の人気を誇る彼女にとって女子プロレスとは、自分を“謙遜”するためのアイテムなのだという、新しい解説とともに。

 映像は繰り返し注釈をつけることでどんどん違った意味を生み出す。一日に何度かテレビをつければ、どこかで見た映像が異なる解説付きで繰り返される。倒壊したビルも、懸賞金をつけられた男の顔も、泣き崩れる人々も、断片的に記憶に残るそれらの映像は、次に見たときにはまた違った物語を付加されている。それは「悪人は懲らしめなければいけない」であったり、「暴力は何も生み出さない」であったり、さまざまだ。

 なぜ映画を観るのか。理由は人それぞれだと思うけど、わたしにとってその理由の一つは、映画の映像は繰り返し解説しないから、だと思う。映画館に自ら赴いたときにだけ見ることの出来る映像。後から切り刻まれ、つなぎ合わされ、新たな注釈をつけられることはない。後から新しい意味を付加されることもない。そのとき、その場所でしか見ることの出来ない映像に出会えるから。

 今年も映画祭がはじまった。まさに百花繚乱。エネルギーに溢れている。質疑応答、大討論会など企画も盛りだくさんです。できるだけ多くの上映会場へ足を運んで、そのとき、その場所でしか体験できない出会いをしてください。あなたはなぜ映画を観るのですか? こういうのを愚問っていうんです。そんな余計な問いかけは無用。いろいろ観ていくうちにそんな問いなどどこかへ吹っ飛んでいくにきまってます。



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全ては小川さんに直結する
小川知宏


 ぼくがたまたま東北芸術工科大学に合格して、山形で一人暮らしをするようになったのが2年前だった。その年はちょうど'99山形映画祭の開催年であり、ぼくは偶然ボランティアスタッフとして参加することになった。その時は何もかも訳が分からないまま、ただ仕事の流れに身を任せていただけだったことを覚えている。山形映画祭とはそれ以来のつきあいである。

 今年はコンペティション部門の市民選考員の一人として、映画祭の現場に関わらせてもらったりと、僕と映画祭とは近所に住んでいるやんちゃ坊主と世話好きのおばさんのような関係(?)である。そんな坊主でも時々考えることがある。映画祭のない年も「継続する映画祭」だとか言って、学内で上映活動など一人でテンション高く、映画祭と関わって来られたのはなぜだろう、と。ふと、周りを見回してみる。映画祭スタッフの温かさ、ドキュメンタリー映画の魅力、映画祭の混沌としたプログラム…どれも一つの答えであり、それぞれなくてはならない要素であるとは思うけれど、それだけではない。あと何かあったはずだ。…山形映画祭の歴史を作り出した人、山形映画祭の精神的支柱?小川紳介、その人の存在である! 全ては小川さんに直結する。“小川さん”の名前を聞くだけで、こう体の奥深くから、熱く燃え上がってくるのを感じる。小川さんの映画を見ると、決まって泣いてしまう。なぜだろう? ずっと前からその答えを探しているのだけれど、これといって納得のいく答えは見つからない。

 2001年、今年で小川さんが亡くなって9年が経つ、そして小川さんと関連する2001年製作作品が今年2本上映される。一本は小川さんを敬愛する彭小蓮(ポン・シャオリェン)による『満山紅柿 上山―柿と人のゆきかい』。あと一本は'95コンペティション部門審査員長、'97コンペティション部門『テンダー・フィクションズ』の監督、バーバラ・ハマーによる小川プロの組織に迫った『Devotion』。 ポン監督は晩年の小川さんと会っていて、協力して製作する作品の予定もあった。一方、ハマー監督は小川さんとの面識はない。出身はポン監督は中国、ハマー監督はアメリカ、小川さんとの関わり方も全く対照的な2人が、奇しくも同じ年に、小川さんをテーマとする作品を作っているとは! そこに運命めいたものを感じてしまうのは考えすぎだろうか。そもそも小川さんと同じ名のつくこのぼくが山形に偶然来て、山形映画祭の魅力に取りつかれていることにも、偶然ではない“何か”を勝手ながら感じている。運命というふうに決めつけてしまうことは簡単なことである。しかし山形には、偶然を必然に変えてしまうパワーがあることを確信している。

 幾重にも絡まった、人と人とをつなぐ見えざる糸が存在する。その見えない糸こそが、偶然を必然に変えてしまうのだと思う。そしてその絡まった糸をほぐして、糸の元を探ってゆくと、小川さんにつながってゆく。小川さんこんにちは。山形はまだまだおもしろいですよ。これからもよろしくお願いします。 



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