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私映画から見えるもの
A
  • ピゼット(最後の年かもしれない)
  • 阿賀の記憶

  • B
  • ムービング・ピクチャーズ
  • ザ・プレゼント

  • C
  • 日々 "hibi" 13 full moons
  • ギャンブル、神々、LSD

  • D
  • カルノジカ
  • ははのははもまたそのははもその娘も
  • パリッシュ家
  • ガールフレンド

  • E
  • 映像書簡10
  • 気ままなヤツ
  • 極私的に遂に古稀

  • F
  • パレード
  • 針間野
  • 私のすべて?

    ジャン・ペレ
    ヴィジョン・デュ・レール ディレクター


    映画祭のすべて。

     映画祭はそこで上映される作品と似ている。どちらも自分だけの特別なアイデンティティを再確認しようとし、自分の町や地域的なルーツ、文化的なルーツに立ち返ろうとする。一方で、人間たちを、その限りない多様性を、われわれを虜にする美しさを、痛ましいまでの醜悪さを発見しようとする欲望、貪欲な好奇心につちかわれた欲望も持っている。アジアとヨーロッパでそれぞれ行われる山形映画祭、ニヨン映画祭はそこで発掘される作品の質とそこで問われる映画芸術の諸問題において注目を集めるイベントだ。なかでも、フィルムやビデオ、世界の関係を問う非常に重要な問題は、デジタル映画製作のめざましい解放によって顕著である。

    ビデオ世代のすべて。

     すでに10年以上にわたって若者層は映像、自分の物語、意見を提起するために、映像と音声の常に発展し続ける技術革新を利用してきた。デジタル革命がなければこれまでの数ある代表的作品は世に出ることもなかったろう。デジタルビデオは、映像で自己表現をしたいという望みとそれを実現する可能性の間にあるたくさんの壁を実にさらりと取り払うのである。

    私のすべて。

     日本とヨーロッパ、山形とニヨンの間での親密な協同を促したのも、この現代の映画製作における著しい傾向である。それは私映画、すなわち作家自身を制作過程の中心にすえ、そこから自身のアイデンティティや自分と世界との関係を、高らかに主張したり疑ってみたりするアプローチのしかた。出品する16本のスイスと日本の作品は、各作品の中心にある作家自身の存在がどれほどの興味をかきたてるかという視点から選ばれた。きわ立った特徴は、自分の心にある世界の姿へ近づくために優れた手段をとっていること、また同時にそれが、その作家の育った社会に共通する心理の窓を私たちに向かって開けているものと確信した。商品、サービス、人々、コミュニケーションの絶え間ない流動のおかげで地球サイズの村と化した世界の利点をマス・メディアがくどくど並べたてて私たちの認識を歪ませている昨今、個の概念を基本とした“小さな”インディペンデント映画の声は抵抗を示す貴重なかたちである。これらの作品はどれも、ある文化の中の驚くような複雑さを描写することによって、その文化に対する私たちの理解を高める、またとない人間の経験をあらわしている。

    みんなのすべて。

     というわけで私たちは、上映作品の作者のことを一から十まで知ることになるのだろうか? そんなことはない、ありがたいことに! だが作品は監督たちをかきたてる感情や思考を下敷きにした魅力溢れるものばかりだ。彼ら、彼女たちの内なる声、その出会いと対話を分かち合うために私たちは、老いも若きも、熟練者もかけだし者も、短編作家も劇映画作家も、それぞれの監督に波長を合わせてみる必要がある。

    語り口のすべて。

     様々な作家が自分の物語を伝えるためにとった異なる美学的アプローチ、語りのアプローチを、山形、そして京都、最後に2006年4月、ニヨンで、討論できるのは楽しみなことだ。実験的手法、力強い構想、年代順の叙述、古典的形式にならった作品や、精神的、または物理的な旅の話はどれも現実世界にイメージを与える手段である。個々のカット、その構図と長さ、そして編集とカメラの位置――どちらかというと三脚に据えられていることは稀でフィルムメーカーの身体と一体化しているそれは、語られている物語とどんなつながりがあるのか ?そして作家の社会的・政治的関心が何かも忘れてはなるまい。こういった安易に堕さない精神を持つ“私映画”は、現代の映画制作の中でももっとも独創的なもののひとつに数えられる。コンテンポラリー・シネマに欠かせない独創的な作品にスポットを当てることもまた、私たちの映画祭の願いである。

    みんなひっくるめてすべて。

     突拍子もないナルシシズムから持続する他人への興味まで、自伝的要素の濃い映画は、覗き見趣味や、映画発表に関わる全側面と常にじゃれ合いながら、追憶と哀悼の念、近しい関係とその表出のしかたといった問題提起をする。さらに私たちヨーロッパの人間にとっては、一見突き破ることの難しそうな幕の向こう側にある、典型的日本らしさを垣間見るすばらしいチャンスでもある。精神分析医の土井健郎は日本人の意識における二重構造の証拠となる表(外に向いている側)と裏(その反対で、内に向いている側)を区別している。()土井によると、表と裏は時に、「建前」(日本的な“社会契約”のファサードであり、原則でもある)と「本音」(心の奥底にしまい込んでいる自分だけの真相と感情)となってあらわれる。選ばれたスイス、日本の作品はどちらも、「建前」部分を軽んじたり無視したりすることなく、しかし「本音」部分により深く踏み込んでいる……。だからこれはきっと、私たち独自の声と、私たちの日々の経験と、私たちに共通するシンボルと、私たちの悪夢と私たちの幻想、それらの特徴を決定するものは何かを発見する旅になるはずだ。イメージの数々は、壁に囲まれた庭園と見渡す限りの景色を縦糸に、そして私たちのアイデンティティを再確認するとともに、歓喜の内に私たちを自己のはるか彼方まで連れていってくれる真実の断片を横糸にして、独特のタペストリーを織るだろう。

    )中川久定著『Introduction à la culture japonaise』(Paris: Presses universitaires de France, 2005) 参照。

     

    ■ヴィジョン・デュ・レールについて

    1968年の余波のなかで誕生して、スイスのジュネーブ湖岸で開かれていたニヨン国際ドキュメンタリー映画祭は、1995年にヴィジョン・デュ・レールと改名。セルフポートレートからホーム・ムービー、実験映画からエッセイ、メジャーな報道から叙事詩的な映画まで、すべてのジャンルを扱うこの映画祭で上映された映画は、ドキュメンタリーとフィクションのアカデミックな領域から、自らを解放している。この映画祭は、パーソナルなアプローチと独創的なスタイルに焦点を当てることを目的としているのだ。ヴィジョン・デュ・レールは、「ドク・アウトルック」という、映画祭関係者との交流の場を提供するフィルム・マーケットと共に、急激な経済および文化的変化の時代に、現代の映画とつながる考えや喜びを分かち合うための、国際的な優れた映画祭であることを目指している。