測量する映画 —『私たちは距離を測ることから始めた』/『女と孤児と虎』 吉田未和

どちらも距離を測ることについての映画である。あるいは現在の測量師たらんとする監督たちの野心が、これらの作品を作らせたと言ってもいいのかもしれない。
マドリッド=オスロ、ガザ=エルサレム…。次々に都市の距離を測って数字で示してみせるのは『私たちは距離を測ることから始めた』に出てくる顔の見えない不思議な集団だ。彼女たちはただ単に匿名であるだけでなく、どこにも帰属できない者の比喩として奇妙な存在感を示す。一方で『女と孤児と虎』の元従軍慰安婦、韓国駐留米軍兵士のセックスワーカーであった女たち、朝鮮戦争後に欧米に養子に出された孤児たちもまた、社会の中で寄る辺ない存在であることを余儀なくされる。国も社会的背景(韓国とパレスチナ)も違うのに、このふたつの作品の空気は非常に似通っていて、お互いの作品が相手に既視感を与え合うような思いがけない効果もある。
『女と孤児と虎』に登場する女たちは韓国の政治に翻弄された自分の半生を冷静に語る。感情は抑制されているが、カメラはその無表情の中に深い憤りをよくとらえている。彼女たちの証言は世代も違えば置かれた状況も違う。強いて言えば戦争が大きな共通項になるのだが、異なる立場の証言が次々に入れ替わり、誰が何について話しているのか、観客は時々わからなくなってしまう。当事者である女たちは家族や社会との距離を測りかね、また家族や社会の方でも彼女たちを受け入れることができずに戸惑う。女たちをめぐる状況において混沌としているそんな韓国の現状を、映画はある一定の距離をうまく保ったまま観客の前にさらけ出すことに成功している。
ふたつの作品に共通しているのは、わたしたちはうまく距離を測れないでいるのではないかという不安と焦燥だ。そしてこの不安はそのまま観客にも投げ返される。『私たちは…」の集団はいったい何者なのか、結局のところ謎は残されたままだ。『女と孤児と虎』の女たちの証言は最後に入り乱れて喧噪のように響いて終わる。このふたつの映画を見終わってわたしたちがある種の混乱を受け取ったとすれば、それはおそらく作り手の意図するところであろう。距離を測れないでいるのはわたしたちだって同じなのかもしれず、このことは映画との距離でもあると同時にわたしたちを取り巻く世界とのそれでもあるだろう。

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