『川の抱擁』における見えないもの 吉田未和

冒頭、ふたりの男が川のほとりでハーモニカを鳴らし歌を歌う。コロンビアのマグダレナ川にはモアンという精霊が住んでいて、そこに住む人たちはあらゆる仕方でこの土着の霊に敬畏を表することを忘れない。音楽を響かせ葉巻や蒸留酒を捧げることで豊漁を祈り、日々の生活を守ってもらっている。
彼らの多くがモアンに実際に〈会った〉ことがあると言う。あるいは人に聞いた話も含めれば、誰もが自分なりのモアンの像を持っている。漁師仕事で鍛えたたくましい体つきの老人から物心ついたばかりの幼い女の子まで、体験談や遭遇談は豊富にあるようだ。みんなは怖がったが自分だけがモアンに近づいたのだ、と時には英雄譚にもなりながら、モアンという実在が伝承され共有されていく、その様子は微笑ましくすらある。
少し様子が変わってくるのは、血まみれの死体が川に流れてきたという話が囁かれたあたりからだ。コロンビアの内政事情は同じ国に住む人を敵と味方に分離させ、拉致や虐殺という暴力が日常的に遂行され、マグダレナ川は死体が浮かぶ川となった。
映画の後半は息子を殺された母たちの言葉、川に流れる死体を目撃した人の証言などが続く。母たちは悲しみに暮れている。だが、死んだ息子が朝まで枕元に付き添ってくれたと語る場面で、ほんの一瞬表情がゆるむように見える。この顔はどこかで見たことがあると感じ、すぐにそれがモアンを語るときのそれに通じていることに思い至る。この土地の人々にとって、モアンを信じる心と息子の霊を信じる心は等しいものだ。
カメラはモアンの姿も死者たちの姿もとらえることができない。息子たちの遺影だけが、それを抱えた家族とともにラストシーンでまっすぐにこちらを凝視している。だが、信じ、そして愛したというそのことだけで、精霊も最愛の息子も紛れもない実在である。形はなくても実在するものとは何かと考え、わたしたちはそれが川の姿によく似ていることに気づき、はっと膝を打つ。あらゆるところから集まった水がいつしかひとつの流れとなり、ただひたすら前に進むことによってその姿を成してゆく。マグダレナ川の水は決して澄んではいない。だが、この濁流が精霊モアンを宿し、死者を送り出し、人間の心を映し出してきたのだ。川はつねに音を立てて流れ、目に見えないその音は川の実在である。川の音はその土地に暮らす人たちにとって風景の一部であり、同時に作品全体にとってのひとつの重要な背景でもある。わたしたちは川の音とともにモアンの伝承に耳を傾ける。この映画は見えないものについてのドキュメンタリーなのだ。

重力と飛翔 ―『3人の女性の自画像』について  笠松勇介

重力が彼女を地面に引き寄せる。ふたりの女性、2世代の歴史と記憶が彼女をそうさせるのだろうか。それとも彼女がパフォーマーであるからなのか。暗闇の舞台で行われる、床を這うダンスは重々しく緩慢な動作を纏い、儀式性を帯びる。さらにプロジェクターからの映像を自身の肉体に投影させるインスタレーションが画面上で展開される。いずれにせよ重力から解放されること、これが彼女に課せられた通過儀礼なのだ。
他方で本作は、彼女がデジタルカメラで家族の日常風景を撮影した私的ドキュメントでもある。多数の家族写真とともに家族の歴史がナレーションによって語られる。祖母の受けた抑圧、その抑圧が母に受け継がれたこと。そして今度は私が受けているのではないか、と。彼女がカメラを持った動機はそこにあるのだろう。
冒頭、彼女のへその穴がクローズアップで強調され、妊娠、出産、母胎をイメージさせる映像が続く。アイデンティティに対する固執。しかし、同時に女性性への嫌悪も独白される。多くの矛盾と混乱を抱えた彼女は、やがてカメラを通して母や祖母との対話を開始し、そのカメラの存在が彼女たちの関係性に少なからず変化をもたらす。彼女から渡されたビデオカメラを母は祖母に向け、彼女と母、母と祖母、祖母と彼女の対話が循環していく。並行して、自らをプロジェクターの前にさらけ出し、下腹部や背中に母の顔を投影させるインスタレーションが行われる。この光景はまるで娘が母を産みなおすかのような循環を思わせ、切実感と滑稽さがないまぜのままに提示される。

本作には2つの対照的な長回しがある。おそらく家族の日常の光景なのだろう。祖母、母、娘の3人が順番に屈みこみ、祈りを捧げる様子を固定ショットで捉えた場面。2つの部屋を正面から捉えた手持ちカメラがゆっくりと360度パンして、ティルトアップしていく場面。前者で家族という重力、後者でそこからの飛翔のイメージが示され、さらに後者のイメージは終盤、両手を上下に羽ばたかせながら歩く祖母の後ろ姿に接続される(前述の360度パンの場面でも、パソコンに向かう母親の後ろ姿が映し出されていた)。大きな扉に向かって歩く作家の(ここでも)後ろ姿を捉えたショットで物語は終わる。果たして彼女は重力から解放されたのだろうか。

測量する映画 —『私たちは距離を測ることから始めた』/『女と孤児と虎』 吉田未和

どちらも距離を測ることについての映画である。あるいは現在の測量師たらんとする監督たちの野心が、これらの作品を作らせたと言ってもいいのかもしれない。
マドリッド=オスロ、ガザ=エルサレム…。次々に都市の距離を測って数字で示してみせるのは『私たちは距離を測ることから始めた』に出てくる顔の見えない不思議な集団だ。彼女たちはただ単に匿名であるだけでなく、どこにも帰属できない者の比喩として奇妙な存在感を示す。一方で『女と孤児と虎』の元従軍慰安婦、韓国駐留米軍兵士のセックスワーカーであった女たち、朝鮮戦争後に欧米に養子に出された孤児たちもまた、社会の中で寄る辺ない存在であることを余儀なくされる。国も社会的背景(韓国とパレスチナ)も違うのに、このふたつの作品の空気は非常に似通っていて、お互いの作品が相手に既視感を与え合うような思いがけない効果もある。
『女と孤児と虎』に登場する女たちは韓国の政治に翻弄された自分の半生を冷静に語る。感情は抑制されているが、カメラはその無表情の中に深い憤りをよくとらえている。彼女たちの証言は世代も違えば置かれた状況も違う。強いて言えば戦争が大きな共通項になるのだが、異なる立場の証言が次々に入れ替わり、誰が何について話しているのか、観客は時々わからなくなってしまう。当事者である女たちは家族や社会との距離を測りかね、また家族や社会の方でも彼女たちを受け入れることができずに戸惑う。女たちをめぐる状況において混沌としているそんな韓国の現状を、映画はある一定の距離をうまく保ったまま観客の前にさらけ出すことに成功している。
ふたつの作品に共通しているのは、わたしたちはうまく距離を測れないでいるのではないかという不安と焦燥だ。そしてこの不安はそのまま観客にも投げ返される。『私たちは…」の集団はいったい何者なのか、結局のところ謎は残されたままだ。『女と孤児と虎』の女たちの証言は最後に入り乱れて喧噪のように響いて終わる。このふたつの映画を見終わってわたしたちがある種の混乱を受け取ったとすれば、それはおそらく作り手の意図するところであろう。距離を測れないでいるのはわたしたちだって同じなのかもしれず、このことは映画との距離でもあると同時にわたしたちを取り巻く世界とのそれでもあるだろう。

スクリーンの外へ ―釜の住民票を返せ!2011  笠松勇介 

大阪市西成区、日本最大のドヤ街、日雇い労働者が多く暮らすあいりん地区(通称釜ヶ崎)。ここにある5階建ての小さなビル(その名も釜ヶ崎解放会館)には労働者や野宿者など3,300人の住民票が登録されていたが、2007年、市当局は居住実態のないことを理由に彼らの住民票を削除すると決定する。この決定に対して怒った労働者や路上生活者、その支援者達が、住民票と選挙権を求めて闘っていく様子の一部始終をカメラは追っていく。

早朝の三角公園を俯瞰で捉えた、一見美しいとも言えるショットから映画は始まる。だがその感情が芽生えようとしている瞬間、ショットは変わり、この感情は断ち切られる。この冒頭の違和感が終盤まで続く。なにより映画の見せ場となろう、投票所前でピケを張る大阪市の職員と選挙権を求めて投票を促す支援者たちのもみ合いや、支援者の若い男性と徳山と名乗る在日二世の男性とのユーモラスなやり取りを捉えたシーンなどもショットとショット、シーンとシーンの繋がりがぎこちなく、ここでも同様に感情のリズムは断ち切られてしまう。被写体の面白さが充分に生かされていないのではないだろうか。

映画の後半、釜ヶ崎解放会館の屋上がモノクロで映し出される。しかし、映画の登場人物にとっての現実がそうであるように、ここでの屋上は解放とは無縁である。だがその感情も最後に唐突とも取れるタイミングで、震災とそれに伴う津波・原発事故後の荒地となった福島を映し出した映像によってまた断ち切られる。この短いショットが含むインパクトに改めて驚くとともに、皮肉にも本作に対する違和感はここで解放される。この現実のインパクトが映画を凌駕していく。だがこのことは本作にとって決して不本意な出来事ではない。映画は震災後、あいりん地区の日雇い労働者が不当に福島の原発施設で被爆労働させられていた実態を新聞記事によって明示し、これらの問題は否応なくスクリーンの外の現実を提示する。事実、上映終了後のティーチインでは、監督がこれからも戦っていくとの抱負を述べるだろう。映画は終わるが、そして現実は続いていく。あいりん地区の労働者の困窮と福島を覆う困難な現実も。

男と船と犬の映画―『ソレイユのこどもたち』について 吉田孝行

東京の多摩川に浮かぶ捨てられた無数の船と捨てられた野良犬たち。船に住む初老の男は、河川敷で野菜を育て、捨てられた船を修理し、捨てられた野良犬たちに餌を与え、犬たちと戯れ、たびたび修理した船に犬たちを乗せて船出し、ゴミとして捨てられた日用品を拾い集めることで、日々の生活を送っている。

常に三脚に据えられたカメラが、その初老の男の目の前に置かれ、その男の日常を丹念に長回しで記録していく。ナレーションやテロップは一切ない。男はたびたびカメラに向かって独り言のように語りかける。しかし、それを撮影する作者が、その男に質問を投げかけたり、その男の語りに返答したりするようなことはない。また、カメラを向けた目の前の男に何かが起きること、出来事や事件を期待する様子もない。むしろ、「いま、ここで」で生成しつつある目の前の男の日常を凝視することに徹している。映画を撮るとは、あくまでも見ることであり、決して見せることではない、ということをこの作品は教えてくれる。

寒さが漂うある冬の薄暗い早朝だろうか。この作品の中でたった一度だけ使われる手持ちのカメラが、川の浅瀬を渡り、中州の草むらの中をゆっくりと進んで行く。草むらを越え、目の前が開けたとき、その手持ちのカメラは、中州に乗り上げた一隻の船とその中に座る一匹の見慣れた野良犬の姿を目撃することになるであろう。

この映画をここまで観てきたものは、これまでの長回しの持続に切断を加えたこの驚異的な手持ちのショットをきっかけとして、この映画の舞台が、川に浮かぶ船上から、川の中州に乗り上げた船の中へ移行することを、その内容が、船に住むある初老の男の物語から、この男が飼っている野良犬の物語へと劇的に展開することを、そしてこの映画が終わりに近づいていることを予感するであろう。

川での船上生活から離れ、中州に乗り上げた船の中で、疲れ果て深い眠りに入った初老の男の傍らで、その男に拾われソレイユと名づけられた一匹の野良犬がその子どもたちを産み落とすとき、この映画の最後のシーンを見届けようとしているものは、その再生と希望の物語に心を動かされずにはいられないであろう。

ヤマガタ映画批評ワークショップ

映画祭というライブな環境に身を置きながら、ドキュメンタリーという切り口から、映画について思考し、執筆し、読むことを奨励するプロジェクト。参加する書き手は、プロの映画批評家のアドバイスと、執筆した文章を一般に発表する機会が提供され、また、あわせてシンポジウムを開催し、ドキュメンタリー映画批評の現在とこれからを問う。