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YIDFF 2005 日本に生きるということ――境界からの視線
肘折物語
撮影 加藤孝信 氏 インタビュー

小川さんを思い出す“よすが”として観てほしい


Q: 小川さんは、フィリピン人花嫁についての映画の着想を、いつ頃得たんですか?

KT: 僕が小川プロに入ったのは1989年ですが、その頃、小川さんは第1回山形国際ドキュメンタリー映画祭の準備にかかりきりでした。僕の小川プロでの初仕事は、飯塚俊男さんが監督した『映画の都』(1991)での、大津幸四郎カメラマンの助手です。その頃に、次の映画の案について、話を聞いたことがあったんですが、ひとつは、後に『満山紅柿』(2001)につながる柿の映画、もうひとつは、山形の山間部に嫁いできた韓国人女性についての映画を撮りたい、と言っていたことはよく覚えています。後者のほうは、フィリピン人花嫁についての映画と少し関係があるのかもしれませんけど、定かじゃないです。映画祭終了後の11、12月頃には、既に『映画の都』の第1次撮影は終わっていて、年明けには、新作のテスト撮影に入っていました。

Q: テスト撮影は本格撮影の準備のためですか?

KT: この場合は、スタッフの資質を見極めるためにやったと思います。私が16mmフィルムで撮り、栗林昌史さんがナグラで録音をしたんですが、小川さんは、撮影の現場に必ずいましたね。他に、白石洋子さんと、阿部ひろ子さんが制作進行担当でした。小川さん、白石さんを中心に、栗林さん、阿部さん、僕の若いスタッフ3人の計5人で撮影したんです。当時大蔵村役場職員の森繁哉さんが案内役でね。温泉宿に2週間泊まりこんで、実際撮ったのは6日間ぐらいです。ほとんどの映像は、小川さんが選んで指示を出して撮ったものですけど、朝日の映像などは僕に任せてくれました。

Q: その映像がどのようにして『肘折物語』となったのですか?

KT: 『肘折物語』は、小川さん亡き後、「小川紳介とお別れする会」で上映するために編集されたものですが、その前に、小川さんの構成・編集で、すでに30分強のラッシュとしてまとめられていたんです。小川さんが遊び心でナレーションや音楽を入れてね。それを、小川さんが亡くなった後に、撮影の田村正毅さんと、土本典昭監督がさらに短く編集し直したんです。もともと、お別れする会の上映では、田村さんにお願いして、三里塚の未使用映像を短くまとめて上映しようという話があったんですが、何かのきっかけで、肘折の映像を使うことになって、その後、土本さんに編集が移って、今回上映された形になったんです。

Q: 今回山形映画祭で『肘折物語』が13年ぶりに上映されたわけですが、どのような感想を持ちましたか?

KT: 人としての小川さんは亡くなったので、『肘折物語』はそういう意味では追悼になるかもしれないけど、映画監督としては、「生身の人ではない」と思っていましたし、今でも思っています。だから、人でない人を追悼することはできないのかもしれません。怖いのは、『肘折物語』が“作品”としてひとり歩きしてしまうことなんです。『肘折物語』を、在りし日の小川さんを思い出す“よすが”として、観ていただけるのならいいのですが、今回上映されたことで、“作品”としてのひとつの既成事実ができてしまうことが、少し怖い気がします。これが、“作品”となってしまうことは、小川さんの意に反しているし、僕の意図にもそぐわないことですから。

(採録・構成:加藤初代)

インタビュアー:加藤初代
写真撮影:橋本優子/ビデオ撮影:園部真実子/ 2005-10-13