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ニュー・ドックス・ジャパン



 日本のドキュメンタリー群は、ひとつの動向に収まらない。世界中から山形映画祭に届いた応募作品のおよそ1.5割を占めるのが、日本で製作された作品、日本が製作に参加した作品、海外製作で日本を描いた作品である。その他、応募されなかった優秀作品も多数存在する。

 「日本映画」「日本作品」とか、「どこ」の「どんな」作品という単純な枠にはめることは難しい。しかしそれはむしろ、作品自体が持つ包容力となって、クロスカルチャーの波を増幅させている。例えば、外国の土地に暮らす日本女性たちによる生命力あふれる作品は、どこかへ突き抜ける可能性にあふれているし、日本の被写体に向き合う海外の作家たちは、言葉や文化の壁をこえて動物的本能を働かせ、出会いや発見を引き寄せる。

 同時に、作品づくりの多様性はますます広がっている。ドキュメンタリーという手法に真っ向から挑む骨太な作家たちは、人々や土地が持つ過去の記憶を、現在の時間軸で読み解き、積極的に未来を切り拓いていく。それとは対照的に、個人映画は、全く異なるベクトルを持つ。光の魔力に対する悦びの記憶をよみがえらせ、映像の愉快な味わい方を仕掛けてくる。

 さらに、地域の伝統や伝承を「共同体づくり」という現代的な観点から描いた作品には、巨大な松明や、普通のおじさんをヨリシロとして、森羅万象に息づく神々や精霊たちの見えない姿が記録されている。伝承を生かし続ける共同体に、暮らし、身体、魂という重層的な意味合いを与えているのである。

 このような磁場が渦巻くニュー・ドックス・ジャパン自体も、映画祭のひとつの渦巻きとして、他のプログラムと響き合うことだろう。誰も全貌を明かすことのできない、この祭の大きなうねりのなかで、私たちは一体何に遭遇するのだろうか。

馬渕 愛