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■ジャン=ルイ・コモリ
■アモス・ギタイ
■羽田澄子
■スタンリー・クワン
■ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス

■林旭東
■中野理惠



エステル
Esther
イスラエル、イギリス/1985年/ヘブライ語/カラー/35ミリ(1:1.66)/97分

監督・製作:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、ステファン・レヴァイン
撮影:アンリ・アルカン、ヌリット・アヴィヴ
編集:シェーラザード・サーディ
美術:リチャード・インゲルソル
出演:シモーナ・ベンヤミニ、モハメド・バクリ、ジュリアーノ・メール
製作会社:アガヴ・フィルムズ(
AGAV FILMS)
37 Rashi Street, Tel Aviv 63265, ISRAEL
Phone / Fax: 972-3-5255971

提供:イスラエル・フィルム・アーカイヴ


アモス・ギタイ
Amos Gitai


1950年、イスラエルのハイファ生まれ。71年イスラエル工科大学に入学、このころから8mmで実験的な映画を撮り始める。77年よりイスラエルのテレビでドキュメンタリーを製作。82年『フィールド・ダイアリー』が当局から激しい非難を受けイスラエルを離れ、パリに移住、以後10年間ヨーロッパに拠点を置く。ドキュメンタリー作品に、東南アジアの移民労働を扱った『Labor for Sale』(84)、ロックバンド、ユーリズミックスの日本ツアーに密着した『ブランド・ニュー・デイ』(87)、一軒の家の歴史にイスラエルとパレスチナの複雑な歴史を凝縮させた『エルサレムの家』(98)など。『エステル』(86)で劇映画にも進出、『ベルリン・エルサレム』(89)、『ゴーレム、さまよえる魂』(92)と合わせ“エグザイルの3部作”を成す。世界中で製作活動を続け、93年イスラエルに戻る。劇映画の最新作『Kaddosh』(99)は今年のカンヌ国際映画祭にコンペ出品、今年の東京国際映画祭でも上映予定。

イスラエルを離れパリに移ったアモス・ギタイ初のフィクションは旧約聖書「エステル記」の映画化だが、これは脚色ではなく解釈と呼ぶべきものだ。語られる言葉は聖書そのままを現代ヘブライ語で、ペルシャの細密画に想を得た活人画として映像化される(撮影はフランスの名匠アンリ・アルカン)のだが、そもそも聖書の視覚化は、宗教的に偶像崇拝として禁じられているはずだ。撮影場所はイスラエルのハイファ近郊、それも独立以前はアラブ人が、1950年代にはモロッコ系ユダヤ人が住み暴動で破壊されたサリーブ谷の廃墟と、十字軍が最初にパレスチナに上陸し、オスマントルコ時代に栄えた港町アッカ─つまり旧約聖書に基づく3つの文明(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の十字路であり、20世紀の民族の流浪と移住の矛盾が吹き出した場所で、旧約聖書のユダヤ人の民族離散(ディアスポラ)の物語が語られているのだ。

【審査員のことば】
ドキュメンタリーは考古学の発掘のようなものだ。掘り返すと、テーマを成す要素が地層ごとに見えてくる。『パイナップル』(1984)を作ったとき、まずパイナップルの缶 のラベルを見ると「生産地:フィリピン、缶詰作業:ホノルル、販売:サンフランシスコ」と書かれていた。さらに隅には「印刷:日本」とある。私はこのラベルをプロデューサーに送った、「これが脚本だ。あとは飛行機の切符を5人分で、多国籍企業や第三世界、世紀末の国々の関係について何か語ってやろう。」
映画作家は一般に自分の文化をエキゾチックにし過ぎる。伝統料理や民族衣装でしかそれを描こうとしない。しかし現実には、東京でも、テル・アヴィヴやアンマンやカイロ、ニューヨークでも、人々は同じような服装をして、同じテレビ番組を見ている(残念ながら!)。映画の役割はメディアが我々に与える戯画化されたイメージでなく、個々の社会の特性を把握する力をもたらすことだ。自分の文化について批評的になれるだけの自律心と勇気を持った映画作家に、私は感銘を覚える。これは人間にとって最も込み入った作業であり、時として苦痛ですらある。批評的とは、自分のルーツを否定したり、それを継続する必要性を無視することとは違う。どんな文化でも、各世代ごとに文化を再発見し、再評価する必要があるのだ。
映画作家の倫理とはデリケートなものであり、特にドキュメンタリーでは撮影される人々が、雇った俳優ではないだけに、それはより大きい。ある意味で、映画作家は撮影の対象となる人々とのあいだに暗黙の契約を結んでいる。人に質問したくなったとき、こちらは礼儀正しい人間なので、質問するのが失礼に思えてしまう。もしそばにカメラがあれば、尋ねることが正当化されるわけだ! 残念ながら今日のドキュメンタリーでは、ルポルタージュのスタイルが主流になり過ぎている。ナレーションがあって、知らせるべきことはすべてそれに語らせるというやり方だ。
映画は現実とコミュニケーションする表現であって、映画で人々を挑発し、動揺させることができる。これこそ20世紀の表現なのだ。我々は映画をただのハンバーガーに貶めないよう注意しなければならない。映画は我々映画作家に授けられた偉大な贈り物であり、我々にはそれを守る義務があるのだ。
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