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YIDFF 2005 日本に生きるということ――境界からの視線
赤いテンギ
撮影 金徳哲(キム・ドッチョル)氏 インタビュー

映画は、上映するためにあるのです


Q: この映画は、カメラマンとしてのデビュー作とおうかがいしましたが、公開がこれほど長期間延期になったことに対しての考えをお聞かせください。

KD: 35mmの本格的な劇映画のデビュー作ですね。去年、山形映画祭関係者に「実は『赤いテンギ』という映画があって、現像場に25年も眠っている」と話したのがきっかけで、今回ニュープリントを焼き、上映されることになったんですね。スタッフの一員として、このことは非常に嬉しいし、そういう意味では山形映画祭には感謝してます。李學仁(イ・ハギン)監督もあの世で微笑んでいるかもしれないと思っています。僕も25年ぶりに久々に見たんですが、力のある映画ではないかなと。今は、なかなかこういう映画は作れないのではないかと思いますし、できれば、これをきっかけに映画館でも上映されれば良いなと思います。

 この映画は、在日朝鮮人の李得賢(イ・ドッキョン)さんが、冤罪とされる「丸正事件」の主犯にされて、22年間も獄中にいた事件を描いています。自分が、あるいは自分の身内が、罪もないのに殺人犯にさせられ、20年も投獄されるなんてことは大変なことですね。そういうことで一家がバラバラになっていく、あの辺の感じは、映画で良く描けていたと思いますね。李學仁監督が撮った3本の映画の内でも傑作じゃないですか。

Q: 映画が、公開中止に追い込まれた原因は、解消されたのでしょうか?

KD: あの当時冤罪再審請求運動があったわけですね。そのメンバーが、この映画が上映されれば、再審を勝ち取るのに非常に不利になるということで、反対していたわけです。あまりにも堂々と「冤罪」ということを映画で言ってしまえば、裁判所の心証を害して再審ができないということを、非常に気にしていたんです。過敏だったんでしょうね。プロデューサーでもある李學仁と、運動をやっている人たちとのあいだに、十分な対話が成立しなかったのも、まずいところではあるでしょう。両者目的は一緒なのに、ちょっと方法が違って、うまくかみ合わなかった。そういうトラブルを解消できなかったのはちょっと残念ですね。

 その後どうなったかといったら、再審を勝ち取れずに、犯人とされた李さんは亡くなる、救援会を代表的にやっていた人も、監督の李學仁も亡くなる。すべての関係者が亡くなって、再審も何もなくなって、事件も、ある意味真相は闇に葬られるというか、李得賢さんは犯人にされたままになってしまった。

 だけど、多くの人は亡くなったけれども、映画は残っている。25年ぶりに世に出たというのは、これは非常に意味があることだと思っています。この作品がそういう意味で役に立って欲しいと思いますね。ちょうど今、司法改革の話も社会に出ていますし、参考になる映画じゃないかと思います。ですから、冤罪事件が起きないように、こういう映画が上映されて、改革すべきは改革する、というふうになればいいと思います。

Q: 手持ちでの、息の長いショットもありましたね。

KD: ちょっと、ドキュメンタリータッチな感じは出てますか? 粘りはありましたね。カメラアングルは、的確に入っていたのかなと感じはしましたね。夜のトラックの撮影は、大変だったですよ。予算の無い中で、走っているように見せながら、リアルな感じに雨を降らせたりしながらね。自分も25年前には、ああいうふうに撮ったのかなと思いましたよ。

(採録・構成:加藤孝信)

インタビュアー:加藤孝信、加藤初代
写真撮影:佐久間春美/ビデオ撮影:佐藤朱理/ 2005-10-12