English
YIDFF 2017 アジア千波万波
翡翠之城
趙德胤(チャオ・ダーイン/ミディ・ジー) 監督インタビュー

希望と現実が交錯する場所


Q: 監督のナレーションから、お兄さんへの複雑な気持ちが伝わってきました。なぜお兄さんを撮影しようと思ったのですか?

MZ: 兄を撮りたいと思ったわけではなく、翡翠の街に行ってみたいと思ったのが、映画を作った第一の動機でした。家族や親戚、クラスメートたちは、みんな翡翠の街に翡翠掘りに行ったことがあったのですが、私だけがそこを訪れたことがなく、とにかくそこを見て、知って、家族がどういう暮らしをしていたのかを、体験してみたかったのです。行ってみた現在でも、私にとって非常に複雑な場所です。想像していたものと、実際に見てきた現実とが、複雑に絡み合って、まるで夢の中のような気がしています。一旗揚げてやろうと、野望に燃えた人たちがたくさんおり、そのなかには非常にクレイジーな人もいました。事故もあり、そこで死んだ親戚もいます。とても複雑な思いです。

Q: カメラをお兄さんに向けるにあたって、意識したことはありますか?

MZ: 精神的な部分で、撮影対象に影響されることがあり、自分が求めていたトピックや物語が失われたりしてしまうことが、一番難しいところだと思います。具体的には、自分が翡翠の街で病気にかかってしまい大変だったことや、彼のことをもっと知りたくて、コミュニケーションを取ろうとしても、すっと逃げてしまったりすることもありました。彼の抱えている現実というのが私にはわかりませんし、カメラで捉えたものは、表層のものだけだったのかもしれません。ときどき、自分がカメラを廻すのをやめていたときもあって、その間はもうひとりのカメラマンがカメラを廻していました。

Q: お兄さんは、お金のために再び翡翠の街に行ったと思いますが、それ以上に、翡翠の街に行くことを誇っているような表情が伺えましたし、翡翠の街への執着すらも感じました。それはどういうことなのでしょうか

MZ: 正直言って、彼がどのような思いで翡翠の街に行ったのか、私にはわかりませんが、彼にとって他に選択肢がなかったのでしょう。年齢も50歳近くになり、人生の半ばにおいて非常に悩むことが様々あり、どうしようもなかったのだと思います。もちろんお金が第一の理由であったかもしれないけれども、お金だけではなく、その背後に思い描いていた彼の希望や夢があったのではないでしょうか。

Q: 監督のお兄さんも他の家族も、麻薬で捕まってしまいました。なぜそのような状況になってしまったのでしょうか?

MZ: ミャンマーの、特に、田舎や国境地帯は食料を調達するために、普通の人がアヘンを作り、店に持っていってお米と交換していました。また、1940年代から1980年代の戦争のなかで、貧しい人が病気になっても薬がないので、その代わりにアヘンを吸引し、そこから中毒になってしまうのです。母は貧しかったので、国境付近から街の中心地へ、7時間かけてアヘンを運んで、お米に換えていたそうです。つまり、ミャンマーでドラッグといっても、マフィアが絡んだ巨額なお金が動くということはなくて、本当に普通の人たちが扱っているというのが現状です。翡翠の街のような辺境地帯では、アヘンを吸えばマラリアが治るとも信じられていました。すごい痛みで苦しんでいる人がいたら、アヘンはそれを緩和してくれるので、そういう意味で治るという迷信です。薬もないし、医者もいない、そういう現実を目の前にすれば、彼らがどうしてアヘンに頼るかはわかると思います。

(構成:奥山心一朗)

インタビュアー:奥山心一朗、田寺冴子/通訳:川口隆夫
写真撮影:吉村達朗/ビデオ撮影:狩野はる菜/2017-10-07