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特別招待作品

ナンバー・ゼロ

Number Zero
Numéro Zéro

- フランス/1971/フランス語/モノクロ/35mm/110分

監督:ジャン・ユスターシュ
撮影:フィリップ・テオディエール
音楽:ジャン=ピエール・ルー
出演:オデット・ロベール、ジャン・ユスターシュ
提供:カプリッチ・フィルム
Capricci Films
21, Bd Victor Hugo, Nantes 44200 FRANCE

- ジャン・ユスターシュ

1938年、フランス南西部ペサック生まれ。1958年、パリに出てシネフィル生活を送り、『カイエ・デュ・シネマ』誌の同人たちと知り合い、ヌーヴェル・ヴァーグの強い影響下で中編『サンタクロースの眼は青い』(1966)を撮る。代表作と言いうる長編劇映画『ママと娼婦』(1973)、『ぼくの小さな恋人たち』(1974)を撮るまでのあいだに、ドキュメンタリー作品『ペサックの薔薇の乙女 (1)』(1968)、『豚』(ジャン=ミシェル・バルジョルと共同監督、1970)、『ナンバー・ゼロ』を手がける。ただし、故郷の祖母のインタビュー映画である本作は、これまで約半分に編集されたヴァージョンしか公開されていなかった。1977年、同一の話がフィクション編とドキュメント編で反復される実験作『不愉快な話』を撮影。その後、中編ドキュメンタリー『ペサックの薔薇の乙女 (2)』(1979)のほか、いくつかの短編を作り、1981年にピストル自殺した。


『ナンバー・ゼロ』、最初の一度の短い物語

 『ナンバー・ゼロ』に関して、ジャン・ユスターシュは一度か二度、私的な上映会を催したけれども、このフィルムが封切られることはなかった。「私はフィルムを検閲して差し止める代わりに観客を差し止めたのです」。しかし数年後、彼は2時間のオリジナルから、祖母たちに捧げられたテレビ・シリーズ向けに1時間のモンタージュを作らなければならなかった。この「断片」――ユスターシュはそう言った――は、その時、彼の祖母と同じように『オデット・ロベール』と名づけられた。

 『ナンバー・ゼロ』を再び見つけて配給するという計画が、のちに生まれた。それは、2002年のマルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭のために、ドキュメンタリーの空想的・神話的な力をめぐる、「シェヘラザード」と私が題したプログラム編成を準備している時だった。

 そこで調査が始まった。ユスターシュの時はいつもそうであるように、彼の息子ボリスへ電話。彼は作業用コピーしか持っておらず、ネガがどうなったか知らない。INAに電話、所有していない。フィルム・アーカイヴのエリック・ルロワとコンタクトをとる。彼は手がかりを1985年までたどる。ネガがエクレールのラボを離れた日付である。

 再びINAに電話。私は固執する。『オデット・ロベール』より長いバージョンの複製フィルムを持っていたが、その長さは『ナンバー・ゼロ』の長さに対応していないようである。「そのフィルムを見たいのですが」。会合の約束が取りつけられる。

 ボリス・ユスターシュと私はINAに行く。複製フィルムの映像だけしか見つからない。それとともに再出発する。数週間が過ぎる。ボリスはFEMISに作業コピーの音声を持ってくる。映像を付き合わせてみる。ぴったりだ。『ナンバー・ゼロ』完全版である。欠けているものは何もない。アドルフォ・アリエッタの撮ったサイレントの冒頭部分(エグゼルグ)さえも。

 2002年7月。マルセイユにて、『ナンバー・ゼロ』の初公開上映。審査員のペドロ・コスタが、技術的な調整を引き受ける。そして、35mmへのブロー・アップをポルトガルのシネマテークが引き受けることを申し出る。数週間が過ぎる。サン・タンドレ・デ・ザールでの封切りについて、ロジェ・ディアマンティスと討議。最終的に、2003年1月22日に決まる。

 封切りの理由を説明するのは、私の役目ではない。ただ次のことだけは言っておきたい。『ナンバー・ゼロ』は大した作品である、と。これはマルセイユの観客が大いに証明していることだ――その中には、勤勉な熱狂家の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)もいた。私たちはフランス映画において、いまだユスターシュという事件を測定しきれていない、と。彼のドキュメンタリー映画にフィクションと同じ地位を与えなければならない、と。作品を感じとるにあたってこうしたバランスが取り戻されれば、ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグで、モダンで、パリ的、などのユスターシュについての多くの紋切り型と手を切ることができるだろう、と。自らよりも豊かな、より太古のものに開かれている映画という教えこそ、重要なものであり続けているのだ、と。

ティエリー・ルナス



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