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ある1つの見方 (4/4)

ヨリス・イヴェンスの20世紀


イヴェンスの政治的な観念は、映画製作の野心と同時期に育まれたものの、彼は最初からこれら2つを同時に発展させはしなかった。1928年初頭に『橋』を撮り始める。イヴェンスにとって、この映画は何より運動、構図と映画的文体の研究であった。最初の上映後、『橋』は絶賛を受け、アヴァンギャルド映画の傑作と見なされるようになる。CAPI社で働く時間はどんどん減り、ヨリス・イヴェンスはますます映画製作に関わるようになった。『雨』の製作後、イヴェンスの評価は確固としたものとなる。彼は全オランダ建築労働者組合10周年記念の映画製作を、同労組から依頼される。『Arm Drenthe』に続いて、『われらは建てる』はイヴェンスが労働者との関わりをもった最初のドキュメンタリー・シリーズであったが、演出の主眼はまだ労働者の生活ぶりよりも、仕事ぶりのほうにあった。

オランダ最初のサウンド映画『フィリップス・ラジオ』(1931)では、既に幾つかの変化が顕著に表れていた。イヴェンスがこの映画の製作を依頼されたのは、ソビエト連邦への旅の直後だった。「あなたが赤の国から帰ったばかりであることは、承知しています」とフィリップス社の宣伝部長は言った。「旅の件について、我々は十分議論しました…実際彼らは共産党員だけれども、優れた映画を作ります。そして、プドフキンや他の連中があなたの映画の上映のためにあなたを招いたのなら、あなたには貴重な才能がある、と我々は踏んだのです」。27 イヴェンスは労働者へも関心を払いたかったが、フィリップス社は彼が工場の外部を撮影し、「職員の私生活を妨害すること」を禁止した。『フィリップス・ラジオ』はイヴェンスの傑作の1つとなり、フランス語で『産業交響楽(Symphonie Industrielle)』というタイトルを与えられた。それにおける社会批評は、仮に存在するとしても、極めて潜在的なものでしかない。逆に非常にはっきりしているのは、イヴェンスが『橋』や『Zuiderzee(ゾイデル海)』と同様、産業の進歩に魅惑されていることである。

フィリップス社についての映画の直後に、ヨリス・イヴェンスは産業進歩への魅惑と、情熱に基づく信念、すなわち彼の社会主義と共産主義への共感とを両立させる機会を得た。最初のソビエト旅行の結果、彼は向こうで映画を製作するよう依頼されたのだ。映画『コモソモール―英雄たちの歌』(1933)において、イヴェンスは社会主義者のユートピアの中に自身の政治的信条を表明することができた。音楽を担当したハンス・アイスラーらとの共同で製作されたこの映画では、全連邦レーニン共産主義青年同盟によるマグニトゴルスクの溶鉱炉街建設を基に、社会主義ソビエト連邦が築き上げられる様を記録している。「青年と鉄、これこそ私が探していたものだ」。28 映画は、熱狂と社会主義の理想のためのプロパガンダに彩られている。

ドキュメンタリーの発展に関して、ポール・ローサは4つの伝統を区別する。フラハティが最も代表的な例である自然主義的(ロマン的)伝統、写実的(ヨーロッパ的)伝統、ニューズリールの伝統(ヴェルトフ)、そしてプロパガンダの伝統(エイゼンシュテイン、プドフキン、グリアソン)である。29 イヴェンスの初期の映画に基づいて、ローサは、アヴァンギャルドから生じ、カヴァルカンティの『時のほか何物もなし』(1926)やルットマンの『伯林―大都会交響楽』といった主な作品が属する「写実的(ヨーロッパ的)伝統」にイヴェンスを位置づけた。ローサによれば、フラハティの牧歌主義的でロマン的な映画は、「世界にはもっと大きな、差し迫った問題」があるのだから、「二次的な関心事」30であり、ヴェルトフの作品は「広義のドキュメンタリーの解釈」31にあてはまるに過ぎない。ローサが本の中で他の2つの伝統に払った関心、つまり写実的伝統とプロパガンダの伝統(というか、少なくともこの2つの伝統にあてはまる映画に払った関心、ということだ)から見て、彼はおそらく、写実的伝統とプロパガンダの伝統に連なる映画が、狭義のドキュメンタリーにあてはまると判断していた。それらこそローサが本の副題で与えていたドキュメンタリーの責務「人々の生活を現実のまま創造的に、そして社会に基づき解釈するための映画メディアの使用法」にぴったりなのだ。『流網船』(1929)『産業英国』(1933)『石炭の顔』(1935)『夜行郵便』(1936)などの、イギリスのドキュメンタリー映画運動の映画群は、この責務に完全に一致するが、ローサ自身がこの運動の一翼を荷ったのだから当然である。けれども、後期の作品も含めたヨリス・イヴェンスの全作品もこの責務に答えるものだ。

これが明らかなのは、彼が1934年にアンリ・ストルクと製作した最初の紛れもない社会派ドキュメンタリーにおいてである。『ボリナージュの悲惨』は、ボリナージュの炭坑労働者のストライキと生活の窮状を扱ったものだ。彼の政治的、社会的関心は同年の『Zuiderzee』の扱いに表れていて、新たに加えられた再現シーンや、ハンス・アイスラーの勇ましい音楽、タイトル『新しい土地』が加えられたこの映画は、はっきりとした社会的、政治的メッセージを与えられた。1927年と1934年の間の6、7年という短い期間に作られた多くの映画によって、ヨリス・イヴェンスはローサのいう写実的伝統の主要な人物の1人になっただけでなく、またドキュメンタリーの伝統一般においても中心人物の1人となった。当初、ルットマン、クレール、デュラックなどのアヴァンギャルド作家に刺激を受けた彼自身が、他のドキュメンタリー映画作家を鼓舞する存在となったのだ。社会的、政治的傾向は、次の映画でより強くなっていく。

ソビエトに滞在した後、1936年にヨリス・イヴェンスはアメリカに発ったが、スペイン内戦の勃発により、アメリカでは後に『スペインの大地』(1937)に結実することになる映画を製作するため、コンテンポラリー・ヒストリアンズ社が設立された。スペインの人民戦線側の前線で記録されたこの映画は、依然イヴェンスの最重要作品の1つと見なされており、真に迫る撮影、編集、アーネスト・ヘミングウェイの抑制の利いたナレーション文、そしてフランコのファシズムに対する明確な反対姿勢が際立っている。このようなある立場に立脚する姿勢はイヴェンスの映画の強固な特徴の1つだが、彼が最も批判される点でもあった。

何故もう一方の側にも行って、“客観的な”映画を作らないのか、とよく尋ねられた。私の唯一の答えは、ドキュメンタリー映画の作家は、ファシズムや反ファシズムのような肝要な問題については意見を持たねばならないということであった。もし作品に劇的、感動的、または芸術的価値を持たせたいなら、作家はこれらの問題について感情を持つ“必要がある”…誰かに“問題の両側からの”客観性を求められたなら、2本の映画を見せねばならないだろう、つまり『スペインの大地』と、もしみつかればの話だが、ファシストの映画作家による映画の両方をだ。32

『スペインの大地』はまた、クラカウアーが区別した写実的傾向と形式主義的傾向間の弁証法の良い例である。この映画は、人民戦線側の前線での出来事の忠実な写実的報告であるが、イヴェンスは持ち前の映画撮影技術を、写実的報告が美学的に非常に力強く、それ故、より説得力を持ちうるものへ変えるために用いている。クラカウアーは対置した写実的傾向と形式主義的傾向の相互関係を認識していた。イヴェンスの作品はこの相互関係とその弁証法が実践された最初の例と見なすことが可能だろう。『北緯17度』のような彼の政治的な映画だけではなく、『ヴァルパライソにて…』(1963)のような詩的な映画にも見出せる実践の姿勢を、イヴェンスのスタイルと定義できる。

 『スペインの大地』の1年後、イヴェンスは別の反ファシスト映画『四億』を製作、主題を日中戦争に移し、ハンス・アイスラーから音楽の協力を得た。続けて、アメリカで数本の映画を製作し、彼の反ファシストの信念(『Our Russian Front(われらがロシア戦線)』[1941]、『Action Stations!(部署につけ!)』[1943])と産業の進歩への魅惑(地方の電力供給を目的にしたニュー・ディール政策のプロパガンダ映画、『動力と土地』[1941]、そしてシェル社の宣伝映画『Oil for Aladdin's Lamp(アラジンのランプの油)』[1942])を交互に追求した。

 映画監督としての生涯の比較的短期間に、ヨリス・イヴェンスは既にドキュメンタリー映画史にしっかりとした足跡を残しており、それ以後はドキュメンタリー監督たちが自称した“運動”の荷い手の1人、と一般に見なされていた。けれども、イヴェンス自身も自らの“歴史的経験”によって再び鍛えられていった。ドキュメンタリーの言語の発展に寄与することに加えて、イヴェンスはさらに情熱を燃やして、自らの理想、社会の進歩や弱小集団への抑圧反対にドキュメンタリー映画を捧げ続けた。その献身は常に歓迎される訳ではなく、彼の仕事の未来とオランダとの特別な関係をある程度規定した。

 イヴェンスの共産主義者への共感にも関わらず、オランダ政府はインドネシアの解放を記録するオランダ東インド領映画監督官に任命した。しかしながら、イヴェンスからすれば、オランダの関心はインドネシアの解放ではなく、再植民地化であった。オランダ側の契約違反と考えたイヴェンスは職を辞し、インドネシアにおけるオランダの政策に反対する宣伝映画を製作した。『インドネシア・コーリング』はオランダとの断絶を意味し、イヴェンスを好ましからぬ人物と考えたオランダ政府は彼のパスポートを一時没収し、3ヵ月間の更新しか与えなかった。1936年の後、彼が公式にオランダに帰国するのは1964年である。1965年にオランダで(オランダ政府によるものではない)映画製作の依頼を受けたのだ(『Rotterdam―Europort(ロッテルダム・ユーロポート)』、完成したのは1966年)。だが公式に名誉の回復がなされたのは1985年で、文化大臣ブリンクマンが『インドネシア・コーリング』に触れ、「歴史はあなたの当時の敵対者より、あなたの方が正しかったことを証明した」と明言した時であった。けれどもオランダ政府との問題が、イヴェンスの映画製作を妨げることはなかった。既に世界のあちこちで撮影していたイヴェンスに、今度は東ヨーロッパから、第二次世界大戦で傷つき、現在社会主義国に生まれ変わろうとしている国々の再建の様子を撮影するよう依頼が舞い込んでくる(『最初の年月』[1949])。イヴェンスがいたのは、彼のより良い社会への理想が実現されうる場所の当時の中心地であった。

 1957年まで東ドイツで製作していたイヴェンスは、東ドイツのドキュメンタリー映画史においても最大級の製作を手掛けるが(『世界の河はひとつの歌をうたう』[1954])、この時期の映画は共産主義のプロパガンダの性格が強く、芸術的な要素に乏しい。その理由は、イヴェンスが情熱に基づく信念に従って、ドキュメンタリー作家としての芸術的な野心を抑制していたことにもあるが、芸術的な野心を展開できる自由が与えられていなかったことにもある。彼は1956年のブタペストでの出来事に対する反応をあまり表に出さなかったけれども、恐らく彼のスターリン主義信仰に初めて亀裂が走ったのはこの時点であり、フルシチョフの脱スターリン化の過程はその亀裂を増大させた。兄に向けてイヴェンスは書いている、「より良い世界の実現、人々の人間関係をより良いものにするための経済、社会システムの変革のためには、何と長く、不安な、そして時に恐ろしい時期が必要なのだろう」。33 1968年のプラハの出来事については決して述べようとしなかったが、イヴェンスの中国と毛沢東主義への転向は、衰えゆくソビエトのイデオロギーへの幻滅を示すものだろう。イヴェンスが熱烈に信仰したソビエトのイデオロギーは、イヴェンスの信念を育んだ歴史的経験をも決定づけたのだった。

1957年にイヴェンスは西ヨーロッパに戻り、フランスで叙情的な『セーヌの詩』を製作する。しかし、これでイヴェンスが政治的、社会的な取り組みから完全に方向転換したわけではなく、以後の映画には、詩と政治、写実的傾向と形式主義的傾向、自由製作と委託作品の2つの側面が交互に現れることになる。1958年には北京電影学院で働きながら、映像詩『早春』と政治映画『Six Hundred Million with You(六億の民衆が君とともに)』を製作した。イタリアの官営石油会社ENIに委託された映画(『イタリアは貧しい国ではない』[1960])で再び技術への魅惑を前面に出した後、革命派支持の『Pueblo armado(武装した民衆)』と同時に、より詩的なチャーリー・チャップリンに宛てた旅行通信『旅行日記』をキューバで製作している(共に1961年)。

キューバではICAIC(キューバ映画芸術産業庁)での教育も頼まれ、この1960年の招待は瑞々しい革命の精神に飛び込む好機となった。社会主義世界、特にラテンアメリカの世界の新たな希望と模範となるはずであったキューバの革命的な風潮は、イヴェンスの観念と社会主義の進歩への期待に合うものだった。冷戦も激化し、キューバが一時的にその中心でもあった時期である。

共産主義はアジアやラテンアメリカのところどころで流行を見せた。とりわけラテンアメリカはアメリカの脅威となった。2つのイデオロギーの壁が向きあったのだ。

アメリカはソ連と同じくイデオロギーを代表する強国であり、たいていのアメリカ人は自国のイデオロギーは世界のモデルにならなければならないと心から信じていた。他方でアメリカは、ソ連とちがって民主主義国であった。そして不幸にして、言っておかなければならないが、この民主主義国であることのほうがおそらくはいっそう危険であった。ソ連政府もまたその地球上の敵対者を悪魔のように描き出したが、ソ連のほうは議会で票決に勝つことや、大統領と議会の選挙にわずらわされることはなかった。アメリカ政府は、それにわずらわされていた。そして票決と選挙という2つの目的のためには、世界終末論的な反共主義は有用であり、自分自身のレトリックを心の底から信じていない政治家にとっても、使いたくなる論法であった。34

イヴェンスは既にこの反共主義を1940年代のアメリカでの滞在の間に経験していた。当時彼の名前はFBIのリストに載り、イヴェンスは頻繁に尾行された。

ラテンアメリカの社会主義による民主化の可能性は、アジアでのアメリカの侵略行為とともに、イヴェンスが自らの信念に従って、それを映画で表現するよう導くこととなった。1964年に製作した選挙の映画『Le Train de la victoire(勝利の列車)』ではサルヴァドール・アジェンデを支持し、勝利への希望を強調した。しかしながら、アジェンデは選挙に勝てなかった。1960年代後半、アジアで製作された闘争的な映画では、アメリカの政治に反対する意志を鮮明にし、ヴェトナム(『Le Ciel, la terre』[1966]、マルセリーヌ・ロリダンと共同で『北緯17度』『ベトナムから遠く離れて』[1967])や、ラオス(再び集団製作である『Le Peuple et ses fusils』[1970])の人々を支持した。

『北緯17度』のために、イヴェンスは初めて16mmの音声同期録音カメラを使用したが、これは既に同期録音カメラを何回か経験したマルセリーヌ・ロリダンの選択であった。同期録音カメラについては、イヴェンスは先駆的存在ではなかったが、既に他の監督が開拓した技術を利用しながら、極めて独特な使い方で新たな次元を切り開いた。映像作家としてのイヴェンスの1960年代の作品において、2つの両極端の特徴がさらに明確になっていることは、上記の完全に闘争的な映画の前に、特筆すべき2つの映画詩『ヴァルパライソにて…』(1963)と『ミストラル』(1965)を製作していることからも窺える。

マルセリーヌ・ロリダンとの緊密な共同作業は『北緯17度』に始まり、1989年のイヴェンスの死まで続いた。この共同作業の成果の中で記念碑的なシリーズが、文化大革命が中国の人々の日常生活に及ぼした影響を描いた12時間の映画『愚公山を移す』(1976)である。イヴェンスは1958年に既に“大躍進”の予兆を自身の目で確かめていたが、続く2年間の大飢饉は見ていなかった。文化大革命、そして特にその中国の人々の日常に及ぼす影響を撮影する際、ヨリス・イヴェンスとマルセリーヌ・ロリダンは中国人にそのまま話してもらうことで、無知な西欧人の疑問に答えを与えようとした。「私かマルセリーヌが語るのではなく、この映画の語りの80%が中国人であることが重要である」。35 中国の政治状況の突然の変化によって新たに撮影し素材を加えることはほぼ不可能になったが、1976年の毛沢東の死とより穏健な政治制度への変化が、中国についての情報への渇望を大きなものにした。『愚公山を移す』は、求められた情報のほとんどを提供したけれども、すぐに時代遅れとなった。

ヨリス・イヴェンスは死に近づくにつれ、彼の映画の仕事の大部分を決定づけた“情熱に基づく信念”からさらに距離をとるようになった。彼の歴史的経験と今世紀の世界の多くの変動が、彼をより内省的な立場に変えたのだ。1917年の十月革命の時彼は19歳で、亡くなったのは共産主義の最後の崩壊の直前だった。「共産主義は1つの信念ではなく、その中にたくさんの思想がある、と私は昔よく言っていた。私は、歴史が今世紀の初めに書かれた1冊の本に従って発展するのではないことを理解するまで、自分のユートピアの考えに長く固執しすぎていた」。36

イヴェンスが股に掛けた世界は、その間多くの激変を経験した。彼はこれらの変化の多くを目撃し、撮影し、現実について自分の解釈を加え、常により良い世界、社会主義の世界への希望を示した。彼の映画はこの世界の美と残忍性、詩と悲しみの反映である。また彼自身が荷い手の1人で、主人公の1人であったドキュメンタリー映画史の格好の実例であり、模範である。そして彼のドキュメンタリーは主観的でありながら、歴史の記録(ドキュメント)となったのである。

ヨリス・イヴェンスとマルセリーヌ・ロリダンが共同製作した多くの映画のうち、最後の詩的で、瞑想的、時に風刺的でもある遺作が『風の物語』である。この作品は、5大陸から題材を採り、激動の20世紀の証言であるイヴェンスの堂々たる映画群の見事な到達点であった。

(訳:中野貴司)


(注)

27. Joris Ivens and Robert Destanque, Aan welke kant en in welk heelal: De geschiedenis van een leven (Amsterdam: Meulenhof, 1983): p. 116; 英訳は著者。

28. Ivens and Destanque, p. 101.

29. Rotha, pp. 79-101. (ローサ、前掲書、55-76ページ)を参照。「大まかに言って、ドキュメンタリーは4つのグループに分けられる。それぞれのグループは、自然に存在する素材への異なる捉え方から生じたのだから、それぞれを解説する必要がある」。

30. Rotha, p. 107.(ローサ、前掲書、78-79ページ)

31. Rotha, p. 88. (ローサ、前掲書、64ページ)

32. Ivens, Camera and I, pp. 136-137. (イヴェンス、『カメラと私〜ある記録映画作家の自伝』、159ページ)

33. Schoots, p. 337に引用されている。

34. Hobsbawm, p. 234. (ホブズボーム、前掲書、上巻352ページ)

35. Delmar, Joris Ivens: p. 71に収録のヨリス・イヴェンスとマルセリーヌ・ロリダンのインタビュー。

36. ハンス・ショルツとのインタビューにおけるヨリス・イヴェンスの発言。De Groene Amsterdammer, 7 May 1986, p. 12.

*邦訳のあるものについては、そのまま利用させていただいたものと、参考にしながら新たに訳出したものがある。


ケース・バカー


映画研究家、ヨーロッパ・ヨリス・イヴェンス財団におけるイヴェンス・アーカイヴのコーディネーター。オランダのナイメヘン大学にて映画と演劇を学んだ後、同学部にて映画理論、映画史を教えている。現在は、論文「ドキュメンタリーとTVニュースに於ける現実の表現と解釈―AVメディアへの解釈的アプローチ」を執筆中。