english

日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 23

佐藤真

聞き手:阿部マーク・ノーネス


1. 水俣運動の日々、そして映画の世界へ

阿部マーク・ノーネス(以下、ノーネスまず東大では哲学の勉強をしたんですよね。授業には行っていましたか?

佐藤真(以下、佐藤いや、学校にはほとんど行かなかったね。

ノーネス:日本人は授業に出ないことがプライドになるみたいですね。

佐藤:プライドというか、たださぼっていただけというか。もう大学の3年頃から水俣に行ったりとかしていたから。

ノーネス:学期中?

佐藤:学期中に(笑)。最初に行ったのは、3年の時だったかな。4年の時に『無辜なる海』(1983、香取直孝)のスタッフになって、半年くらい水俣に行っていました。

ノーネス:どうして哲学だったんですか?

佐藤:哲学の本は、高校の時からちょろちょろは読んでいましたので、大学は文学部で哲学をやろうかなって最初から思っていました。実際にはぜんぜん真面目に勉強しなかった。やはりドイツ語、フランス語がちゃんとできないと、あの学部では相手にされないでしょ。僕は語学とかをやらずに、どこか大学の外に出かけて行くというほうに、自分のウェイトを持っていっていたので、ほとんど大学には行けなかった。今になってちゃんとやっとけばよかったなと思います。すごくベーシックなことや、物事の論理の組み立て方、哲学的な物事の考え方はすごく必要とされてくるし、映画というものはものすごくそういう側面があるでしょ。

ノーネス:そう。

佐藤:大学3年の時に専門を決めなくてはいけないので、ちょっと恥ずかしいですけど、僕はヘーゲルだったのね。それは、ヘーゲルくらいしか知らなかったって、そんなものですけども(笑)。

ノーネス:その時に芸術には、あまり興味はなかったのですか?

佐藤:芸術…そうねぇ、学生時代に僕は映画ではなくて演劇をやっていたんですよ。それで友達と学生演劇みたいなことをやっていて、結局それもうまくいかないというか。またいっぽうで社会的な問題へも関心が自分なりにあって、僕の大学時代は70年代の後半から80年代の前半で、その時社会的な問題でどこかに出かけていってなにかできる場所と言うと、三里塚と水俣しかなかったという感じだった。かつての運動のピークは既に終わっていたにせよ、三里塚でも78年の管制塔占拠はまさに同時代の出来事だったし、水俣でも未認定患者の一連の闘争の中で、環境庁前の座り込みなどしばしば行われていた時代ではあったんですね。そこには運動の現場が確かにあった。水俣の運動のほうに関わるようになった直接のきっかけは演劇でしたね。砂田明さんという、ひとり芝居をやっていた人がいました。砂田さんが水俣に移り住んで10年が経ち、その間蓄積してきたことをひとり芝居に立ち上げて、東京の浅草の木馬亭という、浪花節とか浪曲とかをやる昔の演芸場なんですが、そこで芝居をやることになったんです。石牟礼道子原作でした。その時に水俣に関心を持っている人で、しかも演劇にも関わっている人で手伝える人はいないかという呼びかけが、来たわけです。それで水俣に関わるようになりました。

ノーネス:具体的にどのように水俣に関わっていったのですか?

佐藤:僕はね、砂田さんの芝居の手伝いで水俣に行って、それとは別に水俣の相思社の学生・市民向けの、実践学校というのですが、ワークショップみたいなのものに参加したりしました。水俣病の患者さんの家に2日くらい訪れて、援農とか手伝いと称する交流みたいなものをするプログラムです。僕は生まれたのは青森だけど東京の団地で育って、親父はサラリーマンですからまったくの都会育ちで、日本の漁村の暮らしにはまったく無縁だった。水俣病の運動の世界というよりは、漁村に暮らす田舎の暮らしみたいなものに、衝撃と魅力を感じた所がありました。その時に後に『無辜なる海』の監督となる香取直孝さんが、映画を作りたいということでひとりで来ていたわけ。彼は「とにかく僕は映画を作るんだ」と言っていたけど誰からも相手にされずにいた。それで香取さんが「水俣で来年くらいから映画を作ることになっていて、東京で制作部みたいな仕事をやってくれる人が必要なんだけども、佐藤君どうかね?」と。そんなふうに、最初は軽い気持ちで手伝いとかのつもりでドキュメンタリーの世界に足を踏み入れたわけです。意外とみんなそういう軽いノリで入っていっちゃうと思うんだけど。当時僕にとって現場というのがものすごく魅力的で、強い意志を感じて憧れてしまうわけですよ。現地から帰ってきたスタッフの報告とかから、現地の匂いがプンプンという感じでね。東京の運動はだらだらしているけども、三里塚でも水俣でもいろいろな問題はあるし、実際に物事が動いている現場でもある。やるべきことはいっぱいある。運動している実感みたいなことを語られるとついウットリしてしまうわけですよ。そういう所で映画を作ろうと香取さんに言われたものだから、それはやっぱり憧れるわけですよ。しかもその当時、土本さんがまだ水俣の連作を続けていたけれども、とっても土本さんの水俣のグループなんかは、怖くて入れない。

ノーネス:怖かったんですか?

佐藤:怖かったよ、やっぱり。つまり僕なんかは絶対に相手にされないだろうということですよ。学生で水俣に1回行っただけで、今まで社会的な運動もまったくやってないし、もちろん映画の経験もなくて、政治意識が明快にあるわけでもない。ただなんとなく憧れてという程度の人間が、土本さんの映画のグループに入れるわけがないと僕は思っていました。あの当時はすでに土本さんの青林舎にはピシッとしたスタッフ集団ができているから、助監督だってわざわざ学生なんか使う必要もないしね。

ノーネス:小川プロと違って。

佐藤:そう、小川プロと違ってね(笑)。「君、そうか、映画好きか、じゃあご飯を作ってくれ」というようなね(笑)。それとは違って、非常にはっきりとしたスタッフ論を土本さんは持っていましたね。水俣に関わっていましたから土本さんとは、すれ違うわけです。さまざまな集会に土本さんは必ず出てきて、今の状況に関して映画の立場から、鋭利な分析をバァーっと言っていくわけですよね。僕にとってはものすごい遠い感じの人で、土本組のスタッフは一番先端を歩いている人たちでした。『無辜なる海』のスタッフは、その次の次の世代くらい。香取直孝はまったく無名の人間で、ちょっとお調子者で、だからこそ土本さんの作っている映画の現場で、「自分も映画を作るんだ、家を借りて住み込むんだ」と言い出せた。実際に映画がスタートして、いざ現地に1年住み込もうという段になって、僕は1年のうち水俣に行っていたのは半年なんです。本当は東京の制作部だから半分東京にいて。でも東京にいてもぜんぜんやることないの。それで大学にも行く気なくなって、水俣に行っては漁師の手伝いだとか、みかんちぎりの手伝いをやりながら、焼酎飲んで村の人からいろいろな話を聞いたり、「あの人に話を聞いてきて、撮影の許可もらってきました」とかやっていました。

2. 集団生活と『無辜なる海』

ノーネス:じゃあ次の段階として新潟に行って集団制作の形で『阿賀に生きる』(1993)に取りかかったのは、かなり自然な流れだったんですね。

佐藤:そうですね。映画を作ろうと思った時に一番最初に考えるのが、どこに家を借りようかとか、どういう家にしようかとか、そういう住み方のほうなんです。『無辜なる海』の時も、最初に暮らした家はちょうど女島と福浦の境目の小さい川があって、そこの前の崖の下の日陰の家でした。集団生活には向いていない家で、個室もないし、だーっと部屋が続いているだけで。僕がいる時は4人で暮らしていて、そういう空間だから人がいっぱい訪ねてくるんです。小川プロと同じ男所帯ですから、夜遅くまで酒飲んでるでしょ。村でだんだん知り合いが増えてくると、「あっ、まだ起きてんな」とか思って「ヨッ」って焼酎持って立ち寄ってくるわけですよ。まさに小川プロ的だね。それがやっぱり楽しかった。そういう場所でいろいろな人たちが話をして、自分たちがそこにいて…関係がどんどん広がっていくわけですよ。

ノーネス:深くなっていく。

佐藤:そう、深く濃くなっていくのね。福浦の小さな家に住んで、そこで私生活がない小川プロ的な合宿生活をしたってことが僕の原点かもしれない。学生だったから気楽でしたけど、本当はそれはすごくしんどいんですよ。やっぱりバラバラの私生活がちゃんとあって、その集合としての共同性があったほうがいい。僕は映画を作るたびにあちこちで家を借りたり、山形の長井市でテレビのドキュメンタリーを作るのにも半年くらい家を借りたりしたんだけど。それもみんな個室があるアパート形式の家ではなくて、古くて小さくて畳があって、障子しか仕切りがないという感じの家なのね。まさに小川プロの牧野の家みたい、不思議なことにそんな家ばかりをずっと借りてきたわけ。そういう家を借りることで、自分が映画をスタートするという決意を固めてきたのかもしれないな、と思いますね。

ノーネス:その当時に、小川プロについて考えていましたか?

佐藤:『無辜なる海』を作った時は、ただの助監督だったし、ぜんぜん考えていない。80年代の前半に、若い映画のグループで住み込んで長期取材をしていくような、しかも水俣病というある程度社会的な問題をテーマにしている人は確かに少なかったよね。小川プロの人たちも、土本さんも、青林舎の人たちも、いろいろな形で応援をしてくれましたよ。一番よかったのは、彼らの映画を全部見せてくれたことね。小川プロの映画もその時に、初めて全部見ました。朝から晩まで、みんなで「三里塚」シリーズを全部順番で見ました。

ノーネス:年代順通りにですか?

佐藤:『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968、小川紳介)から順番通りに。カメラマンの樋口司朗さんの幕張にあった実家を、東京にいる時は編集室代わりに借りていた。障子を開ければ広間になるから、スクリーン立てて朝から晩まで映画を見る。土本さんの水俣の全映画、小川プロの三里塚の全映画を、作る前に集中的に全部見て、そして映画のアプローチや方法論をいろいろスタッフで議論するわけです。これはどうやって撮影していたとか、田村正毅(たむらまさき)さんはどんなふうにやっていたとかね。土本さんと小川さんが作ってきた自主映画の巨大な山脈みたいな作品群を、それぞれ3日ぐらいでガァーっとスタッフとともに一気に見たということは、強烈な映画体験としてありましたね。

3. 土本監督と小川監督の強烈な影響下での『阿賀に生きる』

ノーネス:小川さんと土本さんの話がすぐに出てきましたが、佐藤さんと、このおふたりの関係をお話していだけますか?

佐藤:僕はすごく明快に意識をしていたんですが、『阿賀に生きる』を作った時に、アプローチとスタッフ論は住み込んで集団制作体制でやっていく訳ですから、明らかに小川さんなんですよね。しかも、録音の菊池(信之)さんに最初から相談をしていたし、『阿賀に生きる』をスタートする時に、最も信頼をしていて、いろんなことを相談に乗ってもらったのは福田(克彦)さんだった。

ノーネス:そうでしたか。

佐藤:福田さんの考えている映画スタッフのあり方と、小川プロに対する非常に批判的な考え方を、僕は『阿賀に生きる』を作る時のひとつの指針みたいにしてきた所があった。その時は青林舎の人たち、土本さんのグループの映画スタッフのあり方とは、完全に僕の意識のなかでは切れているような感じがしていたのね。だけど実際にテーマにしている対象は、土本さんがやってこられた水俣の世界なわけです。映画の対象をどういうふうに、分析的に見ていくのかってことに関して、土本さんがやってこられた、水俣病の全体像、それから政治的な分析、あのバランス感覚、情勢分析というか、そういうなかからこうグッっと本質をつかんでいくという、そこはすごく意識せざるを得ない。でも映画の方法論というのは小川さん的なことを考えていて、だけども小川プロの問題点や失敗をしたところを福田さんから嫌というほど聞き、菊池さんからも聞きながら自分たちの集団制作のやり方を考えてきた。それから飯塚(俊男)さんも小川プロを辞めた直後に、1度来てもらったことがあったのね。小川プロに関して僕は最初からまったく憧れは持っていなかったけど、小川さんが新潟から飯豊山を挟んで山向こうの上山市でやっていることは常に意識していた。とにかく小川プロのようになっちゃいけないと。でも結果として同じようなことをやってきて、同じようにスタッフに関しては権力構造・ヒエラルキーとかさまざまな問題を、起こしてきたなぁというところはありますけどもね。

ノーネス:それでお金の問題もありますよね。

佐藤:一番の製作的なやり方の違いは、借金をしないでカンパで資金集めをするということ。例えば10万円を「貸してください」って言えば借りられるんですけど返せない。でも下さいって言ったら、それは無理だからカンパなら1万円が限度ということになる。仮に1000万カンパで集めようとする場合、1000人以上の人に声かけないと無理ですよね。だからすごく労力がかかるわけです。そんなことは無理だろうと思っていたけど、小林茂が助監督でついて一緒にやっていた柳澤壽男さんはそれをやってきているわけですよ。ああいう本当に温厚なタイプの非常に丁寧な人間関係を作る監督が、頭を下げ手紙を書き、名簿を集め団体をまわり、ひとり一口1万円で、その時までに4本の自主映画を作ってきているわけじゃないですか。小川プロの場合には小川さんのカリスマ性と、スタッフもその虎の威を借りながら、お金を借金で集めて連作をしていく。でもそれらのほとんどは返済できなかった。最初から返せるあてなんかなく借りているわけですから、小川さんが亡くなった後1億ほどの未返済の借金がそのまま残るわけですよね。僕らがあの時に考えたのは、小川さんのようにならないために自分たちは借金をしないでカンパを集めていくということ。そのための市民の組織みたいな製作委員会をみんなで立ち上げて、やっていくことが必要だったと思いますね。

ノーネス:佐藤さんに限ったわけではないのですが、どういうわけか多くの人たちは日本ドキュメンタリーの方法論の話をする時には小川と土本さんを、時々、原(一男)さんも鈴木(志郎康)さんも出てくるんですけども、だいたい土本と小川。どうしてなのでしょうか?

佐藤:僕の場合は小川・土本の直接的な影響の渦中から映画をスタートしてしまっている。そういう小川・土本の強烈な影響力のなかにいたので、その外に広がっていた多様な日本ドキュメンタリーの裾野の広がりが見えなかったって感じがする。日本のドキュメンタリーの多様性みたいなことに気づくのは、ずっと後になってからでしたけど、その当時は見る機会がなかった。僕にとっては、目の前に立ちはだかる小川・土本の巨大な壁とどういうふうに対決をするのかっていうのが、最初に映画をスタートする時の僕にとっての課題のような感じだった。ただ当時、小川プロの集団制作の渦中で苦しみながらも、個人映画に移行していった福田克彦さんから、小川・土本のスタッフ論を越える可能性の示唆を受けていたのだとは思う。

ノーネス:『阿賀に生きる』の以降の映画の時はふたりについて考えましたか? まったく違う方法、スタッフとアプローチですよね。

佐藤:そうそう。『阿賀に生きる』以降は自然とぜんぜん違う方法論を考えられるようになった。小さいながらも僕もひとつの拠点ができたしね。これと同じ方法を続けたら小川プロにならざるを得ないなっていうことを痛感しましたね。正直言って、こういう住み込んで撮る作り方はとにかくしんどいので、続かないと。

ノーネス:特に年とったらだんだん、難しくなるでしょ。

佐藤:そう。自分で3年間共同生活をしてみて、スタッフといろいろゴタゴタしながら映画を撮って、それで『阿賀に生きる』の上映が終わった時に「こういう映画の作り方はもう二度とやるまい」というか「できない」と思った。その時に「小川さんって、よくあんな集団制作を続けてきたな」というのが驚異的なことだと人ごとでなく思えるようになった。その集団の中で小川さんがいかに孤独だったのかということも、福田さんとか菊池さんなんかのスタッフが小川さんを批判するっていうこととはまったく別の次元で、思いました。20数年間共同生活やってきたなかで、いつも「あーっ、いったいなぜ僕はこんなことをやり続けているのだろう」という疑問に最も苛まれていたのが小川さん本人だったんだろうと、すごく想像できるようになりましたね。だからこそ僕は小川さんとはまったくアプローチもスタッフ論も違う映画を作っていけば良いのだ、と思いました。

次頁へ続く>>


佐藤真 Sato Makoto

1957年青森県弘前市に生まれ、東京で育つ。学生時代に訪れた水俣でドキュメンタリー映画と出会い、『無辜なる海』(香取直孝監督)の製作に参加。その自主上映の旅で新潟・阿賀野川に暮らす人々と出会い映画作りを決意し、スタッフ7人で3年暮らして『阿賀に生きる』(1992)を完成。本映画祭優秀賞をはじめ各賞を受賞。1999年より映画美学校主任講師、2001年より京都造形芸術大学教授。YIDFF 2001アジア千波万波では審査員を務める。2002年8月から文化庁派遣芸術家在外研修員として1年間ロンドンに滞在する。著書も数多く、『日常という名の鏡――ドキュメンタリー映画の界隈』(1997)、『ドキュメンタリー映画の地平――世界を批判的に受けとめるために 上・下』(2001)、『映画が始まるところ』(2002)、『まどろみのロンドン』(2004/著作はすべて凱風社)がある。

 

作品歴


  (作品名/上映時間/フォーマット/スタッフ/製作) はテレビ作品

1983  無辜なる海―1982水俣―/81 min/16mm/香取直孝(監督)、掛須秀一、佐藤真、白木芳弘、杉田一夫、樋口司朗/フィルム工房

1992  阿賀に生きる/115 min/16mm/小林茂(撮影)、鈴木彰二(録音)/阿賀に生きる製作委員会

1994  我家の出産日記/45 min/ビデオ/岩田まき子(撮影)、宮崎まさ夫(共同演出)/テレビ東京「ドキュメント人間劇場」

1995  おてんとうさまがほしい/47 min/16mm/渡辺生(製作・撮影)、佐藤真(編集)/おてんとうさまがほしい製作上映委員会
小さな公園の子供たち/45 min/ビデオ/MXテレビ「映像記者報告」
狐火伝説の町・津川/15 min/ビデオ/小林茂(撮影)/グリーン・シグマ

1996  写真で読む東京/90 min/ビデオ/ 小林茂(撮影)、代島治彦(プロデューサー)/NHK「ETV特集」
水俣病ビデオQ&A/30 min/ビデオ/使用作品:土本典昭水俣シリーズ/シグロ

1997  虹の架け橋―台所と農業をつなぐ地域自立への長い挑戦/45 min/ビデオ/松根広隆(撮影)/テレビ東京「ドキュメント人間劇場」
ナージャの村/118 min/16mm、35mm/本橋成一(監督)、佐藤真(編集)/サスナフィルム
保育園の日曜日/20 min/16mm/豊川保育園おやじの会

1998  まひるのほし/93 min/16mm/大津幸四郎(撮影)、久保田幸雄(録音)/シグロ

1999  日本NGOとバナナ村の10年/60 min/ビデオ/瓜生敏彦・山田武典・柳田義和(撮影)/NHK BS「日曜スペシャル」
女神さまからの手紙/30 min/16mm/カサマフィルム

2000  SELF AND OTHERS/53 min/16mm/田村正毅(撮影)、菊池信之(録音)/ユーロスペース
チョンおばさんのクニ/90 min/16mm/班忠義(監督・撮影)、佐藤真(編集)/シグロ

2001  花子/58 min/35mm、16mm/大津幸四郎(撮影)、弦巻裕(録音)/シグロ
表現という快楽/40 min/ビデオ/大津幸四郎(撮影)/シグロ
市場最大の作戦/25 min/16mm/宮武嘉昭(撮影)/青森県立美術館

2002  星の文人・野尻抱影/48 min/ビデオ/柳田義和(撮影)、滝沢修(録音)/ポルケ

2004  わたしの季節/107 min/16mm/小林茂(監督・撮影)、佐藤真(編集)/『わたしの季節』製作委員会
阿賀の記憶/55 min/16mm/小林茂(撮影)、菊池信之(録音)/カサマフィルム
中東レポート アラブの人々から見た自衛隊イラク派兵/43 min/ビデオ/ナジーブ・エルカシュ(取材)/シグロ

2005  OUT OF PLACE/137 min/35mm/大津幸四郎・栗原朗(撮影)/シグロ

特に表記のないものは監督作品

[戻る]