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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 12

是枝裕和


前回はお休みをいただきました「日本のドキュメンタリー作家インタビュー」シリーズですが、12回目の今回は、テレビと映画、ドキュメンタリーとフィクションといった、媒体やジャンルに囚われることなくご活躍中の是枝裕和さんに迫ります。ディレクターとしてテレビ番組を6本、映画を2本発表されている是枝さんは、『ワンダフルライフ』の国内公開が直前に迫った99年4月、多忙なスケジュールをぬって我々の取材に応じて下さいました。「Documentary Box」編集者のアーロン・ジェローと田中純子が、テレビマンユニオンにてお話をうかがいました。

―編集部


ジェロー(以下Gまず映像の世界に入るきっかけについてお伺いしたいと思います。青年の時に映像に興味を持っておられましたでしょうか。

是枝(以下K映像は好きでしたね。やっぱり、1番テレビを見て育っている世代ですから。まずテレビのドラマとかドキュメンタリーの番組から映像に興味を持つようになって。大学に通うくらいから、自分で意識的に映画館に行って映画を見るようなことが増えました。もともとは小説を書くような学科にいたんですけど、活字から映像へ自分の興味が移っていく時期が10代の終わりくらいにありまして。ただ自分は、8ミリを撮るとか、映画のサークルに入るという集団作業には全く向かなかったので、1人でシナリオを読んだり、映画館へ行ったり、というような日々を過ごしました。それで、映像のそばで働きたいということで、いろんな選択肢の中から、テレビのプロダクションを選びました。

G:今映画の世界に活躍している人は、おっしゃったように8ミリ少年のような人が多いんですけれど、そういう最初からフィルムにこだわる人がいる中で、テレビの世界を選んだ理由は?

K:いきなり映画っていうのはね、自主映画やってなかったんで、飛び込みようがなかったんですよね。もう大手が駄目だっていうのは分かってたし、僕の世代で撮影所に入ろうと考える人はほとんどいなかったと思う。岩波映画とかも考えたんですが、もうほとんど人を採ってなかったし、「PR映画が中心だよ、うちは」って言われたりもして。そうなると、制作の現場にいることを考えた場合には、テレビのプロダクションというのは、その次の選択肢としてあって、まあ学生の頃にテレビマンユニオン自体には非常に興味を持ってたわけですよ。その当時テレビマンユニオンを作った人間たちが書いた『お前はただの現在にすぎない』というテレビ論をまとめた本がバイブルのようにあって、そこに書かれているテレビに対する考え方に共感した部分もあったので、まあとりあえず受けてみようと。

G:最初からドキュメンタリー映像を撮りたいという気持ちで?

K:いや、今から考えるとはっきりしていなかったですね。最終的にはドラマをやろうかな、っていう気持ちの方が強かったと思うんですけど。

田中(以下Tその時ドキュメンタリーでお好きな監督とか、目指している方はいましたか?

K:やっぱり映画の世界では小川さんと土本さんが大きな存在としていました。ただその2人に関しても、その時はただ好きだとは言ってましたけど、彼らがいかに偉大かっていうのは、自分が演出をするようになってから初めて分かりましたけどね。あとはやっぱりテレビマンユニオンを創った人たちの60年代のテレビのドキュメンタリー。『日の丸』とか『あなたは…』っていう、街頭インタビュー形式のドキュメンタリーは、強く印象に残っています。

G:実際テレビマンユニオンに入ってみて、どうでしたか?

K:思ったのとずいぶん違いましたよ。それは今から考えれば仕方ないことだと思いますけど、当時は「やられた!」という感じでした。やっぱり僕の中でもイメージが先行してましたから。入ってみれば、制作会社という、株式会社的な利潤追求をしていく組織で、レギュラー番組が会社の経営を支えていて、っていうのが、現実として理想とは別にあって。そのギャップが最初苦しかったんです。それに、僕アシスタントディレクターとしては無能だったので、全く現場で使えずに、毎日怒られっぱなしでしたから。そういう、人にどなられたり怒られたりってそんなにないですよね、それまでの人生で。特にテレビの業界って、人格を否定されたりする状況っていうのが結構続くんですね。自分の能力の無さっていうのにも悩みましたし、1年目、悩んで終わっちゃいました。大学時代は1年に300本も400本も映画を見るような暮らしを続けていたのが、仕事を始めた年には、たしか3本しか見れなかった。どんどん自分が枯れてく、乾いてくような感覚があって、このまま現場にいて果たして演出家として何か成長できるんだろうか、という疑問が湧いちゃって。単純なんですけど、五月病みたいなもんですね。2年目に入って、多少自分のスタンスを取り戻し始めましたけど。

T:3本…。今は逆に映画祭なんかでまとめて見たり?

K:年に100本くらいは見てるんですけど、でも映画の製作始まっちゃうと、逆に見たくなくなっちゃったり、自分の編集入っちゃうとそんなには見なくなるんでね。外国の映画祭行ってもホテルで原稿書いてる時間の方が多いくらいで(笑)。それでも以前に比べれば大分ふえましたね。

G:60年代のテレビドキュメンタリーの人たちの下で働いて、どういうようなことを学びましたか?

K:僕が好きだったテレビドキュメンタリーを作っていた人間は、すでに制作の現場を離れてしまった後で、実際に番組を作っているという状況ではなかったです。やっぱり60年代のテレビドキュメンタリーってかなり方法論的な実験をしてますよね。でも僕が入った80年代後半は、テレビはもう方法論の時代ではなくなっていた、ドラマも、ドキュメンタリーも。だから、タレントさん連れてどこか行くのがドキュメンタリーのジャンルにまで進出してたり。そういうものの中にも面白いものがあると思いますけれど、その当時作られていたものは、はっきり言って僕は面白いと思っていなかった。本当に生意気なんですけれど、自分が作ってもいないのに、関わったものがつまらないと感じていたんですよね。

G:2年目に入って、そういうものにある程度抵抗するような立場に?

K:抵抗っていうとかっこいいけど、まあ逃げちゃったわけですよね。本当は自分がADとして関わった番組を面白くしていこう、と思える人の方がえらいと思うけど、僕は逃げちゃったんです。だから会社の番組は仕事としてある程度つきあいながら、自分で作るという方へすっと向いちゃったものですから。卑怯なやり方と言えば、卑怯なんですけど。

G:まあでも逃げ方として面白いですよ。自主制作で…

K:そうですね、今から考えればね。それしか自分にはなかったと思うんですけれど。

G:そして、牛の飼育を通して子どもたちの成長を描いた『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』を作られたわけですが、どうしてこの話をお選びになったんでしょうか?

K:1年仕事をした後で、自分が撮りたかったものというのを見失いそうになってたんですよ。それをもう1度確認してみたいと思って。で、何本も企画書を書いてみたり、脚本を書いてみたり、自分なりに模索する。それと同じ流れの中で、とにかく何かを撮り始めてみようか、と。8ミリやってなかったものですから、まずカメラってものに触れないと、という気持ちになって、じゃあ何を撮ろう? と考えた時に、ふっと浮かんだのがあの小学校の番組だったんです。あの学校は実は何度もとりあげられていて、僕が大学の頃には、テレビ朝日の『ニュースステーション』の中で、あの春組が1年生だった時のものが放送されているんですよ。その時の子どもたちの顔がふっと浮かんで、あの子たちのああいう顔が撮りたいって思ったんです。それでまず学校に、授業を見学させてもらっていいか、という連絡をしたら、思いのほかすんなりどうぞどうぞと言ってくれたので。とりあえずはクラスの子たちと遊んで、給食食べて(笑)、楽しい時間を過ごして、帰ってきたら、やっぱり撮りたいなと思って。ちょうどもう1度牛を飼いたい、乳しぼりがしたいっていう会議をしている所だったものですから、先生に頼んで、撮らせてもらいました。

G:子どもの顔が撮りたい、という思いのほかに、是枝さんは教育や福祉の問題に興味をお持ちではないかと思いますが。

K:あそこの学校が取り組んでいるものには興味がありました。そのクラスに行って、授業風景を見ていただけでも、子どもたちが授業という時間の中で、非常に喜怒哀楽をはっきり出すし、先生もそれを出させる方向でいろんなものを展開していく。自分の子どもの時を振り返った時に、自分は教室って場所で、こんなに感情を解放してなかったな、っていうのがまず最初ありました。感情をぶつけ合うっていうことが、それは喧嘩も含めてですけど。あのクラスではすべての取り組みが牛をテーマにして展開されていって、ひとつひとつの学習に、はっきりとした目的があるんです、子どもたちの側に。それが羨ましかったんです。まずそこで子どもが過ごしている時間というものを追体験してみたいな、という風に思いました。…っていうのが真面目な意見ですけど、本当はすごく好きな女の子が1人いて(笑)。

G:とり上げている1人の女の子ですか?

K:ちがいます。ハハハー。見ていて「この子は撮りたい」って思う子が1人いたんです。ま、タイプだったんですけどね(笑)。その子の発言とかすごく面白くて、僕が同じクラスにいたらきっと好きになってるんだろうなっていう子なんですね。その子を撮ろうというようなところからスタートしたという、比較的不純な動機なんで(笑)、ちょっとハズかしいんで言わないようにしているんですけど。

T:でも、乳しぼりのシーンとか、何かクラクラっとくるものがありましたけど…実際に撮っていて、あんまりそういう気分にはならなかったんでしょうか? 私は観ていてエロチックだなーと。

K:(しばし絶句)あのね、あんまりそんなことを感じている余裕ないんです、牛の乳しぼりは。牛って、片側にしか人を寄せつけないんですよ。だから人が両サイドにいると必ずどっちかを蹴るというふうに教えられていたんで、乳しぼりをしている反対側から撮るっていうのは命がけなんです、子どもが蹴られるという可能性もあったんで。ただ、牛に種つけをして子どもを産んで乳をしぼるという一連の作業のなかで、どうしても性の問題って出てくるでしょ。ちょうど4年生から5年生になるっていう時期だったから、牛に触れることで子どもたちのなかにも色々な性的な興味とか…。発表会は非常にまじめな形で出ましたけど、それ以外にも、もうすごく膨らんでいましたね。

T:結果的にどのくらい廻されたんですか?

K:200時間ぐらいです。

G:それは仕事の合間を見つけて?

K:はい、合間じゃないですけどね。サボって行ってました(笑)。

G:テレビの世界では、特にADは長時間労働ですし、かなり大変だったのでは?

K:はい、大変でした。だからサボって行きました、正直に言えば…。ただ迷惑かけないようにはしていたつもりなんですけど。なるべく早めに仕事終らせて、翌日の図書館の仕事は前日にうまく終らせといて。ボードに「明日、図書館 夜戻り」と書いといて、その日の夜行に新宿から乗って。そうすると朝の7時くらいに伊那に着くんで、半日取材して…。帰りは新宿への高速バスで3時間で帰ってこれるんで。まだ携帯電話なんてなかったですから、夜戻ってきて、図書館行ってきましたって言って資料出すっていうことでうまく逃げてました。

G:それを1年半くらい続けたんですか?

K:いや、もうちょっとですね。うーん、そういう形で取材から2年半続いて…。

G:会社にこれを撮ったぞと打ち明けたのはいつ頃でしょうか。

K:いや、テレビマンユニオンには全く打ち明けませんでした(笑)。ちょうどフジテレビの深夜で、NONFIXと言ういいドキュメンタリーの枠があったんですよ。局の担当者も、金光修さんっていう、バラエティー中心のプロデューサーで、色々なことを許してくれて、すごく良かったんですけど。最初にその人に、ここのプロデューサーと一緒に企画書を持っていって、1本目、福祉の番組『しかし…〜福祉切り捨ての時代に〜』をやったんですね。で、まあ評判が幸いにも良くて、すぐ次をやってくれないか、と振ってくれたので、実はもう2年半、撮っているのがあるんだけれど…と言ってビデオを見せたんです。じゃあそれをやりましょうと言ってくれて、もうそこで通しちゃったという感じです。

T:というと『しかし…』の方が、企画として最初に通った…

K:そうです、ええ。

G:TVの世界はよく知りませんが、ADから監督に昇進して自分の企画を撮れるというような段階がよく分からないんですけど…。もし、是枝さんがご自分で言うようにダメなADだったとしたら、どうして演出家になれたのかという素朴な疑問が…。

K:伊那小通いながら、まあADの仕事もやりながら、新しく始まったレギュラー番組で、取材ディレクターみたいなことは何本かやってたんですよ、海外行ったり。だからポジションとしては、半分ADのような状況で企画を持っていったんです。まあ、局の担当の金光さんが、「深夜であるし、予算は少ない、視聴率も低いです。内容には口を出しませんので、好きなことをして下さい、その位しかこの枠にはメリットがないので、企画書次第で経験は問いません」と言ってくれまして。すごく仕事やりやすかったですね。

G:『しかし…』は福祉関係の作品ですけれど、それはどうして撮りたかったんでしょうか。

K:どうして撮りたかったんでしょうねぇ。別に常にネタを探してまわりを見渡しているわけではないんですけど…。たまたま昔の友達たちと会ったときに子ども時代の話になって、ある同級生が「実は子どものころ生活保護をもらってたんだ、うちは。でも恥ずかしくて言えなかったんだよなぁー」と。そしたら周りで、「実はうちももらってたんだよ」って人が結構いたりして。生活保護は生活権保障とも言って国民の権利だという意識、欧米ではとても強いんですよね。日本ではどうしてもお上からもらう施しっていう感覚があるので、非常に後ろめたいものなんですね、福祉の世話になるって。だから、なぜ国民の権利であるはずのものが、そうやって人に言えない恥ずかしいものとして社会に定着しているのか、フッと疑問として浮かんだんですよ。それで生活保護というものの背景に興味を持って、調べ始めて、簡単な企画書にしました。

G:『しかし…』は、一応企画書はあったけれど、撮ったものはかなり違った…

K:全然違うものになりましたね(笑)。企画書持ってって、面白いね、じゃあやりましょうってことを言われたのが、確か90年の秋、9月くらい。それで、放送するまで6ヵ月間あったんですよ。その間中、いろいろ取材を進めていく中で、構成を煮つめて、ある生活保護を打ち切られて自殺をしてしまった女性が残したテープというのに辿りついて、よし、このテープを柱にしようって。そのテープの証言を巡って、その担当者だった生活保護の役人の側と、生活保護を切られて自殺してしまった女性と、もう1人くらい絡めようかなあとかいうふうに思ってて…。番組のなかにも多少形として残しましたけど、そのテープの証言を再生しながら、いろんな人が証言していくという、そんなようなことをやりたいと思っていたんですよね。

T:だれかの特定の死が、先にあったという訳ではなくて、リサーチしている間に分かってきた…

K:そうですね。

G:そのなかで環境庁の山内豊徳さんの…

K:そうです。ほぼ番組としては形が固まりつつあったときに、12月5日に山内さんが亡くなって…。最初は水俣病と福祉や生活保護というのは全然つながらなかったんですけど。ただ、彼の経歴が新聞に載った時に、その中に厚生省社会局の保護課長っていう、いわゆる官僚の中では生活保護行政の1番中心のポジションが出てきたんです。そこにまず目が止まって、辿っていくと、その後のポストも障害者福祉とか老人福祉とか、いわゆるエリートが歩まないポジションばっかり、要するに弱いとこ弱いとこ回っているんですよ。結局、厚生省出て環境庁行っちゃうし…。ポストの並びにちょっと興味を持ったんですよ。それで色々調べてみたら、官僚という枠を超えて福祉に取り組んで来た人物だったので、彼を取材してみようということで、もう1度取材をやり直したんですよね。それで、残された奥さんへ辿り着いて、まあ、それは年が明けて四十九日が過ぎてから取材を申し入れようと自分では決めて、その後で連絡を取りました。

G:そういうことで未亡人にインタビューするというのは、かなり敏感なところでしょうね。特にTVだといくら夜中の番組といっても全国放送だったりで、撮られたくない人がかなりいらしゃるんじゃないでしょうか?

K:そうですね、だからそれは非常に難しいところなんです。亡くなった後もずっと一切取材拒否だったんですよ、奥さん。結構センセーショナルな事件だったので、写真週刊誌なんかも家の周りに来ちゃったり、ある雑誌の記者が喪服着てやってきて、お通夜の席で奥さんが友人たちに挨拶した言葉を、独占告白という形で週刊誌に載せちゃったりしたんです。たまたま僕の場合は、最初にコンタクトを取ったのが山内さんの同級生の(故)伊藤正孝さんっていう、以前朝日ジャーナルの編集長とかやってた方で、山内さんに関しては、彼がジャーナリストとしていろんな取材をしている状況だったんですね。僕はまず伊藤さんに連絡をとって、実はこういう番組を考えている、決して自殺ということだけをセンセーショナルに扱うつもりはない、元々は福祉がテーマの番組なんだという話をしたら、伊藤さんが、僕から話してみましょうか、と言ってくれて。そしたら奥さんが、じゃあ連絡して下さいということになったものですから。まあ、時間を少し置けたということと、アプローチの仕方が他のメディアとは多少違ったということが、取材受けてもらえた理由の大きな所だと思います。

G:でも、そういう事件もあったので、TVの映像の暴力性などについて色々考えられましたか?

K:考えました。だから躊躇はありました、正直言って。だから悩みながらお宅にお邪魔して、正直に、自分が言いたいことというのをお話ししました。その時奥さんが、「私にとってはすごく個人的な夫の死ではあるけれども、夫の死は非常に社会的な問題を含んでいると思うから、番組の趣旨がそういう方向であるのならば、私が出てしゃべることが夫の望むことだと思う」と言って下さったんですね。だから、悩みながらお宅にお邪魔して、逆に後押しして頂いたという感じなんです。そこで断わられたら、彼の取材はあきらめるつもりでいたんですけど…。でも難しいんです、誰を主体として環境庁を批判していくのかね。あの段階で、奥さんの立場から環境庁を批判するというニュアンスがあまり強くなると奥さんも困るし、僕もそれはやりたくなかった。編集にしてもカメラのアングルにしても、かなり気をつかったつもりでいるんですけれど…。具体的な話をすると、遺書という形で名刺が2枚残されていたんだけど、本当は家族に残した一言よりは、環境庁の事務次官に残した方が強いんだけど、そこをとって奥さんに言っちゃうと、どうしてもそれに対して奥さんのコメントとることになっちゃって…。まず、そこでは家族の一言へ行っといて、コメントもらって、環境庁のを受けるのは僕という形にしているんですよ。今でも正直言うと、夫を亡くされた後の女性にその夫のことを語ってもらうという取材が、自分の中で完全にクリアになっているかというと、なってはいない。もちろんあの番組は、あの奥さんの話がなければ成り立たないものだったと僕は思っているんだけど…。うーん、なんて言うのか、倫理的な問題ですかね。僕はある種の倫理よりは番組の強さの方を優先したんじゃないかなあ。だからそのことに関しては、後ろめたさを残しています。

T:ただ奥さんが、しゃべることで自分の心の中の整理をするという感じは見受けられたんですか?

K:僕、そのことに気づいたのはずっと後になってからなんですね。番組作り終って、本を書くということになった時、何度も何度もお邪魔して初めて、もしかすると彼女は僕に話すことで、いわゆる喪の作業というものを経ていくのかもしれないと思うようになって。ただ、本を書く段階になってから以降は、僕の方も目的意識が明解になりましたし、彼女の方も、話すこと自体が彼女にとって意味があるというように考えてくれたようなので、それから先の作業では悩みませんでしたけど…。

G:番組をつくる、つまり映像をつくることと、本を書くことの関係性や、違いについてはどう思われましたでしょうか。どうして本を書くことを決めたのでしょうか。

K:うーん(考えこむ)。いくつか理由はあるんですけど、元々ね、書くこと好きなんですよ。僕の映像の構成ってやっぱり活字の文章構成がベースになってるみたい。自分でそれは映像作家としては弱点だと思っているんですけど。番組作った時に、47分10秒の中では山内さんについては言及しきれなかったなあというのが、あまりに大きかったんで、これは何らかの形できちんとまとめたいという気持ちがあった。それには活字が1番いいだろうと思っていた所へそういう話が来まして、まず時間的な制約が超えられるというのが1つ。あとはやっぱり、映像を撮ってそれをドキュメンタリーと呼ばれるジャンルとして作っていく行為と、ノンフィクションといわれている活字表現が、どのくらい違う作業なのか、同じ作業なのかというのを自分で確認してみたいという気持ちが大きかったですね。

T:やってみていかがでしたか?

K:うーん、面白いんですよね。ドキュメンタリーという枠組みが曖昧になっているのと同じように、活字でノンフィクションっていわれる分野もね、やっぱり枠が曖昧になってると思っているんですよ。どうしたって書く主体があるわけだし、その書くことで、ある情景とかシーンを再構成していくって作業には当然フィクションが含まれてくるわけですよ。その紛れこんでくるフィクションとどう書き手が対峙していくかという所で、その作者がノンフィクションをどう思っているかというのが書き込まれていくんですよね。だから、必ず引用には引用だとわかる形にする人もいれば、おまえその場にいたのかって思うような臨場感あふれるような描写をしてしまうノンフィクションライターもいるじゃないですか。だから小説のようなノンフィクションも、ノンフィクションのような小説もあるという感じでね。書くって、とにかくノンフィクションだろうがフィクションだろうが、フィクションなんだな、ということを書いてみて思った(笑)。もちろん資料に照らし合わせながら、奥さんの話を聞きながら、会話を再現してノンフィクションを書いているつもりなんだけど、やっぱりそこには、自分の紡ぎたい物語というのが入ってくる。だから、ドキュメンタリーという題材の向こうに自分の物語を紡いでしまう自分というのは一体何だろうって思いますよね。

G:ドキュメンタリーをルールをもとに作ることに対する抵抗感がある一方で、お聞きしていると是枝さんはすごくそういう道徳感・倫理感も強い感じですが、それはどういう風に組み合わさるんでしょうか?

K:僕、倫理感強いですかね? うーん、難しいんだよなあ。その存在自体に暴力性を含んでしまっているカメラというもので相手を撮ることで、カメラがなかった時とは違う非日常的な空間が起きてしまうっていう、いろんなマイナス要素がありますよね。それを相手にも受け入れてもらって、こちらも受け入れつつ、なおかつカメラを間に挟んで新しく生まれてくる人間関係や、カメラがあることで生まれてくるお互いの感情っていうものを撮っていくのがドキュメンタリーだと思ってるんです。そうなった時に色々な方法論が許されていいと思うんだけれども、相手が納得しない形でカメラを向けるとか、隠し撮りで相手の見せたくない部分を撮るっていうことに対する、倫理的なのかどうかは分からないんですけど抵抗感があるんですよね。

G:その方法論の話をすると、『もう一つの教育』と『しかし…』は、スタイル的に結構違いますね。自主制作のものと、ちゃんとスタッフを使って撮影したもの、そしてナレーションがないものと、あるもの…

K:まあ探ってみてる時期なんですよ。今も探ってるんですけど、あれは28才ぐらいの作品なんで、どんなことが可能なのかってことをいろいろ試してるんですよね。だから今2つ並べて両方「ドキュメンタリー」って呼んでるんですけど、『しかし…』はどっちかっていうと構成物なんだよね。あれができるまでの過程には、いろんなドキュメンタリーがあるんだけど。出来上がったものは、今僕の中ではあれは「ドキュメンタリー」とは呼んでないものだったりする(笑)。『もう一つの教育』に関しても、実は今の自分からするとドキュメンタリーじゃないですけど(笑)。と言うのは、取材者の僕があたかもそこにいなかったかのようなものなんですよね、出来上がったものは。先生も子どもたちも、僕のことを意識していないかのように見える瞬間をつないでるんですよ。だから、カメラがあのクラスの中に入ったことによって起きた異和というものは描かれていない。あの当時はそういう風にして作るものだって、漠然と思ってたんですよ。だから子どもたちが僕の方を見てVサインするとか、カメラを見るとかっていうところは全部編集で切ってるんですよ。ただ、そうやって作ってみて、でも絶対にカメラがそこにあるんだから、見る方が普通だと思ったんですよ。そう思うようになったきっかけはまた別の番組で、テレビ東京の『ドキュメンタリー人間劇場』で、岩手の方にあるルンビニー学園っていう施設で知的障害の子どもたちが粘土でお面を作るっていうのを取材したんですよ。やっぱりそこの子たちはカメラがいるということが嬉しくてしょうがないって感じで、カメラマンが撮っていようが何だろうが、平気でこっちに話しかけるし、見るし…。そこで1人の青年が、人の顔にこう粘土を当ててね、顔の形をとってからお面を作っていたんですよ。その子に取材していたら、「顔をとってもいいですか?」ってカメラ脇にいる僕に向かって聞くの。「いいですよ」って言って僕前に出て行ってとってもらったんですよ。その子が夜部屋でこう、ウォークマンで音楽を聴いてるのをカメラマンが撮ってたら、「聴きますか」って、カメラマンに向かってイヤホンを渡したんです。それをカメラマンが手を伸ばしてもらって、「ああ、ビートルズですか」っていう声がカメラに入ってるのね(笑)。それを編集室で見た時に、あ、これは撮ってる人間と撮られてる人間がその時間共有した空間っていうのがすごく伝わるな、と思ったの。それまで僕は、ドキュメンタリーっていうのを、取材する人間とされる人間を平面で斬って、二次元で捉えてたところがあるんですよ。でも、その番組を作ったことで縦軸が出来て…空間でドキュメンタリーを捉えられるようになったんですね。カメラがそこにあるということを描くというのはこういうことなんだな、っていうのがその時分かって、これってもしかすると小川紳介が言ってたことと近いのかもしれないな、っていう風に遅れ馳せながら気がついたんですよ、もう30才近くになって。それで改めて小川さんの作品を見直したり、書いてあるものを読み直してみたら、本当に小川さんの偉大さっていうのが初めて分かったっていう感じなんですね。その番組を作ってから、カメラっていうものが異物としてそこにある時にどういうことが起きるのかっていうことと、カメラがあるということを番組の中にとりこんでいくということを、意識的にするようになりました。

G:エイズ患者の平田豊さんの生活を綴った『彼のいない八月が』では、それが1つのテーマですね。

K:そうですね。意図的に狙ったというよりは、そういうものがまあ撮れてて、面白かったのでそういう所をつないで作ってるっていう感じなんですけども。あの辺からは共有した時間っていうのを、かなり意図的に番組の柱にするようにしてるし、その時間を共有していた時に僕がどう思ったかを、ナレーションで入れる方法を取ってるんですね。『しかし…』のある種の客観的なナレーションから、取材者の視点での、1人称・2人称のしゃべりというのを、ナレーションという形で入れていく、そういう変化の仕方を自分の中ではこの7、8年前からしてきてます。

G:しかしテレビドキュメンタリーの世界では、特にNHKのように、取材する側は客観的でその存在を全く見せないようにしてるような撮り方がある訳ですが、撮り始めてから局や上司からの圧力がありましたか。

K:ありましたけど、主観を排除してますよっていうような見せかけだけで、ある種の客観性だとか公正さっていうのが獲得できるっていうのが幻想、迷信だと思ってますから。それをまだ信じている人がいるからね、やっぱり。NHKも大部分はそうだし、活字の分野、新聞の人たちにも多いですよね。主観を排除することで客観が描けるっていうようなことを平気で言ったりしますよね。まああり得ないと思うんです。だから全部主観で描けばいい、とは思わないんですよ。その主観であることによって生じてくる責任っていうのが、逆にすごく大きくなって、書き手や作り手の世界観が直接的に問われてくるから、それはそれで作り手はもっと大変になると思うんだけど。

G:そういう制約もある中で、例えばもうテレビのためにドキュメンタリーを作るのはやめて、劇場のためにフィルムで撮ってみたいという気持ちはありますか?

K:ありますよ。僕は僕なりにそれほどテレビ的な制約っていうものを受けずに、やってきたことで成長はしているけれど、やっぱりそれが映画として撮っている「ドキュメンタリー」と比べると、僕がやってきたのは「ドキュメンタリー番組」、ある時間枠の制約の中にはめて行くっていうプログラム・ピクチャーだと思うんですよ。だから量産されるプログラム・ピクチャーの中で、自分のいろんな方法論の実験を今してるっていう状況なの。でもそこからもおもしろいものは生まれると信じてますから、やってるんですけどね。

T:『彼のいない八月が』も、平田さんがもう亡くなるってことを認識していながら廻し続けてるわけですよね。『記憶が失われた時』では重度の記憶障害に苦しむ関根萬司さんを取り上げていますが、最後にもしかしたら関根さんは治るかもしれない、と私は期待をもって観ていたんですけど、あのまま終わっていきますよね。そういう「現実ってむごい」と言う部分を、劇映画の分野でお砂糖をかけたいという気持ちはありますか?

K:ないです。砂糖をまぶすための機能としてフィクションというのがあるとすると、きっとフィクションはドキュメンタリーにかなわないと思うんですよ。それがすごく難しいところなんだな、俺はなんでフィクションが撮りたいんだろうっていうのがよく分かんないんだよね。フィクションにはきっとフィクションにしか撮れないものってあるんでしょうね。ドキュメンタリーで撮れないものって一体何なんだろうって、今一番悩んでるとこなんだよね。『記憶が失われた時』に関しても、やっぱり局側からは「救ってくれない?」っていう要求はあるわけですよ。でも、関根さんの抱えている状況や、周りの人間の状況は本当にしんどいから、最初は実はもっと冷たい終わり方にしようと思ってた。何ヵ月ぶりかに彼のところに行って、「ああもうそんなに会ってるんですか、もう2年半になるんですか、初めてだと思いました」って彼が驚いた表情で番組を終わっちゃうようなのを実は考えてた。でも、それは見る人にはショックとして残るだろうけども、家族とか当人が見た時にやはり、僕にはつらいものがあったの。だからやらなかった。あの終わり方が、ぎりぎりの線だった、僕にとっては。

G:テレビのドキュメンタリー番組の中では、わりとめずらしい長期取材ものが多いのはなぜでしょうか? お好きなんですか?

K:いやー、好きなわけじゃないですけどね(笑)。大変なんですよね、長くなると。なんで長くなっちゃうんでしょうね。

G:もちろん小川監督も長期取材をなさったわけですが、そういう影響が?

K:いやいや小川さんがやっている長期取材って僕なんかがやってるものとは全然違うものですよね、三里塚や山形に住み着いて。僕は住み着かないですから。一緒に暮らして撮ることで何かが見えてくるとかメリットがあるとかいうような対象を、多分まだ撮ってないんだよね。やはり、定期的に取材者として訪れるという形が一番適しているものをやっているのかなあ。

G:なぜこう聞くかというと、長期取材は、是枝監督の作品の記憶という問題にある程度つながってるんじゃないかと思うんです。もちろん『記憶が失われた時』も、そういう長期取材によって、この人の記憶はどういう風に成り立ってるか、いないのかを考える、それが1つの側面でしたよね。『彼のいない八月が』も、それはまるで撮る側の平田さんについての記憶として、フラッシュバックのように構成されていますから。長期取材と記憶の問題っていうのはつながっている気がしなくもないんですけど。

K:考えてなかったですけどね。確かに『彼のいない八月が』は彼が亡くなってから作ってるので、彼を思い出しながら僕の記憶を探って作ってるんです。あの番組は最初は彼が、自分が亡くなるまで撮ってほしいという所からスタートしましたけれど、単純に彼が弱っていく過程を撮るっていうことでは、撮っているのがしんどいし、それだったらそんなに意味はない、と思っていたんです。ただやり始めるとやっぱり微妙に、平田さんと取材者側との関係がゆれたり変化したりして、それを見せていくには1年、2年の時間が必要だったのかな、という風には思いました。だから長期取材で、僕らが彼をどう見ているかということも含めて、関係性の変化っていうのが番組の中で多少出せたかなって。だから、『記憶が失われた時』もそういう意識で撮り始めてるんですけど、撮り始めてみたら、関根さんは全く変化していなかったんですよ。要するに、僕と彼の関係っていうのは常に同じ距離。僕と家族は親密になったりっていう変化があるんだけど、彼との関係においては、全く等距離だし、彼の病状もほぼ変わらなくて、じゃあ逆にいつ取材が終わるんだろうっていうことが見えなくなった。まあ、2年おつきあいしてみた時に、自分の中で人の記憶っていうものに関して取材をする前と、2年取材した後ではかなり変化していたっていうことに気がついて。あの番組は、記憶に関する考え方が僕の中で2年経って変わってるっていう番組なのね。そのことに気づいた時に、ああ長期取材っていうのはそのためにあったのか、と。どんなに相手が変化しても、こちら側が変化していかないと、お互いに化学変化を起こしていかないと、意味が半減するなっていう風に思ったわけです。

G:結局そういう過程を経て、記憶に対しては何を学んだんでしょうか?

K:それは実は今回の映画『ワンダフルライフ』の骨格になってるんだけど、この映画も「人と人が記憶を共有する」ことがテーマになっているんです。だから一言で言っちゃうと、ああ自分っていうのは自分の中だけにあるんじゃないんだっていう発見。それを『記憶が失われた時』を通して具体的に発見してるんですけど、実は10年前くらいに書いた『ワンダフルライフ』の脚本の中にも発見してるんだよね。その単純にフィクションとして書いていた自分の発想が、ドキュメンタリーっていうものの取材を通して、自分の中に確かな輪郭を持って、それがはずみになって映画になったようなところなんですけどね。

G:『ワンダフルライフ』を拝見して、ARATAの演じる望月というキャラクターは、ある程度是枝監督のような、取材をしているドキュメンタリー作家っていう風になぞえるんじゃないかと思うんですけども、それは意図的なんですか?

K:なんかねー、撮ってる時はそれほどには思ってなかったんだけど、今見るとかなり重なってるんですよね。あんなにかっこよくないんですけど(笑)。それは、あそこで働いている人たちが映画を撮ることを職業にした時点で、自分の10年ぐらいの映像制作に関わっている者としての悩みや発見が、かなり彼の発言や行為に反映したものになっているんで、ある意味で非常にプライベートフィルムになっているんですよ。最近ちょっとね、公開するのが恥ずかしくなっています(笑)。不思議なもんですよね。

G:プライベートとも言えると思うんですけども、『ワンダフルライフ』はかなり映像と記憶についての作品だと思います。『記憶が失われた時』でも、関根さんにカメラを渡して何か撮ってもらう、もしかしたらそれは記憶の補助になるかどうかっていう…でも映像は記憶の補助にならない、結局失敗に終わってます。でも『ワンダフルライフ』では、最終的に記憶を映像で再現できて、それを人が見て、リアルであると感じる。一方では結構映像はだめ、そして一方では映像という可能性があるという極端な立場があるという風に思ってるんですけども、是枝監督は一体その中のどこにいらっしゃるかと…結局その映像と記憶の問題はどういう風にお考えですか?

K:関根さんはかなり特異なケースなんでね、ふつう人はやっぱり、或る写真や映像をきっかけにいろんなことを思い出したりしますよね。だから映像の記憶に果たす役割って色々あると思うんですけど、この映画の中にいろんなレベルでの映像っていうのが出てきますよね。一般の人がしゃべる語り、それから大うそですけど記録ビデオ、それで再現していく映像がありますよね。少なくともその3つがあって。単純に分けちゃうと、その語りっていうのがドキュメンタリーで、再現っていうのがフィクションだっていう風に言えちゃうんだけども、その語りの中でうそをつく人もいるし。で、フィクションっていうのが、非常にチープな形で使われていきますよね。まあ予算がないっていうのもありますけど、全然リアルじゃないわけですよ。リアルである必要はないと思ってやってるんですけど。そのリアルではないフィクションを語りにぶつけることで、語ってただけでは出てこなかったある感情とか、語れなかった記憶のディテールが出てきますよね。それがやりたかったんですよね、僕としては。で、そのフィクションで濾過された後に出てきた表情とか、記憶についての彼らのコメントとか行為っていうのがドキュメンタリーだと思ってて。それと対局にあるのが、あのVTR映像…実際にあったことではあるけれども、あれはだれの眼差しにもなってないし、撮られている側もそれに気付いていないっていうようなものとして、「僕はこれがドキュメンタリーだとは思っていない」っていうつもりで出している映像なんですよね。だからドキュメンタリーになるために、そういう感情と人の関係性が必要になってくるっていうようなことを、結構大胆にあの映画の中で、自分なりのドキュメンタリー論としてやったつもりなんですけど。

G:私は一応それを読み取れたので(笑)、伝わったとは思いますけども。

K:ええ、ありがとうございます。

T:映像と記憶ということに関して、目の他に、例えば耳とか、味とか、匂いとか結構覚えてるものですよね。『幻の光』では、ずっとラジオを付けてるおじいちゃんがいて、やっぱりあのラジオを聞いたら何年後でも必ずおじいちゃんのことを思い出すと思うんです。おじいちゃんの存在が、視覚ではなくて、耳から入ってくるっていうことが、非常に映画の中でおもしろく使われていましたが。そういったものと比べて、映像つまり視覚に関してどう思われますか。

K:『ワンダフルライフ』でたくさん一般の人を取材させてもらって、1番大切な思い出を1つ選ぶとしたらっていう質問をさせてもらったんだけど、やっぱり、音とか歌が真っ先に出てくるんだよね。匂いも味も出てくるし。それはもう強烈に人に残るのね、映像よりもむしろ。だから、音はきっと映像よりも人の本質に近いところで存在してるんですよね。そういうのくやしいんですけどね、映像に関わる人間としては。だけど、それを分けて考えるのってなんなんだよなー。『ワンダフルライフ』の中で言うと、都電の思い出を選んだおじさんが、都電の中に乗ってみて、テープ聞いた後に、やっぱりいろいろ甦ってくるんだよね。そういう風に、音があるきっかけで映像が浮かんだり、映像があるきっかけで音が浮かんだりというような関わり方をしていると思うから。映像にこだわりがあるから映像やってるんだけど、あんまりそこで厳密な分け方をしてはいないんですよ。

G:ドキュメンタリー番組と劇映画を撮る場合の方法論、そもそも撮り方の違いはどういう風に感じてらっしゃるでしょうか? なぜこれを聞くかというと、私が拝見したドキュメンタリー番組の中で、是枝さんはすごくアップがお好きだ、という感じがするんです。顔とか、目だけとか、特に平田さんの場合は、最後の方で口だけのどアップがかなり出てくるんですけれど。『幻の光』の中でそういうアップはほとんどないですね。スタイル的な違いはどういう風に考えていらっしゃるんでしょうか?

K:うーん。平田さんの番組は確かにアップが多いんですよね、僕はあの人の顔が好きだったのかもしれないですね、単純に。『幻の光』をやった時には、やっぱり色々なものを意図的に排除してるので。特に単純なストーリーなだけに、夫を自殺で失った女が乳飲み子をかかえて再婚して能登に行って、港町でって聞くとさー、演歌が聞こえてきそうでしょう。松竹映画っぽいでしょう。だから、別に僕、小説自体は好きなんだけど、これを映像にした時にどうやったら自分が見たいと思うかって考えた時に、感情表現にある限定をして、泣き顔のアップだとかで役者が感情を伝えていくものとは違った感情表現ってのをやってみようと思ったんですよね。だから、主人公の女性が体験した光や影や音とかを画面の中で響かせることで、見てる人にどれくらい感情が伝えられるかっていうことを試みているんです。ただ、それをルールとして自分で決めちゃったんで、現場で江角マキコさん見ながら、ああこの表情は撮りたいって思ったことは何度もあったんだけど、ルールに従っちゃたのね。本当はそれを壊せば良かったんだなっていう風に今はちょっと反省していて。だから、今回の映画ではあんまり絵コンテを決めずに現場で作っていこう、おもしろいと思ったものにカメラを向けていこうと。撮り方としてはドキュメンタリーとかフィクションとか分けずに、1つの方法論として解釈しよう、ということを、カメラマンとは話し合いましたし、目の前にいる人はそれが役者だろうが、一般の人だろうが、同じアプローチの仕方をしていくってことだけをルールとして決めました。

G:最後の方になりましたけれども、若い作家のなかで是枝さんはかなり代表的な存在になられましたが、その中で面白いのは、先日のぴあフィルムフェスティバル(PFF)シアターでは、こういう映像の作り方があるとか、劇映画だけではなくてドキュメンタリーも考えて下さいっていうことを、若い世代に対して伝えておられましたね。ドキュメンタリーの宣伝者とか教育者とかいう風なところがございますけれども。

K:教育者という認識は全くないですし、責任でやってるわけではないんですけど、PFFシアターの時も作り手や作り手を目指してる人がたくさん来てましたよね。今、日々ね、作っている人たちから「悩んでます」っていうお手紙いただいたりするんですよ。今回映画のキャンペーンで地方をまわったりしたけれど、取材に来るテレビのクルーの人達が、取材終わると結構そういう質問になっちゃったりするんですよ。

T:悩みの内容とか、ご自分の経験とダブるんですか?

K:ダブりますし、一向に改善されていない状況があるでしょ、テレビドキュメンタリーの状況って。いろんな形で問題が噴出してるのに、何の解決にもなっていなくって、それはオウムの事件の時もそうだったし、やらせの問題もそうだろうし、テレビにおける中立・公平っていうのはどのようなものなのかっていうことも。いろんな事が何も解決されないまま来ていて、同じことが30年たっても繰り返されてね。もちろん解決できない問題なのかもしれないけど、結局何の指針にもならないんだよね。事件が起きるとごめんなさいってどっかで謝って、どこかではドキュメンタリーなんていうのは撮った順につなげばいいんだ、みたいな発言がでてくるわけじゃないですか。事実を積み重ねて真実を描くのがドキュメンタリーだろうって言う人間の、じゃあ事実っていう言葉に対する定義付けをあなたはどう考えているのかっていうことは全然問い返されないわけですよね。カメラという限定された道具が真実を撮れるのかっていうような所も含めて、作り手の側にもいろんな考え違いがあったりすると思います。やっぱりドキュメンタリーってある種の精神主義とかね、テーマ主義とか、素材主義で語られ過ぎたんだと思うんですよ、特にテレビの場合。だから、社会的弱者を扱えばOKみたいなところあるじゃないですか、僕らより上の世代ってそういう認識が強いんですよ、ドキュメンタリーってものに対して。社会正義といったような自分以外のものを背負ってしまう。そうすると、あんまりそういうものを背負って作りたくないなっていうのが、僕らより下にはきっとあると思うのね、世代的には。それから、他人を撮るってことに関してどういう責任が伴うのかっていうようなことって、日本のテレビ人って全く教育されてきてないでしょう。特にプロダクションにいる人間は、現場で覚えるしかないんですよ。現場で覚えるって、よっぽど意識的じゃないと…要するに上の人間がいいって言ったからいいっていう、経験則でしかなくなってしまう。全然自分なりの方法論的な問い返しとか行っていないんだよね。でも、何を撮るか、あるいはどう撮っていくか、これはどう撮られたものなのかっていう方法論に目が向いてきているっていうのは、確実に若い層には、ああいう場に出て行って話していても、強くあると思う。そういう質問が増えてきているし、ジャンル分けっていうのが無効化しているっていうのも、すごく感じることではありますね。ドキュメンタリーとバラエティーっていうのがまず境界があいまいになってきているでしょう。例えば『電波少年』なんか、見る側は「これがバラエティー」「これがドキュメンタリー」って見てない人もいるしね。でもあの『電波少年』でやっている演出って、ドキュメンタリーの中でもやってる人はいるわけですよね、当然。僕はバラエティーで面白い方法論はドキュメンタリーでも面白いっていう風に、思えないといやなのね。それから逆に、僕はいろんな人に聞きたいんだけど、『電波少年』みたいなのって、どう考えたって演出されたフィクションじゃないですか。それを見てる方が、これは要するに作り事だよっていうことを分かったうえで面白がっている非常に覚めたファンなのか、そこが見えずに熱狂しているファンなのか、僕には分からないんだよ。それで、じゃあそのスワン[『電波少年的スワンの旅』]のボートをロープで引っぱっているというウソがばれたときに、なあんだって思うのか、そんなこと分かってて楽しんでるんだよ、って言ってるのか、そこがすごく知りたいのね。あの番組が僕にとってもし価値を持つとすれば、すっとカメラを引いて、そのロープで引っぱっているボートを見せちゃってほしいわけね(笑)。だってさ、一生懸命やってる姿を撮るっていうのは、ある種の古典的なドキュメンタリー的な感動と同じものじゃないですか。その古典的感動へ回帰するのではなく、スワンを引っぱっているスタッフも見せちゃって解体してくれたら、とても新しいと思うんですけどね。

G:ドキュメンタリー的感動っていうよりは、劇映画的感動…

K:うん、劇映画的感動なんですね。そういうすっごく古典的な方法で感動を誘っているっていう意味で新しくないんだよね。見てる方は、映像で伝えられる情報に関しては、テレビだけに限らず、もっとこう冷めた目で観てほしい。感動したいって観られても困るのね、特にドキュメンタリーと呼ばれるものに関しては。だから、そういう覚醒する方向へ映像表現が流れていかないかなって思ってるわけです。そして、やっぱり作り手の側も見る側も、映像表現の方法論とか、方法論に伴ういろんな責任を、もっと話し合うべきだし、開いていかないと成熟していかない。このままいくと、テレビの映像表現って成熟する前に退廃してしていくだけで終わるから。第1歩目として、やっぱり作り手が自分の方法論や考え方を出て行ってしゃべるというところから始めて、少しでも方法論的な疑問とかを見る人が感じたり、これから作り手になる人が現場に持って行くっていうことが大事だと思ってるんですよ。

G&T:本当に長い間どうもありがとうございました。




是枝裕和(これえだ・ひろかず)


1962年、東京生まれ。87年早稲田大学卒業後、テレビマンユニオン参加。テレビドキュメンタリーで数々の賞を受賞する一方、95年には初の劇映画『幻の光』を発表、その映像美が国内外で話題となる。若手ディレクターの代表的存在となり、講演会等でも活躍中。主な作品は次の通り。

『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』(1991)
 借りてきた乳牛「ローラ」を飼育することで学習する、子どもたちの記録。えさ代の計算、小屋の掃除、牛の出産と子牛の死、ローラとのお別れ… 牛をめぐっての教室の変化を追いながら、カメラは子どもたちのいきいきとした表情を捉える。

『しかし…〜福祉切り捨ての時代に〜』(1991)
 水俣病を担当した一官僚の自殺をめぐり、福祉とは何か考える。弱者切り捨ての時代のなかで、生活保護に対する行政の態度、受給者の苦悩や怒りを赤裸々に綴る。

『彼のいない八月が』(1994)
 エイズ患者であることを公表した男性が、講演会などを通して生計を立てつつ、さまざまな兆候と闘う。ビデオ・ダイアリー的映像が、彼だけでなく周囲の友人たち、そして取材者との関係を刻んでいく。

『幻の光』(1995)
 夫が謎の死を遂げ、生後間もない赤ん坊と共に残された妻。再婚するも、前夫の思い出、彼の死への疑問、隠しきれない孤独感が、彼女を襲う。江角マキコの新鮮な演技も話題となった。第52回ヴェネツィア国際映画祭「金のオゼッラ賞」受賞。

『記憶が失われた時』(1996)
 前向性健忘と診断された男性は、人生のある時点から先の記憶を重ねることが全くできない。暖かく見守る家族や友人に囲まれながら、疑問の残る病院の処置や、理解のない行政の対応と格闘する。

『ワンダフルライフ』(1998)
 死んだ人間が次々と足を運ぶこの施設では、天国へいくまでの7日間に、大切な思い出をひとつ選び、それを職員が映画で再現する。最終日には上映会が開かれ、死者たちは旅立つ。第20回ナント三大陸映画祭グランプリ受賞。


編集後記:是枝裕和さんに関する情報は、URL:http://www.kore-eda.com/でもご覧いただけます。