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アジア・トーク

●質疑応答――馮艶(フォン・イェン)|シャブナム・ヴィルマニ
余力為(ユウ・リクウェイ)|李紅(リー・ホン)
汪建偉
(ワン・ジェンウェイ)|馮炳輝(フォン・ビンファイ)
 ●司会――藤岡朝子


 2年というのは早いものだ。2年前の1997年10月、YIDFFの「アジア千波万波」プログラムでは、アジア各地から41本のビデオ・フィルム作品の上映が行われ、合計31人の製作者たちが山形に来場した。監督にはそれぞれ映画の上映後、時間をとって観客との質疑に応じてもらった。そのうち、ほんの数人の質疑応答を抜粋で採録する。

 ここでご紹介する作家たちは31歳から41歳の年齢。私たちの知る限りでもその後2人が出産し、1人が結婚した。人生の転機が多い年齢の映像作家たちが、作品づくりに関して迷いながらも覚悟を決めてやっていこうとする年だ。

 同時に、97年から99年という20世紀末のこの2年間で、世界情勢も目まくるしく変化している。パキスタンとインドのカシミール紛争再燃と核問題、中国返還後の香港の行方、市場経済に移行中の中国、東ティモール問題を抱えるインドネシアの総選挙、韓国と北朝鮮の一触即発事態、中東和平の進展。そんな中、揺れている、動いている、アジアのドキュメンタリー界の一端をご紹介したい。

 繰り返すが、1週間のトークのほんの一部である。31人のうちの6人、しかも話された内容のほんの抜粋である。もっと知りたい、という方は10月のYIDFF '99「アジア千波万波」でお会いしましょう。

 なお、例年お世話になっている通訳者、翻訳者をはじめ、多くの協力者のお力添えに感謝を申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

藤岡朝子(「アジア千波万波」コーディネーター)1999年6月


●―――馮艶(フォン・イェン)

 93年から毎回欠かさず、関西から当映画祭に駆けつけ参加してくれていた馮艶さんは、京都大学の大学院で農業経済学を専攻し、日本語も堪能なバイリンガル。ヤマガタでは毎晩、熱心に、ドキュメンタリーについて語っていた。小川紳介監督の講演集をまとめた本『映画を穫る』を彼女が中国語に翻訳し、台湾で出版した、と聞いたのは96年だった。それは小川監督の仕事に対する深い尊敬がなせる大事業だったのだろうと想像される。

 既に94年から、フリーのビデオジャーナリストが所属するアジアプレスを拠点に、小型ビデオカメラをもって中国の農村部にでかける記録活動を始めていた。以降、中国の農村に残る貧困や教育の問題などをテーマに作品づくりをしている。初の長編作『長江の夢』では、三峡ダム建設計画のため、移住を余儀なくされる村の人々が丹念に取材されている。大きな歴史の流れに従い、住み慣れた土地を離れる個々人の対応をつぶさに見つめている。馮艶さんは現在天津で、98年に生まれたばかりのお子さんを育てながら、次回作の構想を練っている。


馮艶:中国の農民の存在は今まで政治家によってイデオロギーの形成のために利用されてきました。農民たちが実際どう考えているのか、どういうものを食べて生活しているのか、実際どのように生きているのかということは全く関心を持たれていなかったのです。中国の農民は常に誰かの犠牲になって当然というふうに扱われてきたのです。

 ですからこの作品を撮るにあたり、例えば政治だ、環境だ、人権だ、などそういう視点から撮ることはするまいと思ったんです。ただひたすら、私個人が彼らの生活に注目する、注意を向けるということを目的のすべてにして撮ったのです。祖先から受け継いだ土地を離れるという大きなこと、離れる上で彼らがどういうことを選択するか、あるいは選択の基準は何なのかを彼らの生活に則して捉えることができたら、と思ったのです。

 ところが実際撮るときには、無意識のうちに抱えていた色眼鏡を通して見てしまったことは否めません。例えば、農民が土地を離れるにあたって、激しく泣くだとか大騒ぎをする、ということをどこかで期待していて、実際にそれが起こらなかったことに失望を隠せなかった、と正直に告白します。

 一方で、彼らと一緒に生活しているうちに、次第次第に彼らの愛すべきところに魅了されるようになっていきました。彼らは様々な選択を彼らの基準でしています。その基準は往々にして経済的なことなのですが、どんな時代にも、その場に生活する人々は、自らが生きる時間、歴史的背景、大きな環境が与えるフレームワークから逃れることができないことは確かです。

 既成のものさしで中国の農民を見ることはできません。私たちにできることはひたすらそこに目を向けること。しかも忍耐をもって注意深くそこを見ること、これしかない。中国の農民に対して同情や憐憫の情を抱くことは簡単ですが、そうではなく、そういうことを超えたところに目を向けるべきではないでしょうか。

 農民ひとりひとりも他の存在にそのように目を向けるべきだとも信じています。作品自体は私が中国の農民に対してどのようにまなざしを向けていったかの記録になっています。私が農民を知っていく過程がここに記録されているということです。

観客A:これはある種、政府批判の映画だと思いますが…?

馮艶:外国の人がこれを見て、政府批判という風に感じちゃうことを、私はとても恐れています。というのは、日本や外国は中国の社会環境と全然ちがって自由の中にいますから、何と言いますか、あまりにも敏感なんですね。人権だとか、批判だとか。でも私は、批判するつもりはない。「つもり」がなくても、結果的にそうなってしまったかもしれませんが、実質はそういうわけで、私自身も含めて中国人はそれほど敏感に感じていないのです。ある種、当たり前みたいになっちゃって、麻痺している部分もあるかと思うんです。しかし外国で上映するときにはよく言われることです。

 人間誰しもが政治的な環境に置かれています。日本にも政治的な問題があると思います。それは中国でも同じなのです。なのに、中国の問題は見るなりすべて、政治的だと言われてしまうことは、私にとってちょっと腑に落ちない部分です。この作品の中には、おそらく敏感な問題は描かれているのでしょう。例えば「一人っ子政策」の問題だとか。そういった敏感な問題はもちろんあります。しかし私たちはそういう中で生活しているわけですから。普段暮らしている環境として、私たちはそこに生きている。必ずしも毎日を政治に取り囲まれて何もかも政治的な問題だ、というふうに考えていないのです。ところが外国に紹介される際にはよく、外国人は中国の問題は何もかも政治的だというふうにごらんになる傾向があるかもしれません。必ずしも中国人、国内にいる者としてはそのようには感じてはいないのです。

観客B:場面の切り取り方や人の選び方にご自身のメッセージを込めたわけですよね?

馮艶:これはドキュメンタリストとして自分が未熟だと自覚しているところなんですが、今まで私は自分が今まで興味をもった人間、自分が好きな気持ちになった人しか追ってこなかったのです。もちろんそこには縁、ということもあって、興味をもっていろいろ努力した末、心を開いてくれた人を撮っていただけで、意識して誰かを選んだわけではありません。好きになった人たちを映画に入れただけでした。

 実は100時間以上のテープを撮影していますので、それを編集するときに、例えば政治的に編集しようと思えばいくらでも編集できたんですね。村人と長く一緒に生活しているといろんなことを何でも話してくれます、カメラの前でいくらでも政府批判をします。だけどそれは彼らの生活の全部ではないんです。だからそういう風に編集したらいけないなあ、と思って。生き方に共感できる人しか残しませんでした。結局、これは私自身の発見の旅の記録です。


●―――シャブナム・ヴィルマニ

 大柄な体をゆったり構え、単刀直入に議論を展開するインドの女性運動家、シャブナム・ヴィルマニさん。インド西北部、グジャラート州のアーメダバード市で人権や女性のための社会運動を実践している。寡黙でやさしそうな夫君が、妊娠5ヶ月の身重な彼女と、山形までの長旅を付き添ってきていた。

 彼女は映像製作会社を仲間と共同で経営し、作った作品のビデオテープ販売で生計をたてている。『さあ生きよう!』は3人の女性運動家の個人史を通 して、マダヤプラデシュ州にはびこる女性差別の具体的な事例をあげ、立ち上がる女性たちのエネルギーとプライドを表現している。


シャブナム・ヴィルマニ:今回日本の観客と一緒に見ていて、この作品がいかに地域に特定した題材なのか、気づかされました。インド国外の観客を想定せずに作っているのです。『さあ生きよう!』は村や社会運動グループ内で、性差別について教育をするため、また人々の意識を変革させる道具として作られました。ビデオテープは、インド中の女性団体や社会運動団体1000ヶ所に販売されました。そのため、内容的には外国の方にわかりにくいところもあるかと思います。一方で、このような、具体的で地域に密着した視点から映画を作れたということは、監督の私に大きな勇気を与えてくれました。

観客A:私はイラン出身の女性ですが、イランでは女性の権利意識が強いのです。ですが、私も含め、実際に殴られたことがなくても、言葉で殴られた経験の人がたくさんいます。日本やアジアの女性たちなら、この映画がわかるし、こういう訴えをすることのできる女としての誇りを感じると思います。

観客B:監督は、特定の政治政党に属していますか?

ヴィルマニ:いいえ。そんな感じしましたか?

観客B:印象だけですが。私は元共産主義国、モンゴルの出身です。この映画を見て、共産主義や社会主義のプロパガンダを思い出しました。まちがっていたらすみません。私の国ではそういったプロパガンダはたくさんありましたし、教育の一部でした。もちろん、あなたの映画の場合は、現実問題なのでしょうが、階級問題の扱い方がどうも政治プロパガンダのように感じられたのです。

ヴィルマニ:「プロパガンダ」という単語を否定的、あるいは蔑視的に使ってます? この映画で訴えているのは、女性の権利平等のみです。インドには今のところ、女性の政党はありませんが、あればいいと思います。「プロパガンダ」という単語を使った真意をもう少し話してください。反対意見を封じ込めるものだ、と言いたいのですか?

観客B:似ているのは、この作品が若い女性の教育を目的にしているところかもしれませんが、長年暮らしたソ連では、プロパガンダが非常に啓蒙主義的でした。あなたの作品について否定的な発言をしたかったのではありません。ただ、懐かしいな、と思っただけです。

観客C:監督の努力を評価しますが、幾つか疑問もあります。基本的な構成は3人の活動家のインタビューです。監督の主張は比較的弱い。監督による語りではなく、インタビューを受けた活動家が自分史を語っていくわけですが、そのインタビューの合間にはかなり意図的に、映像とともに印象的な音楽がかけられている。強い感情を揺り動かす音楽とイメージです。観客がインタビューのおしゃべりに退屈してしまう前に、強烈な旋律で紛らす。これはプロパガンダの手法です。この映画では自分の信念の喧伝をしたいのですか、それとも観客に状況の批評的分析をしてほしいのですか。

ヴィルマニ:私は社会改革のために映画を作っています。映画を見終わった人には、男女ともに、新しい自己像と世界観を得て会場を後にしてほしいと願っています。社会改革は分析力や批評力ばかりではありません。事実を伝えると同時に、人々の感情にも働きかけなくては、目的は達成できません。ですから言い訳せず堂々と言いますが、あの歌は確かに感情を煽るために使いました。作品で繰り返し出てくるあの歌は、社会運動に関係の深い、有名な歌です。歌詞の一節一節が、取材させてもらった女性の人生と関連してきます。ですからそのまま使おう、と判断したのです。

 ちなみに製作について少しコメントさせてください。私の作る映画のほとんどは大勢の人による共同製作で、ひとりの個人によるヴィジョンとはちがいます。登場した女性たちは脚本、出演、そして今回の場合は編集の段階でも私と共同作業します。ですから製作過程で彼女たちは、作品に対する所有意識も持ち始めます。後にそれぞれの地域で教材として使われます。つまり、私たちが追求しているのは完成された生産品としての映画ではなく、全くちがうものです。映画製作の過程自体に価値を見いだすことなのです。

 一緒にやった女性たちは映画が海外で上映されることを非常に喜んでいます。「自分の人生で世界の人に伝えたいことは何?」という基本コンセプトからこの作品は始まっていますし、そういう理想を持って彼女たちが映画作りに参加してくれたおかげで、ここまで関わりが深まったのは確かです。はじめは消極的な態度で「外の人が映画を作りに来たわ」と思っていたのが、もっと関与するようになりました。熱も入り、映画製作の決定的な担い手として取り組むようになったのです。これは自分たちの映画なのだ、自分たちの経験を世界に発信していくのだと。ですからこの作品が世界を旅して日本をはじめ多くの女性たちに見てもらえることを、彼女たちは非常に喜んでいます。


●―――余力為(ユウ・リクウェイ)

 今年のカンヌ国際映画祭・コンペティションに、北野武や陳凱歌の大作と並び、32歳の監督による初の長編劇映画が上映された。余力為の『天上人間』だった。いきなり世界の檜舞台に立った彼の前作は46分のドキュメンタリーで、『ネオンの女神たち』という、ベルギーと香港の若手プロデューサーによる共同製作だ。

 ベルギーの芸術学校で映画撮影を学んだ彼は現在、撮影監督としても引く手あまたの人気者だ。世界の映画祭で受賞した中国の若手ホープ、ジャ・ジャンクー監督の『小武』や、香港映画界の重鎮、許鞍華監督の『Ordinary Heroes』の撮影を担当した。97年のヤマガタでインターナショナル・コンペティション審査員をつとめた寧瀛監督の新作が今年の夏に控えているという。

 中国の深釧から香港に出稼ぎにきた若い女性と風俗ビデオの商売をする香港の男性の物語『天上人間』から振り返り、大都会北京でホステスやモデルの仕事をする3人の女性の肖像『ネオンの女神たち』に彼の初心を見る。


司会:香港をベースにしているあなたが北京で撮影するに至った理由は? 当初のコンセプトを教えてください。

余力為:この映画の準備のために北京入りしたときは、1つのことしか考えていませんでした。つまり、現代中国における映画的なポートレート、肖像画を作りたいという思いです。どういう被写体に出会うのか、定まった考えはありませんでしたが、1ヶ月という非常に限られた調査期間に、ほとんどの被写体と出会うことができました。この女性たち、彼女たちの仕事と彼女たちの生き方に出会ったのです。この出会いをきっかけに一連のポートレートを作ることになりました。

 北京が好きな理由は2つあります。仕事の面で、香港より北京のほうが撮影も演出もチャンスがあるのです。北京は非常にダイナミックに動いている街で、映画製作の状況も活発です。また、クリエイティブな仲間がたくさんいます。映画についての考え方が私と近い友人が大勢、インディペンデントの現場にいて、とても親しく仕事ができます。

観客A:女性というテーマを扱うなかで、監督ご自身が知り得たことは何かありましたか? また今後もこの題材で作品づくりを続けますか? 

余力為:この映画からは多くを学びました。女性を対象に映画を作るのは私にとって初めての試みでしたし、それは非常にこわいことでした。のぞき見趣味になったりステレオタイプに凝り固まったり、固定観念をベースに映画を作ってしまいがちです。

 「現代中国に生きる女性像」の深い探求をしようなどとは、はじめから思いもしませんでした。この作品は、映画的ポートレート(肖像画)とはこういうものだ、と考える私の考え方に沿って作られています。つまり、すべてのポートレートは、被写体が男性であろうと女性であろうと表層的なものなのだ、と私は考えます。肖像画には対象を洞察しつくせないという特徴が、本質的にあるのです。写真においても絵画においても、肖像画というのはすべて、そういう洞察しつくせなさ、といったものを持っていると思います。

 被写体との親しさ、という点から言うと、私の他の映画と比べると、今回は非常に疎遠な関係性だったことは確かです。もっと深い結びつきを持った映画作りも、以前にはしていましたので。今回は被写体が女性であったこと自体が関係性を結ぶ妨げになったのかもしれません。彼女たちとは確かに友だちにはなりましたが、それは大きな意味を持ちませんでした。

 いずれにしても、ポートレートを作ろうとするとき、必ず目前に仮面があるのです。洞察をこばむ仮面です。『ネオンの女神たち』は被写体が女性ですので、(男性である)私との距離はさらに遠く、その距離の意味も大きかったと言えましょう。確かにドキュメンタリーでは、対象との関係性はとても重要なことです。私は親密な関係性というものを信じていますが、それでも今回は関係性に助けられ得ませんでした。どうしても洞察しつくせない何かが、常にあるわけです。

 そういうわけで、女性を対象に映画を作ること、この映画を作ることは非常に心をかき乱される体験でした。今後、どういう方向に向かうか…。ポートレートを作るには、このようなかなり伝統的なドキュメンタリーのスタイルではなく、もっと新しい技術を発明しなくてはならないと思います。ドキュメンタリー製作の別のテクニックが必要なのです。

司会:しかし確かに監督と被写体の女性たちとの関係性は写っていますね。女性たちは撮られることに興奮し、キャメラの後ろにいる人に惹かれているようです、たぶん性的な動因ですね。

余力為:ある面では同意できます。いちばん突出した例で言えば、2話目のモデルですね。ラッシュを見たとき、「おい、うそだろ」と非常にイヤな気持ちになりました。彼女は歩くときも、笑うときも、まるでモデルのようでした。毎回、毎分、毎秒です! それは性的な魅力といったことではなく、被写体の性格の問題だと思うのです。キャメラの前では誰だって仮面をかぶりますから。

 私が興味深く考えるのは、この仮面をそのままに戯れるのか、それとも仮面をつらぬこうとする、仮面をはずそうとするのか、という映画作家のことです。必ずしも戯れたり脱がせたりしないでも作品を作ることができるように、新しいテクニックが開発されなくてはならないと私は思います。この映画では、ふたつの間に挟まれてしまった感があります。

 ご質問に対してお答えするならば…この作品が客観的なリアリティーを提示していようとは、仮にも思っていません。まちがいなく男性の視点から見た主観的現実である――その点は否定しません。


●―――李紅(リー・ホン)

 97年の授賞式で李紅さんの名前が呼ばれたとき、お連れ合いで共同製作者でもある李暁山(リー・シャオシャン)さんが真っ先に飛び上がってガッツポーズを取っていたのが後方の席から見えた。壇上での可憐な李紅さんの笑顔、客席で踊る李暁山さんの五分刈り頭。小川紳介賞を受けたビデオ作品『鳳凰橋を離れて』の、田舎から出稼ぎに上京する少女シャーズとそう年齢のちがわないようにさえ見える李紅さんは、上映後の質疑応答も李暁山氏と共同で行なっていた。二人の仲むつまじさに、企画の立ち上がりから完成まで、3年がかりの長期取材を成功させたねばり強さを見た気がした。

 李紅さんはその後、英国のテレビ局BBCの編集担当者と共同で『鳳凰橋を離れて』の短縮版をテレビ放送用に制作している。4週間の共同作業ですっかり英語は上達。次の企画は、現代の中国人をテーマにしたドキュメンタリーを、やはり英国テレビ用に準備している。


観客A:この撮影を続ける個人的な原動力は何だったんですか? 少女たちとどうやってあのように親密な関係を結ぶことができたのですか。あんな狭いところでカメラを回すのは困難だったのでは?

李紅:撮影するまでに、少女たちと1年くらい関わってきていましたので、時間をかけてだんだん関係が親しくなっていきました。最初に会ったころは彼女たちも緊張して、画面からも堅い雰囲気が伝わっていましたが、長時間すごしていくうち、打ち解けた感じになっていきました。最後の方では撮影中でも普段通り、カメラを意識せず自然に生活していました。

司会:シャーズは都会で暮らす道を選びますが、それには都会から来て自立した生き方をする李紅監督との出会いが影響を及ぼしましたか? 

李紅:そういうことはありません。シャーズは元々ほかの3人の女性とちがっていました。というのは、髪を切る技術を既に持っていたからです。農村の女性にとって、いかに農業をなりわいとせず、暮らしていくかが最大のテーマです。シャーズは持っている技術を生かして何とか農村の暮らしを逃れようという目的がありました。そのおかげで今、彼女は北京で美容の勉強をするようになったのであって、私の影響とは言えないと思います。

司会:もう少しお聞きしますが、後半の映像に映るシャーズの表情は自信にあふれ、自己表現をするようになっているように感じます。カメラを向けられると人は変わりますから、長時間見つめられた場合、自己意識が発達する、ということは考えられませんか? 

李暁山:直接的な答えになるかはわかりませんが、私たち自身もやはり映画を通して変わったのです。最初は4人の少女の見分けがつかないほどでした。それが次第にシャーズを中心に個性を見抜けるようになったのです。それは私たちが彼女たちを知っていく過程そのものでした。

 そもそも、大勢いる移民のなかで彼女たちを撮影することになったのも、とりたてて親しかったからではなく、彼女たちだけが撮影を承諾してくれたから、という消極的な理由なんです。ですからはじめは何もわかりませんでした。一緒の時間を過ごしていくうちに、次第に共通の話題が見つけられるようになったのです。だからシャーズが李紅の影響を受けたとは言えないと思います。シャーズ自身は最後まで、こう言ってました。「結局、町の人と私たち農村出身者はちがう、考え方がちがう。私たちには私たち自身の考え方があるのだ」と。

観客B:シャーズの家族や両親は撮影に対してどういう反応でしたか? 

李暁山:中国ではプライベートな生活はほとんどありません。プライベートの部分に他人が介入することがよくあるのです。自分の生活がすべて、常に人の目にさらされている状態が普通なのです。特に農村部ではそうです。

 ですからこうした撮影のような外からの介入に対しても、とりたてて反応がありませんでした。それが彼らがカメラを意識しないで自然だった第1の理由です。第2の理由としては、農村ではテレビや映画は物理的・心理的隔たりのあるメディアなのです。彼らは撮影に対して何だかわかっていなかったのです。一番の心配は、と言えば、李紅が人買いではないか、ということ。それさえクリアできれば後の撮影は問題なかったのです。

観客B:北京の人は出稼ぎ労働者に冷たく、ときには暴力的なこともあると思います。この映画に北京の人はあまり登場せず、大家と警察ぐらいですが、北京の人が出稼ぎ労働者にどういう態度を取っていたのか教えてください。撮影するうち、監督は出稼ぎ労働者への考え方が変わりましたか? 

李紅:一般的に、北京の人にとって、出稼ぎ労働者の生活はわからない世界です。私も撮影がなければ、彼らのことは全くわからず、関心も払わないままだったと思います。これが一般の北京人の態度です。同時に、出稼ぎの彼女たちも北京の人に対して何の知識もなく、知り合いも大家さんと雇用主くらいしかいないのです。だから彼女たちにとって、私は非常にめずらしい存在だったのです。一般の北京人のようには接しなかったのですから。

 私自身、この作品を製作する中で、彼女たちについて知ることになりました。一般の北京人と比べて、より客観的な認識を持つようになったのではないでしょうか。というのは、例えば都会の人は農村の人が非常に善良だ、とかほのぼのしてる、といった印象を抱いたりします。一方で、出稼ぎに来ている人を悪い、汚い、などと思うのです。両極端な評価になってしまう。そうではなく、彼女たちはそれぞれに個別の事情を抱え、それぞれのメンタリティを持っているのだ、と私は気づかされました。それが中国の農村に住む人の複雑さだと思います。

李暁山:現在、中国はまさにひとつの過渡期にあります。どんどん変わっていく、変化の時代です。そのひとつの要素が、今までになかったような、都市と農村の密接な交流に見られます。つまり人口移動、といったことです。そういうことが起こることによって、都市の人と農村の人がお互いの存在に対してプレッシャーを感じ合っているのが現状です。そういう中、お互いのイメージが極端なものになっていく傾向は否めません。そしてイメージには善いものだけでなく、悪いものも絡んでくるのです。そこが難しいところだと思います。


●―――汪建偉(ワン・ジェンウェイ)

 中国現代美術の若手作家として世界各地で注目を集めている1958年生まれの汪建偉。今までのアジア・プログラムで紹介されてきた中国のドキュメンタリストの多くが、親密な友人たちの人生や活動をストレートに写 すことで中国の現代を表わしてきたのに対し、ものの形や場の形成といったコンセプチュアルな発想からビデオ作品づくりを始めている。第一作目『生産』は、四川省の茶館という人々の集う場を舞台にしている。彼が長年、絵画やインスタレーションで扱ってきた題材である。汪建偉さんはその後もビデオドキュメンタリーづくりに熱心だ。今年の6月には次作『よそに住んで』が完成した。


汪建偉:私は普段コンテンポラリーアートの分野で活動しているので、ドキュメンタリーをずっとやってる方と背景を異にしています。私はこの作品を「調査の記録」だと考えています。

 これを作ることになったきっかけは、何年か前の父との会話で感じたことです。新聞を読みながら、父は「ソ連も崩壊したかあ。ソ連の人はそうとう苦しんでいるみたいだね」と言いました。「どうしてわかるの?」と問い返すと、父は怪訝そうな顔で「新聞に書いてあるから」と言うのです。新聞に書いてある、だからソ連の人は苦しい。父にとってはとても自然なことだったのです。そこで私は、中国の日常生活の中で、物事が自然なこととみなされ、生活の場面において合法化・正当化されていく過程に興味を持ったのです。

 中国の伝統的なくつろぎの場である「茶館」を作品の舞台に選んだのもそういうことです。茶館はいわゆる西側から見るとオリエンタルなものを象徴するような記号的な場です。一方、中国人からも民俗的な場所、風俗を感じさせる場として、やはり記号化されています。ところが、私がずっと中国で暮らしていて気づいたのは、茶館では日常生活が営まれている中で、意味が生産され、消費されていく。単なる記号にとどまらない、生産の場なのです。

司会:今までアジア・プログラムで上映されてきた中国作品とはちがって、写されている人より形式にこだわりを持っておられるようですね。

汪建偉:茶館では確かに日常生活が営まれていますが、私はそこで具体的に生きる「人」より、そういう空間の中で行われる「匿名性の行為」のもつ位置づけ、意味づけを描きたかったのです。匿名行為の作り出す意味は連続的であり、かつ非連続的。そのことは『生産』の中でごらんいただけたかと思います。

 この作品は、いわばアマチュア的に撮っています。規則の制約を受けない、ルール化される以前の状態で作品を作ることを示しています。タイトルは『生産』です。「生産」というと芸術家は普通、何を作ったのか、作られた結果を問題にし、そこに芸術的価値を求めますが、私は生産の「過程」に関心があるのです。問題に対してどのように向かうのか、そういうことを示したい。答えや結果を示したいのではないのです。

観客A:ひとつの茶館につき、どのぐらいビデオを回したのですか?

汪建偉:それぞれの茶館で撮影した時間は1日。この映画では5ヶ所登場しますが、実際は10軒の茶館で撮影をしました。朝開いてから、閉じるまでの1日です。撮影までには、何回も通って調査をし、雰囲気をつかむ準備をしましたが、撮影だけで1ヶ月半かかりました。ただ、茶館を撮るに至るまでは、15年ほど、茶館について考えていた、という経緯があります。

 17歳のとき、いわゆる下放で、私は農村に行きました。村には政治権力の網がはりめぐらされていて、地元の人はなかなか受け入れてくれませんでした。唯一私が入っていけた場所が茶館で、そこでは権力関係の網が解かれている状態だと気づきました。そのころから、茶館が人間の関係性を表現するのに最適の場所ではないかと思うようになりました。

観客B:作り方について。映像をストックしてから構成したのか、構成を決めてから撮影したのですか?

汪建偉:この作品は「調査の過程」です。撮影前から進めた調査をもとに、1度コンテやスクリプト(文字化した原案)を作りはしましたが、実際に撮影する段階になって放棄しました。というのも、一般的に、知識人と言われる人は対象に対して「これはこういうものだ」という、既にあるフレームワークをもって対象を見るきらいがあります。既成概念で対象を縛ってしまう。ですから私は、自分自身のフレームワークを廃棄しなくては、と思ったのです。実際、撮影された映像は、ごらんになっておわかりと思いますが、あっちこっちを向き、いわば「きょろきょろ」しています。視線が定まっていないのです。あたかも茶館に入ったときの人の視線のようです。

 アマチュアリズムを強調するのも、そういう意味なのです。プロの人の持っているプロ的なもの、例えば構成を先に考える、とかそういうことを取り払って、作品を作りたいと思いました。自分の技術で、考えていることを記録したいと考えただけです。プロフェッショナルなものは初めから目指してはいなかったのです。

観客C:おもしろい話です。先入観をはずす映画づくりは自分も心がけていることです。YIDFFのほかの映画についてどう思いますか? 今後も映画を作りますか? どういうものを?

汪建偉:93年から94年の1年間、かつて下放で行かされた農村に戻って、麦を植える創作活動をしました。この映画祭では小川紳介のことを知り、千年の歴史を撮っていることに驚き、感動しました。麦植えの活動の前に小川プロ作品を見ていたら、と思いました。同じ対象を撮るときに自分と違う方法を取っているのを見るのもすばらしい。今回、意味ある出会いでした。

 基本スタンスとしては、主流と言われるもの、理性的で自信あると言われるものから距離をとっていかなくてはならないと考えています。そのとき初めて新たな可能性が生まれる。小川監督もこの点すごいと思います。

 小川紳介は「つまらない」ようなものを真剣に撮っている。その中に新しいものが見えてきます。それには感動します。私も今後、映画にするか、ビデオを撮るか、絵を選ぶか、どういうテクニックを使うかはわかりませんが、テクニックは重要ではない。外形にすぎない。どういう問題をどう表現するかが肝心です。スタイル、方法にこだわらず、新しい方法で現実の新側面を表現できれば、現実という世界の可能性を広げていけるはずです。


●―――馮炳輝(フォン・ビンファイ)

 自分のホームページで「夢想家」を自認する馮炳輝さんは、香港で映画・ビデオ・音楽・インターネットメディアと幅広い創作活動をしている作家だ。恐ろしく早口で、夜通 しでも仕事をするという、香港人のステレオタイプに当てはまる一方で、彼には独自の気さくさと、本音で話させるムードがある。質疑応答も非常にリラックスした雰囲気で楽しい時間だった。

 『香港公路電影』では高度コンピュータ技術を駆使した映像処理や音設計で、中国への返還を控える香港の不安を、路上の岐路に立つ人の迷いと重ね合わせる。

 馮炳輝さんはヤマガタ参加の1年後、デジタルカメラを携えて再び日本を訪れ、インターネットをテーマにした新作を製作している。


司会:映画祭の準備をしながら行なった、監督との電子メールのやりとりは大変楽しかったです。そのことはこの映画と関係ありますよね。インターネットでの通信は、人々をあっという間に親密にさせる、そういう感じがあります。数日前にようやく初めてお会いしたとき、古い友人と再会したような気さえしました。

馮炳輝:同感です。インターネットや電子メールはニューヨークだろうと、東京だろうとどこでも、世界中に住む人々を結ぶ力をもっています。人と人との距離を近くし、文化や政治の担い手にもなります。新しいテクノロジーの優れた点ですね。一方、この上映プログラムの他の作品、香港やマカオのものですが、これらは香港などの都市を、どちらかというと伝統的に描いています。文化や民族性などを用いて描いているのです。アジアのドキュメンタリーではよくあるアプローチです。その中で私の作品が、香港をむしろ技術的な側面から描いていることに気づけたのは興味深いことです。

司会:この映画には親密感と同時に、インターネットの中での迷子の感覚というか、無名性のようなものを感じました。これは先日ローリー・ウェン監督の『お味はいかが』という映画の上映後の質疑応答であなたが発言したことに関連するかもしれません。世界中の共同体的な生活環境に慣れているせいか、みな孤独を恐れている、という内容でした。

馮炳輝:孤独の感覚というのは、特に香港で強いのではないかと思います。香港はまさしく、父もなく、母もないわけですから。イギリス政府は我々の父親ではなく、中国政府も母親ではない。つまり、香港人は孤児なのです。この世界で生きるみなし児ですから、仕方ない、と金儲けに走り、世界を舞台にビジネスを展開し、世界中に移住する。バンクーバー、トロント、オーストラリア、シドニー…。香港人は世界の各地に離散しています。本当の故郷というのがないのです。そういう意味で言えば、香港に残された香港人、どこにも行かない香港人にとって、そういう孤独感は特に強いと言えるかもしれませんね。故郷もない彼らがどう生きたらいいのかというと…中毒症になることです(笑)――金儲けや…インターネット遊びの中毒です(笑)!

 付け足せば、この作品でも『九龍城を探して』や『色褪せる花』でもそうですが、今回上映されている香港の作品には共通の問題があります。どれも集約されたエネルギーや感情をもたない題材を扱っているのです。それこそが香港流の人生、と言えるのかもしれませんね。我々は「無」について語るのです!

 その原因は政治的なところにあります。香港や中国のメディアで、政治的な問題を扱うことは非常に危険なことです。フィリピンやインドの監督たちは汚職などについて語り、映画を作ってヤマガタに来ることができます。しかし中国ではだいぶ事情がちがいます。中国ではメディアの中の政治性はかなり複雑な形で扱われているのです。気づかないうちにメディアは規制されてしまいます。

 だから私も香港と中国の政治についての私観をとても複雑な方法で映像化したのです。視覚イメージ、左/右、遅い/速いの類比などを通して描き出しました。まさしくあれは政治的な言及です。ただ、「ファッション」風に写るので、政治言説だと人に思われないのです。

司会:お客はかなり鈍い、とお考えなんですね(笑)。

馮炳輝:いやいや、上の方の人だけですよ(笑)。

観客A:言語の使い分けについてご意見を聞かせてください。字幕やボイスオーバーの、どこを中国語、どこを英語にしようと、どうやって決めたのですか?

馮炳輝:それはいいご質問ですね。私の作品づくりの中でも主要なテーマの1つです。ご存知のように、香港人はマルチリンガル(多言語に堪能)です。これこそ香港の特徴です。日常会話で香港人同士が話す場合でも、我々は中国語と英語を混ぜて使っています。この作品の場合、英語が基本になっていますが、詩や散文体のところでは中国語に帰ります。私が一番感情を動かされるテキストですから、読んで自らの状況を思案することができる中国語の方が、強い情感を持てるのです。つまり、読むのは中国語の文、コミュニケーションには基本的には英語を使っているわけです。

 ちなみに、今までに(この映画祭で)見た作品で、インタビューがないのは私の映画だけでした。それはおもしろい発見でした。

司会:まだあまりたくさんご覧になっていない、ということですね(笑)。

馮炳輝:いずれにしても、おもしろい問題です。ドキュメンタリーとリアリティについて考えさせられます。インタビューを行うとき、人に語ってもらうとき、リアリティはどこにあるのだろうか? インタビューに見られるリアリティは、作家が映画にそそぎこむ感情や意見と同じぐらいの力強さを持ち得るだろうか、おなじぐらいの真実を示しうるだろうか? 『アーミンのマカオ』や『九龍城を探して』を見て、私は奇妙な感情にとらわれるんです。インタビューがどれだけの真実を表現しているのか、疑問に思えます。インタビューに答える男の言葉の真実を映画作家はどう解釈するのか? それが問題です。