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Docbox Books


聞こえてますか、映画の音(サウンド)

久保田幸雄 著/ワイズ出版/2004年/日本語
ISBN: 4-89830-176-2
評者:岡田秀則

 1990年代は、日本映画の研究において、技術スタッフの仕事への関心が高まった時代である。撮影、美術、編集などの分野を探求したいくつかの優れた著作が世に出、研究のほかにも、2004年には日本照明界の名手・熊谷秀夫の仕事にスポットを当てたドキュメンタリー『照明熊谷学校』も公開された。そして録音の分野では、映画評論家・上野昂志が、録音技師・橋本文雄とともに作り上げた好著『ええ音やないか橋本文雄・録音技師一代』(1996)が嚆矢となるだろう。録音技師・久保田幸雄をめぐる本書『聞こえてますか、映画の音』も、そうした流れの中にある著作である。

 だが、ここに展開される久保田の“録音思想”は、橋本の考え方とは反対のものである。例えば、本書のインタビューで語られている争点のひとつに、撮影現場のノイズ(バックノイズ)を消すべきか、残すべきかという問題がある。俳優がしゃべっていない時はそれ以外のノイズをすべて消し、台詞がある時だけ録音レベルを上げて、終わったらさっと下げるという橋本の方法(それは熟練の名人芸である)を、スタジオ育ちでない久保田は受け入れることができない。黒木和雄、土本典昭、小川紳介らとともに、岩波映画製作所の若手反逆派グループ「青の会」の時代を過ごし、彼らの篤い信頼を得てドキュメンタリーの道を歩んできた久保田にとっては、“余分な音”も映画を構成する不可欠な要素である。私たちは、彼自身による撮影現場の記録や彼へのインタビューなど、本書のあちこちで、柔らかい筆致の中にその“録音思想”が綴られているのを確認することができる。

 それは、劇映画の録音を担当する時にも変わることはない。例えば、黒木和雄の『父と暮せば』(2004)。ほとんどのシーンがスタジオで撮影された作品だが、久保田は逆にそのことを難問と捉えてしまう。

「東宝や日活育ちの録音技師にとっては、まるで理解できないことだと思う。街中でのロケーションと違ってスタジオの中での撮影では、台詞の録音の障害となるものはほとんど存在しないからである。その障害になる音こそが、私が映画全体の音の構成を考えていくための素材となっている」(163頁)

 彼の録音観はここに語り尽されている。世界に充満する任意のノイズをそのまま肯定することからしか、彼の映画は始まらない。ロケーション撮影にもなると、彼は現場にあるいろんな音を拾って歩き出すのだ。

 また、その仕事を支える独特のシステムに、「画カット表」と呼ばれるものがある。彼は、映画のすべてのカットを、1頁につき6カットずつ、縦方向に並ぶように描いてゆく。その脇には、各カットのアクションとコマ数が書きつけられる。これは、映写をしながら録音機で音を合わせてゆく「音付け」作業を、なるべくスタジオを借りずに済ますために案出されたもので、彼はまず数日をかけてこの「画カット表」を描き、コマ数を時間に換算しながら自宅で音声テープを編集する。こうすれば、録音スタジオを使うのは、音をラッシュ・フィルムと合わせる最後の工程だけで済む。それは、ドキュメンタリーという慢性的に資金難に悩まされるジャンルが産み出したものとはいえ、指摘されるべきはその点だけではない。

 実際のフィルム素材を離れて、これだけで編集作業を可能とするには、各カットに対する視覚的な把握力の確かさが求められる。本書に引用された「画カット表」を見れば、その簡素な線の中に久保田の並々ならぬデッサン力を見ることができるだろう。言うまでもないが、本来こうした能力は録音技師に求められるものではない。だが、彼に映画の細部を思い出させ、それによって画と音との自在な往復を可能にしているのは、まさにこのデッサンである。ここにも、映画産業が求める分業体制に甘んじず、それぞれのメンバーが専門的職能を担いつつも映画作りの全過程を直接“共有”しようとした「青の会」の発想が反映しているのではないだろうか。

 フランスでの仕事で、撮影現場と音の仕上げをはっきり分業させられた経験を持つ久保田は、インタビューの中で「現場と仕上げを通してやるのが、ぼくはいいと思うんですよね」と語る。録音技師がロケーション現場の周辺で思い入れをもって採録した音も、こうして職能が分離されているがために、仕上げの際に活かされることが少ない。上の発言は、こうした“直接主義”を身につけて映画作りに飛び込んだ人間の本質的な吐露であろう。それはまた、PR映画の演出家となった若き黒木和雄が、長年活躍してきた編集界の権威と相対する中で、撮影現場と編集者との分離に抵抗し、自ら編集権を獲得していった日本ドキュメンタリー史上の大転換にも見事に呼応している。それだけにこのインタビューで惜しまれるのは、録音機材の進化についてはかなり詳細に聞き出されているものの、当時のPR映画界の趨勢や「青の会」の着想の新しさなど、戦後ドキュメンタリー史を掘り下げようとする質問が少ない点である(また、巻末フィルモグラフィーの精密さも賞賛に値するだけに、編者の名を特記すべきであった)。とはいえ、日本の映画言論において視覚性が優先して語られがちな中、聴覚の側面からこの“直接主義”のインパクトを浮かびあがらせ、それがドキュメンタリーのみならず現代の日本映画を支えていることを明らかにした本書の意義は極めて多大である。

 

岡田秀則 Okada Hidenori
東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究官

編集注:本誌にてインタビューいたしました日本のドキュメンタリー作家シリーズ久保田幸雄氏のインタビューはDocumentary Box #17に掲載されております。


ピエール・ペローとポエティック・ドキュメンタリー
デビッド・クランドフィールド著/トロント国際映画祭、インディアナ大学出版/2004年/英語
David Clandfield, Pierre Perrault and the Poetic Documentary, Toronto/Bloomington: Toronto International Film Festival, University of Indiana Press, 2004. ISBN: 09-6891323-7
評者:スコット・マッケンジー

 ケベックのライターでありフィルムメーカーでもあるピエール・ペローについて書かれた、デビッド・クランドフィールドによる新著は、カナダとケベックの映画史の大きな溝を埋めるものだ。ペローは数十年にわたって、ケベックにおけるフランス語圏のライターたちに称賛されてきたが、ペローの作品は英語圏のカナダにおいては、今まで深い分析はされてこなかった(ピーター・ハーコート、ピーター・オーリン、そしてクランドフィールドは、これに該当しないが)。『ピエール・ペローとポエティック(詩的)・ドキュメンタリー』は、ペローのラジオ界での出発点となったラジオ・カナダ(BBCのカナダ系フランス語版)から、カナダ国立映画製作所のために作った初期の作品までさかのぼって、ペローのフィルムメーカーとしての軌跡をたどっている。クランドフィールドは、ペローが最初に国内および海外で注目されるきっかけとなったセント・ローレンス川にある島についての一連の映画(クードル島シリーズとして知られている)に、特に留意している。撮影監督ミシェル・ブローと組んだペローは、『Pour la suite du monde(世界の存続のために)』(1962)という映画で、このシリーズを始めた。ドキュメンタリーと文化民俗学が合わさったこの作品で、その地の長い伝統であったが、市場がなくなってしまったため廃れてしまった捕鯨を映画の中で再現している。島の人々は(再現するために)鯨を実際に捕まえるが、売ることも食べることもできないため、ニューヨークの水族館に売ることに決めた島の人々までもペローは撮影している。クランドフィールドは、ドキュメンタリーと、映画の中心に横たわる文化的メモリーの再構築間の緊張、およびドキュメンタリーは過去をとらえるだけでなく、現在をもとらえる方法であることに注目して、この映画を解釈している。

 ペローの映画は、ケベックの国としてのアイデンティティの問題について深く懸念している。長い間に、アイデンティティがどのように変わったか、そもそもケベックに、国としてのアイデンティティがあったのかという超歴史的な考えについてもだ。この点に関して最も代表する映画は、ケベック人であることが、どういう意味を持つか、国の真のアイデンティティをどう考えるかを民俗学的に分析した『Un pays sans bon sens!(良識を欠いた国!)』(1970)である。この映画は、自分自身、および国家と言語の概念と自分との関係を理解しようと模索する人々を描いている。この本の中でクランドフィールドは、当時のケベックの政治についての分析(そして“静かな革命”の出現)、政府が財政援助しているカナダ国立映画製作庁においてケベックの独立についての映画を作ることの利害、国家のアイデンティティの概念を記録し、問うための方法として映画が動員されうることを、たくみに著している。

 クランドフィールドは、ケベック外でよく知られている映画はのみならず、ペローの優れた全作品19本を、たくみに分析している。これらの章で、クランドフィールドは、ペローのキャリアの軌跡、彼が“経験のシネマ”(cinéma véçu)の原則に固執することについて、さらにはドキュメンタリーと歴史の関係をペローが探求し続けたことについて考察している。ペローのテーマは、捕鯨から、ケベックとフランスの関係、セント・ローレンス川の歴史から、北極のジャコウウシを記録する試みまで、すべて、過去に対するイメージが、現在の自分およびアイデンティティにどう影響するかについての関係を描いている。これらの映画の多く(特にセント・ローレンスについての彼の一連のドキュメンタリー)は、ペローに言わせれば商業的失敗作だが、クランドフィールドは、1980年代や1990年代初めの当時のドキュメンタリーの方法に疎かったとはいえ、これらの映画がペローの総合プロジェクトの一環だったと、説得力を持って論じている。これら映画、特に『L'oumigmag ou l'objectif documentaire(ジャコウウシとドキュメンタリーの目的)』(1993年)は、さらなる再評価が必要であり、クランドフィールドの著書は、この点において強力な第一弾となっている。

 さらに、クランドフィールドの著書には、ペローと彼の共同製作者たちへの長いインタビュー、ペローが映画について書いた多くの文章の一部が翻訳され収録されている。これらはいろいろな意味で、彼の映画よりも、さらに無視されてきたものたちだ。ダイレクト・シネマおよび商業映画と“経験のシネマ”(自分のドキュメンタリー映画に対してペロー自身が創った用語)についてのペローの文章は、ドキュメンタリー映画のマニフェストであり、ドキュメンタリー映画についての主要な著作の規範となるべきものだ。この本は、ペローの作品をドキュメンタリー映画製作の国際的コンテクストの中に位置付ける映画研究家ジェリー・ホワイトによる魅力ある評論で締めくくられている。全般的に、クランドフィールドの本は、ケベックやフランス以外における、ペローの作品への過小評価を是正することに、大いに貢献している。加えて、『ピエール・ペローとポエティック・ドキュメンタリー』は、なぜペローが“ダイレクト・シネマ”と“経験のシネマ”の出現を理解する上での中心的存在なのかということだけではなく、現在では民俗学映画と呼ばれている映画の発展において、ロバート・フラハティやジャン・ルーシュと共に、彼が非常に重要な存在であることを強く主張している。クランドフィールドの著書は、これらの点においてのみでも、ドキュメンタリー映画史への大いなる貢献であると言えよう。

――翻訳:村上由美子

 

スコット・マッケンジー Scott MacKenzie
スコットランドのセント・アンドリュース大学映画研究科講師。著書に『Screening Quebec(ケベックをスクリーニングする)』(マンチェスター大学出版、2004年)、共編著に『Cinema and Nation(映画と国家)』(ラウトレッジ出版、2000)と『Purity and Provocation: Dogma 95(純粋さと挑発:ドグマ95)』(英国映画協会、2003)。