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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 13 土屋豊(2/2)

G:『新しい神様』を見させていただきまして、かなり面白いと思いました。まずどういうきっかけでその2人と会うことになって、作品をとることになったのか聞きたいんですが。

T:直接的なきっかけは小林よしのりの『戦争論』、あれがすごい売れましたよね。40万とか50万とか売られていて。僕の知人、友人たちは『戦争論』に勿論反対で、資料の信憑性を争うような論戦をやってみたり、反対の本を書いて裁判をやってみたり、いろいろありましたよね。で、それはすごい大事なことだから、やるべきだと思うんですけど、ただそれをやっても、『戦争論』が50万売れた原因っていうのは潰せない。僕は何で50万部売れたのかということについてすごく考えたかったんですね。逆に言えば、いわゆる右翼に反対している人々も、そういう資料合戦とかやってもいいんですけど、なぜ50万売れたかっていう視点をその人たちにも持って欲しかった。僕が考えたのは、やっぱり今のこの世の中で、なかなか自分が社会に対しての接点を持てなくて、その接点の無さがいろいろな方向に行っていると思うんですね。つまり『涼子・21歳』じゃないですけど、自分の存在っていうのは本当に重要なのか、という思いは、社会との接点の無さということの現われだと思うんですね。その社会と接点を持てないこのフヤフヤとしたこの退屈な、「終わりなき日常」の中で。

G:宮台真司を引用すると。

T:そうそう。その「終わりなき日常」の中で、じゃあ僕等はどうすりゃいいんだろうという不安になっていると思うんですよ。まあ楽しければねえ、いろいろ紛らわす方法があって、落ち込んでこう考え込んじゃうのが嫌だから、抗鬱剤ずっと飲んでいる人もいたりするんですね。そういう状態なんだから、過去の戦争で、もう明日死ぬか分からないような時に、俺は社会のために死ぬんだという物語が絶対的にあって、その物語を信じていれば退屈も何もなく、自分の死というのが誰かのためなんだ、自分はもう必要とされまくっているんだ、ということを信じられるような物語があった時代に対して憧れる気持ちは分かりやすいと思うんですよ。

G:『戦争論』の中には、戦争は楽しかったという物語も結構長く出てくるので、それも伝わります。

T:そうそう、そういう物語が伝わりやすい気分は分かるので、じゃあそういう気分で『戦争論』を読んでる人を探そうと思ってたんですよ。それで新宿で『戦争論』についてのイベントがあって、一水会の木村さんとか、自主日本の会の塩見さんが主催して、しゃべる機会があって、その時に2人(伊藤さんと雨宮さん)が出ていたんです。それで、「ああ、この人だ」と思って取材申し込んだのがきっかけなんです。

G:ただ取材してインタビューして、作品を作るというやり方もあるんですが、土屋さんは(雨宮さんに)実際カメラを渡して「自分を撮って下さい」というやり方をとっていたのはどうしてでしょうか?

T:まず雨宮さんという女性は、すごいサービス精神が旺盛な人で、カメラが回っていると余計なこと言ったりオーバーに言ったりして、本当の自分は一体どこにあるの?という感じで、僕カメラでちゃんととらえる自信がなかったんです。もともとこの人、自殺未遂を繰り返していたりとか、ああいう人形を作っていたりとか、奥がすごく深いんですよ。そういうのをインタビュー形式で捉えられる自信がなかったし、多分出てこないと思ったんです。なので、まあカメラ渡してみようかなと思って。そうすれば自分の部屋で、何の質問もなしに、彼女は自分で考えて自分のことを語ろうとしますよね。最初は、それでどんなことが起こるかなという実験だったんですよ。まあ使えなきゃいいけどという感じでやっていたら、すんごい面白くて、もうこれはいけると思って。

G:ある程度雨宮さんの映像日記的な要素があって、今の若い作家に流行っているパーソナルドキュメンタリーというものが作品の中に入っています。でもそれ以外のところで、パーソナルドキュメンタリーに対する批判とまではいかないんですけど、土屋さんが先ほどおっしゃった自分の自分探しに対して、ちょっと呆れるところがあったりします。『新しい神様』は、自分探しの映像に対する考え直しということが入っているんじゃないかというふうに思ったんです。

T:それは勿論あると思うんですけど、パーソナルドキュメンタリーあるいは自分探し映画に対してよりもむしろ、自分探しをしている考え方に対して、と言うか、なかなか社会とつながっていけない、タコ壺的な状況に対する批判ですね。生きていること自体もう、社会なり政治なりとつながっているわけだから、そのことを何でこうつなげられないんだろうか、ということをやりたかったですね。だからこうやって雨宮さんが家で「今日は本当何も喋ることない、疲れた」って言っている、そういう日常的なものも、別に政治がどうのこうのって何も喋らないけど、すごい抽象的な言い方で言えば、もうそうやって「疲れた」って言ったところに政治は転がっているような、そういうことを言いたかったですよね。

G:最後の方に土屋さんがカメラを返して欲しいという場面で、雨宮さんは「私にはこのカメラが必要」「なんでこのカメラがもうなくなっちゃうの?」とか言うんですが、これは今の若いパーソナルドキュメンタリーを撮っている人と同じで、つまり国家や天皇でなくても、カメラがあれば自分を定義できるとか、そういう存在が1つのテーマになっているんじゃないかと思ったんです。

T:多分やっぱり必要とされているかどうかということなんですよ、つまり「じゃあカメラを買ってあげるよ。はい」ってプレゼントしても全然喜ばないんですね。カメラがあって、そのカメラを僕が見て、なおかつそれを編集して誰かに見せるという過程で、最終的に私はみんなの前に現れるんだっていうのがあって。だから、単にカメラを渡しても全然ダメで、そういう自分を撮ってくれるカメラがあって、そのカメラを通して自分はものを言えて、それを見てくれる人がいるっていう、そういうつながりって言うか必要とされている、その楽しさっていうのはやっぱり当然みんなあると思うから。単純に言えば目立ちたいっていうことなんだけど。

G:カメラを渡すもう1つのねらいは、結局作品の中に土屋さんの考えや意見を押しつけるんじゃなくて、彼らの考えも聞いて、お互いに自分の違いや自分の孤立している声を分かり合って、それから始めようという…その点ではこの方法はぴったりあったんじゃないでしょうか。

T:そうですね。

G:でもそれに対して、政治的作家、例えば(YIDFF '99で特集をした)ヨリス・イヴェンスは、国家の問題に対してはいくつかの意見があるけれど、それを客観的に撮るんじゃなくて、自分のポジションをとらなくちゃならない、と言っています。その結果彼はかなりプロパガンダ的な作品を撮ってますけど。そういうような立場からこの作品を見たら、2人をどうしてもっと批判的にとらえなかったか、という疑問が必ず出てくると思いますが、それに対してはどうお答えになるのでしょうか?

T:それはね…。自分の立場とか考え方っていうのが、正直に言って僕そんなにはっきりしていないし、逆に言えばそんなはっきりする必要ないと思っているんですよ。「反天皇の思想を持っている人間は、こうせねばならない」みたいなのは、縛ることになっていくので。それは右翼の伊藤さんが映画の中で「実はこう言いたいんだけど、右翼としては人前ではこうしてなきゃいけないんだ」と言ってるのと似てると思うんです。だって自分の立場が固定されてたら、生きててつまんないでしょ。変わるじゃないですか、人と話していて。だからそういう作りが、僕の考えていることそのものなんですよ。自分だって疑えるわけですもん、「なぜこんなに天皇制に反対しているんだろう」ということを。はっきり分かんないですよ、やっぱり。それは映画の中でも言ったけど、天皇制があるからこの日本はダメなんだと思いたがっているフシはかなり多いと思うんです。「なぜ天皇制はあっちゃいけないの?」ってことを、逆に自分に問い返さないと、やっぱ運動もダメだと思うんですよね。

G:『新しい神様』の、観客の反応はいかかでしたか? 想像したようなものでしたか?

T:こう捉えて欲しいなと思ったふうに捉えてくれた人が多くて。民族派の2人が「天皇陛下万歳」とか叫んでいる作品を、僕と同じような思考や思想を持った人が見たらどう思うだろうということは、最初はやっぱりちょっと不安で。僕はだからあの2人のことに対する偏見や、民族派とかそういう言葉に対する偏見みたいなのを削ぎ落とせるような作品にしたいなあと思ったんですよ。それはわりと成功していて、みんな気持ちは分かる、みたいな感じになってましたね。

G:ビデオアクトのカタログの土屋さんの『Without Television』の解説の中で、「出口はどこ」という言葉があるんですけど、そういう閉鎖された空間で出口のない感覚を、この作品を理解するためにもうちょっと話して頂ければと思います。

T:さっきも話が出たように、わりと平均的な人は、何となく楽しく生きられる。ちょっとそこからこぼれちゃうと、もうつらいんですよね。ちょっと変な考え方を持っちゃって、社会がどうしたって言っちゃってる人、あるいは今の商業的に決められた美しさからこぼれる、太っている人、胸がちっちゃい人、何でもいいんですけど。それでそうやって広い集まりの中にいられない人、こぼれちゃった人はすごく生きづらくなっちゃう状況があるのが1つ。あとはさっき出てきたような、日常こう生活していても何かこう毎日退屈だ、何も変化がない、次も次も、何をしても明日はやって来て、今日また何も起こらない日々が続いていくという退屈な日常がきっと恐らく永遠に続くであろうっていう最初から諦めていることっていうのもあり。

 あともう1つは、自分が何か一言発したからと言って、社会はきっと何も変らないであろうという状況。音楽なんか分かりやすい例ですけど、インディペンデントで音楽をやっていた人すらも、それがもう商業的な資本で、商品になっていると。その商品になっていることもインディーズの人たちももう分かっていて、ここでやっていれば金になるからメジャー行っちゃいけないんだよ、ここでやりましょうよっていう、そこでまた新たに商業主義ができあがっていて、もう全てが包まれちゃっていて、もうどうもなんないよっていう中。それに気づいたこぼれた人っていうのが、ちょっとつらいなと思った瞬間に、じゃあ出口どこなのって探していることだと思うんですよ。その出口ってどこかなと思って、僕もずっとそれを考えていて、まだ分かんないですけど、大事なのはコミュニケーションだなと思って、そういうことを話せばね、分かるんですよ。例えば『涼子』にしても、自分の存在がすごいつらい時に、存在感がなくなっちゃって、必要とされているのかどうか分からなくなった時に、つい伝言ダイヤルにかけちゃうんだと。それで性行為に及ぶのは分かっているけど、そうやって誰かに求められるってことはいいことで、お金ももらっちゃえば別にただやらせているわけじゃなくて、これはそういうもんだから、という、そこで自分が落ち着けるみたいな状態になってたわけです。だからあの『涼子』の中のように、手紙に書いてみたりとか話してみたりとかすることによって、そのつらい状態はまず越えられるんですよ。次のステップに進める状況作りがまずはコミュニケーションをとれるような場所作り、メディア作り、環境作りっていうか。そこから先って絶対1個じゃないはずなんですよ。その先はもうバラバラで、そのバラバラがまたこう繋ぎあってコミュニケーション始めてっていう社会の構造が、僕はこの先の出口だと思っていて、自律した個人なりなんなりがお互いコミュニケーションを取りながら、成り立っているような世の中っていうのが、わりと出口の方向かなと思ってはいるんですけど。

G:今の人が自分探しをしているのは自分がないから、ということはよく言われていて、そういう人は消費や映像によって自分を探そうとしていることが多いですけど、土屋さんの場合は言葉やコミュニケーションによって、大きい概念としての社会ではなく、もっと小さい概念としての社会的な定義が出てくるということではないかという感じがします。『涼子』の1つ面白いところは、ただ涼子からもらった手紙を紹介するんではなくて、他の人にそれを見せてコメントしたりする。話し合いを作る場としての作品ということは、すごくいいんじゃないかと思います。

T:そうなんですね、それやりたかったんですよね。

G:世代的なことについてちょっとお話しになりましたけど、こういう問題に直面している他の作家は、例えば庵野秀明さん(『ラブ・アンド・ポップ』)や青山真治さんなどフィクション映画の人たちや、個人作家、ビデオ作家の中にも多いです。そういう人たちに対して、土屋さんの感想をちょっとお聞きしたいんですが。

T:ほとんど交流ないんですよね、作品もあんまりは見てないんですけど。

G:青山さんは例えば『シェイディー・グローヴ』(1999)や『Helpless』(1996)で、ずっと若い世代の虚無感について撮ってきています。例えば『Helpless』で、主人公の健次はオヤジが死んで自分を定義するものが何もない。結局日本を脱出することができなくて、閉鎖された空間はそのままで残る。でも彼は最後にちょっと女の子を抱えて、彼女を保護することでちょっと将来の道があるというふうにみられます。土屋さんの作品は、別の捉え方でやっていますね。他の作家と交流があまりないというふうにおっしゃったんですが、みんな個別にそういう世代的もしくは時期的に同じような問題を扱っている、と僕は感じます。

T:そうですね。やっぱ同時代的な気分や思いは考えてみると同じで、そんな傾向はいろんな他の作品にも、「ああ俺と同じ感じのこと考えているんだな」っていうのはありますよ。

G:政治の話の続きですが、それでも「自分は政治的な映画を撮っていない」と言いますが、土屋さんは率直に自分がやっていることは政治的と認めて、ある程度政治という定義を変えなくちゃなりません。

T:なんでそう、「いや政治とはまた別の話だから」となっちゃうのかは、ちょっと僕は分からないというか。やっぱそこは、作品を作ってから先のことにどれだけ重きを置いているかということだと思うんですよ。いい作品ができましたっていって、みんな見てくれました、よかったということで終わるんじゃなくて、作品ができたらばいろんな人に、あそこで見てもらおう、ここでも上映会をやってみよう、あそこの右翼の団体で上映会をやってみようっていうふうに考えて、そうやったことによって行動が結ばれて、「あ、ちょっと変った」、それが一番嬉しいわけですよ。そうさせるためにも、作品は面白くなきゃいけないし、当然認められたいと思いますよ。作品として何とか映画祭行ってどうのこうのって、いろいろやりたいと思っているけども、やっぱもっとその先みたいなのを考えたくって、それが社会性というか政治性というか、もっと簡単に言えば世の中を変えたいっていうことなんじゃないかなと。これが政治だって言うよりも、それを作ったことによってやっぱ変えたいっていう変革の意志の強い人が、作家というか監督の中にいっぱいいればいいなと思いますね。

G:締めくくりとして、『涼子』と『新しい神様』には、同じセリフが出ているところがあるんです。「自分はどうでもいい」とか「自分が必要とされていない」に対して、「人は必要とされている」が出てきますね。

T:『涼子』の時は必要とされているんだと言おうとしたけれど、空々しいのでやめているんですね。そういうメッセージあるじゃないですか、『ラブ・アンド・ポップ』も映画では浅野忠信が「必要としている人がいるんだ」って言うけど、あれちょっとかっこ悪くて、ウソっぽかったんですよ。本当に必要とされているかどうかについては、本人が考えなきゃダメなんですよ。そういうことを『涼子』では言いたかった。伝言ダイヤルとかの依存的なことで自分を立たせようとするのはやっぱりダメで、自分が必要とされているんだと自信を持てるようになろうね、と。僕もあの時伝言ダイヤルにはまっているわけですから、立場同じなんですよ、だから別に偉そうに諭すんじゃなくて、じゃあ話をしようよみたいなことで終わっていて、『新しい神様』に関しても僕の主張は同じです。「そんな天皇なんかに依存しないで、自律してやればいいじゃないですか」って。全体としては、自分に自信を持って自律しようってことを言いたかったけども、そんなに自分って、あやふやなもので自分だって自信を持ってもっと頑張ってって自分に言うんだけど、それも幻想の自分のこと言っているのかなって気がして、自分には自分っていうものがあるって思いたがっているだけであって、雨宮さんが幻の天皇って言ったのと同じように、僕も幻の自分みたいなものを追い求めているような気がしていて。だから最終的には、他のものに依存して生きていく生き方じゃなくて、もっと自分で自律できるような人間にまず頑張っていけるような方向に行こうよっていうのと、そういう人たちが自信のなさも含めて、うまくコミュニケーションができるような世の中っていうのは、結局天皇制じゃないでしょ(笑)っていうことですかね。

G:最後にこれから先のことをお聞きしたいんですが、何を作るという考えや、もう準備に入っているものはありますか?

T:いや、全然なくて、どうしようかと思っているんですよね。1回ちゃんと、あらかじめシナリオのあるものを撮りたいなとは思っているんですけども、それくらいしか考えていないですね。ただ、やっと『新しい神様』でちょっとだけ見えた、次どうするかということが。もう1回また元に戻って同じことをやったら、繰り返しになっちゃうので、その次のことを中心にした内容のものにしたいなあとは思っているんですけど。すごい難しいですね、そこは。

G:本当にありがとうございました。

T:ありがとうございました。