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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 16 黒木和雄 (2/2)

5. 海外との共同製作

Y:ここに監督自ら作られたプロフィールがあるんですが、これをみますと1967年にフランスのプロデューサーから演出を依頼されるとなっていますが、これは何ですか?

K:『とべない沈黙』が海外で川喜多かしこさんのお力添えで上映されたんです。突然ある日フランス語で手紙が来たんですよ。読んでもよくわからないですから、もちろん読めないんですけど。知り合いに読んでもらったら、『乙女の湖』のマルク・アレグレと(ピエール)ブロンベルジュが『とべない沈黙』を見たと。非常に面白かったと。ついてはフランスに来て、演出しないかと。まあ、ショウ・ブラザーズに似てるんですけど、フランス語か、英語を勉強させると、それでフランスで新作を撮らないかという話しがきたんですよ。それで田山力哉さんとか何人かに会って、話しを聞いたんですけど、止めといた方がいいと。よく騙されるんだと言うんです(笑)。それで返事もしなかったんです。それから随分経って、シネマテーク(パリ)で館長のアンリ・ラングロワさんが『とべない沈黙』が非常に大好きだってことで、上映会がありまして、シネマテークに呼ばれたんですね。彼が『とべない沈黙』論をやりまして、それを記録していたら良かったんですけど。そこで挨拶して上映された時に、通訳を介して「実は『とべない沈黙』を作った時にブロンベルジュっていう人から話しがあったけれど、そういう人はいるんですか?」って言ったら「何を言うか、君! ヌーヴェル・ヴァーグの生みの親だよ」って言われまして(笑)ゴダールに映画を撮らせた男だって聞いて、ショックだったですね。「しまった!」って。もう、歳もとっていたし、時既に遅しという感じで。

Y:シネマテークでまた1985年、回顧上映…。

K:回顧上映があった時にトリュフォーが亡くなったんですね。それでトリュフォーを偲ぶ会があった時に、通訳のゴヴァース女史が「ブロンベルジュがいる」って言うんですよね。それで、僕を連れてきましてね、紹介したら覚えていましたよ。「あのときの。どうして来なかったの?」って言っていましたよ。もう80歳前後だったですね。何年か経って亡くなられましたけど。だからブロンベルジュには、何十年か後には会えたんです。僕は人見知りなもんですから、おそらく結果的には行かなかったとおもいますが、なんかチャンスを失したなあと。ショウ・ブラザーズよりはこっちの方が残念でした。

Y:ATGへ行く前にもう1つ重要な作品で、『キューバの恋人』(1969)が印象に残っていますが、キューバからとんでもない要請がきたというようなことを…

K:かろうじて『とべない沈黙』はATG で公開されたんですが、短編の仕事はこないし、何の仕事もないんですね。全く無収入で。ほとんど生涯、無収入に近いんですけど。無収入で路頭に迷っておりましたら、キューバはアメリカ映画が上映禁止なんですね。日本映画をまとめて、特に『座頭市』が買いたいものですから、安い作品を『座頭市』に合わせるわけですね。全部まとめて買ってもらう(笑)。東宝が『とべない沈黙』もそれで入れたんじゃないでしょうかね。それでキューバの映画大学の連中が、『とべない沈黙』を見て、大変な評判になったんです。その時に日本キューバ友好協会会長の山本満喜子さんと竹中労さん…。後でわかったんですが、竹中労は加賀まりこファンで、ものすごく『とべない沈黙』が好きだったんです。それで、合作映画の話しが起きたんですね。向こうが指名したんです。だけど貧乏国ですから金が全くない、出ないんですね。道具立ては全部日本で作らなくてはならない。ですから、みんなが反対したんですよ。『とべない沈黙』以来全然仕事がない僕としては焦っていた気持ちもあって、それで、土本典昭氏を引っぱり込んで彼をプロデューサーに仕立てて、金集めをしまして、あんまり集まらなかったんですけど、3分の1くらい集まったところで、見切り発車しちゃったんですね。まあ、これが大変なことになるんですけど。

Y:あまりお金ない割には、有名な役者さん出てますよね? 津川雅彦とか。

K:当時旬の俳優だったんですがね、全然聞いたこともない監督が海外で撮るっていうんで、非常に逡巡したんですけど、たまたま彼がTVの大河ドラマをやっていた時のシナリオを書いていたのが鈴木尚之、清水邦夫だったんですね。鈴木尚之さんも『とべない沈黙』ファンだったんですね。2人の説得で津川雅彦がOKになって。これも短時間で急遽、思いつきみたいなシナリオ書いて、現場で全部書き直すみたいな形で。シナリオがあって無き如しのような感じで撮ったんです。私と助監督とカメラマン鈴木達夫と助手と録音2人、あと車両とか運転手とかは、何とかキューバの撮影所から来ましたけどね。6、7人で劇映画を1本撮っちゃったんです。

Y:ここには綺麗な女優さんが出てきますけど、あれは現地の?

K:ええ、たまたま現地のタバコ工場に行ったら、ミスタバコかなんかに選ばれた彼女がいて、彼女に決めたんですね。全くの素人。だから、台詞は全然できなくて、有名女優の吹き替えです、あれは。

Y:これは上映にあたって、ホール上映みたいなことで、映画館ではやらなかったでしょう?

K:当時、ちょうど森川(時久)さんのお作りになった作品は全国ネットを持っていたんですけど。

Y:『若者たち』(1967)?

K:ええ、『若者たち』のルートで上映しようとしたんです。共産党系の人々の反対が多くて、要するに『マラソンランナー』事件もあるし、もう非常にキューバは共産主義国家なのに、共産党を飛び超えてですね、合作映画を作ったってことに機嫌の悪さみたいなのがあったのかな。それから右翼からも左翼からも評判が悪くて…。それでやっと東京1、2館だったかな、上映しました。散々たる状態の上映で、ほとんど赤字になりました。最初、読売ホールで試写会があったんですが、全共闘の女子学生に囲まれて唾を吐かれましてね、唾をぱんぱん顔に吐かれまして、「売国奴監督! あんな反革命的な青年がキューバ行って、何であんなの主人公にしやがったんだ、馬鹿野郎!」って言うので。もう惨憺たる感じでした(笑)。左翼から非常に不評でした。主人公が「ゲバラを冒涜している」という、「反革命的だ」って言うんですね。あとはもう、とにかく借金に追いまくられて。サラ金ややくざから追っかけられて。「これはもう、次はやくざ映画にしよう!」と、それが『日本の悪霊』になったんです(笑)。

Y:そこからが、ATG黄金時代で、『日本の悪霊』あり、『竜馬暗殺』あり、『祭りの準備』と、こうなってくるわけなんですけどね。それで、どういうきっかけで、このATGでたくさん撮られたでしょう?

K:やっぱりどこか撮るところがないものですからね、ATGに企画を出して。『日本の悪霊』は、幸いにして、『とべない沈黙』から目をつけてくれたのか、大島渚の創造者の中島正幸プロデューサーが、応援してくれたんです。彼の友人の福地泡介という漫画家が資金を出すって言うんで、当時800万だったですかね、400万折半だった。400万は福地泡介が出すっていうことで、成立していたんですね。成立した中で僕に話しがきて、もうとにかく借金と、裁判は方々で被告で引っぱり出されて、月々何万返してるのかわからないみたいな状態の中で、東京に居たくないっていう気持ちで、とにかく地方ロケにしようと。東映のやくざ映画が全盛時代でしたから、で、やくざ映画にしようと。それと『竜馬暗殺』もそうなんですが、一種の共産党の六全協に至るまでの問題をもう一遍、高橋和巳さんの原作になぞって、やってみたいという思いがありまして、入ったんですね。

Y:当時は、映画の状況としては結構面白かった時代だったように思いますよね?

K:そうですね、群雄割拠して。血の雨が降る感じでしたね、新宿の飲み屋街は。

6. ATGでの製作形態

Y:話は戻りますけど、ATGというのがありまして、アートシアターギルドとこういう風に言ってたんですけど、あれはどういった組織なんでしょうね?

K:僕もあんまり詳しく知らないんですけど、川喜多かしこさんが主催されていて、海外に(作品を)積極的に出して頂いた。それと資本的には東宝が、企画も進行も、TVの勢いで低迷していて、その危機的状況の中で、勅使河原さんの動きとか羽仁さんの動きも刺激的だったとは思うんですが、やっぱり新しい映画を若い監督に任せて作ってみるという形の中で、東宝の経営危機に対するひとつの配慮として生まれたと思うんですよね。

Y:最初はカワレロウィッチの『尼僧ヨアンナ』(1961)とか、デ・シーカの『ウンベルト・D』(1952)など、外国映画の上映ばっかりやってましたよね? 作るのはもうちょっと後からだったと思いますけど…。

K:撮影所から外された監督達の才能を、自主性をもたしてロー・バジェットで作らせるという発想はとても良かったと思いますね。それで、ATG側の資本と監督個人の資本で折半にして、権限を同等に持たせる。それと、大島さんとか羽仁さんとかは一家を成していましたけど、僕ら無名の劇映画を撮りたいという監督たちにとっては、一種の登竜門と言いますかね。企画審査会を通ったものしか、もちろんOKにならないんですけど、そのシナリオがOKになったら、もう後は内容には一切干渉しないと。

Y:それで、『竜馬暗殺』になるんですが、これは宮川一夫さんからは、撮影現場に原田芳雄が「飯、食わしてくれ」と駆けこんできたっていう、食事代もなかったっていうようなことを聞いてますが(笑)、どんなような現場だったんでしょうか?

K:ですから、『日本の悪霊』もそうだったんですけど、黒木プロが倒産して、監督プロダクションを作らざるを得ないんですね。それで映画同人社っていうのを作って、急遽『竜馬暗殺』用に折半の母体を作ったんですね。で、結局全然、金がないんですよ。

Y:当時1千万円とか言ってましたね。

K:その500万をいかに誤魔化しながら作るかって…。新宿のゴールデン街のバーのママを全部集めて、2、3万出させて、黒田征太郎と冨田幹雄(ペンネームは夏文彦)にプロデューサーをしてもらったんですが、2人が集金作業をしまして、なんとかその場しのぎでクランクインしたんですが、とにかくフィルムが買えない、飯代がない、汽車の切符は買えない、みたいな感じで。現場でもフィルムが無くなりまして、次のフィルムを装填できないんですね。東京に行って買ってきて、それを運んでくるのを待ってるという。それから、昼飯が無いものですから、昼は原田芳雄とか松田優作が洗面器にご飯を炊きましてね、カレーをかけて即席のカレーライスにして、道端でみんなしゃがんで食うみたいな(笑)。ですから、ほとんど栄養失調で、夜間ロケは最後のカットが終わるとカメラマンとスクリプターと僕だけが起きてる。あとはほとんど、ぱぱっと寝ちゃうみたいなね(笑)。

Y:これは時代劇にしては現代的な時代劇だったという感じでしたけど、それは予算の面も関係あるんでしょうか?

K:予算もそうだし、誰ひとり、時代劇やったことないんですよね。昔見た、満州時代の『鞍馬天狗』とか『鍔鳴浪人』(荒井良平監督、1939)とか、『忠臣蔵』(マキノ正博監督、1938)なんかを思い出しながらやったんですけど。刀をどっちに差すかもわからないみたいなね(笑)。応援してくれた京都映像の人達も、心配してハラハラしていました。それで宮川さんも現場に来たんじゃないでしょうかね。痩せ衰えたスタッフを見て、せめて竜馬だけは少し元気づけなくちゃいけないと思ったんじゃないですかね、原田さんにご馳走を持ってきて、差し入れをしていましたね。学生映画に毛が生えたような現場でしたね。時代劇はやったことがない、全然わからないっていう(笑)。蔵が見つかったのが一番大きかったですね。祖師ヶ谷大蔵に300年前の醤油蔵が、解体寸前だったんです。それが見つかったときは、「これはいけた!」と思いましたね。そこで地主と大家さんのOK取って、衣装部屋から電話線引いて、スタッフルームにして、その醤油屋の蔵を撮影所にしたんです。醤油屋の蔵の中で撮って、1歩外に出れば京都のシーンで、こっちの窓から見ると寺町通りとかね、京都ロケと東京ロケを総合して何とかでっち上げたのが『竜馬暗殺』です。

Y:その次に『祭りの準備』と。これは中島丈博さんの脚本で、結構自伝的な映画なんですよね。

K:中島丈博さんと会いますと、もう1人藤田敏八さんが同じように申し込んでいたんですが、3人で会いましてね。中島さんの斡旋で、「確実に『祭りの準備』が実現する方に賭けるか」って言うんですよ。そこで藤田敏八と私は討論みたいな話し合いをして、日活の準備が早く実現するか、ATGが早く実現するかというのを2人で分析したらどうもATGの方が…。藤田敏八さんというのは、なかなかさばけた人で、「どうも黒木君の方が早そうだ」と、「譲るわ」ということで、その場で僕はやることになりましてね。で、『キューバの恋人』で果たせなかった大塚和さんにプロデュースをお願いしましたところ、彼が金を作るっていうことで、彼の知り合いが半額持ちまして、それで入ったのが『祭りの準備』ですね。『祭りの準備』というのは、ゴーギャンのタヒチのデッサンのタイトルから取ったものです。

Y:それでしばらくテレビなどをやられていて、『原子力戦争』が出てきますよね?

K:やはり岩波時代に友人だった田原総一朗の「原子力戦争」っていう本がありましてね。中身は全然違うんですけど、原爆とか原発に関心があったものですから。面白くないっていう理由で、企画は非常に難航したんですが、『祭りの準備』と『竜馬暗殺』とこの2本のおかげでかろうじて企画が通ったのが『原子力戦争』だったでしょうかね。これも原田芳雄の友人の広告代理店が半額だしてくれて、地方ロケでやったんです。

7. ATGから東宝へ

Y:次に『夕暮まで』(1980)で、これは東宝の映画でした。ここで一挙にATGから東宝へと拡大というか、どうなったんでしょう?

K:『日本の悪霊』で知り合いましたスポンサーで、プロデューサーをやりました福地泡介さんが原作者の吉行(淳之介)さんと非常に親しかったんですね。『夕暮まで』がベストセラーになって、とにかく貧乏監督を少しでも余裕をもたしてやりたいと、金持ちにさせたいということで、『夕暮まで』の映画化権を福地泡介が、直訴して獲ったんですね。で、僕にやれ、と言われて、原作読んでみたらちょっと難解でよくわからないんですね。「まいったなー」と思いましたが、やらざるを得ないこともありまして。それで清水邦夫だったら何とかこなせるだろうと思って、清水邦夫に頼んだんですけど、途中でちょっと彼が降りちゃいましてね。本当は中止したかったんですけど、その時角川春樹さんから話しがあって、「『夕暮まで』を製作費も内容も自由に作らすから、角川映画でやらないか」っていう話しがあって、僕はその方がいいんじゃないかと思ったんですが、幸か不幸か大塚和さんに頼んでいたものですから、大塚和さんは「日本映画を堕落させる角川で、映画を撮るなんてもってのほかだ」って言うんで断わりましてですね。そのとき、僕は内心非常に残念でしたね。3倍くらいの製作費で、シナリオは新しく全部書き直してもいいという。何とか作りましたけど、不得意ばかりやっているって感じのもうひとつぱっとしない仕事でした(笑)。

Y:『TOMORROW/明日』(1988)は結構評価されたんですよね? 上映は岩波ホールでしたね、確か。これは原爆の話しなんですが…。

K:ポーランドとの合作でテレビ映画を撮ったんですね。そのときに長崎の被爆者に会いまして、やはり原発とはまた違ったショックを受けたりして。そのとき、「青の会」なんかでよく行っていました飲み屋のメンバーだった井上光晴さんとちょっと顔見知りだったものですから、彼の『明日』っていう原作に僕は着目しまして、御本人からも快くOKしてもらい、撮ったのが『TOMORROW/明日』です。三船プロの時知り合った鍋島壽夫という若いプロデューサーが、プロダクション作っていまして、『TOMORROW/明日』の企画を出したら、彼が非常に乗りまして。まだバブルの最盛期だったものですから、金が集まったんでしょうね。

Y:また、時代劇になりまして、『浪人街』(1990)と。これはマキノ正博さんの有名なサイレント映画がありますが、それのリメイクということで…。

K:鍋島さんが『TOMORROW/明日』やって、よかったということで持ってきたのが、『浪人街』なんですね。初めから(シナリオは)笠原和夫さんだということで。笠原さんとマキノさんは子弟関係で。「ちょっと『浪人街』っていうのは、しんどいな」と思って、かつてのベストワン作品だし。それで、現存しているフィルムを見ましたら、断片しか残っていないんです。全巻残っていたら僕はリメイクはしたくなかったんですけどね。マキノさんがもう、体を悪くなさって「自分はとてもリメイクできない」と。「黒木君やってもいいよ」っていうようなことをおっしゃって戴いて。マキノさんは僕の映画を見ていまして、『あるマラソンランナーの記録』が大好きなんですよ。「あの監督だったら、『浪人街』撮れるよ」って、どこで「だったら」なのかわかりませんけども(笑)。『竜馬暗殺』で褒めて戴くなら分かるんですけど、「『あるマラソンランナーの記録』を撮ったから大丈夫だ」って、そこら辺が少し変わった人ですね。それで、マキノ光雄さんのお世話で東映の補欠になったこともあったり、それから長門(裕之)さんも津川(雅彦)も甥だし、「なんかマキノ一家とは因縁があるな」というようなこともあったりして、思いきって撮りましたけど。クランクアップした時には随分変わちゃったんですね。で、シナリオの笠原和夫さんとは絶交状態になりまして。確かに出来上がった時には、一種別の作品になっていました。

Y:宮川一夫さんがBカメラ廻していますが、これは何で宮川さんがここに?

K:宮川さんがすごく興味を持って、病院通いの傍ら太泰の撮影所に来られてですね。特に原田芳雄と特に仲がいいものですから。話している内に全員が、「とにかく宮川さんに少しでも廻して戴こう、どこか廻して戴くところはないだろうか」と、最後の立ち回りのところで、ちょうど体調が良くなられたのと、病院の行き帰りにちょうど現場を通られるんですね。「だったらもう、ついでにそこで廻してくれ」って、お願いして。高岩カメラマン、高岩(仁)って東映社長の弟さんですけど、非常に恐縮しながら宮川さんには。快く廻して戴いて、本当に盛り上がりましたよね。マキノさんも最終日は見学に来られて、マキノさんと宮川一夫、小学校の同級生なんです。2人を囲んで総勢百何十人の記念撮影がありますけど、今もって懐かしい、非常に楽しい仕事でしたね。

Y:これも亡くなられた勝新太郎が主演でね。勝さんは自分で芝居を付けるというので有名ですけど、監督の意図に反して演技するみたいな、そんなご苦労はなかったんですか?

K:僕は勝さんとはなぜかうまが合ったんで、嫌な思い出は全くないですね。評判ほどじゃないですよ。競馬、競輪に熱中されて、現場で次のカットの間、その勝負がつくまで、その馬がゴールするまでちょっとストップみたいなことはありましたけど(笑)。原田芳雄さん達とのジャズセッションみたいな現場は面白かったですよ。

Y:これもすぐ公開されなかったですよね、この映画。待てど暮らせど映画館に掛からないという…。

K:あの勝新太郎の麻薬事件で(笑)、半年オクラでした。それでも一般公開された。いやもう、『キューバの恋人』なんかに比べたらずっと幸せですよ。惨憺たる感じの経験があまりに多すぎるので。

Y:これは1990年の映画ですよね、そして10年とんで、次に出てきたのは『スリ』(2000)。

K:撮影の後半から胃腸が悪くてですね。下血が止まらなくて、それでもダビングまでやっちゃおうと思って、終わりましたら、「緊急入院しないとあと10ヶ月くらいで死んじゃう」って言われましてね。約10ヵ月入院しましたね。それから3、4年は体調が勝れず、今でもそうですけど、ほとんど体力無くなっちゃって。飲み続けと暴飲暴食の祟りで自業自得の結果ですけど。

Y:『スリ』というのは、ブレッソンの有名な映画で『スリ』(1959)というのがあるんですけど、それとは関係あるんですか?

K:一応関係はありません。僕はパリに行く度にすられるんですね。「スリ憎し、打倒スリ」という感じがずっとしてまして。山中貞雄を撮りたくて、15年越しでやったんですが、どうしても金が集まらなくて。ちょっとウォーミング・アップというか、誰でもそうですけど、撮ってないと錆びちゃうんですね。「こりゃ、やばい」っていう危機感ですね。「撮るために何がいいだろうか」っていうことで犯罪映画だろうと。あんまり人を殺したくないからスリにしようと。最初はスリを徹底的に苛める映画を撮りたいと思って入ったんですけど、スリを研究するうちにこんな「尊敬する人物はいない」って感じになりましてね(笑)。とにかくすろうと思って電車に乗るんですけど、痴漢行為すらもできないんですよね。「する」というのが、いかに大胆で勇気と決断力が要るものかと。それにすった行為を悪いことをしたと思ったら、もう駄目なんですね。それをどっかで酒を飲むなりなんかして、気分転換して、また勇気を持って次の日も「すり」に行かなきゃいけないという、「大変な日常的な革命者じゃないか」というふうに思い詰めて作ったのが『スリ』ですよ。

8. 新作について

Y:それでまたすぐ、次回作がまた。『美しい夏・キリシマ』って言うんですか?

K:山中貞雄をまた撮ろうと思ったんですが、金が集まらなくて、仙頭(武則)さんというプロデューサーに山中貞雄の話しを持ってたんですね。そしたら、「山中貞雄もいいけども、他に何か撮るものはないですか?」って言うんで、その場の思いつきですよ。「とにかく被爆体験と植民地体験を自伝的に描きたいんです」、「あっ、黒木さんそれいこうよ!」と、去年の3月に急遽決まったんです。シナリオも出来まして、8月から入りまして、年末には完成しますけど。『TOMORROW/明日』の姉妹編でもあり、『とべない沈黙』の姉妹編でもあるんです。この映画にも蝶々が出てきますけど、この映画では、中国にしか生息していない蝶々が出ます。やっぱり少年が主人公で南九州の私の故郷で撮るんです。

Y:念願の山中貞雄ですが、その山中映画を是非撮ってほしいんですけど、展望は?

K:そうですね、こう2、3本当たるものを作って(笑)、再来年くらいには撮りたいと思ってます。何としてでも撮りたい。

 


安井喜雄 Yasui Yoshio


大阪にてプラネット映画資料図書館を開設し、フィルム及び映画文献の資料を収集している。本映画祭の第1回目から日本ドキュメンタリーの回顧上映のコーディネートを務め、YIDFF 2001年の「亀井文夫特集」の企画・運営をする。

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