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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 19 時枝俊江(2/2)

5. 『絵図に偲ぶ江戸のくらし』について

今泉:文京区の映画を何本おつくりになったのですか?

時枝:6本かな。

今泉:時枝さんは映画づくりに入る前に、文京区の担当者との信頼関係づくりに時間をかけていたように私はお見受けしていたのですが、どのようなところから映画づくりに取り組んでいきましたか?

時枝:はじめはね、「文京区は知識人も多くて、誇り高い区民がいるところだから、そんじょそこらの映画ではない質の高いものをつくってほしい」。そういう注文を受けたのです。それで私が「じゃ、どういう映画がよいのか、具体的な例をあげてください」「いや、良い例というのはわかりません」「悪い例はいかがですか?」「千代田区の映画は悪い例ですね」と。千代田区の映画は岩波映画でつくっていたのです(笑)。区長さんのインタビューとか、小学校に天皇陛下が行くとか。そのうち「何でも好きなようにつくってください」。それで『絵図に偲ぶ江戸のくらし』(1977)になったの。ナレーションをいわゆるナレーションふうにしないで、伊藤惣一さんの普通の語りでやったのは新しい試みにうつったようですね。ラッシュを映写しながら、私がしゃべるのを伊藤さんに最初に聞いてもらって、「ああ、そういうことが言いたいのかと得心がいったなら、今度はあなたの言葉、語調で語ってください」と言って、そういう録音の仕方をした。録音部の佐久間俊夫さんが、伊藤さんに気楽に語ってもらうために「座布団もってこようか、お酒はほしくないか」(笑)、とリラックスしてもらうよう努力したのね。画面を遠くで見て語ると、遠くを見ている語りになるから、画面との距離を縮めて、話しかけるように話してもらいました。50年代頃のナレーションは教えてやるというような調子で、普通の語り口調にできないかという想いがずっーとあって、60年代からその試みをやってきましたが、きちんとした形にしたのがこの作品です。

6. 『ぶんきょうゆかりの文人たち――観潮楼をめぐって』について

今泉:『観潮楼』(1988)をおつくりになっていた頃の時枝さんを、私はよく覚えているのですけれども、森鴎外をとりあげるのはそのこと自体で大変なことだったでしょう。時枝さんは、何とかしてご自分の“森鴎外”をつくろうと毎日毎日、団子坂の図書館にかよっていましたね。それがある時、「わかったのよ!」そう言って、とても嬉しそうな顔をして会社にあらわれたのです。何がわかったのかというと、たたみ1畳分以上の紙に森鴎外を中心として、あれ何と言えばいいのでしょうか…。

時枝:鴎外を中心とした人脈とか、グループ、文学者の関係と場所。

今泉:あれをご自分で書いてみて、わかるものがあって、「あ、これでいける」って。それが『観潮楼』の映画づくりのはじまりでしたね。

時枝:あの時はもう岩波映画の社員ではなくなっていたから、いくらぐずぐずやっていても、誰にも文句は言われなかった。鴎外全集を読むのに時間をかけたし、ま、じっくり時間をかけて考え抜いたということはありましたね。企画は私自身だし、自分で文句は言えない(笑)。でもおかげさまで、ピアノを買った後にガスが引けたのねとか、七輪やかまどで炊事している時にピアノがあったのねとか、鴎外の時代のそういうところまでがよく見えてきた。

今泉:私は社内試写で見せてもらったのですが、見終わった時には、とても心地よい余韻に浸された映画でした。ナレーションも、ノスタルジックな石原眞治さんの音楽も映像によくあっていた。録音の佐久間俊夫さんも凝った音づくりをしていましたね。

時枝:ふつう鴎外の映画をつくろうとしたら津和野を取材したり、場合によってはドイツへ行ったりするわけだけど、あの映画は撮るものは文京区にあるものだけに限定されていた。それは予算的にもそうしなければならなかった。今でも少し範囲をひろげたら、また別のつくり方があっただろうとは思うけれど…。でもね、どんなに制約があっても本当に自分がしたいことがあるのなら、それはきっとできるものだと思いましたよ。ちょっと気がつくのが遅かったですけどね。それに文京区について私のなかにそれまでの蓄積があったし、樋口一葉のはがき1枚にもあらかじめ目は通していたので、方針が決まってからはすらすらと進めることができましたね。たとえば文京区は江戸時代には江戸城に通うサラリーマン(下級武士)の通勤圏だったのですよ。もちろん歩いて通ったわけで、私も歩いてみたら1時間で江戸城へ行ける。「そうか、昔も今もサラリーマンは通勤に1時間かけているんだ」(笑)。鴎外の時代だってみんな歩いていたのだから、啄木も鴎外の家に行くには歩いていったのですよ。その距離感などは、私も歩いてみてわかっていた。そういう土地勘というか、時代の雰囲気をつかむ素地を、私は体でおぼえていました。時間に追われずに仕事ができたのは、フリーになったおかげもあります。だからスタッフの皆さんには「能力とフィルムだけはふんだんに使ってちょうだい。あとは倹約してちょうだい」(笑)。

7. 「幼児教育」音についての関心のあり方

今泉:時枝さんの時代には音はどのようにしてつくっていたのですか?

時枝:フィルムを撮ってきて、あらまし編集した段階で音付けをやるんですね。それは現場音をもう1度録りに行くこともあるけれども、いわゆる不快音と見なされるものは排除して整理することをやっていく。子どもを撮った時に思ったことは、音声がなくて、子どもの口がぱくぱくしているところにどんなにナレーションで解説をしても…たとえば「あれっ」といった時の言い方のなかに、面白く興味をもって言ったのと、期待はずれで言ったのとは、随分違う言い方になるでしょう。映像に撮った子どもに、その子どもの言葉があるのとないのでは、伝えるものに大きな差が出てくるのね。ところが当時のキャメラはモーターの回転音が大きくて、現場で音を録るとキャメラの音が邪魔になる。それにキャメラマンと録音技師の仕事には昔からの序列があって、キャメラマンのほうが力が強い。だからフレームのなかに録音マイクが入ってきたりすることが許されない。そういう時代だったですね。私は「ともかく早いほうが勝ち、ということでやりましょう。録音が早くてキャメラが遅れたら、撮り直しする。その逆だったら音を録り直す。そうしてちょうだい」。そう言って、スタッフ間にルールをつくったんです。だから画と音とはまったく同時ではなく、ちょっとずれたものになるのですよ。それをうまく編集して、子どもの世界を表現していったのですね。『ともだち』(1961)の時です。使った録音機材はデンスケ。キャメラはアリフレックスSTでしたね。

 音声について私はずっと前から画と対等だと思っていて、とくに子どもの撮影をする時は、画面だけでは十分に子どもの気持ちのあり方などが表現できない場合が多いでしょ。だから撮影現場に録音部も一緒に行ってもらう。そういうことをやったのは、私はわりと早い時期からだったと思うのです。映画のキャメラマンには構図から画づくりを考えるという風潮が根強くあったでしょ。そういう撮り方ではなく、被写体そのものへのキャメラマンの関心のあり方が、結果的に画面にあらわれてくるのですよ。だからキャメラマンも、現場で音を聞かないではいられないはずなのですよ。これは、八木さんはとても努力したと思います。

今泉:『文教の歩みをたずねて』(1975)では路地裏の映像に子どもの声が聞こえてきて、街の雰囲気をかもしだしている…そういうふうに音を仕立てあげていますね。そういう点では今のビデオ取材の画と音とがシンクロしていて当たり前というのとはちょっと違う。音による表現を考えた結果が、音の仕立て上げ方の違いになってきていますよね。

時枝:それから1960年代後半には、産業PR映画の場合でも、だんだん映像だけに頼っていては、ものがよく見えなくなってきているのですね。たとえば工場の煙がもくもく出ているといった映像が、高度成長の初期にはその工場の生産性のあらわれとし受け取められていた。それがそのうち、まったく逆の公害排出の意味へと変換していく。まったく同じ映像から、2つの正反対の意味が読み取れるような時に、では表現全体としてはどういうフォローの仕方をしなければならないのか? そのことが問題になってくる。だからなおさら私は“音”に傾斜していった。ふつう私たちは、今でも「音付けする」って言っているけれど…画が先にあって音は後から付けるものだという常識があるでしょ。でも私は当時けっこう真面目に、どうしたら音に「画付けする」ことができるかなどと考えたりしていた。画だけでは不安だったのね。

8. 『病院はきらいだ』お年寄りの呟き、について

今泉:長野県にある佐久病院の映画は『病院はきらいだ』(1991)からはじまって3部作になっていったのですが、次にこの映画についてお話しをうかがいます。

時枝:あの映画の『病院はきらいだ』というタイトルは、お年寄りが「病院はきれえだ」と呟いたのを聞いて、これはお年寄りの気持ちをそのまま素直に言っている言葉だと思った。それでタイトルにしました。

今泉:『病院はきらいだ』のなかで手足の関節がうまく動かないので、家のなかを這って動いていたお婆さんがいましたね。その方が台所でみそ汁をつくるシーン…あれは普通ならカットを割って、水道の蛇口をひねった、ジャガイモを切った、鍋に入れた、できあがった。そういう編集をするところですが、時枝さんはカットを切らずに撮り続けましたね。ふだん何でもない人のしぐさをじっくり見るということがなくなっている時に、あの長いカットは新鮮でした。

時枝:ある程度時間をかけて見ることによって、その人の困難や苦労が見えるということはありますね。

今泉:その後で「3日分のみそ汁をつくります」というナレーションが入るのですが、それまで見てきた映像の意味がストンと落ちてわかりますね。それからあの映画は「病院はきれえだ」と言った、そういうお年寄りの呟きを実に克明にひろっています。日常の人間関係のなかでもお年寄りの呟き、つまり本当の気持ちはどこにあるのかを、聞き取ったり、見て取ったりする関係が失われていく時代…。あの時、お年寄りの呟きに字幕スーパーを入れるかどうかで議論が起こったけど、時枝さんは「入れない」と。あの映画の製作は1990年でしたけれども、時枝さんは観客に「お年寄りの呟きを聞き取る能力をつけてもらいたい」そういうメッセージ送ったと思うのです。

時枝:それは3歳児の、言葉としては不完全な言葉を、相手が子どもだったら皆が聞き取っているのに、お年寄りになると聞き取れないっていうわけがない。日本人が日本語でしゃべっているのに、年寄りだからといってわからないっていうのはとんでもない話だと思ったことがあります。

今泉:時枝さんが撮った幼児の映画と佐久病院の映画には共通点がありますね、方法論として。

時枝:そう、撮られているほうの幼児とお年寄りに共通しているところがありますからね。自分を良く見せようとはしない…それに、自分から積極的に自分を語ろうとしない。子どもを撮る時は大変なのね。こっちにいったり、あっちにいったりして、いつも遅れてしまう。でも呟きを聞いていると予測がついてくるんです。だから子どもを早く撮っていてよかったと思っています。基本的な学習ができましたね。

 『病院はきらいだ』の時は、お年寄りを見つめ、呟きを聞くことに一所懸命でした。お年寄りの目の位置にしゃがみ込んで話したり、耳元でゆっくり大きな声で話す、方言もおぼろげながらつかって、お年寄りの時間の流れをつかむことにはじめは疲れましたけどね。

 それにあの作品の時はお年寄りと介護者だけを見つめていたけど、『農民とともに』(1995)と『地域をつむぐ』(1996)の時は方言も自由に喋れるようになっていて、今度は暮らしの全体を知るように心掛けました。山奥の農村に入って1年半家を借りて住みついたの。今まで農家や農村を点でしか見たことがなかったので、1年を通して農民の労働と暮らしが見えてきました。収穫時には朝3時から畑にでて、陽のでる前に採って出荷するんです。頭にカンテラつけて深夜放送のラジオをききながら。だから、真っ暗な中を探してゆくと、かすかにラジオの音がきこえ、灯りが動く、それを頼りに近づいてゆくのです。主な働き手は60代後半の方たち。若い人は勤めに出ている。お嫁さんといっても若くてかわいいんじゃなくて60代、下手すれば70代になっている。それが主な農業の担い手であり、介護もする。私もこんな年代の方たちの野沢菜の収穫を何度か体験させてもらったのですが、半日くらいするともうくたびれてしまって、撮影なんかできない。腰が痛い膝が痛いっていうのはこういうことなのね。医師やケアスタッフは介護者の状況にも目配りをしてカバーしているのよね。お年寄りの診察の後は必ず介護者を診るんですね。

 膵臓ガンの末期の91才のおばあさんなんか、自宅でモルヒネを持続注入を受けながらも「菜っ葉を植えなきゃ」と繰り返して起きようとするんです。長い間過酷な労働だった農業が老いを支え、プライドを持たせていることに私はすばらしい終末と感動しました。私もはじめは「監督さん」なんて呼ばれていたけど、その内に「見なれないバアさんがいるかと思ったら、なーんだ監督か」なんて言われちゃって。介護者やケアスタッフばかり見ていた私が、しまいには介護される例をしっかり見るようになった。自分のこれからを見ていたってことかしら。

9. 『家事の記録』手仕事の所作について

今泉:最後にまだ完成していない作品について話していただきましょう。

時枝:1991年のころから撮りはじめた『家事の記録』というものがあります。これは小泉和子さんのお母さんの仕事ぶりを撮った映画で、映画というよりもフィルムに記録しただけのものですが、小泉さんのお母さんは当時70歳代後半になっていらした。小泉さんが、「日本の記録映画には庶民の生活史を撮った資料がない。明治、大正、昭和を生きてきた自分のお母さんの映像を撮って残したい」。そういうことからはじまって、岩田まき子さんがカメラで、今泉さんに音を録ってもらったのですね。これは本当にただただ家事を記録しただけなのですが、その方が住んでいる家は、戦後住宅金融公庫がはじめて融資して建てた18坪の家なのね。その家は、お母様が亡くなった後に、小泉さんが、昭和の暮らしの博物館にしました。そのお母さんの仕事ぶりを見ると、つまり『家事の記録』の映像を見ると、いろいろなことを考えさせられる。木のタライで洗濯しているのね、洗濯板でゴシゴシやって。そういう手洗いをして、それで1回のすすぎでほとんどの汚れがとれているのね。手仕事がいかに無駄がなく合理的なものか。そういうことが映像を見ていてわかる。

 昔はお酒やビールは木の枠に入っていたの。その木の枠が縁の下に突っ込んである。かまどでご飯を炊く。火を焚く時には、ビールの木枠をずるずると出してきて、折る。もう木がすっかり乾燥しているものだから、手でポッキンと折れる…膝に当てて折る…そういう所作のひとつひとつが、今の私たちにはないですよね。針仕事をする前に針の数を数える。着物はさんざん着たら布団にする。いいとこだけとって半てんにする。七輪の火の余熱をうまく利用する。仕事の段取りのつけ方や、材料の利用の仕方を見ると、ゴミは少ないし、とても賢い。だから古いとか新しいとかはどういうことなのかだとか、合理的ってどういうことなのか…考えさせられることが多かったな。今、この時代に戻れというのは無理だけど、知恵は受け継いでもいいと思いました。

今泉:漬け物、お節料理など食べものもずいぶん撮影しましたよね。おはぎをつくった時なんか、できあがったものを撮らなければいけないのに。食べちゃってから「あら、撮らなかった」なんて(笑)。そういうまぬけも結構やってましたね。

時枝:またおはぎ、つくってもらってね(笑)。でも、記録映画は“時代”を写してしまうから、あれも50年も経ったら大変な記録になるわね。

 


今泉文子 Imaizumi Ayako

1948年福島市生まれ。福島テレビ報道部勤務を経て、1972年よりフリーとして映像製作に携わる。1984年『育児の百科』で初めて時枝監督と仕事をともにする。1996年暮れ、岩波映画原宿分室を立ち上げ、医学ビデオ、国立天文台のすばるプロジェクトを担当。岩波映画倒産後はU.N. Limitedとして現在に至る。

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