english
日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 呉徳洙(2/2)

4. 在日仲間との出会い

門間:その頃はご結婚なさっていた。

呉:もうしてますよ。1971年に結婚ですからね。それどころか、子どもを2人抱えてね。そしてよく事情がわからないお袋が秋田米を30キロも送ってくれたんですよ(笑)。でもこれは涙が出るほど助かりましたよね。米と醤油と味噌ですよ。それが今でも忘れられなくてね。そんな形で6年闘って、解決して戻る戻らないという時に、500万前後の解決金が出たんですよね。それで、37、8歳で500万円を手にして、もう一回東映に戻るべきか、戻らざるべきか悩めるハムレットでした。その間に在日の若い連中とのつき合いも、結構始まってて。本国で1972年に「7・4声明」っていうのが出されて、南北の統一問題が話された時に、その「7・4」にちなんで、『まだん(広場)』という雑誌が出されて、それで南北を超えた在日の雑誌ってことでフレッシュな印象を与えた。それまでは金日成の『パルチザン闘争史』とか、プロパガンダ的なモノばかりが並んでる中で、フレッシュな印象を与える出版物が2つあって、ひとつは芥川賞をもらった李恢成の『砧をうつ女』と、もうひとつはその『まだん』という雑誌。私にとっては南とか北とか、共産主義とかなんだかんだっていうのはウンザリしていた時で、非常にフレッシュに受け止めましたね。その流れをくむ連中との付き合いがその闘争の間に始まったんですよ。私は高田馬場に居を構えてまして、たまたまその近くに『まだん』の編集部があったんですよ。早稲田通りに金大中の事務所の入ってたビルがあって、その同じビルに『まだん』の編集部があったんです。そこを訪ねて、それまで民団とか総聯とかしか知識がなかったのが、「在日ってこういう人たちがいるんだ」っていうことを初めて知ってね、非常に嬉しくなって、その連中とのつき合いが始まって。私の争議が解決した頃には『まだん』は終わっていました。それでその連中たちと今度は在日二世の手になる雑誌を作ろうじゃないかということになって…。争議は解決したものの、もう一度東映に戻るっていうのがどうも気が進まなくってね。また助監督とか始められるかっていう自分の年齢とか考えてね、結局“在日”ということを映画表現でやってみたいということで、東映には戻らずに解決金の一部をあてて、その若者たちと一緒に雑誌『ちゃんそり(小言)』という季刊誌を出すんですよ。これは結構評判になりました。

 “在日”そのものを映画で描いたのは1984年に撮った『指紋押捺拒否』が最初ですよ。そのあたりから何か私は“在日の”映画監督といわれるのですが、それが一番イヤでしてね(笑)。『在日』(1997)という映画を撮った映画監督だったらいいけど、“在日の”映画監督というと何か在日のことだけをやっている映画監督としか見られないというのが非常に不満ですね。

門間:ドキュメンタリーに進むきっかけというのは、ひとつは東映退社の問題と、在日の仲間との新しい出会いですか?

呉:それが一番でしょうね。あれから20数年になりますけど、東映に残っていたら生活の面では安定したでしょうけれども、『在日』や『指紋押捺拒否』を撮ることはなかったでしょうね。

5. “差別する”“される”という関係性では描けない“在日”

門間:東映時代にドキュメンタリーをやろうというお考えはなかったのですか?

呉:あまり考えてなかった。やっぱりいまだに劇映画はやりたいですよ。

門間:例えば、大島さんの『忘れられた皇軍』を見て、そういうドキュメンタリーに関心を持ったということはないですか?

呉:ないですね。『忘れられた皇軍』は嫌いな作品ではないけれども、何て言うか、大島さんのウイングが広がったのであって、やはり本命ではないと思いますよ。『ユンボギの日記』(1965)にしろ『忍者武芸帖』(1967)にしろね。やはり大島さんは『絞死刑』であれ『白昼の通り魔』であれ『戦場のメリークリスマス』であれ一貫して大島作品に通底するものってありますからね。

門間:具体的に作品のことをおうかがいしたいと思います。今も劇映画を撮りたいとおっしゃいましたが、例えば他の在日の監督が撮った劇映画とか、在日を撮った日本人の映画作品についての考えがあれば教えて下さい。

呉:「等身大の」って言い方がありますけれども、あれは93年ですか、崔(洋一)の『月はどっちに出ている』(1993)、これは脚本がしっかりしてるんでしょうね、とにかくマットに沈められたって感じでしたね。こんな映画ができるのかいなと、そして商品になるのかと。“在日”っていうのがどういう人たちなのかということが十分に理解されないままに、つまり十分に理解されなければ映画などというのは成立しないか、というとそんなことはなくて、どの程度理解しようが理解しまいが、観客というのはイマジネーションして観るんだよね。戦後50年近くもなりますと、在日という存在が日本という社会の中で“差別する”“される”という単純な関係性だけではなくなっているんですね。 当たり前なんだけれどね、在日が常に搾取される人間で、日本人が搾取する人間などという対立構造なんてことはね、簡単には見つからないわけで、在日は日本人では絶対にないけれども、もう朝鮮人というものでもなくて、いわゆる“半朝鮮人”というのかな、差別用語だと“パンチョッパリ(半日本人)”になっていて、『月はどっちに出ている』ではフィリピンというニューカマーを在日が搾取するという構造で描かれててね。在日に対する視点を作り手がキチッと持っているという意味では、正直言って舌を巻きましたね。もう完全にやられました。銀座ガスホールで試写会だったんだけれど、その時に崔監督には「完全に参ったよ」って話をしましたけどね、その日はなかなか眠れなかったですね、ひとつひとつのシーンが思い出されて。今では『パッチギ!』(井筒和幸、2004)とか、『夜を賭けて』(金守珍、2002)とか、『血と骨』とか色々ありますけど、やはりあれは金字塔だなと思ってて、あれ以上のものはもう作れないでしょうね。そんな感想を持ちました。もうひとつはこれも話題になった『GO』(行定勳、2001)ですね。これにもやっぱり参りましたよね。これは(脚本の)宮藤官九郎が落語好きで、朝鮮高校の生徒がウォークマンで落語を聞くというこのシチュエーションがなかなか面白くて。つまり在日が描かれる場合に、崔の『月はどっちに出ている』が出るまでは在日を異質な存在として描いてきたと思うんですよ。この人たちは差別抑圧されている可哀相な人間というふうな、時に啓蒙啓発の問題ではそういう視点も無視はできないけれども、それだけで在日を語れるかといえばとんでもないわけでね。つまり朝鮮学校にしろ朝鮮語にしろ、朝鮮の風俗習慣っていうのは在日にとっては、ほとんどが非日常なんですよ。だって日本人が例えば紋付き袴、夏になってちょっと花火大会に浴衣を着て行く。それで成人式には振り袖を着る。それが365日の中で非日常であるように。在日にとってこれまでチョゴリを着せれば在日であるというふうな、非常に安易な描き方をしてきたんじゃないか。例えば『エイジアン・ブルー』(堀川弘通、1995)、これも分かりいいからしたことなんだと言っちゃえばそれまでかもしれないけれど、祖国に帰る時に皆チョゴリを着てるというね、そんなバカな。当時のニュース映画を見たら、みんな国防色の服かモンペですよ。そりゃあもちろん、チョゴリを着た人も中にはひとりやふたりはいたかもしれないけど。なにか在日を描く場合に異質化した集団としてね、良きにつけ悪しきにつけ描くっていうやりかたをね、やっぱりぶっ壊してくれたのが崔の『月はどっちに出ている』であり、行定(勲)の『GO』であったと思う。この2本には頭が下がったというか、同じ映画人として、はっきり言ってジェラシーだね。よく若い連中には「私を嫉妬で狂わせるくらいの映画を見せてくれ!!」と言うんだけれどね。なかなかねぇ、最近そういう作品には出会わないものですから。そういう意味ではこの2本は私にとっては傑作として推奨出来ます。

6. えも言われない指紋押捺の記憶と『指紋押捺拒否』

門間:例えば『指紋押捺拒否』の場合は最初どういうきっかけで作り始められたのですか?

呉:中学2年生の時に尾去沢町役場の戸籍係で、父に連れられて回転指紋をとられてね。そりゃ映画の中でも出てくるけど、少女の細い指から指紋を採るっていうのはやはり異様なことで、戦後、人権を重んじる民主主義国家としてスタートしたはずの日本が市区町村役場でね、全国津々浦々で14歳になれば在日の子どもたち、つまり外国人の子どもたちから指紋を3年ごとに採っていたということがね、体験したひとりとしてね、その時のえも言われない感触っていうのはあるんですよ、いまだに。70年代になって、50数歳の韓宗碩(ハン・ジョンソク)さんという方が、自分はいいけれどもずっと自分の息子や娘たちが今後警察犯罪捜査に一番なじみのある“指紋”というものをね、住民サービスをモットーとする市区町村役場の戸籍係、ないしは外国人登録係のカウンターで採っているというのはやはり異様じゃないかと。韓さんはこれはもうやめて欲しいということで押捺拒否をし、80年代の指紋闘争のきっかけを作った方なんですよ。1960年代の後半から70年代の初頭にかけてなんですけれども、在日一世と二世の人口比が逆転するんですよ。祖国体験を持つ人たちが少なくなって、日本生まれの第二世代の、特に若い連中が押捺拒否の行動に立ち上がるんです。そういう動きをずっと見てますと、自分の体験と照らし合わせて、映画屋だったらこれをキチッとドキュメントしておかないとまずかろうという感じでね、1984年8月29日だったんですが、東京地裁で韓宗碩さんの有罪判決が下される日からキャメラを廻し始めたんです。はじめね、果たしてそれが作品としてまとまるかどうかってのは全然未知数だったけど、とにかく廻そうじゃないかって。去年の6月22日に亡くなった『世界の中心で、愛をさけぶ』(行定勳、2004)のキャメラマン・篠田昇に声をかけてとにかく廻してみようやって。

門間:では製作母体をOH企画として始まったわけですね。

呉:そう。金銭的な裏付けも何もないのにね。見切り発車ですよ(笑)。

門間:色々な人のインタビューがあるんですけど、一番印象深いのは、高校生の少女へのインタビューで、監督自身がマイクを持って話を聞きますよね。で、感極まった少女が涙をこぼすシーンがあって、あのシーンが一番光っていると思うんですよね。

呉:あの作品はドキュメントというよりも、ドキュメントに名を借りたプロパガンダ映画だよね。あの後指紋押捺年齢が16歳に引き上げられるんだけれども、権力っていうのは一度手に入れたものは絶対に放さない。こんないい装置はそうそう簡単に手放しはしませんよ。彼らの既得権?と言えばおかしいけれども、14歳がダメだったら16歳にしましょう、3年ごとがイヤだったら5年ごとにしましょう、とくるわけでしょ? 回転指紋がイヤだったら平面にしましょう。黒べったりがイヤだったら無色の水溶液にしましょう。もうとめどもなく“採る”ということだけは絶対にやめないですよ。それで『指紋押捺拒否 パート2』(1987)も撮ったんですけれども、その時は今度は「生涯で1回にしましょう」と。というふうに手を変え品を変え“採る”という行為そのものは変えない。それはやっぱりひとつには在日という存在がどういう存在かということを権力は良く分かっていて、かつての宗主国の、40年間も植民地支配した日本人の朝鮮人に対する管理政策として編み出されたものです。有り難くない機会均等なんだけれども、日本人だって戸籍謄本・戸籍抄本、それと住基ネット、もうがんじがらめに管理されているわけでしょう? かわいそうに…。国家から管理されるってことは一体どういうことなのかってことをこの映画を通じて、当時はそういう問題意識はなかったけれども、そこまで見てくれたらばいい話ができるんじゃないかなって思いますけどね。

門間:今観たらそう見える映画ですね。

7. 日本史として、女性史としての『在日』

門間:大作の『在日』ですが、これは元々は1995年の解放50周年記念に完成するはずだったんですね。

呉:今もずっと考え続けてるんですけど、先ほどの『月はどっちに出ている』とか『GO』、最近では『夜を賭けて』、『パッチギ!』とか様々ありますけど、抽象的になりますけど“在日”って一体何なんだっていうね、“在日”って誰のことを言うんだと最近は止めどもなく迷路に入っちゃうんだよね。国籍なのか血なのかルーツなのか、それら全部なのか。時が経つごとに見えにくくなっている。

 歴史には詳しくないんだけれども、今にいたる半島と日本の千年の歴史の中で、渡来人や漂流者、豊臣秀吉の頃に拉致された沈寿官を始めとした陶工たちなんかがいたわけだけれども、その人たちまで含めてルーツを探れば在日かというと、それはちょっと乱暴な意見でね。少なくとも近・現代史の中でロシアと日本が朝鮮半島の領有権をめぐって戦った日露戦争で日本が一応の勝利を収めて、1905年の乙巳(ウルサ)条約で朝鮮が日本の属国となって、1910年に始まる植民地支配によって併合されてしまった。そこから日本に出稼ぎとか一旗揚げようとか、学業を修めようとか、強制連行されたりとか、様々な人たちがいて、その人たちが1945年の日本の敗戦=朝鮮の解放によってほとんどの人が祖国に帰っていった。止むに止まれず、つまり帰りたいという思いはあるけれども、またいつかは帰ろうと思ってはいるけれども、嫁さんもらったし、子どもも産まれてしまった、家も建てた、事業もしている、そうそう風呂敷たたんで帰るわけにもいかないなぁ、という帰りそびれた人たちが、いわゆる在日なんだね。状況としては1950年の朝鮮戦争がかなり決定的だったと思うんですけれども、いくら故国でも戦場に向かって帰るなんてことはなかなかできないわけ。思いの差は別として日本の敗戦、つまり祖国の解放を迎えた時、皆んな故郷を想ったと思うんですよ。その人たちがその内にと言ってる間に戦後60年、解放から60年経って、世代はどんどん交代してしまって、死んでしまって墓も建ててしまった…、となると帰るったってねえ。時が経つとやはり思いとは別に現実問題というのがね。これからは移住という形で四世、五世の人たちがあちらに行くことはあるでしょうけど、それは“帰国”じゃなくて完全に“移住”でしょうね。映画『在日』では、チェーホフの『三人姉妹』の台詞「やがて時が来れば、どうしてこんな事があるのか、何のためにこんな苦しみがあるのか、みんな分かるような気がするわ」をパクってね。

門間:映画の冒頭に出てきますよね。在日とチェーホフは意外な組み合わせでしたが。

呉:これは私が大学3年生の時にチェーホフの『三人姉妹』見たんですよ。「これはいいフレーズだな、いつか使ってやろう」と思ってね(笑)。それから40年経ってようやく使えた(笑)。このフレーズにあるように、こんなにシンドイ思いをこれまでも私の父も母も朝鮮から玄界灘を船で渡ってきて、下関から各駅停車で何日もかけて、広島くらいで降りればいいものを、神戸、大阪、京都をずっと過ぎて、名古屋も過ぎて東京も仙台も過ぎて、盛岡を過ぎて秋田の鹿角まで来るなんてのは、何でだっていうね、この疑問なんですよ。そこで私という人間が生まれるわけだけれども。その疑問というのかな…。後から何故こんなにも映画づくりに突き動かされるんだろうかと自己分析してみるとね、どうもその辺りなのではないかと思います。ひとつには、もちろん作品づくりを色んな連中と約束したってことはありますけど、もうひとつには背後霊のようにね、講演や舞台挨拶でもしゃべらせてもらってるんだけど、例のポスターにあるこの人たちの背後霊がつねに私の背中にまとわりついてね、「ちゃんと作りなさい」と言われてるような気持ちでやらせてもらったんですけれどもね(笑)。

門間:製作費はどのくらいかかったんでしょうか?

呉:トータルで1億ぐらいでしょうか。製作期間が長すぎましたから。1995年、つまり戦後50年に公開の予定だったのが2年も過ぎて、ウチのカミさんに「もういい加減になさい! あなただけのモノではないでしょう。どれだけの人に金銭的な迷惑、労力の迷惑をかけてるか、おわかり?」って叱られちゃってね。あれがなかったら、いまだにやってたね(笑)。

 サイズのことを大島さんに学んだと言いましたけど、ここで学んだことは、作品は手を抜いちゃダメだってことですね。やはりこだわり続けたものは見る人はキチッと見てくれますね。例えば、土本(典昭)さんが共同通信に書いてくれた映画評は抜群でね。非常によく練れて、あれだけ切り込んで書いてくれたらどっちに評価が分かれてもいいというくらい見事な映画評でしたね。それから一般客の評価で多いのが“在日”という存在を借りて日本の戦後史を描いてますねって。私にとっては、これは最高の誉め言葉なんです。それを土本さんも書いてたし、色んな方がそういう手紙を寄せてくれる。確かに“在日”を描いているんだけれども、じゃあ、これは朝鮮・韓国の歴史の1ページかというとそうじゃなしに日本の近・現代史そのものなんですよね。

門間:日本史を構成する要素ですから日本史ですよね。

呉:日本史なんですよ。きっとこの切り口でいえば“沖縄”という切り口もできると思うんですよ。それから“障害者”“女性”という切り口もね。じゃあ、それは女性史かと言えば、それも日本史のひとつだと思うんですよね。観てくれた新聞記者たちも一般の観客も『在日』を通してそのことを感じたということでね。私にとっては一番嬉しい評価でしたね。

門間:秋田市で上映した時に僕の叔母たちが観たんですが、やっぱりそういう感想を言ってましたね。特に田沢湖とか秋田が出てきますから。やっぱり在日というとどうしても大阪とか東京とか非常にコミュニティとして大きいところがとりあげられますけど、いきなり青森駅前の市場とか筑豊とか地方に行きますよね。それは凄く新鮮でしたね。
呉:大阪とか名古屋とか、一部広島は出てきますけど、そういうのは今までNHKをはじめ、よくやるように、コリアンタウンを写していれば何となく画として収まるけど、そういうのは今回の映画ではやめようと。できるだけ全国津々浦々、自分が秋田だからということじゃなく、河正雄(ハ・ジョンウン)という二世をとり上げたら、彼が田沢湖、生保内(おぼない)の出身だったものだからね。それで各地方に、青森だとか金沢だとか九州とかあちこちのね。そういうことではロケ費も結構馬鹿にならなくてね。

門間:劇映画の在日っていうのは関西弁とか広島弁が多いんですよね。そこで、いきなり青森駅前で津軽弁しゃべっている在日を見るとちょっと意表を突かれますね。次回作はそのような作品になるのですか?

8. 次回作について

呉:2つあって、ひとつはちょっと教材っぽいんだけど“在日”ということを切り口に今回のこの『在日』とは違う、10巻ぐらいのヴィデオ(DVD)にまとめたものを制作してみたい。これは私がプロデューサーとしてやってみたいと思ってるんだけど。在日の歴史というのをあまりイデオロギッシュじゃなくて、日本によって植民地化され、搾取・差別され拉致されったっていう事実はキチっと描くが、それだけではない、もう少し俯瞰図で見た、批判を浴びるかもしれませんけども、そういうのをキチッと作ってみたいですね。いわば映像による「在日歴史教科書」(決定版)というものをね。それともうひとつは、李恢成さんのタイトルをまねるんだけれども『百年の旅人たち』。世界の人たちっていうのは、民族の大移動も含めて、結構旅してると思うんだよ、千年、二千年のね。イスラエルなんて特にそうなわけで。だから在日も小さな旅に見立ててね、我々は旅人だと。その旅はいつ果てるとも知れぬ旅かも知れないけれども、そういう日本の近・現代史の中で生まれ落ちた我々を旅人に見立てた百年、1905年の乙巳(ウルサ)条約からちょうど百年が今年なんですけれども、1910年の日韓併合から数えて、5年後の2010年が百年なので、先ほどの教材的なものとは違った『在日パート2』みたいなもので、2時間くらいの長編ドキュメント叙事詩の企画を進めております。特に戦前のあり様に重きを置いて。例えばこれは噂なんだけれど、1909年のハルビン駅で安重根(アン・ジュングン)に撃たれた伊藤博文が倒れている決定的なフィルムがロシアにあると聞くんですよね。

門間:それは聞いたことないですね。安重根が官憲に連行される映像は見たことはありますが。

呉:だからそれがモスクワの倉庫に寝てるとかいう、こういう話ってガセが多いんだけども。そういったネットワークを広げて、丁寧にそういう貴重なフィルムを集めてみたい。最近見たやつでは満映(満洲映画協会)のフィルムで朝鮮学徒兵たちが宮城前広場で宣誓をしているとか、そういう画って結構あるんですよね、そういうのも丁寧にピックアップしながら、在日百年というものをやるべく進めてるところです。これを完成させないことには死んでも死にきれない(笑)。

(2005年7月15日)

※システム環境やWebブラウザによっては表示されない漢字があります。


門間貴志 Monma Takashi

秋田県潟上市生まれ。特に韓国・北朝鮮映画を専門とする映画研究家で、現在明治学院芸術学科で日本を含めたアジアの映画史を教えている。YIDFF '97「大東亜共栄圏」と映画のコーディネートを務める。著書は『アジア映画にみる日本』(社会評論社)他。

[戻る]