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YIDFF 2009 アジア千波万波
馬先生の診療所
叢峰(ツォン・フォン) 監督インタビュー

診療所はひとつの舞台のようなもの


Q: もともと、気象局にお勤めになっていた監督が、どういったきっかけで、このドキュメンタリー作品を撮られたのでしょうか?

CF: 気象局では仕事がとても退屈で、もっと有意義な人生を送りたいと悩んでいました。2000年に決意して仕事をやめ、甘粛省の黄羊川の小学校の先生になりました。その時に見た甘粛農村の風景はとても不思議で、北京とは大きく違っていました。村のことを知れば知るほど表現する意欲が強まって、現地の生活環境を映像として残したいと思いました。しかし、当時はお金も機材も映画の知識もありませんでした。1年後、北京に戻って新聞社に就職し、稼いだお金で自分の撮影機材を買いました。2005年、私はもう1回甘粛省黄羊川に行って、少しずつ現地の人々の生活を撮りはじめました。その頃、知人から馬先生の診療所の話を聞いて、撮影対象として非常に魅力的な空間だなと感じました。これがきっかけです。

Q: この作品を見ていて、肉体的に疲れを感じるほど長いなと思う方もいると思いますが、これについて監督さんはどのようにお考えでしょうか?

CF: お気づきかもしれませんが、この作品の中で、三脚を使って撮ったシーンはほとんどありません。もちろん撮影対象に近づこうとする時に、三脚は邪魔になってしまうという理由もありますが、もっと大事な要因があります。私は診療所という空間の中で、患者たちにとって最も無益な存在です。だから撮影の際の原則は、たとえ見映えの良い場面が取れなくても、カメラの位置取りのために診療の邪魔はしないということでした。手持ち撮影は体力的には大変で、前の夜にお酒を飲んだ時は、なおさらひどいです。しかし、三脚を使って楽をしながら、患者たちの苦痛を撮ることに、私は抵抗を感じるし、不道徳にさえ思えました。この作品は、最初5時間のバージョンでしたが、今は3時間半に編集しています。ほとんどの人は、見ていて肉体的な疲弊や、一種の苦しみを感じるでしょう。それでも構わないです。この作品を通して、見る人に娯楽や楽しみを与えるつもりはありません。むしろ、患者の苦痛・中国農村の苦痛を、こういった形で観客に感じてほしいです。ですから、私はこの「苦しみ」は公正なものだと思います。

Q: この作品は「病」というテーマをめぐって展開されていますが、馬先生はこの診療所の中で、どのような存在として認識されていますか。

CF: たとえばですね、キリスト教の牧師は、実際に人の病気や苦痛を治すことができなくても、悩みを聞いてあげることによって、人々の心を癒し、苦しみを和らげることができます。それと同様に、馬先生はお医者さんだから、皆に信頼されます。患者たちは病気の話をするうちに、自然と悩みや相談もしに来るわけです。診療所はひとつの舞台みたいなもので、馬先生はこの中で司会のような役割です。作品は馬先生からはじまりますが、彼は進展に従って、だんだん患者ひとりひとりを繋げる脇役になっていくのです。

Q: この作品を、誰に一番見てもらいたいですか。

CF: 現在、政府の様々な制限もあって、このような農村問題を扱う作品は あまり上映できないのです。私はより多くの中国人に見てもらい、中国農村の現状を知ってもらい、彼らが自身の日常について、振り返って考える機会になればと思います。また、映画の中でも見られたように、近年、黄羊川のような地域では若年労働者は都市に出稼ぎに出て、農村の郷土文化は都市化の進展によって消滅しつつあります。この「侵食」のプロセスを記録し、作品として残して、未来を生きる中国人たちに見てもらいたいです。

(採録・構成:解明明)

インタビュアー:解明明、鈴木大樹
写真撮影:伊藤歩/ビデオ撮影:伊藤歩/2009-10-10