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YIDFF 2013 インターナショナル・コンペティション
殺人という行為
ジョシュア・オッペンハイマー 監督インタビュー

暗い鏡に映し出されるもの


Q: しばしば挿入される、サイケデリックなイメージを持つ極彩色のシーンは何を表しているのでしょう?

JO: これらの場面を挟むことによって人生の中の詩的な部分、自分たちが語る物語に人がどのように溺れていくかを表したかったのです。それがあるから、社会にはこれだけ暴力がはびこっていても、人間は楽観的でいられるのです。大口を開けた巨大な魚の建物は、かつてシーフードレストランだったものです。ヘルマンはもともとパンチャシラの劇団員の女形でしたから、あのような格好をしています。これらはすべて加害者たちによる提案です。ほかにも多くのアイディアをもらいました。

Q: 監督は、アンワルら加害者たちと強い信頼関係を結んでいますね。

JO: わたしは虐殺についての率直な意見をアンワルに伝えていました。彼もまた、自分の痛みと向かい合おうとしていました。映画は、彼が殺人という行為の本質を考えるよい機会だったと思います。彼は「虐殺は間違ったことだがやらなくてはいけなかった」と最後まで言っています。嘔吐のシーンは―彼は使われると思っていなかったかもしれません―過去の亡霊を吐き出そうとしていたのだと、わたしは思います。しかし何も出ません。彼自身が亡霊だからです。わたしたちは“自分たちの過去そのもの”なのです。

Q: 舞台はインドネシアですが、一国の内政事情にとどまることなく、広く倫理の問題を追究しているように思われます。

JO: 観る人に理解してほしかったのは、過去に犯した行為に関して、加害者たちが自分の中の罪悪感と、どのように共存してきたかということです。確かに1960年代のインドネシアの内政を描いていますが、そこにとても暗い鏡を置いて、わたしたち自身の姿を映しています。人は皆、自分の中にある悪の部分について罪悪感を持っています。持っているからこそ、それを感じないために物語を語るのです。なぜ、アンワルのような悪人を撮れるのかと言う人がいますが、それは彼が悪人である前にまずひとりの“人間”だからです。わたしは、彼らを善悪の基準以前に、ある普遍的な“人間”としてとらえています。善悪の基準とは何か。一方に共感するからといって他方に共感しないということではない、加害者に共感を覚えるからといって被害者を悼まないということではないのです。だから次作では、ある被害者の家族に焦点を当ててみたいと考えています。

Q: クレジットの「ANONYMOUS」の列挙は、制作当時の状況を端的に反映していると思いますが、この映画はインドネシア社会にどのような影響を与えましたか?

JO: 以前は、虐殺は共産主義者に対する歴史的な勝利と言われていました。真実が覆われた暗闇の時代が、かつてはあったのですが、今ではすっかり変わりました。わたしの映画は虐殺前・虐殺後をくっきりと区分けするものだと、ある編集者が指摘しました。これまではわかっていても恐怖に駆られて言えなかっただけでなく、思い出すことすらできなかった。それがようやく恐れずに話すことができるようになったのです。「王様は裸だ」と言明するのがこの映画なのです。現在では、各地で自主上映会なども開かれています。

(採録・構成:吉田未和)

インタビュアー:吉田未和、森川未来/通訳:山之内悦子
写真撮影:柴崎成未/ビデオ撮影:仲田亮/2013-10-12