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公開講座:わたしのテレビジョン 青春編


牛山純一


木村栄文

萩元晴彦・村木良彦

工藤敏樹

共催:山形大学、東北芸術工科大学


 1960年代から70年代、凋落していく映画産業と入れ替わるように、テレビジョンはマスメディアとして急成長を遂げた。テレビ・ドキュメンタリーの青春時代ともいえるこの時期、各局は競い合うように野心的な番組を数多く生み出していった。本特集の上映作品はそのほんの一部である。

 これらの作品が、テレビ番組として全国のお茶の間で流れていたということに驚くかもしれない。なぜこれほどまでに自由で実験的な番組が作られていたのか? 高度経済成長期、政治の季節といった時代背景によるものか。いや、理由はいくらでも挙げられるだろうし、そのどれにも一理あるだろう。いまや闘いと挑戦の日々は遠い過去となり、視聴者やスポンサーの要求に応えながら、コンプライアンスの遵守に追われる自主規制の時代となった。

 では、古き良き時代は終わったと、若く熱い青春は過ぎ去ってしまったと、ため息をつくことしかできないのか。否、だからこそ、いま再び見ることの意味を問いたい。あらゆる文学や映画は、時代を越えて繰り返し読まれ、見られることで、何度でもよみがえり、系譜は引き継がれ、新たな潮流を生み出してきたのではなかったか。テレビジョンもまた然りである。

橋浦太一

 


 山形国際ドキュメンタリー映画祭で、初の本格的なテレビ・ドキュメンタリー特集が開催される。これまでテレビでは数多くの優れたドキュメンタリーが制作され、放送されてきた。そのなかにはいま見ても新鮮な輝きを放つものが少なくない。しかし、現状では、ごく一部のライブラリーでの公開や上映会を除いて、過去のテレビ・ドキュメンタリーを見る機会はほとんどない。この特集は、日本のテレビ・ドキュメンタリーの歴史に新たな光を当てる画期的な試みとなるだろう。

 今回の特集では、主に1960年代から70年代に制作された代表的なテレビ・ドキュメンタリーを一挙に上映する。この時期は、安保闘争やベトナム反戦運動、大学紛争などが吹き荒れた“政治の季節”だった。また、高度経済成長は日本の都市や農村の風景を猛烈な勢いで作り替えていった。カメラの先には、常に衝突や変化があった。草創期のテレビの作り手たちは、これらの現実にどのように向き合ったのだろうか。

 1953年のテレビ放送の開始から間もなくして、NHKでは、テレビ・ドキュメンタリーの草分けといわれる「日本の素顔」(1957−64)がはじまった。ラジオ出身の吉田直哉や小倉一郎は、映画とは異なるテレビの可能性を追求した。小倉の『奇病のかげに』(1959)はテレビで水俣病をいち早く取り上げた作品として知られている。その後、「日本の素顔」は「現代の映像」(1964−71)と「ある人生」(1964−71)という2つのシリーズに引き継がれていく。この時期、NHKのドキュメンタリーを担う中心人物のひとりだった工藤敏樹は『和賀郡和賀町 1967年夏』(1967)、『富谷國民学校』(1969)、『新宿 ― 都市と人間に関するリポート』(1970)などで、急速に変貌する都市と農村の軋みを映像と音声でモンタージュし、注目を集めた。

 日本テレビでは、プロデューサーの牛山純一率いる「ノンフィクション劇場」(1962−68)が大島や土本典昭といった個性的な監督を映画界から招き入れ、作家性のある番組を次々に作り出していった。大島が日本兵として戦った韓国籍の傷痍軍人を取材した『忘れられた皇軍』(1963)、ダム建設に反対する老地主を描いた『反骨の砦』(1964)、土本が水俣とはじめて向き合った『水俣の子は生きている』(1965)、港湾整備のため退去を命じられる戦後の引揚者たちを取材した『市民戦争』(1965)、放送中止事件を引き起こした牛山の『南ベトナム海兵大隊戦記』(1965)など、高度経済成長下で忘れられつつある人々の姿を描いた番組がとくに印象深い。

 TBSでは「カメラ・ルポルタージュ」(1962−69)に加えて、「現代の主役」(1966−67)や「マスコミQ」(1967−69)で実験的な試みが盛んに行われた。その中心的存在だった萩元晴彦や村木良彦は有名な『あなたは…』(1966)や『ハノイ 田英夫の証言』(1967)で、同時録音による生中継風ドキュメンタリーの手法を開花させ、ドキュメンタリーの方法論を新しいテレビ論へと発展させていった。彼らが書いた『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(1969)は、テレビ論の古典として現在まで読み継がれている。

 ローカル局でもこの時期、数多くの優れたドキュメンタリーが作られた。なかでもRKB毎日放送(福岡)の木村栄文は、その独特の作風を駆使して、地域の姿を見つめ続けたドキュメンタリー作家である。水俣を舞台に作家石牟礼道子の作品を映像化した『苦海浄土』(1970)は、ドキュメンタリーに積極的に俳優を起用したことでも話題になった。また閉山を控えた筑豊の炭坑を描いた『まっくら』(1973)では、木村は取材者である自分を自虐的に川底に突き落とす。いま改めてこれらを見直してみると、その自由で型破りな表現のスタイルに驚かされるだろう。

 1953年の放送開始以降、日本のテレビ放送は高度経済成長期の中で急速に拡大していった。草創期のテレビ制作者たちは、既存のメディアである映画やラジオ、演劇や文学から貪欲に学びつつ、テレビジョンが持つ新たな可能性を模索していた。そこからは鋭い批判精神や実験的な試みといった作り手たちの試行錯誤の跡を見てとることができる。テレビ・ドキュメンタリーはどう時代に向き合い、何を世の中に問いかけてきたのか。果たしてその自由な批判精神やチャレンジ精神は現代のテレビの作り手たちに受け継がれているだろうか。先駆者たちの軌跡を辿りながら、改めて考えてみたい。

東京大学 丹羽美之