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あるアジア映画の始まり
――ラオス、過去と現在

ソン・オク・スティポヌ


 今日、アジア映画が世界中で祝福されている。しかし、中国、日本そして台湾といったような限られた国々しか国際的注目を浴びていないという事実は忘れられがちのようだ。それ以外の国々―私の国ラオスを含めて―では、古くからの豊かなビジュアル文化がありながらも、経済的理由などから、自国の映画を築き上げようと闘っている真只中なのである。

 ラオスは、小さく、陸に囲まれた多民族国家である。450万人のラオス人の社会的、文化的そして経済的発展は、長い植民地支配と、30年に渡るインドシナ戦争によって阻まれてきた。不運なことに、ラオス映画に関する資料はほとんど存在しない。正確に誰がいつ何をした、ということに関しては、大方が謎に包まれたままである。いままでに12本の劇映画が作られたということは分かっているのだが、残念ながら今日残っているのはそのうちの3作品だけである。最も古いドキュメンタリー映画は1956年に作られ、かつての王室一家の貴重なフッテージが挿入されている。劇映画の第1作目は1960年に撮影され、『Fate of the Girl(少女の運命)』という題がつけられた。国立映画アーカイヴには約9千リールが保管されており、その中にはラオス、ヴェトナム、ソヴィエト、そして東欧の撮影クルーによる作品が含まれている。

 私はラオスでは唯一プロとして活動するインディペンデント映画監督なので、私の事例をお話しすることで、ラオス映画の過去と現在についての大半を語ることができるであろう。まずはじめに有効かと思われる話は、もともと私は法律の勉強を志していたのだが、革命が勃発し、1977年、チェコスロヴァキアにて映画製作を学んでくるよう政府から任命を受けたのである。映画作家になることは私の第一希望ではなかったが、その時点では外国で何かを学びたいという意欲があったため、同意することにした。それが、9年間のプラハ生活の始まりだった。

 私はシャルル大学芸術・音楽学部の映画・テレビ学科に籍を置き、ヤン・マケーン氏のもとで撮影の勉強をした。マケーン氏はプラハのバランドフ・スタジオ一の有能なカメラマンであった。9年間の外国生活というのは長いものだが、当時のプラハでは他にも50〜60人のラオス留学生がいたため、孤独に感じることはなかった。私を含めて6名のラオス留学生がシャルル大学で映画の勉強をしていたが、私以外はフランスやドイツやスイスに発ったり、またはラオスに帰ったりしたため、卒業をしたのは結局私だけであった。

 6年間祖国を留守にした後たった一度故郷に帰ったことがあるが、それはラオスについてのドキュメンタリーを撮影するためであった。結果的にその作品は私の卒業制作『Country of a Million Elephants(百万の象の国)』となった。この作品は、16ミリで撮影されたかなり出来映えのよいもので、1986年に完成し、その後チェコスロヴァキアでテレビ放映された。卒業論文は、ラオスと東南アジア映画についてチェコ語で書いた。

 ラオスに最終的に戻ってきたのは1987年で、ラオス国営テレビ局の監督・撮影技師として働き始めた。ほとんど製作費もない状態で、作った作品といえばラオス北部ルアンプラバンについてのいわば“観光・政治的”と形容されるもので、これには満足しているとは言い難い。大学で知識を身につけた私としては、もっと質の高い作品を作りたかったからだ。

 そこは2ヵ月で辞め、新しく設立されたラオ・シネマトグラフィー国営企業で働くようになったが、そこで私が知り合ったラオス映画監督たちは、ロシア、ブルガリア、ハンガリー、インドそしてチェコスロヴァキアで勉強をしてきた人々だった。1987年、私は2本の35ミリ作品を製作した。1本はカラーでビエンチャンの共産党会議に関するもの、そしてもう1本は白黒で『レッド・ロータス』("Boa Deng")という。1975年の革命以降ラオスで製作された劇映画はたった2本であるが、『レッド・ロータス』はそのうちの1本である。もう1本は、1983年にソムチス・フォルセナが製作したカラー35ミリ作品『壷の平原からの銃声』だ(この作品はラオス人民軍隊の第二大隊の勇敢な兵士たちの話で、残念ながら検閲に通 らなかった)。

 一方『レッド・ロータス』は革命のラブ・ストーリーで、米国が後ろ楯しているラオス王宮政府の崩壊前夜のとある田舎町を舞台としている。現在私の妻であるソムチス・ヴォンサム・アンが演じるボア・デンが、村の少年カマンに恋をするが、政府のスパイである継父の策略もあって、カマンの家は急襲を受け、パテト・ラオのために闘おうとするカマンは村を出ていかねばならない。カマンのいない間、ボア・デンは村の裕福な男と結婚させようとする両親の企てを拒む。カマンが村への共産党の襲撃を率い、ボア・デンの継父を殺すことで、二人は再び一緒になり、ボア・デンの愛が証明されることになる。

 シンプルな話ではあるが、この映画はラオスの生活・文化諸相を表現している。例えば、伝統的な結婚式のシーンがそれだ。また、きわどい題材をいくつか取り上げているのも事実である。倫理的に腐敗した反動勢力を批判しているのに加えて、ボア・デンがサロンをまとい入浴しているところを隠し撮りするような、継父の淫らな感情をも取り上げている。

 83分という短さではあったが、『レッド・ロータス』を製作するのは本当に大変であった。それは、私たちが何も持ちあわせていなかったからだ。ラオスでこのような映画を製作するには、資金のないことが大きな問題であった。『レッド・ロータス』はわずか5000米ドルで製作されたが、回していると勝手にスピードが速まる傾向のある第二次世界大戦時のソヴィエト製カメラを使わなければならなかったし、出演者には無料で働いてもらわねばならなかった。その限られた資金で22日間行われた撮影では、正直言って自分が撮りたかったものすべてを撮れるというような状況ではなかった。撮影はビエンチャンだったが、現像と編集はラオスでは機材不足のため、ベトナムのハノイで行われた。

 私はもともと『レッド・ロータス』の監督をやる予定ではなかった。ロシアでドキュメンタリー映画を勉強してきた同僚がメガホンを握り、私が彼のカメラマンとして働くはずだったのだ。しかし、その監督は何をしたらよいのか分からなくなり、私が共同監督にあがったのである。撮影が始まる頃には、彼は私の助手となってしまい、映画が完成する前に現場を去ってしまった。

 1988年、『レッド・ロータス』は地方上映される前にビエンチャンの映画館で2週間上映された。作品は困難な状況のもとで製作されたが、1989年には旧ソ連邦、94年に日本[アジアフォーカス・福岡映画祭]、95年にタイ、97年4月にはカンボジアで上映され、ことにカンボジアのプノンペンでは初めての東南アジア映画祭において審査員特別賞を受賞したことを、うれしく思う。多くの観客にとって、私の作品は初めてのラオス映画であり、またラオス文化の諸相に初めて触れる機会でもあったのだ。

 『レッド・ロータス』製作の経験を通して、私はラオ・シネマトグラフィー国営企業から離れて活動した方が成功するであろうと感じた。本当にやりたいことをやる唯一の道は、インディペンデントになることだと直感したのである。そこで私は1989年に、自分で小さなビデオ製作会社を設立するという希望のもと、ラオ・シネマトグラフィー国営企業を離れた。しかし、資金の問題は消えず、私は映画史上ユニークと言えることを実行した。ビエンチャンのサイロム街にパン屋を開いたのである。私の映画への愛情は本物だったが、独立して映画を製作するには資金を稼がなくてはならなかったのである。

 幸運なことに、妻と経営するパン屋は繁盛し、5年ほど一生懸命働いた結果、プロ仕様のビデオカメラを購入し「ラオ・インター・アーツ」という自主製作会社をビエンチャンに構えるだけの資金がそろった。しかし、最初の作品に取り組むにはまだ外部の助けが必要であった。幸いにも、その助けはすぐに得られた。

 フォランコフォニーでは、仏語圏46ヵ国において、「運動」をテーマとした作品の脚本コンテストを行っていた。私は題材として、ボケオ郡ホーアクサイ地方にあるバン・ナン・チャン村に住むレネテヌ民族を選んだ。レネテヌの人々は山の一部を切り倒し焼き払いながら1〜2年ごとに移動を続け、最終的にもと居た場所に戻る、という生活の周期を持っているが、その動きはこの民族の若い男たちが行う伝統的なゲームにおいて木製の独楽が周期的に動かされるのと似ているのである。幸運にも、私の応募した脚本は6位、つまり受賞できる最下位であったが、4万フラン(16,000米ドル)を獲得した。この賞金で、私は26分のUマチックSPドキュメンタリー作品『レネテヌの独楽』を1993年に製作した。

 私の製作クルーはレネテヌ民族と10日間を過ごしたが、最初の3日間はレネテヌ民の信頼を得ることだけに費やした。贈り物として持っていったフランス製の薬が、レネテヌ民の了解を得るのに役立った。結局のところ、撮影は精霊をなだめる儀式を行った後に開始された。毎日撮影したものをレネテヌ民族に見せたが、彼らの多くは自分の姿をテレビモニターに見ることは初めてであった。

 完成されたビデオ作品は、1994年7月パリで行われるフランス語圏文化祭での出品作として選ばれ、殊勲賞を受賞、これは私の製作会社にも、ラオス映画にとっても、非常に名誉なことであった。独立系として良いドキュメンタリーを発表していこうという自分の探究心のもとに前進していく自信にもなった。その後『レネテヌの独楽』は山形国際ドキュメンタリー映画祭'95の「アジア百花繚乱」部門で上映された。

 私の一番新しいビデオ作品(1997年3月に完成)は、ラオスの伝統的舞踏についての短い文化ドキュメンタリー『Lao Lamvong』である。第1回東南アジア映画祭ではコンペティション外で上映され、評判も良かったが、私の中には『レッド・ロータス』の成功に続く2本目の劇映画を作りたいという、いわば避けがたい思いがあった。

 私は、友人間のあらゆる状況においての関係をテーマに、120ページにわたる脚本を書き終えた。特に、若い人と年配の人という人生のちがった状況の中で、お互いがどう相手のことを考えているのか、ということに焦点を当てている。仮題は『Given Time(与えられた時間)』("Kala Vela")という。

 この作品を実現させるのはとても大変なのである。ラオス内の市場は狭く、国内配給だけで元手をとるということは不可能である。政府の援助または外国からの投資など、外部からの助けが必要となる。しかし、政府による映画製作というのは通常年に1〜2本と限られていて、政府会議や州の祭事が題材になるだけである。近年、ラオス政府は映画製作を援助する意向を示したが、国がもっと緊急な問題を抱えている限りは、ラオス映画というのは数人のラオス人映画監督の頭に描かれる夢でしかない。ラオスよりも豊かな国々が映画産業を持続できないとしたら、私たちはどうやってラオス映画の存在を信じることができようか。

 ラオス映画というものは、本当に存在はしていない。私の他に、独立系の映画作家がいないからだ。「ラオ・インター・アーツ」の9人は、全員が情報文化省を辞めて会社の設立を手助けしてくれた。9人ともブルガリア、ロシア、チェコスロヴァキアなど海外での教育を受けている。私たちが唯一望むことは、共同製作、つまり外国の資本100%とラオスの人材100%とで、ラオス映画界がこの職人たちが活躍する場を、少なくともほんの少しの間、よりよい日々が訪れるまでの間、提供してくれることである。

 私たちは、ささやかな努力とともに、国内におけるラオス映画文化の育成の手助けになるよう願っている。インディペンデントで、国としてのラオス、人々、古くからの文化と芸術などの要素を取り込んだラオス映画である。そしてさらに私が望むのは、近年のアジア映画賞賛に、ラオス映画が含まれるようになることである。

 さて、そろそろパン屋にもどって、資金集めに精を出さなくては!

 


編集者注:

本記事は、『Documentary Box』編集者のアーロン・ジェローが、スティポヌ氏の原稿をもとに書き上げたもので、スティポヌ氏による最終的な了解を得ています。参考文献は以下の通りです。

David Brane, "Success for Laotian Film-maker," Bangkok Post, 27 September 1994.

Woranant Krongboonying and Bhanravee Tansubhapol, "Film Festival Breaks New Ground," Bangkok Post, 28 Fenruary 1995.

Mima, "Lao-Inter Arts Inc.," Vientian Times, July 29-August 4 1994.

(訳:田中純子)