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インタビュー キム・ロンジノット(2/2)

3. 映画作りについて

ST:キムさんの映画はエンターテインメント性があって、観ている人が笑ったり心を動かされたりしますね。映画自体はとっつきやすく、でも同時にその中に伝えたいメッセージが込められているのは明確ですね。娯楽性とメッセージのバランスについてはどう見ていますか?

KL:『新宿ボーイズ』を撮ったときは明らかに、このボーイたちをポジティブに写 そうっていう考えで進めていたし、一番言いたかったのもそのことなの。でも、どの作品を撮るときも旅路みたいなもの。撮影することで自分自身が変わっていくし、自分も向こうを変えていく。だからどんなものが観客にインパクトを与えるのかはっきり分かってる、なんてことはないけれど、できるだけ楽しく観られるものを作ろうっていう努力はする。でもね、例えば女子プロレスの映画(『GAEAガールズ』、2000年)で撮影したシーンで、もう見るに耐えられないくらい苦しそうなものもあって、撮影から帰るとそれで私たちが泣いちゃうこともあった。だから、観客が最後まで観た時点で、心をズタズタにされたってコトにはしたくないよね。作品を観ることは楽しい過程でなきゃならないから、楽しい要素を練りこんでいくっていうのが編集のひとつの作業でもあるの。

ST:『イラン式』は悲惨なシーンもあれば、判事が笑ったり、書記官の娘が判事の真似事をしたりするシーンもあって、ユーモアがかなり入ってますよね。撮影する時に、ユーモアについては考えますか?

KL:もちろん。『イラン式』では判事を選んだ時に考えたわ。アヤトラ・ホメイニ師のような判事は撮りたくなかったの、誰もが想像できるようなタイプだからね。あんな判事ばかりじゃなくて、(撮影した)デルダー判事のような人だってホメイニ師タイプと同じくらいいるわけ。それにクルーは毎日裁判所で判事と過ごしているわけだから、判事とも何らかの関係づくりをしていかないといけないでしょ。法の行使に迷いを見せたり、自分自身に疑問や問題点を抱えている判事っていうのは、物事を一点からしか考えられない判事よりもよっぽど面 白いと思ったわ。だってこの映画は、女性も変わる、社会も変わるっていうなかでいかに古い体制を押し着せていくかっていう苦闘を描いてもいるのだから。だからデルダー判事を選んだのは、そういう軽いタッチを入れたかったから。移り気ぽい人だったし。(秘書の)マヘール夫人もいたし。

ST:何だか全て交渉、ネゴシエーションの世界という感じですね。夫は妻と交渉し、判事は法律と交渉する…。デルダー判事がミリアムを刑務所に送還して5日間拘置しようとするエピソードなんか、実際は1日だけ拘置してそのあと家に帰しちゃうあたりが、いい例でしたが。

KL:それはほんとにぴったりの例。だって判事はミリアムを刑務所送りになんかしたくないわけだから。だから彼が(ミリアムが離婚状を破ったかどうかを)私たちに聞いてきた時は(破っていないと)嘘をついたし、それがいけないのも分かってる。他の映画祭でよく聞かれるのは、観客のなかから、「ちょっと、あんたたち単なる映画監督で、裁判の方向性を変えてしまうような権利なんかないじゃないか、ちゃんと判事に『ミリアムが破ったのを見ました』って言うべきだったよ」って、嘘をついたことに対して反論があがる。でも「破りました」とはとても言えなかったの、だってミリアムには刑務所に行ってほしくなかったから。そのためにならいくらでも嘘はついたと思うし、同じように嘘をついたジバのことも誇らしく思ったわ。判事は私たちクルーの存在を、言い訳にしたかっただけなの。判事はいやなヤツじゃなくて、やさしい人だったけど、やっかいもののミリアムには腹を立てていた。だから判事はミリアムを戒めたかっただけで、なにも刑務所に送ろうとは思っていなかったの。我々のせいにできることが便利だったみたい。

ST:カメラワークからして、撮影空間のなかにクルーがいることがよく分かりますね。カメラは固定されていて、夫、妻、判事、というふうに順繰りにカメラが動いていく。クルー自身が写 ることはないけれど声は入っていますし、判事も女性たちも、カメラの方を向いて話しかけることがありますね。それで結局クルーの存在が実際裁判の結果 に影響することもあったよね。裁判が執り行われる小さな空間のなかに映画監督として加わっていて、同時に審議に参加してもいることについて話していただけますか。

KL:もちろん映画監督であって記録をしていると同時に、ジバはジバっていう一個人であって、たまに「えっ?」ていうことを言うから、私が「ジバ、そんなこと聞いてないわよ!」って話になるの。例えば、ジバの前夫バルマンに「14歳の子と結婚するから、罰があたるんだよ」なんて言って、いきなり怒ったりするんですね。ジバの気がコロコロ変わるところはとても好きなんだけど、同時に難しい部分でもあるんです。そういうところがジバをジバらしくしているわけだし、この作品をこの作品らしくしているの。だから私が「ジバ、そんなこと聞いてないわよ!」って言っても、彼女はその時そう感じたから言ったわけだし、私だってそう思ったわよ。そりゃ、まだ学校に通 っている年齢の女の子と結婚しちゃいけないっていうのはね。でも、気質はそう変わらないものだし、登場人物とどうやって関係をつくっていくか、っていうのは必ず作品に影響するものなの。

ST:映画の中にある種の真実を描こうとする姿勢ははっきりあると思いますが、同時に出てくる女性たちとも強い連帯感をもっていますよね。だから、キムさんの作品群は極めてパーソナルで主観的だという点が強く心に残ります。日本の女子プロレス連盟を取り上げた新作『GAEAガールズ』もその系統のものですか。

KL:そう。私は作品にはとても強く反応を示すし、自分が物事についてどう考えているのかに対しても強くリアクションするんです。GAEA JAPANの映画でも、友だちが何人もできたという感じがするし、すごく近しい関係になれたし、そういう雰囲気が映画で伝わればうれしい。客観的になんて全くなれないからね。

 『GAEAガールズ』は昨夜遅くに撮影が終わったばかりなんです。なんかずっとジェットコースターに乗ってたみたいな感じで、あと人の命や死にかかわるっていう点では『イラン式』と同じくらい感情をゆさぶるものがあった。家族との別れがあったりね。でも私やジャノにとっては、撮影によって子どもの時の気持ち、権威とか規則とかその他もろもろ、がいっぱいよみがえってきたの。映画のなかには若い女の子たちが特訓を受けてるヘビーなシーンがあるからね。私とジャノは目の前で起こることに対して自分たちがどう対処すればいいのか四苦八苦していて、撮影が進むにつれて考え方もコロコロ変わっていたの。「いい、できるだけベストな映像を撮る、それに限るの、後のことは後で対処すればいいんだから」ってよく言い合ってた。だってそうでもしなきゃ撮れなかった……ふと思うの、「もちろん選手になるにはこういうとてもハードなトレーニングを受けなきゃならない、だってリングの上は危険だらけだし、精神的にも強くなきゃいけないし、激痛にも耐えなきゃいけない、これはもう痛みを堪えられるかどうかの問題なんだから」って言い聞かせるの。でもすぐにまた、「いやちがう、これはもう残酷すぎる、見ていられない」って思うのね。若い女子選手たちにすごく親近感をおぼえるからね。

 3日前の晩だったんだけど、ホテルに帰るなりジャノと私、泣き出しちゃったんですね。私たちのお気に入りだった、もう大好きな竹内彩夏が、リングでメタメタにされて、泣かされて、撮影カメラの方に顔を突きつけられて、「この苦痛にどれだけ耐えられるか、分かってたまるか」と言われていた。ジャノも私もそれを見て泣き出して、そしたら他の撮影クルーたちがみんな私たちにカメラを向け始めたんですよ。私たちが泣いてるってこと自体が滑稽だと思ったみたい。それから2人でホテルに帰ってこう言ったの、「なぜ他の撮影クルーはあれがつらいシーンだって思わなかったんだろう」って。目の前で起こっている痛々しい出来事にショックも何も感じなかったのかって。それで自分自身に聞いてみる、「じゃ、私は批判的に見ていたかしら?」。それから、彩 夏のデビュー戦を見たの、ちょうど2日前のことなんだけど、もう彼女ったら最高に光ってた。その瞬間はまた別の意味で、心を揺さぶられたわ。彩夏が入場するでしょ、それでリングに上がる、そうすると3日前までただのひよっこだった彼女が、別の存在に生まれ変わっていて、突然レスラーらしく見えたんです。そこでやっと思えたのは、「今までのつらい日々がここまで彩夏を変えたんだ、全てはこのためだったんだ」ってね。それでもまだ、なぜあそこまで追い詰められなきゃならなかったんだろうって悲しくなるけどね。

ST:そういう劇的な瞬間についてですが、『イラン式』にちょっと話を戻したいんです。裁判所でのやりとりにはドラマの要素があって、いくつかのシーンでは、例えばミリアムなんかドラマチックな感じでした。劇映画的な要素もあるドキュメンタリーですよね。

KL:演技っていうか、女性たちは判事の前で芝居してるわけよね。怒り、失望、必要なものを身振り手振りで伝えることで、ちょっとでも判事が有利にことを運んでくれるようにね。彼女たちにとっては感情しか武器がないんです。最初はそれが私には驚きだった、感情ってものがあんなにも女性の内から出てきて、男はって言うと権利ってものをすでに味方につけてるわけでしょ。だから女性にとっては感情を出すことで判事の共感を得るしかないの。でも最終的には、判事はミリアムに同情していながら……まずこう言うじゃない、「いいかい、子どもたちはミリアムといると学校で頑張るんだ、(父親と一緒にいる時は)ちゃんと宿題をしていないじゃないか」。イランでは教育に対する絶大な信頼があって、それ自体はとてもいいことだし、女の子たちもきちんと教育を受けるべきだとみんな思っているのね。だから判事は間違いなくミリアム側に味方してるけど、法律的にはミリアムに非がある。だから判事としては何もできない、それでジレンマがあるわけ。たぶんミリアムは「私の子どもには絶対帰ってきてほしいから、判事はそうしてくれるしかないでしょう」と思っていただろうけど、結局彼女にでもそういう力はなかった。

ST:物語性についてお話ししたいんですが、最初にナレーションによる解説のようなものはないですよね。「……ではこうこう言われていますが、こんな人もいるんです……」っていう代わりに、ポンと始めてしまう。この構成しなかったごときオープニングは、実は意識的に構成したのでは、と思ったんですが。

KL:ジバと私はそのことで随分頭を抱えたわ、というのはナレーションをたくさん使いたくなかったの。西洋人がつくったイランについての映画にはいつもナレーションがあって、見る側にどう考えろとか、こういう道徳的な枠組みに当てはめろとかが多い。「これは間違っている」とか「西洋ではもっといい状況だ」とかね。だからその内容で頭を悩ますことなく、ただ話を追うことで楽しんでもらえる映画にしたかった。完成前の3週間、ナレーション原稿に全てを費やしたんですね。削れるところまで削って。それでもすごく難しい部分はあった。例えば「夫の結婚持参金」っていう考え方とかね。それだけで1冊の本が書けるくらいのテーマだからね。ジバはごく簡潔に、そういうことも含めてできるだけ分かりやすくするよう努力してくれたの。

4. 配給と観客の反応について

ST:『イラン式』は〔イギリスのテレビ局〕チャンネル4の制作ですね。今日のテレビとドキュメンタリー制作との関係についてはどうですか。

KL:いつも資金集めがすごく大変なの、イギリスには字幕つきの作品を避ける傾向があるからね。字幕つきだと誰も観ないし、公開するすべがないって思っているみたい。『イラン式』なんかさらに、この頭をすっぽり覆っているベールのおかげで、お金をもらうまでに3年間もかかったの。テレビ局いわく、「誰が誰だかわからないじゃないか、みんな同じに見えちゃうし、華やかじゃないんだよ」。言ってることわかる?つまり商業向きじゃないってこと。BBCにも行ったんですけど同じように断られたの。やっとチャンネル4が唯一肩をかしてくれたわけ。

 結局、そういう放送局で話のわかる人間を探すに尽きるの。(以前手掛けたTVシリーズ)『True Stories』関係者にこの日本女子プロレスの話を持ちかけたんだけど、返事の手紙さえ来なかった。だからBBCへ行って、やっと資金をもらうことができたの。話のわかる人を見つけるってことがポイント、だって『イラン式』の時のプロデューサーはもうすでに部署を離れてしまってたから。テレビ局云々よりも、実際に(私みたいな)映画監督と関係を築くのは個々のプロデューサーですからね。『GAEAガールズ』の場合は、デヴィッド・ピアソンといって、女への性転換をした男の長編映画を撮ったこともある人で、だから『新宿ボーイズ』にも興味を示してくれて、今回の『GAEAガールズ』も彼のプロデュースですね。デヴィッドなんて私にとっては最後の駆け込み寺って感じ…20ヵ所くらい断られたからね。「日本は高くつくし、字幕だし、女子プロレスラーなんて、ね、あんまり…」って言われるのがおちで。

ST:あなたの作品はテレビ局の出資・放映という形なんですが、劇場では上映されるんですか。

KL:ええ、されます。イギリスよりも特にアメリカではね。イギリスでは劇場公開がすごく難しいけど、アメリカでは結構いいみたい。『イラン式』は(ニューヨークの)フィルム・フォーラムをはじめ全米各地の劇場で公開されたの。アメリカにはイラン人がたくさんいるから、そういう意味でもいいし。自分の作品が劇場で上映されるっていう形にはすごくこだわるんです。みんなが集団で一緒に観るっていう発想があるじゃない。だから作品は全部フィルムで撮ってるし、映画館用につくられてるの。

ST:『イラン式』はイランで上映されたことは?

KL:イランの映画館っていうのは最高にイカしてる所があるの――実際自分も驚いたことがあるんだけど――裁判所だって男女別々の入り口があって、分かれて座って、何もかもが引き離されてるっていう状態でしょ。それが映画館へ行くと、男も女もみんな一緒に座るの、しかも暗闇のなかでね! それはいいとして、『イラン式』のビデオはたくさんVHSが出回っていて、女性団体のネットワークを通 して広がっていて、映画雑誌に作品評もたくさん出たし。すごく好意的な批評なの。でも、劇場では公開できないんですね。だからテヘランの映画館で『イラン式』を上映して、ああいうぶっ飛んでるアナーキーな女性たちをたくさん呼びたいっていうのがジバと私の夢なの。それが実現したら最高だけど、できるかどうかは分からない。

 ウィーン映画祭で『イラン式』を上映した時には、観客の中にイラン人が多くいたの。すごくよかった、女性たちが駆け寄って、私を抱きしめてくれて、本当に力強く暖かいコメントをたくさんもらって。それからたまに怒る男の人もいて、「どうして男性からの視点を入れなかったんだ?」って言うのね。そういう時はこう答える:「世の中全体が男性の価値観を押しつけてるわけでしょ、だからそのためにこの映画はあるんだ」って。それからもちろん自分たちが女性だから、だから当然…。おかしなものよね、男の人がつくった男の映画って山ほどあるのに、「なぜ女性を出さないんだ?」って誰も言わないでしょ。でもこういうコメントはいつも聞くの、「なぜ女性しか写さないんだ?」って。それから時々女性のなかで、映画のなかで女性が地面に座っているのが気に入らない人もいて、「なぜ労働者階級の人ばっかり写すの、中流階級だっているじゃない?」と言うわけ。マッシだって中流階級なのにね。でもイランのイメージを悪くしてるって言われることはあったの。

 思うんだけど、(作家は)どんな映画でも祝福の気持ちと同時に批判を込めるわけ。『ドリームガールズ』なんて暗い場面もいくつかあって、例えば掃除だったり、軍隊(による整列行進の訓練)だったり。それも文化の一部なんだっていうことで私は見せているわけ。ある種イギリスによく似てるの…寄宿舎生活をしてたから、ああいう掃除があったし、だから女性の精神を踏みにじらんばかりの行いには、思い当たるものがあった。だから(祝福と批判の)二重の気持ちですね。

ST:私は『ドリームガールズ』をカナダのあるレズビアン・ゲイ映画祭で、『新宿ボーイズ』は東京でオナベの世界に興味がある友だちとそれぞれ観たんですが、観客の反応がとてもちがうと感じました。カナダでは観客が『ドリームガールズ』のなかにジェンダーと性、欲望の手掛かりとなるものを探すのに対して、日本ではよく「あー、宝塚のファンはねぇ…」で終わってしまう。『新宿ボーイズ』でも、「あ、この人知ってる、あの店も知っている」レベルで、受け止め方が全然ちがいました。内部者と外部者、の話に戻りますが、作品をつくる時はどれだけ観客のことを考えますか。

KL:『ドリームガールズ』は何となく女性に観てもらいたいようなものですけれど、観客は多ければ多いほどいいものだし、男性にも「日本女性は従順な人ばかりではない」ってことを観てもらうのが狙いですね。まあ基本線は、登場する素敵な女優たちは観客の心を強く揺さぶることのできる存在だ、というのがある。でも、映画をつくること自体に楽しみもあるしね。観客のことはもちろん考えるけど、それは映画製作のはじめの部分だけで、実際つくり始めたら観客のことは考えない…映画自体が勢いをもって転がり始めるからね。

 本当に、自分ができることっていうのは、できるだけ気持ちに正直に、誠実につくるっていうことです。(『新宿ボーイズ』の登場人物)ガイシ、カズキ、タツたちにはすごく気を遣って、完成前にビデオを送ったの。内容に関して不満はないか確かめたかったし、彼らのことを誠実に綴ってきたということや、誠意を持って接してきたんだということを大事にしたかったから。あと(『イラン式』では)シェフィールドの映画祭でジバと観客の間にちょっとした口論があった。「ちょっと、人が地べたに座っているのを写すなんて、イランのイメージが悪くなるじゃないか!」って作品を攻撃した人がいたの。そんなコメントが出ることすら想像もしていなかったけど、その観客はとても動揺していたの。だから2人でこう言った、「でも人が地面に座るのは事実です」って。そういうことを心配し始めたら、気が狂ってしまうかもね。

5. 日本について

ST:基本的な質問ですが、なぜ日本を?

KL:なぜかと言われれば、まあ黒澤の映画をよく観ていたの。黒澤が大好きだったけど、でも映画の女性たちに親しみを感じないわけ。いつも女性は登場するし、美しいのに、物静かでいつも奥の方にいて。そんな時ちょうど花柳幻舟っていう女性の記事を読んで、流派の家元を刺して刑務所に入れられて、それで彼女は天皇制に反対している人で…っていう内容だったの。それで「アメリカやイギリスで反逆者でいることすら難しいのに、日本みたいな場所ではそれがどれだけすごいことか…いったいこの女性はどんな人??」と思ったの。そんなわけででかい好奇心が湧いて、それがやがて映画をつくろうという決心に変わって、そういうのが次、次、とつながっていった感じ。1回日本にくるとね…まあすぐさま好きになっちゃったんだけど。来るたびに人に会って、友だちができて、そうするとここはもう日本というよりも、ガイシであったりカズキだったり、つまり人に変わっているわけ。ジャノと私は(『新宿ボーイズ』の)続編みたいなものをつくろうかってすでに話しあっていて、5年後の彼らを撮ろうかと言っているの。ジャノの東京の友だち何人かが『新宿ボーイズ』を観にいって、ジャノがしばらくぶりに偶然ガイシに会った時、ガイシはすごく喜んでくれて、うまくやってると言ってたみたい。

ST:女子プロというのはなぜですか? それから宝塚やオナベのようなテーマを選ぶというのは?

KL:なぜ女子プロか、と言えば同じ理由からね、つまりインパクトのあるイメージだから。イギリスでは、そうは思っていないだろうと信じたい人でさえ「ああ、日本女性はおとなしいんだよね」と言うし、本心が読めないっていう表現に固執したりするの。それから日本人は感情をあまり表に出さないっていう考えもよくある。でもそれはそれでいやなふうにも捉えられるし、腹の底に何を隠してるか分からない、裏には悪意があるのかも、なんてね。大戦の後遺症かどうかは分からないけど、「日本人は感情を出さない」っていう思い込みは決定的にあるわけ。だからいつも、感情にあふれた映画を日本で撮りたかったの、人がすごくオープンなね。だからガイシやカズキのことが大好きになったの。すごくオープンで、私たちに信頼をおいてくれたから。私たちを彼らの世界に連れていってくれて、たくさん話を聞かせてくれたってことは、何人ものイギリス人が体験できることじゃないからね。ガイシは日本人がつくったオナベについてのいくつかのテレビレポートを見せてくれて、そのうちの1つなんかジャングル探検っぽくて、帽子をかぶった女性が廊下から来るんだけど、ガイシの部屋にそっと近づいてきて、「あ!(息をのんで)男物の靴です!」「あ!(また息をのんで)男物の下着です!!」ってね。まるでガイシが恐ろしい野獣かなにかで、それを撮影しにきたみたいな態度でした。私たちがガイシにどんな映画を撮りにきたのか、どんな映画にしたいのかを話したら、ガイシはとても喜んでくれて、撮影中も楽しんでくれたと思うの。一緒につくっている、って感じで。こんなふうに言うと善意の押し売りみたいだけど、あらゆる壁をぶち壊して、私たちはみんなちがう存在、でも同時に似通 った存在だということを見せることだと思うのね。 このプロレスの映画について言うと、もう「ああ、この人たちにうっとりするわぁ」という感じがあった。本当に特殊な人で、すごくたくましい女性たちだったからね。レスラーになるために受けているトレーニングの半分ですら、私はついていけない。映画を観てくれる人たちにとって、あまり映像がきつすぎないといいんだけど…あまり心をかき乱すものだと思ってほしくないわけ、だってある種のハッピーエンドが待ってるわけだからね。『イラン式』みたいに、物語には始めがあって中盤があって終わりがある、終わりのことはそこまで観てみないと分からないようになってるんです。

ST:今のお話を聞いた段階で、この新作の完成が待ち遠しくなりました。今日は貴重なお時間をありがとうございました。

――訳:田中純子