english

インタビュー

キム・ロンジノット

聞き手:サラ・ティズリー


山形国際ドキュメンタリー映画祭 '99ではキム・ロンジノットのドキュメンタリー『イラン式離婚狂想曲』(ジバ・ミル=ホセイニと共同監督)が多くの話題をさらい、また国際映画批評家連盟賞を受賞しましたが、ちょうどその時ロンジノット監督は横浜で、日本女子プロレスラーを追った次作を撮影中でした。その『GAEAガールズ』はイギリスを拠点とするロンジノットが日本女性を扱った映画としては(『幻舟』『東京良妻』『ドリームガールズ』『新宿ボーイズ』に続いての)最新作となり、2000年9月にはトロント国際映画祭にてプレミア上映され、絶賛されました。ロンジノット監督は、ジャノ・ウィリアムズと共同監督したこの『GAEAガールズ』撮影終了翌日に、快くインタビューを引き受けて下さいました。聞き手は『Documentary Box』編集部のサラ・ティズリーです。

――編集部


1. 映画製作における内部者・外部者について

サラ・ティズリー(以下STいきなりですが、まず『イラン式離婚狂想曲』(1998、以下『イラン式』)について聞かせてください。これは山形国際ドキュメンタリー映画祭 '99のコンペティション部門で上映されたわけですが、どのような経緯で作ることになったのですか?

キム・ロンジノット(以下KLイランについての映画をずっと撮りたいと思っていたんだけれど、それはイギリスでイラン人に対する偏見が強かったからなの。サルマン・ラシュディ(※『悪魔の詩』筆者)の一件があってから、イランは狂信者の集まりみたいに思われていて。誰か一緒に撮ってくれる人を探してたら、あるパーティーで(共同監督の)ジバ・ミル=ホセイニに出会って、そこで即意気投合したの。ジバは自分の研究について話してくれて、法廷についての本『Marriage on Trial(裁かれる結婚)』を書いたと教えてくれた。それで本を持ち帰って、家で読んだらすごく気に入って、それで一緒に映画を作ろうということになったの。 ジバと作業するのは、すごく楽しかった。外国の人に会うとたまにあるのが、その時はその人がのんびり、誰とでもリラックスして接していても、その人の本国に行くと、結局その人は中流階級で教育もあって、階層にこだわるようなところがあって、「ああ、私たちはこんな人たちとは話してはいけないわ」とか、そうなるわけ。でもジバと一緒に3週間のリサーチに出かけたとき、ジバが誰とでもフレンドリーなのには驚いたの。とても暖かくて、オープンでね。人の分け隔てが全くなかったの。市場で誰かがなにか売っているとすると、ジバはその人の隣にしゃがんで、おしゃべりを始めちゃう。すごくいい光景だった。

ST:『イラン式』ではイラン出身のジバと組みましたが、日本を舞台にした『新宿ボーイズ』(1995)や『ドリームガールズ』(1994)などでは、日本人ではない人と組んでいますね。ある国で映画をつくる時、その国の人がクルーに入るとちがうのですか。

KL:一般化して言うのはすごく難しい、だってどんな映画にもそれなりの経緯があるからね。日本では、とても親しい友人のカズコ・ホーキと一緒に『東京良妻』(1993)を作ったんです。カズコはフランク・チキンズって言うへんてこりんなパフォーマンスグループにいてね。彼女の家族に関しての映画をつくったんだけれど、カズコにとっては自分のファミリーだというのがストレスになって、大変だったみたい。行く先々でゴタゴタに巻き込まれてね。日本で一番初めに作ったのは、『幻舟』(1989)といって、花柳幻舟という、まあ活動家を追っていたんだけど、日本で撮影なんかしたことなかったから、映画学校の同級生だった日本人女性を連れて行ったんです。花柳には、いいとこのお嬢様だったこの女性が耐えられなかった。彼女の言葉づかいでさえ、見下してるようだってね。その時思ったのは、「ああどうしよう、私ってなんてバカだったんだろう」って。日本人を連れて行けば何とかなる、彼女はまだ学生だし若いから、大丈夫だろう、と思っていたら結局全然うまくいかなくて。それで花柳が「彼女を使うなら、私は降りるよ!」…それで、(共同監督となった)ジャノ・ウィリアムスが加わってくれたの。ジャノは私たちと一緒にそこにいて、日本に住んでいたから。花柳は、ジャノのことすごく気に入っていたの。

 だから一般的に言えば、日本人と組んで作ったとしたらまたちがった映画になると言えるかもしれないけど、それは誰と組むかにもよるでしょ。面白おかしく、リラックスできる人で、相手の人を見下すことなく、尊敬の念をもって接することができる人ならば、よかったんだと思う。あんまり想像できないけどね、それはちがう映画になっていたと思うの、ちがう化学反応を起こしているわけだから。たった3人のクルーでしょ、私にもう1人、そして録音の人。映画はその3人がひとつのチームとして何を作り出すかっていうのによるし、チームはチームで独特のノリがあるからね。

ST:外部者であることの利点と不利な点は何でしょうか。例えば『イラン式』を撮る時、イラン人でないことは何か影響したんでしょうか。裁判所でのインタビューシーンなんか結構めずらしいと思いましたし、あとモスク内部での撮影許可が降りたことも、びっくりしました。モスクの男性側が写 っていたので、撮影クレジットにも男性の名前が出るんじゃないかと予想してたんですが、なかったですよね。

KL:時々、普段では難しいこともうまく逃れられることがあるの、例えばちょっとだけ常識を破ってもいいとか。普段よりはフォーマルで礼儀正しくなくていいかもしれないしね。ジャノの言葉づかいなんかたまにおかしくて――というのは彼女は日本人の前夫から言葉を習ったから、話し言葉も男性形を使ったりするんだよね。そうすると、みんな肩の力が抜けるっていうか。ジャノのことを笑っても本人は気にしないって、みんな分かっているみたい。そういう感じだと、撮影はイージーな雰囲気で、ゆったりと行える。またジャノはすごく温かみのある人で、撮影中に人が動揺してしまうような状況になった場合、そこで抱きしめに行ってあげたりね。そのようなものにあまり慣れていない人にとっては、それは難しくもあるけど。ロケ中にはつらいことがいくつもあったから、抱きしめあう場面 も多かった。それで日本人でも「抱擁も案外いいものだね」なんて言ってた。私自身が日本人だったら、抱擁はしてあげられなかったと思うわ。

 『イラン式』でも似たようなシチュエーションだった。少し常識から外れても毅然と立ち振る舞って、大丈夫だと言い聞かせながらうまく行くかどうかやってみるの。〔モスクの男性側と女性側を分け隔てているのは〕ただの薄っぺらいカーテンなんだということも見せられる。男性がモスクの女性側を撮るのは絶対無理だけれど、女性が男性側を撮るのはなんとかなっちゃうでしょう。それにみんな、私たちクルーが来ているのを知っていたし、5週間もうろうろしているのを見ていたから。女性のグループだっていうことで、たまに不思議なことが起こるの。モスクみたいな場所では、私たちクルーは誰かに危害を加えるわけじゃなし、ただの女性3人だし、映画の撮影をしていて、さらにモスクもいつものままであったし…って感じでうまくいった。これが男性クルーだったら、と考えると…ま、女性であることが利点になる時もあれば、そうじゃない場合もある。

 不利になることもある…と言えば、相手にあまり本気で接してもらえないこととかね。『ドリームガールズ』なんかでは、私たちが何か質問しても、誰も答えてくれなかったり。「安寿ミラとお話がしたいので、静かにしていただけませんか」なんて言ったって、誰も聞いてくれなかったの。ほかの撮影クルーができて、私たちにはできないことなんかもあって、それが日に日に拍車をかけるような状態だったの。思うに、私たちクルーにはできないと思われた理由は、私たちがみすぼらしかったから。地下鉄に乗って移動してたし、機材もリュックサックに入れて担いで、テレビ局のロゴが入ったような大きな車では来ないわけだし、さらにクルーだってフルにいるわけじゃなくて、3人でしょ。

ST:全員女性のクルーでは差が出るわけですね。

KL:うん、それは絶対。イランのような社会では、裁判所に入り口がふたつあって、法廷入りの前に男は携帯電話を預けなきゃいけない一方で、女は化粧を落とさなきゃいけない、そのくらい2つの別 世界があるところなのよ。この2つの世界に隔たりがあればあるほど、自分たちが女性であるということは有利に働く。女性たちと一緒にいると、みんな仲間よって感じで、瞬時に一体感みたいなものが生まれる。すごく心地よい感じだし。私はいつも「肌や髪を露出してはいけない」とせき立てられてイライラし、心配ばかりしていたんだけど、その気持ちが軽くなるの。ジバは私の髪が見えているといつもびくびくして、「ああ厄介なことになる、隠せ隠せ」っていつも言ってたの。そういう山ほどのいざこざのなかで何が救いかと言えば、自分が受け入れられているんだ、という感覚だったかな。それから言語のこともあるんだけど、私は言葉ができない分、いろんなことを身振りでやろうとするんです。イスラム教の国では、男女の区別 がきっぱりしているから、女性たち同士の接触が多くて、みんないつも肌を寄せ合っている感じ。手を握ったり、腕を組んできたりね。それがある意味、まあ陳腐に聞こえるかもしれないけど、すごく歓迎されてる感じがしたの。

ST:映画では対象の女性たちととても親しい、という感じが出ていました。ある夫婦が離婚調停のシーンで議論している時、女性が話の最中にカメラの方を向いて何か言って、そしてまた夫と議論を再開する、なんて場面 もありましたよね。それから、対象の男性たちとはどういう関係づくりをしたんでしょうか。ジバはよく裁判所の廊下で女性をつかまえて話し込むというお話でしたが、反対に男性陣の意見を聞きに行く、ということもしたわけですよね。

KL:それは全てジバの力量だと思うんだよね。ジバは過去に3回離婚していて、そのうち2回はイランでしているんですね。そういう廊下で女性たちに話に行く時、彼女は「今、離婚についての映画を撮っているの、あなたを撮影してもいい?」と一言いって、自分の離婚談を始める。彼女がスッと入り込むことで、私たちがそういう女性たちを悪女と決めつけ観察している、なんて印象が吹っ飛ぶわけ。こういう女性たちは、自分が悪い女なんだと周りに思われているとずっと思い込んでいる節があるから、ジバは自分たちの強い味方なんだと感じる。それでジバは法制度に関してはすごく詳しいから、彼女たちにアドバイスもするわけ。そういう意味ですごく力になって、勇気づけてきたの、特に若い女性たちを。ジバはよく、「私もあなたと同じ年齢だったわ、でも乗り越えてきたの」と励ましていた。だから映画のなかで女性たちがカメラの方を見るとき、実際にはジバに話しかけているといった感じ、そのおかげで映画にもすごく温かみが出ていると思う。

 妻の側にアプローチする時、夫が横にいる場合には必ず、夫の方にもインタビューをお願いしたの。実際、撮りたかった女性を撮れなかったのは、彼女たちの夫がノーと言った場合。ミリアムの場合は例外だけど。それが数件あったね。でも大概は、男たちは自分が正しいと思っているわけだからすごく自信満々だったし、裁判所なんて自分たちの権利をきちんと遂行させるためにあるんだ、くらいに思っていたから、撮影されることに関しても平気そうだったわ。

2. 対象との関係づくりについて

ST:映画を撮る時、本当にいきなり歩み寄って「撮らせてもらえませんか」と言うわけですか。誰を作品に入れるかはどうやって決めているんですか。

KL:『ドリームガールズ』の場合、誰を撮ろうか品定めをするのに2、3日はかかった。もちろんこっちが向こうを選んでいるわけだけど、向こうもこっちを選んでいるからね。宝塚には4つのグループがあって、またその下に十代の子たちのグループが4つあるから、つまり人は山ほどいて、誰を選んでいいのか全く分からなかったの。それでちょうどリハーサル室の横を通 った時、真矢みきがこっちに手をふって「おいでよ」と言ってくれた。彼女は堂々としていたし、フレンドリーだったから、撮りたいなあと思って、まあそんなふうにあとの人たちも決まっていった感じ。あともう1人、私たちを駅まで迎えに来てくれたウエマツがいたわ。彼女のことは即気に入って、現場でも特別 な友だちって感じだったから、映画でも主な人物の1人になっているの。

  『イラン式』ではどれだけ撮影にいられるか分からなかったから、ひとつの物語を構成するのに十分なある程度のものを撮れるかどうか、つねに焦りの気持ちがあった。まず毎朝裁判所に行って、(秘書の)マヘール夫人に会うの。分かるでしょ、小さな女の子と一緒の、あの頑固おばさん。彼女が、今日はどんな訴訟があるかを教えてくれるの。それで「これがいいんじゃない、あれがいいんじゃない」と話し合うわけ。あと、拘置になっている事例も入れたいと思っていた。サルマン・ラシュディの一件があった時、海外のカメラマンがよく撮影していったのは――イラン政府もそれを奨励したわけだけど――母親を殉教者扱いして、「母親は自分の息子の死を喜んで受け入れる、なぜなら息子は天国へ行くのだから」っていう図式だったの。政府はそういう殉教について信じていたわけだから、海外に配信された映像はイランのイメージをよくしたと思っていたみたいだけど、ヨーロッパ人からみれば、母親には子への愛情がまるでないのかって、いかにも残酷に映るの。「私の息子が死んで光栄です」なんて母親の映像を見ているのは、そういう母親しか撮影してなくて、そうは思っていない母親たちが出てこないからなんだけど、人はなかなかそうは感じないもの。だからジバと私は、我が子のために闘っている母親、というのを撮りたかった。ミリアムにはじめて会った時、もうその存在からしてこの人だ!って分かったの。撮影をお願いしたんだけど最初は断られた。それはミリアムの型破りの生き方が他人から批判されることしかなかったから。撮影開始から1週間が過ぎたころ、ジバが他の女性たちに自分の離婚話をしてるのをミリアムが見かけて、ジバが「こうしなさい、ああすればいいのよ」と言っているのを聞いて、私たちが味方だと分かってくれた。そうしたらミリアムの方から私たちに近づいてきて、頷いて「私を撮って」と言ったの。

 裁判の事例については、それ自体に始まりがあって中盤があって、最後は聞かなくても分かる、くらいのものを求めていたの。これを、登場人物を決めることで絞っていった。ミリアムはもうゼッタイにほしいと思って、それから(登場人物の1人である)ジバね、若い子を入れたかったから。あと中産階級っぽくて華やかな感じの人がほしくて、マッシを入れた。マッシって、ちょっぴりダイアナ妃に似てると思う。そうやって人物を選んで、他の人は撮影するのをやめて、どんどん編集で削っていったの。登場人物以外の女性でもすごくいいシーンがあったんだけど、裁判の終盤しか撮れなかったとか、裁判に二度と戻ってこなかったとかで使えなかった。こんなケースもあったの、ある母親が子どもを判事のデスクのうえに乗せて、夫に向かって言うの、「いい、あんたが生活維持費を払わないんだったら、この子を預かってちょうだい」…って、むせび泣きながらね。彼女は生活維持費をもらわんとばかりに、壮大ドラマを演じてるわけ、でも内心ヒヤヒヤしながら。実際すごくおかしかったのは、まだ初めのほうで、そんなこと知らない私は「あー、子どもが取られちゃうんじゃないか」ってすごく心配したの。裁判が終わった時、私が「あー、ジバ、彼女子どもを手放すことになっちゃった」って言うと、ジバが「いやいや、彼女は生活維持費をゲットしたんだ」ってね。

次頁へ続く>>


キム・ロンジノット


1952年、ロンドン生まれ。英国国立映画テレビ学校に在学中、過去に経験した寄宿舎生活を猛烈に批判した作品『Pride of Place (高慢)』を製作。初期の作品は『Theatre Girls』、『Cross and Passion』、『Underage』、『Tragic but Brave』、『Fireraiser』、などがある。テレビ向け及び劇場向けのドキュメンタリーは世界の映画祭や劇場で取り上げられており、常にマスコミや観客の強い関心や注目を集めている。映画製作を共同作業と捉えているロンジノットは、全員女性のクルーを結成することでも知られ、スクリーン上に強い女性を登場させる傾向は、特に日本女性を取り上げた一連の作品『幻舟』、『東京良妻』、『ドリームガールズ』、『新宿ボーイズ』そして新作の『GAEAガールズ』、またエジプトの女性を題材とした『Hidden Faces(ヴェールに覆われた顔)』やイランの『イラン式離婚狂想曲』(ジバ・ミル=ホセイニと共同監督、YIDFF '99にて上映)によく見られる。

 

フィルムグラフィー(抜粋)

『幻舟』(1990、共同監督ジャノ・ウィリアムズ)
舞踊家の花柳幻舟は過激な活動家でもあり、日本の伝統芸能に伝わる家元制度や、天皇制を強く批判している。差別 の現実に真っ向から対立する幻舟は、全国の温泉旅館や施設をまわり、講演・舞踊活動をしている。原題の『Eat the Kimono(着物を食え)』とは幻舟の発言で、着物を着せられ(着物に食われ)身動きのとれない女性になってはいけないことを意味する。

『Hidden Faces(ヴェールに覆われた顔)』
(1990、共同監督クレア・ハント)
パリに住むエジプト人サファーは、母国でフェミニスト作家として知られるナワル・エル=サーダウィを訪ねる。作品はエル=サーダウィの著作を朗読するかたちで進行し、エジプト現代社会に根強く残る慣習――女性のヴェールの着用、クリトリス切除、婚前の性交渉禁止など――とフェミニズムとの矛盾や摩擦を描き出す。

『東京良妻』(1992、共同監督クレア・ハント)
ロンドンを中心にパフォーマーとして活躍しているカズコ・ホーキは、里帰りして自宅で英国人と結婚式をあげる。父は退職して隠居の身、母は「生長の家」の信者で、熱心に布教活動をする。カズコの友人や家族を通して、この作品は日本人女性の苦悩や喜びについての新たなる視点を導き出す。

『ドリームガールズ』(1993、共同監督ジャノ・ウィリアムズ)
宝塚歌劇団の世界には、様々な人間が存在する――男役トップスターたち、熱狂的なファン、団員をめざす養成学校の生徒たち、そしてその家族。舞台公演や引退公演もあれば、日々の稽古、学校の入学式の様子や掃除風景も映し出され、1990年代の日本女性が持つ性的抑圧、情熱、結婚・家族観などが垣間見られる。

『新宿ボーイズ』(1995、共同監督ジャノ・ウィリアムズ)
新宿歌舞伎町のナイトクラブでホストとして働くオナベ、つまり女性として生まれたが、男性として生きることを決意したガイシ、タツ、カズキ――この3人を中心に、家族や友人、恋人をカメラは温かく描き出し、ジェンダーや性、アイデンティティの問題を投げかける。ウィリアムズとの共同監督3作目は、またまた日本女性の「型破り」を試みている。

『イラン式離婚狂想曲』(1998、共同監督ジバ・ミル=ホセイニ)
離婚することはイラン女性にとっては圧倒的に不利である。法制度が、男性優位に作られているからだ。しかし女性たちは裁判所へ向かい、主張し、自分や子どものために戦う。カメラは裁判所、モスク、家庭のなかでの女性・男性をとらえ、本音を引き出す。女性たちに向けられた暖かいまなざしが、作品全体を包み込んでいる。

『GAEAガールズ』(2000、共同監督ジャノ・ウィリアムズ)
日本女子プロレスの世界は、心臓の弱い人にはお見せできない。そこには、スパルタ的日常生活、手荒いトレーニング、厳しい上下関係が待っているからだ。しかしリングでの栄光を一瞬でも味わいたい女性たちは、この訓練に加わっていく。不安と興奮の入り交じるなか、『GAEAガールズ』は新人の竹内彩夏がデビュー戦を飾るまでの奮戦を描く。

[戻る]