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『日本の女性映画製作者』学会

2000年10月5日〜7日

溝口彰子


 昨年10月、アメリカ合衆国コロラド大学ボルダー校で開催された『日本の女性映画製作者』という学会に参加した。1ロチェスター大学のビジュアル&カルチュラル・スタディーズという博士課程プログラム3年生の私は学会発表自体これが3回目、さらに日本映画についての発表をするのも、日本映画研究者の集まる学会へ参加するのも初めての経験だった。2私がアメリカに留学してから日本映画にハマったのはジョアン・ベルナルディ教授との出会いが大きかったのだが、彼女の授業用に書いた黒澤映画の女性像を物語内の記号的機能から読み直すことを提案する論文「なぜ幸枝は変身したのか?――黒澤映画におけるセクシュアリティ、ジェンダー、階級」の口頭発表用短縮版を携え、「女性に的を絞った日本映画の学会は珍しいし、勉強になるはず」との先生の言葉を励みに緊張しながらボルダーへ向かった。

 ここで、学会の概略をご説明したい。10月5日木曜午後、バーバラ・ハマー監督による、小川プロダクションの神話の裏側に果敢に切り込む問題作『Devotion―小川紳介と生きた人々』(2000)の上映で幕を開け、7日午前までの3日間(正味2日間)の期間中に、基調講演2本(河瀬直美監督&ケイコ・マクドナルド教授(ピッツバーグ大))、パネル6本(発表14本…ハマー監督と浜野佐知監督の発表含む)が行われるという構成だった。残念ながら私自身は授業の都合で初日の夕方に現地入りしたため、最初のパネルは聞き逃してしまったのだが(『Devotion―小川紳介と生きた人々』は後日、見ることができた)。

 学会自体としては3日間だったが、『日本の女性映画製作者』シリーズはコロラド大の国際映画シリーズとの連動企画で、9月6日の『乳房よ永遠なれ』(田中絹代監督、1955)を皮切りに、『女ばかりの夜』(田中絹代監督、1961)、『遠い一本の道』(左幸子監督、1977)、『萌の朱雀』(河瀬直美監督、1996)、そして学会前夜10月4日の浜野監督自身が参加しての『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』(1998)までのシリーズ上映のしめくくりという位置づけであった。どの上映会も同大の学生や一般観客でにぎわっていたということだが、学会自体は大学の秋休みに重なってしまったためか、学生の姿はほとんど見られなかった。同大には映画を学ぶ学生が多いときいていたので、残念。

 冒頭で述べたように、この学会は私にとって「初の日本映画の学会」だったわけだが、参加者のなかには以前から知っていた人が多かったのも事実。まず、ハマー監督とその作品は、『ナイトレイト・キス』(1992)のレビュー記事が私の「プロ・ライター」デビューだったことに始まり、『テンダー・フィクションズ』(1995)の字幕翻訳、山形国際ドキュメンタリー映画祭'97などでの通訳、さらにはレズビアン・コミュニティのためのチャリティ上映会に出演してもらったりと、東京で「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト」という妙な肩書きで活動していた私の、留学前数年間の中心をしめる存在だった。山形コネクション(?)としては、河瀬監督とマーク・ノーネス助教授(ミシガン大)にもお会いしていた。浜野監督とは面識はなかったけれど、『第七官界彷徨』の「クィアパーティ」のシーンにレザー・ゲイの友だちが出演した話を聞いていたので親近感があったし、同作品の脚本家である山崎邦紀さんは、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で作品紹介や監督通訳をしていた私を覚えていてくださった。そして、東京から参加していた堀ひかりさんと塚本靖代さんは、私が1997年以来参加している「イメージ&ジェンダー研究会」の仲間。たまたまこの学会の参加者のうち半数近くと以前から接点があったのは偶然でしかないとも言えるが、この人たちと最初に会った私と今の私は立場が違うんだな、と思うと、「研究者の卵としての今の立場で、私は何をすべきなのか?」という自問を改めて投げかけることになった。

 なお、上映作品ラインナップはタイトル『日本の女性映画製作者』そのものというか「女性監督シリーズ」だが、学会としては、男性監督作品のなかの女性像についての研究にも開かれており、言い換えれば、日本映画の「主体・客体」の両方としての女性をカバーしていた。

 また、ひとことで日本映画といっても劇映画、実験映像、ピンク映画、ドキュメンタリー映画などのさまざまなジャンルがあるが、この学会では、それらをパネルごとにくくる基準のひとつにしつつも、一般的な「ハイ」カルチャー対「ポピュラー」カルチャー、「商業的」「非商業的」、「芸術」「娯楽」などのカテゴリー分けはしていなかった。どんな発表がなされたかといえば、「90年代若手女性映像作家の身体表象について」「母物メロドラマ女優、三益愛子について」「ピンク映画監督としての半生と『第七官界彷徨』製作エピソード」「『第七官界彷徨』原作小説にみえる女性同士のエロチシズム」「『第七官界彷徨』とフェミニスト映画批評の可能性」「ピンク映画界の知られざる女性製作者たち」「若手ピンク映画監督、吉行由美論」「監督としての田中絹代と坂根田鶴子」「『Devotion―小川紳介と生きた人々』製作エピソード」「ノンフィクション映画史とフェミニズムの関係」「『ルッキング・フォー・フミコ』(栗原奈名子、1993)にみる海外に自由を求める日本女性の主体」「林芙美子原作の成瀬巳喜男映画の女性像」「日本映画史に忘れ去られた女性パイオニア映画製作者・厚木たか」「出光真子作品をユング的に読む」…どれも発表者に申し訳ない非常にいいかげんなまとめ方だが、この学会のスコープみたいなものはなんとなく、伝わるだろうか?

 研究者だけでなく、3人の女性監督、つまり、「研究される対象」である「作品の作り手」も参加していて、しかも自分の発表や基調講演をするだけでなく、研究者の発表についても積極的に発言していたということも大きな意味をもっていたと思う。とくに浜野監督は終始、作家当事者としてのフランクな発言(そしてそれは、しばしば、当事者による自分がたりを越えて、発表者の議論枠組みそのものに疑問を投げかけるものになっていた)を惜しまず、ハマー監督もまた、ほぼすべてのセッションで、フェミニズムおよびクィア理論を経たフェミニスト映画理論をふまえた鋭いコメントを投げかけていた。このような、研究主体と研究対象の一方通行的図式が崩れた状況というのは、日本映画のフェミニスト批評の営みにとっては非常に重要なことだという印象を受けた。

 「日本映画のフェミニスト批評」とつい書いてしまったが、実は、私の頭のなかでは、この学会のタイトルはいつのまにか『日本の女性映画製作者』から『日本映画におけるフェミニスト批評と実践の様々な可能性を探る』に勝手に置き変わっていたのだった。

 「主流映画(男性監督による)のなかの女性像を分析すること、女性観客の同一化のプロセスを考察すること、映画史プロパーから外されている女性映画製作者を発掘すること、過小評価されたり誤読されている女性の作品に正当な評価を与えること、家父長制の価値観に対抗する表現手段を模索すること、フェミニズムは一枚岩でないという観点から、一見、フェミニスト的な作品を、評価しつつも差異の観点から批判すること」…とてもここでフェミニスト映画批評のまとめをするスペースも能力もないけれど、以上のポイントがそのなかに含まれているとするならば、この学会は、私から見て、そこに足りないものが示唆する点も含めて、「日本映画研究においても、フェミニスト批評をどんどんやっていかなくちゃ。だってまだまだ足りないもの」というメッセージが浮かび上がる場と見えたのだ(主催者の意図とは外れた勝手な深読みかもしれないが…)。

 個別の発表の内容について踏み込むことができないままにスペースが尽きてしまったが最後にひとつだけ。「通常は研究の対象とされる側の監督が主体的に発言していた」と書いたが、実は河瀬監督がそれぞれの発表についてどう思われたのかは発言が少なかったため、ほとんどわからない。基調講演での「私」「自己」への執着というか絶対の自信のお話は、言い換えれば社会的、フェミニスト的問題意識への関心の欠如(いわゆる「ポスト・フェミニスト的姿勢」)とも解釈できるものだったので、各発表についてもおそらくハマー監督や浜野監督とは異なる意見だったのではと想像するのだが。そして、ここには言葉の壁の問題があったと思う。河瀬監督、浜野監督をはじめ、必ずしもバイリンガルでない参加者も少なくないなかで、河瀬監督の基調講演とハマー監督の質疑応答など、ところどころしか主催者側からの通訳がついていない状況だった。ある程度は参加者の自主的なボランティア通訳でギャップが埋められていたようだが、参加者は本来、他の人の発表についての反応をすることも含めて、主体的発表者として参加しているわけであって、通訳に変身するのは筋が違う。日本映画についての、しかもフェミニスト的意図の学会であるだけに、大多数が日英バイリンガルな状況のなかでの少数者であるモノリンガルの人への配慮にまで気を配ってほしいと思った。多大な労苦をいとわずに大胆なテーマの学会を組織した主催者に、若輩者の身分でこのような苦言を呈するのは心苦しいのだが、今後の同種の学会のためにも、あえて批判的な指摘をして報告を終る。


編集注:

1オーガナイザーはクリス・レイン=チクマ、フェイ・クリーマン、スティーヴン・スナイダーの3教授。学会準備開始時は同大院生であったレイン=チクマ教授は学会の時点ではラファイエット・カレッジに所属。

21999年初頭にシカゴ大学で開催された田村正毅回顧展関連のパネル・ディスカッションに参加した経験はあるが、論文発表ではなくぶっつけ本番しゃべりであったため、学会としては数えていない。