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記録映画史の空白を探る(2/2)

先行研究の諸相

 以上が、筆者が参加した調査を基に記述した、日本軍政下インドネシアにおける映画作りの概略である。実際には、前述の主体だけが映画を作っていたわけではなく、陸軍が直接製作した『豪州への呼び声』のような映画も存在している。

 日本占領下インドネシアにおける映画製作については、これまで東南アジア現代史の視点から研究のほとんどがなされてきた。その代表となるのが前述の倉沢愛子氏によるもので、まず1980年代に、これらのフィルムがオランダの視聴覚アーカイヴ(略称NAA)に存在することを突きとめたのが同氏である。東南アジア史学会『東南アジア―歴史と文化―18』(1989年)に掲載された論文「日本軍政下のジャワにおける映画工作1942-1945」などの業績が知られており、日本軍の南方に対するプロパガンダ工作を知る上で先駆的な試みとなっている。この段階ですでに、オランダで保存されている多くのフィルムの内容とその分析、そしてそれらフィルムの配給・上映システムの解明が試みられていた。さらに占領下で発行された雑誌『ジャワ・バル』が同氏の尽力によって1991年に復刻されるなど、インドネシアへのプロパガンダ状況を明らかにする基礎文献も整うようになった。

 しかし、これらの製作活動に対する映画史の側からのアプローチはこれまで限られたものであった。例外的に、『講座 日本映画』(岩波書店、1986年)の中にミスバッハ・ユサ・ビラン前シネマテーク・インドネシア館長の文章「日本占領下のインドネシア映画」が掲載され(第4巻『戦争と日本映画』)、『ニュースカメラの見た激動の昭和』(日本放送協会、1979年)に日映ジャカルタの中軸で活躍した高場隆史の回想が載ることはあったが、これらを踏まえた映画史研究はなされていない。そして各作品のスタッフ構成や製作体制といった視点も明らかになってはいなかった。その背景には、日本におけるフィルムそのものの不在という根本的な問題、そして日本映画社に関わる資料が同社の度重なる経営上の断絶によって散逸してしまったことも挙げられるだろう。ただ近年になって、第5回山形国際ドキュメンタリー映画祭 '97が「大東亜共栄圏と日本」と題した特集上映を行ってオランダ視聴覚アーカイヴから借用した日映ジャカルタ作品をビデオ上映したことは、本研究への大きなステップボードとなった。

 


“日本映画の最南端”に立つ


 この3月、筆者はジャカルタ市東部、ジャティヌガラ地区にあるインドネシア国立映画製作所(略称PFN)の敷地に立っていた。ムルティフィルム・バタヴィア、日映ジャカルタ、そして短い期間ながらインドネシア映画ニュースが置かれ、独立戦争の後はスタルトが国立映画製作所を打ち立てた場所である。正面奥の高い塔を指さして「あの給水塔は、日本人が建てたものです」と語るPFN職員の説明を受けながら、“日本映画”という観念の思いもよらぬ広さに戸惑わずにはいられなかった。フィルムセンターに唯一残る『ジャワの天長節』も、占領間もない時期にこの地からバンドゥンへスタッフが派遣されて撮られたものだ。この“日本映画最南端の地”が、今も映画の撮影所として生き残っているのが、どこか幻のように感じられた。

 同じく日本人が建てたというスタジオの裏に回ると、日本の軍人がインドネシアの映画労働者を足蹴にする光景を題材にしたレリーフが見えてきた。「昔はもっとあったのですが、建物をいろいろ改築したので残りはこれ1つになりました」。この訪問の2日後の3月9日は、ジャワ島に上陸した日本軍がオランダ軍を降伏させてからちょうど60年目に当たる。スハルト政権による猛烈な都市化の洗礼を受けたこのジャカルタで、いまや日本軍政の痕跡を見つけることは絶望的に難しい。このレリーフの向こう側で、テレビのクイズ番組が収録されているのがこのスタジオの現在の姿である。

 スタジオに隣接しているビルに入ると、ガリン・ヌグロホの『一切れのパンの愛』(1991)のポスターを誇らしげに飾った映画学校の教室と、アーカイヴ部門の小さな部屋があった。珍しい映像があると言ったアーカイヴ担当の職員が私に見せてくれたのは、ラーデン・マス・スタルト率いる『インドネシア映画ニュース』の第1号から第3号だった。去年調査したオランダにも存在していなかった映像だ。ビデオで視聴したが、フィルムもそろっているという。たった3本ではあったが、これらを観て多くのことが分かった。まずそれは、日本の敗戦までのニュース映画『南方報道』と多くの点で共通点があった。画面から日本語と日本人が消え去ったことが唯一の差異とも言え、文字のタイポグラフィから編集のリズムまで、同じ人間の関与が濃厚に感じられた。ここから、日映ジャカルタのスタッフが、再びやってきたオランダ軍によって捕虜収容所に入れられる(10月頃と考えられる)までの短い期間、新しいボスであるスタルトのために変わりなく仕事を続けていたことが分かる。植民地の宗主国と旧宗主国、2つの場所で別々に見つかったフィルムが、奇しくも映画史をつなげてくれたのである。


 

“ジャカルタ”が教えたもの

 戦争は、“日本映画”に異様な相貌をもたらした。日本映画は、日本語を解する日本人が日本国内で観るもの、という暗黙の前提を覆したからである。この戦争は台湾や朝鮮を併合した時代とはまったく異なる、新しいプロパガンダの形式を用意した。この研究の文脈に沿って言うなら、日本本土で撮影されてインドネシアで観られるべき映画、インドネシアで撮影されて日本本土で観られるべき映画、さらにはインドネシアで撮影されてインドネシア人が観る映画までもが、広義の“日本映画”の範疇に収まった前例のない時代が訪れたのである。それは3年5か月、独立インドネシアのためにスタッフが仕事を続けた短い期間を含めると3年7か月ほど続いたことになる。

 その結果として、満州映画協会の日本人スタッフが、戦後も居残って革命中国の人々に技術指導をしたように、日映ジャカルタのスタッフが独立後のインドネシア映画界に残したものは小さくない。ただそれは日本という国家ではなく、あくまで映画に携わる個人の集合が残したものであることに注意しなければならない。すでに広く知られていることだが、占領者としての日本軍は強制的に労働者(泰緬鉄道の建設現場で夥しい数のインドネシア人労働者が命を失っている)や慰安婦を徴発し、また経済政策の欠如による構造的飢餓をも引き起こしている。1997年の山形映画祭のカタログを開けば分かるように、今でもインドネシア語には“ロームシャ”という言葉が残っている。

 その一方、戦後インドネシア映画の重鎮ウスマル・イスマイルは「日本時代になって初めて、人々は社会的コミュニケーションの手段としての映画の機能に気がついた」と語り(前述の倉沢論文)、ラーデン・マス・スタルトは、情報省の映画通信局長として国立映画製作所の成立に尽力した。このように対日協力者がインドネシア国民の報復を受けなかったことは、映画の分野にとどまることではないが、それを可能にする相対的に“のどかな”環境が存在したことも物語っている。本土空襲が頻繁になり、沖縄戦が行われていた同じ瞬間、嘘のように順調な製作を続けていた“日映ジャカルタの1945年”は日本映画史の中でも、明らかに1つの例外的な時代であった。

 満映にせよ日映ジャカルタにせよ、日本の外地での映画製作は、部分的には左翼人や自由主義者の新天地となっていた感がある。ジャカルタではまさに中心にいた石本統吉がそれに当たるだろう。軍国日本が送り込んだ、必ずしも時の政府を信じていなかった人々を含む一群の映画人が、現地人を説得するためのプロパガンダ映画をやむを得ず作り続けるという構図。日本人は、インドネシア人にマラリアの予防法も教えたが、同時に竹槍術を教え、泰緬鉄道の建設に参加するよう“ロームシャ”の供出を映画で訴えた。今こそ、1つ1つの作品に塗り込まれたその力学を正確に見極めなければならない。インドネシア占領に過剰な意味付けがなされやすい昨今、日映ジャカルタの作品群は、プロパガンダ行為が持つ多重的な意思の構造を否応なしに見せてくれる貴重な証言である。

 カメラマン小林米作は、ある日「濠北の孤島を行く」という架空の企画を社に提出してジャカルタから逃亡し、敗戦まで約2年もの間、ニューギニアの湖畔に現地部族とともに隠れ住んでいたという。それは、占領当初は連合軍の攻撃も多く、戦闘機に搭乗するキャメラマンがしばしば殉死したため自らの身を案じたのである。小林氏は現在もニューギニア時代の写真を数多く保管しているが、そこに写っている、彼が住んでいた小屋の入口に表札代わりにかけられていたのは、“日本ニュース”の旗であった。そして、空を行く飛行機の種類から日本の敗戦を悟り、再び島伝いにジャカルタへ戻った彼は、オランダ軍の捕虜として過ごした時期にパン作りを覚えたという。その経験が活かされたのが、復員後の日映作品『生きているパン』(1948年)である。撮影は小林、演出は十字屋文化映画部時代の盟友奥山大六郎、そして製作は石本統吉。ジャカルタのプロパガンダの経験が、戦後日本の科学映画の復活を告げる秀作に転じたこの皮肉こそ、いま語られなければならないだろう。その意味で、日映ジャカルタの中軸を担っていた高場隆史氏が2000年に逝去し、接触できなかったことは最大の損失である。また、宣伝班の時代について貴重なお話を伺った菊地周氏が、去る6月4日に逝去された。亀井文夫のキャメラマンとして活躍された同氏が、ジャワ上陸組の一員だったことはほとんど語られていなかった。謹んでこの文章を墓前に捧げたい(このインタビューの内容は菊地氏の追悼文集「菊地周の記録」に掲載されています)。

 それでも、オランダ政府が残存するフィルムを半世紀以上にわたって保存してくれていたという幸運が、この調査を可能にしたことはいくら強調してもし過ぎることはない。戦利品とはいえ、オリジナルの可燃性フィルムをすべて不燃化し、長年にわたって保存することの困難は計り知れない。映画史の、そして現代史の研究のため、一刻も早い日本への“里帰り”が必要であろう。それは断じてビデオではなく、オリジナルの痕跡をとどめた35mmフィルムという形でなければならない。

 

本稿は、東京国立近代美術館フィルムセンター発行の「海外に残存する戦前期の日本映画に関する調査研究 報告書」(2002)内の文章を大幅に改稿したものです。執筆にあたっては先人の研究に頼ったところも大きく、日本映画新社、山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局の資料からも多くの情報を得ています。感謝の念を込めてここに記します。オランダで保存されているフィルムのリストは上記報告書に掲載されています。日映ジャカルタを始め、南方植民地での映画作りについてはまだ不明な部分が多く残されています。今後も、関係者の方々から情報・資料のご提供をいただければ幸いです。

 


[参考]

 1997年の山形国際ドキュメンタリー映画祭「大東亜共栄圏と映画」における関連作品データの訂正と追加

●題名の訂正を伴うもの:

『ロームシャ募集』と『ロームシャの生活』→『勤労部隊』(1944年製作と判明、2巻)の1巻目と2巻目、ただし1巻目の冒頭が欠けている

『隣組』と『隣組トンガン』→『隣組』(2巻)の1巻目と2巻目(『隣組トンガン』という映画は存在しない)

『インドネシア人の政治関与について』→『参政への道』(2巻)の1巻目

『南方報道 1号』→冒頭から6分06秒までが『防衛義勇軍の歌』(2巻)の1巻目、それ以降は『南方報道 4号』(1944年製作)の一部(時間はオランダ視聴覚アーカイヴ所蔵ビデオのタイムコードに帰属する)

『東条英機のジャワ訪問』→『ジャワ・ニュース7号』の一部

●その他情報の訂正・追加:

『南の願望』→全10巻の2巻目(オランダにはあと1巻目と4巻目が残存)

『八重潮』→『八重汐』1942年作品と判明、製作は日本映画社ではなく陸軍第16軍宣伝班

『ジャワ・ニュース7号』→途中が欠けている、前述の『東条英機のジャワ訪問』がその欠けた部分にあたる

『南方の友へ』→1942年製作と判明、製作は日本映画社でなく芸術映画社

『東亜のよい子供』→原題不詳とあったがこの題で正しい、ただし冒頭が欠けているためインドネシア語題名は不明

『南方報道 26号』→1945年製作と判明

『ニッポン・プレゼンツ』→1946年製作と判明、製作はオーストラリア軍ではなくオランダ領東インド政府映画班(出演はほとんどがオーストラリア人)

 


岡田秀則 Okada Hidenori


東京国立近代美術館フィルムセンター研究員。これまで「フィルムは記録する」「フィルムで見る20世紀の日本」などの記録映画の企画に携わっている。

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