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日本ドキュメンタリー映画:明治時代から広島へ

阿部マーク・ノーネス著/ミネアポリス、ロンドン:ミネソタ大学/2003年/英語
Abé Mark Nornes, Japanese Documentary Film: The Meiji Era through Hiroshima
Minneapolis and London: University of Minnesota Press, 2003, ISBN: 08166-4046-7

評者:ジェフリー・アイザック

 『日本ドキュメンタリー映画:明治時代から広島へ』は、英語で出版された最初の書籍レベルの日本ドキュメンタリー研究である。さらに、これは日本ドキュメンタリー映画の歴史を語る、あらゆる言語で最も綿密な試みである。

 阿部ノーネスはYIDFFの生命と歴史に、プログラマー(1991、93、95年)、パネリスト(97、2001年)、字幕翻訳者、翻訳者、講演者、批評家として、積極的に貢献している。彼の山形経験は、本全体のあちこちに反映されている。

 焦点を絞った一連の論文において『日本ドキュメンタリー映画』が展開するナラティヴは、左翼的な映画製作活動こそ、この映画史の要点をなす、歴史的な転換と理論的パラダイムの進展の多くについて教えてくれる、というものだ。阿部ノーネスは、限られた数の代表的なフィルム、映画作家、批評家に集中的に扱うことを選びながらも、重要な知的論争(ファシズム、集団性、転向、抵抗と戦争協力をめぐる)と同時に映画に関する多くの問題(ドキュメンタリーの認識論、ルーペ論争、独立した芸術形態としてのシナリオ、編集者による創造)を引き受けている。この著作はまた、すっかり根付いたいくつかの見解――たとえば、アメリカの戦時中の映画が人種差別的であるのに対して、日本の戦時中の映画はそうではないという主張――を再検討したり、1933年と1934年に作られた編集映画が「日本のノンフィクション映画で最初の長時間で大規模な試みだった」(50頁)とか、戦時中の映画のスタイルを確立するにあたってドキュメンタリーが長篇劇映画に先行していた(95頁)と主張したりすることにも紙面を割いている。

 本書は「日本ドキュメンタリー前史」と名づけられたオムニバス的な章で始まり、「日本ドキュメンタリーの最初の大実験…」たるプロキノ(18頁)についての初めての周到な論文の舞台装置を整えている。プロキノとは、1927年から活躍し1933年初頭に非合法化された、日本のプロレタリア芸術運動映画製作部門の名前である。本章の最も基本的な貢献は、この歴史を論じる他の試みがそれ以上追究しない点だった政府による弾圧の、複雑な増殖、融合、方向転換、起伏を明瞭に記述したことにある。しかし、このセクションで真に成功しているところは、プロキノを日本共産党内部で福本主義と山川主義のあいだに起こった闘争の中に位置づけると同時に、一群の政治意識を持ったアマチュアたちによって導かれた真に創意に富む映画的実験にも気を配っている点である――この実験は、阿部ノーネスの説明によれば、後の映画製作の方向を変化させた創設的な瞬間であることが判明する。

 この書物は真ん中の2つの章で、十五年戦争に随伴したノンフィクション映画作品の横溢を系統立てて記述している。この箇所で、本書は、プロキノのアクティヴィストたちと映画技術が実際上(完全にではないにしても)、当時の映画製作装置に取り込まれ、溶け込んでいたという議論を展開し始める。『非常時日本』(1933)と『あの旗を撃て』(1943)という2本のフィルムの詳細な分析は、阿部ノーネスの徹底した調査と独特の観察に対する鋭敏なわざを示している。『日本ドキュメンタリー映画』はこの箇所でまた、風変わりで簡単に要約しがたい映画哲学者である今村太平を論じており、阿部ノーネスは彼の著述に、他の分析者が主張してきたような一貫性よりも、むしろ両義性を読み取っている。

 「理論の最後の抵抗」で阿部ノーネスがたどっているのは、岩崎昶の思想と、哲学者の戸坂潤と中井正一の映画論である。この2人の唯物論研究会と巣立ちしたばかりの日本人民戦線との関わりは、それだけでまる一冊の本を書く正当な理由となるかもしれない。

 亀井文夫の禁じられたフィルム『戦ふ兵隊』(1939)についての章は、このフィルムの覆い隠された侵犯の表現と、同時に存在する戦争との共謀が、サウンドトラックとイメージトラックのあいだの分裂症的な裏切りの瞬間をどのように生み出しているかを注意深く考察している。

 最終章の主題は、終戦直後に請け負われた2つの映画の企画、つまり、亀井文夫と岩崎昶の『日本の悲劇』、そして2つの都市とその住民を破壊し、歴史を溶解し再形成した原爆投下の後に、広島と長崎を写真に撮ろうとする日映の共同作業である。阿部ノーネスは挑発的にも儀式的な食人行為(他者の権力を我有化する手段として)のメタファーを使って、核兵器による荒廃の映像が25年間にわたって抑圧されてきたことを「構造的不在」として理解しようとしている。

 最終的には、『日本ドキュメンタリー映画』の主要な貢献は、日本の映画作家と批評家の存在を相変わらずまるで忘れているノンフィクション映画の歴史が、欧米の言説によって恭しく温存されているという構図を、脱中心化している点になるだろう。阿部ノーネスの創造的な事実の扱いで、あるきわめて生産的かつ革新的な映画の活発で驚くべき歴史が照らしだされた。

――翻訳:堀潤之

 

ジェフリー・アイザックス Jeffrey Isaacs
シカゴ大学博士課程、現在「日本の戦時中における映画と文化」についての博士論を執筆中。


韓国インディペンデント・ドキュメンタリー
インディペンデント・ドキュメンタリー 研究チーム著/イェダム出版社/2003年/ハングル語
Independent Documentary Research Group, Korean Independent Documentaries
Yaedam Publisher Co., 2003, ISBN: 89-88902-74-2

評者:ユン・ヨンスン

 韓国でのドキュメンタリー映画の歴史は劇映画と比べると、非常に日が浅い。参考にできる作品も、受け継がれる精神も殆どない現実で、1980年代、いわゆるインディペンデント映画の運動家たちはあらゆる事を自らの手で掘り起こすことしかなかった。その結果1980年代以降の韓国ドキュメンタリー映像は注目に値する成果を収めてきた。キム・ドンウォン監督の1988年作『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』や1992年から1999年まで3部作で完成したビョン・ヨンジュ監督の「ナヌムの家」シリーズは国内だけではなく世界的にも注目を浴びた作品で、この時期に韓国におけるドキュメンタリー映像が果たした代表的な成果物であると言える。また1982年ソウル映像集団の「パンノリ アリラン」を始めとして今まで一般の大衆に公開された作品も2百本あまりに至る。

 1960年代以来の軍部の独裁が長らく続いていた韓国の政治状況ゆえにインディペンデント映画やドキュメンタリー映像の製作者らは出発時点から民衆、民主化運動のひとつの軸として機能させられた。特に1980年代全斗煥政権の暴圧的な政治は以前までは大学生や一部の労働者だけに限られていた民衆の運動が各界各層にまで広がっていくきっかけになった。この過程でインディペンデント映画、特にドキュメンタリーの映像運動は民衆運動を善戦する者として、あるいは現実を暴露する者として自分たちを位置づけた。

 しかし、1990年代に入って金永三政府と金大中政府のような“民間政権”に入ってからは政治は徐々に民主化され、社会・経済的にも消費主義と物質主義が急激に進行し、ついにはソ連を始め現実社会主義権が没落していくことによってインディペンデント・ドキュメンタリーの映像陣営も以前の方式だけでは主張することができなくなった。インディペンデント・ドキュメンタリーの政治学や美学はどうあるべきなのか、制作の方式はどのような形態に変化するべきか、新しい媒体の技術として登場したデジタルというのはどのような方式で導入されるべきであるか、などの悩みが始まるようになった。

 今年6月に発刊された『韓国インディペンデント・ドキュメンタリー』はこのような悩みに対するひとつの結実である。しかも批評家たちや第3者ではなく「インディペンデント・ドキュメンタリー研究チーム」というドキュメンタリーの制作と関連している彼らの直接的な声を集めている点で、自己批判的な性格も強い。彼らは3年前から直面していた問題を追求し、ミーティングや討論を重ねていたし、必要とあれば製作者たちにインタビューをし、それをまとめたりもしていた。

 この本は1部と2部、さらには重要な作品のレビューと作品のリストが収録されている付録で構成されている。

 まず、第1部は「韓国インディペンデント・ドキュメンタリーの旅程」という題名で展開してく。その中の1980〜1990年代のドキュメンタリーの歴史を振り返る1、2章はキム・ドンウォン(前プルン映像代表)、キム・ミョンジュン(労働者ニュース制作団代表)、イ・サンイン(前民族映画研究所会員)、ビョン・ヨンジュ監督など当時活動していた監督や製作者たちとのインタビューを通してインディペンデント・ドキュメンタリー運動の歴史を概括している。。“映像を通しての社会運動”という強い使命感の中で教育と宣伝または啓蒙のための性格が強かった1980年代と、作家意識に基盤した運動ではなく。“作品”の方に重みの中心が移り始めた1990年代の特徴が浮き彫りされている。

 しかしこの本の価値は第2部にあるといえる。韓国インディペンデント・ドキュメンタリーの歴史的な地形図を探ることが地ならしをすることであったとしたら、2部では具体的にどのような家を建てるかを省察している。すなわち、ドキュメンタリーを制作する時 “なに”を作るかということも大事であるが、対象に“どのように”接近し、どのように創っていくのか、についても悩んでみようと筆者たちは主張している。このような疑問は今までインディペンデント・ドキュメンタリー関係者側から、きちんと整理された形として示唆されることはなかった。

 1章の「政治的なリアリズム:韓国インディペンデント・ドキュメンタリーでのリアリティーの構築方式」(ナム・インヨン)では『ナヌムの家2』(ビョン・ヨンジュ、1997)『天日干赤唐辛子を作る』(チャン・ヒソン、1999)、『chimmuk-i kae-eau-jinun sigan (沈黙が破れる時間)』(イ・ジンピル、2000)を中心として最近の韓国のドキュメンタリーで見られる再現シーンの新しい次元について分析している。結局、製作者は再現の過程を隠し、再現された現実をあたかも自然であるかのように偽装することしかできないと断定している。そのような意味で『ナヌムの家』や『天日干赤唐辛子を作る』のように、製作者が画面の中に登場し、記録されている人たちと水平的な関係を結んでいる作品が作られる現実はいいことであるとみている。

 2章の「韓国独立ドキュメンタリーで“わたし”の位置と性格」(イ・ヒョンジョン、キム・ヒヨン、ホァン・ユン)も作品の中で製作者が自分の姿を現わしていることの意義に焦点をあわせている。「作品の中に自分自身を登場させることは、固定されている位置から世の中を見ることを拒否する事であり、対象と関係を結びながら製作者である自分でさえ変化していく姿を見せることであり、このような新しいスタイルに注目すべきである。」と強調している。

 インディペンデント・ドキュメンタリーの歴史を整理し、これからの課題を整理するという点で、この本の出版は後学のためにも重要な資料であることは確かである。ところがドキュメンタリー関係者の内部で作られたことが、この本の限界として作用している。“ひとつの囲いの中での家族”という無意識がそうさせるのだろうか、冷静な評価と批判には至ることができなかった面がある。このような作業は批評家と映画学者たちの分として残されている。換骨奪胎、本当に古いことを否定し、新しいことのためには温情主義から抜け出して弱点と限界を思い切って指摘し、さらにはそれを謙虚に受け入れる姿勢が必要である。

 

ユン・ヨンスン Yoon Yong-soon
早稲田大学で映画学を専攻した後、韓国に帰国、制作の現場でプロデューサーを努める。現在日本映画の研究をしながら執筆活動を行っている。映像物等級委員会に在籍。


シネ:スペインがフィリピン初期映画に与えた影響
ニック・ディオカンポ著/国立文化芸術委員会/2003年/英語
Nick Deocampo, Cine: Spanish Influences on Early Cinema in the Philippines
Quezon City: The National Commission for the Culture and the Arts, 2003, ISBN: 971-814-023-9

評者:クロドゥアルド・デル・ムンド・ジュニア

 5巻からなるシリーズの第1巻、「過去100年のフィリピン映画再考」(xii)は、野心的なプロジェクトである。単に“フィリピン映画”についてではなく、“フィリピンにおける映画”が対象となっている。第1巻では、初期の映画を取り上げている。ディオカンポは、国内の映画史専門家が非常に軽視してきたとする、ヒスパニックに由来する過去の再生を目的としている。ディオカンポは、このプロジェクトを「我々の集合的記憶を明確化する行為」と呼んでいる。(6頁)

 序章で、ディオカンポは、私の著書である『Native Resistance: Philippine Cinema and Colonialism 1898-1941(先住民の抵抗:フィリピン映画と植民地政策 1898-1941)』を評しながら彼自身の議論を展開していく。私は、自分の研究の中で、第二次世界大戦以前の第1世代のフィリピン人の映画監督たちは、自分たちに馴染みの深かった演劇の形態を用いながら異国のメディアを土着化させたと論じた。スペインから輸入したミュージカルの「ザルズエラ」やスパイ物の「コメディア」がそれぞれ土着化した「サルスウェラ」、「コメディヤ」、「モロモロ」に言及した。フィリピン人は、形式を変化させ、自らの文化的表現法と言語と様式を適用して自分たちのものにしていった。私は、それを抵抗の一形態と捉えている。

 ディオカンポは著書の中で「“ルズエラ”と“コメディア”に影響された映画の存在を否定するものではなく、これらの映画は先住民の抵抗の形態であるという意見に異議を唱えるものである」(8頁)と語っている。言い換えれば、「サルスウェラ」や「モロモロ」などの映画が、単なるヒスパニックの影響の現われであると捉えているのだ。しかし、数少ない当時の現存している映画には、言語や俳優の選択において、単なるヒスパニックの影響以上のものが見受けられることから、この見方は限定的すぎると私には思える。これら「サルスウェラ」や「モロモロ」などの映画には、外国の起源からの転換として受け取られることを切望する独自のネイティブの通念とイデオロギーがある。まさにこの転換こそが、ネイティブの抵抗への可能性を保持するのであり、ディオカンポ自身も「土着化には、文化的協調と文化的破壊という両方の意味がある」(291頁)として、同著書の最終章で認識している。

 全5章のうちの第1章「映画と言語」で、ディオカンポはスペイン人がフィリピンの映画の形成に果たした役割について語っている。彼は、「スペイン語で名付けられ、それによって『具体化』した映画」(34頁)と論じる。アヌンシオス紙(に掲載されている告知や広告)や、インタータイトルがついた当時の映画の中で、映画や映画に関する事柄にスペイン語が用いられていることを指摘する。だが、当時のインタータイトルは、2か国語または3か国語、つまり、英語とタガログ語がスペイン語と共存していた点を言及すべきである。いずれにしても、ディオカンポは、「スペイン語が映画を実現したとさえいえる」(37頁)と断定する。

 真実といえる面もあるのかもしれない。だが、フィリピンの観客にとって映画というものが、実際の映画上映によっていかに実現されたかという点からも、豊富な論議が成り立つだろう。そして、フィリピン国内で映画上映初期に発表された3本の輸入映画『Escena de baile Japonés (日本のダンス・シーン)』、『La calle de Montmarte de Paris (パリ・モンマルトル通り)』、『Baños de Milan(ミランの浴場)』と列挙すれば、それは確実に、植民地という封じ込められた枠を脱した世界観を喚起する。これらの映画が、フィリピン映画黎明期に影響を与えたか? これらの映画自体が、フィリピン人に対して映画、さらには世界を具体化した。もしそうなら、いかにこれらの映画とその発達途上にあった映画言語が、発生期の映画に影響したのか? これら輸入映画の中には、まだ観ることの可能なものもあるが、黎明期のフィリピン映画はまったく現存しない。したがってディオカンポは、これらの疑問を投げかけずに済むのだろう。しかし、これらの映画の多くは、スペイン以外の欧州諸国から来たという事実は変えることはできない。

 黎明期のフィリピン映画が現存しない中で、ディオカンポは、フィリピンを題材とする初期の映画(第2章「映画と革命」)、演劇の独占(第3章「映画と文化」)、そして、シネマの台頭(第4章「映画の構築)と続く各章を、主に新聞、とくにアヌンシオ紙を参考に論じている。その中に興味深い発見がある。ひとつは、1905年にグラン・シネマトグラフォ・デル・オリエンテで『Advance of Kansas Volunteers in Caloocan(カルーカンのカンザス・ボランティアの前進)』が上映されたことである。アヌンシオ紙によると、この1899年制作の植民地主義者エディソンの映画が、ワンシーン・ワンショットの短編であるにもかかわらず、フィリピンの映画館で上映の機会を得ているのだ。もうひとつの発見は、1912年のエドワード・グロスの作品でありながら、中国系フィリピン人のグループによって制作された可能性がある『La Conquista de Filipinas』だ。ディオカンポは、これが、最初のフィリピン制作映画である可能性があるとする推論を展開している。

 本書は大作であるが、さらに端的かつ焦点を定めることもできたのではないだろうか。不必要な反復も多く、本書をさらにもどかしくさせている。また本筋から脱線する部分もあり、読者にとって賛同できない部分も本書にはあるかもしれないが、ディオカンポは、本書を通じて初期フィリピン映画の理解を促すことに貢献した。地元の映画についての学術的な研究が非常に稀少な国において、『シネ:スペインがフィリピン初期映画に与えた影響』は、知的活動への興味深い貢献である。

――訳:横間恭子

 

クロドゥアルド・デル・ムンド・ジュニア Clodualdo del Mundo, Jr.
マニラのデ・ラ・サル大学/コミニュケーション学科長及びドキュメンタリー作家・脚本家。