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[山形国際ドキュメンタリー映画祭2003]関連特集
沖縄特集 琉球電影列伝/境界のワンダーランド

イメージの戦争がはじまった

仲里効


 2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)で上映された沖縄特集において長短あわせて70本を越す沖縄を巡る映像群が、どのような意図のもとに構想されたのかについては、公式カタログに収めた伊東重明の原案で濱治佳・仲里3名の共同署名からなる「沖縄・映像のスクランブル・記憶と記録と夢の三叉路から」と特集カタログの導入として書かれた仲里の「表象の沖縄、あるいは〈鏡〉と〈窓〉・ナショナルヒストリーを越える列島の詩学へ」で述べられているので、ここでは多言は必要はないだろう。ただ、8回を重ねたYIDFFの歩みのなかでの“沖縄特集”の位置について振り返ってみることは、最低限必要なことのように思われる。

 ではなぜ“沖縄特集”だったのか。2つのことがいえる。

 そのひとつは、日本ドキュメンタリーを時系列的に辿ったパラダイムのその先に関わっているように思える。これまでYIDFFはスペシャルプログラムとして1989年に「日本ドキュメンタリー映画の黎明」(製作年が1945年までの作品)、91年に「日本ドキュメンタリー映画の興隆」(1945年〜1960年の作品)、93年に「日本ドキュメンタリー映画の躍動〜1960年代」、95年に「日本ドキュメンタリー映画の格闘〜1970年代」、「日本ドキュメンタリー映画の模索〜1980年代以降」を97年に特集してきた。

 沖縄特集はこれらの時系列的な歩みの“次”にして“他”なるものとして召喚された、ということができる。これらのプログラムのなかで沖縄を対象にしたドキュメンタリーも少なくない数で採り上げられてはいるが、しかし、あくまでも“日本ドキュメンタリー映画”の枠組みの内部に収められてしまっていて、採り上げられている映画のほとんどは日本のドキュメンタリー作家のそれである。沖縄の作り手が撮ったドキュメンタリー映画がなかったわけではない。優れた映画がなかったわけでもない。

 なぜそうなったのか。私にはこう思える。つまり、たとえ優れた映像といえども、日本の国民・国家のスキームと視線の政治のありかたと無関係ではなかったということである。「黎明」や「興隆」や「躍動」や「格闘」や「模索」として系譜化されたドキュメンタリーは、いくつかの例外的作品はあったとしても、日本の戦後的フレームの内部での応答のカタチであったことである。たとえ沖縄が描かれていたにせよ、また沖縄を中継することによって外なるものを垣間見せたドキュメントがあったにしても、描かれた沖縄は“鏡像”としてのそれにとどまったとしかいいようがなかった。そのことはある意味では仕方のないことだったのかもしれない。

 沖縄特集は、いわば、日本ドキュメンタリー映画の系譜が1980年代の「模索」の後にどのような回路を接続しなければならないか、という問いへの要請と無関係ではなかっただろう。しかし、それは「模索」の延長上に招き寄せられるという意味では、決してない。そうではなく、沖縄が介在することによって日本のドキュメンタリーの系譜自体が別形の視線や想像力によって転生させられる、そのような性質でなければならなかった。

 あとのひとつは、「日米映画戦」(YIDFF '91)や「世界先住民映像祭」(YIDFF '93)、「『大東亜共栄圏』と映画」(YIDFF '97)などの成果が沖縄という時空を介在させることによって新たな光源が与えられ、関係がより多元的になっていくということである。とりわけ「『大東亜共栄圏』と映画」と「日米映画戦」の場合がそうである。

 ちなみに今回の特集プログラムの作品に即していえば、パート1の〈オリエンタル琉球――昭和・戦前期、沖縄への視点〉で上映された『沖繩』(1936)と『海の民 沖縄島物語』(1942)は、帝国的ヴィジョンが“南”を内属化していくときの視線の政治と大東亜を夢想する原イメージが沖縄という場から立ち上げられる様相が鮮やかに描かれていた。また、パート2として上映されたアメリカ軍がカメラマン部隊を投入し、戦闘の様子を克明に記録したフィルムやそれらのフィルムを使って制作された戦意と国威発揚のためのプロパガンダ映画などからなる〈沖縄戦・日米最後の戦闘/沖縄戦記録フィルムを巡って〉。そして、沖縄戦が“皇土の防衛と国体の護持”のための戦略的持久戦で、そのために住民を巻き込んだ凄惨な戦闘であったことや日本軍による沖縄住民虐殺に迫ったドキュメンタリーと劇映画を組み合わせたパート3〈沖縄戦を彫る/記憶のクロニクル〉は、「日米映画戦」という場合の“日・米”の関係に介入し、敵対する2つの国家間のイメージ戦と暴力を浮かび上がらせた。

 こういうことである。「『大東亜共栄圏』と映画」や「日米映画戦」がもうひとつの戦争でもあるイメージの戦争において“われわれ”と“かれら”の分割のされ方が沖縄から照射されたことであり、“日本ドキュメンタリーの系譜”の試みでいえば、沖縄という場が中継されることによって、内と外が連結され、多重化される。いってみれば、沖縄という“境界”によって外に開かれ、内を深くさせられる、ということでもある。


 沖縄特集は、10のパートに分けられ、さらに、それぞれのパート内で複数のカテゴリー・テーマによって組み合わされている。といっても、それはひとつの視点でまとめ上げるということではなく、異なる視点やモチーフで制作された映像を多点重層的かつ網状に連結させているところに特徴があった。だから、同じテーマにあったにしても、そこでは作品と作品が相互に批評し合う現象が生まれた。ぶつかり、融合し、迂回したかと思うと越境し、ひとつの作品が予期せぬ方向から光を当てられる。これらの絡まり合いと重なり合いからイメージの列島が創出されるのだ。沖縄という場のもつ地勢学的な想像力によって創り出された映像の新しい地図。この地図を私たちは〈境界のワンダーランド〉と名付けた。

 1930年代の作品からこの特集への出品のために作られた最新作品まで、70本を越す映像の闘争と逃走、迂回と越境、接触と領有、イメージの連結と交叉と合力のスクランブルは“沖縄表象”のアクチュアリティを改めて認識させられたのだ。これらの群像のなかでひときわ異風な流紋を描いて受けとめられたのは、高嶺剛と琉球弧を記録する会の映画的実践ではなかっただろうか。

 “特集内特集”として、初期の『サシングヮー』(1973)から『私的撮夢幻琉球 J・M』(1996〜)までの高嶺剛の8本の作品は、沖縄という土地から立ち上げられた映画の文法とファンタジウムが“日本の”というくくりには回収されない世界を開示したし、6部6時間からなる『島クトゥバで語る戦世』(2003)と『ナナムイ』(2003)は、沖縄戦の記憶と宮古島の祭祀の記録が、グローバリゼーションの波が引き起こす陳腐化と忘却への“あらがい”の形を示し、静かだが強い感動を呼んだ。この映像の流紋は、フィリピンのアオレイオス・ソリト(YIDFF 2003インターナショナル・コンペティション『神聖なる真実の儀式』監督)の想像力をも喚起し、沖縄の地勢学的想像力が列島化しつつ新たな広がりをみせた。(ソリト監督は沖縄での上映にも続けて参加した。)

 蔵を改築した小空間での上映スタイルが、また、独特な熱気と親密な関係をつくった。高嶺剛の『オキナワン ドリーム ショー』(1974)と大城美佐子の島唄ライブのコラボレーション、『島クトゥバ』と『ナナムイ』の形式にこだわらないアナーキーにして親密な上映は、幾つもの厳しい冬を越すための東北の叡智を空間化した物の保存庫としての蔵が、幾つもの死を潜った人間の記憶と近代化の波を生き延びてなお営みつづけられる亜熱帯の祭祀をフィルムによって保存した映像を発光させ、シネマトリックな時空に作り替えた、といえばあまりにもデキすぎた言い方だろうか。

 YIDFF沖縄特集は、10月31日から11月7日まで、沖縄でも移動して上映された。上映にあたっては山形でのプログラム構成の思想を活かしつつも独自な視点で変奏し直したが、これには、沖縄の場で、しかもかつてないボリュームで上映させることのアクチュアリティが強く意識されていた。現実と映像がより緊張を帯びて生々しく対峙させられ、沖縄戦・アメリカ占領・日本復帰という経験が、改めて、映像を通して再審にかけられるという現象が言葉の上ではなく、生々しくリアルに遂行されたのである。観客はまずその量の多さに驚いた。それからポリフォニックに提示された群像によって、自ら歩んできた過去を振り返り、今を問われた。そこでは映像によって現実が裁かれるという事態さえ生じたのである。

 例えば『沖縄の声』(1969)のなかで望郷の岬といわれる沖縄最北端の辺戸岬から27度線の向こうの「祖国」を幻想する子どもたち、『沖縄の十八歳』(1966)で祖国への憧憬とそれを拒む狭間で揺れる高校生の姿、『復帰協闘争史』(1977)のなかで日の丸と赤旗が同在した光景、『沖縄やくざ戦争』(1976)の血で血を洗う抗争が代理し表象したオキナワの葛藤、『無言の丘』(1992)で描かれた沖縄の植民地体験、『島クトゥバで語る戦世』の戦世の記憶と島クトゥバのクライシスな現在などなど、映像は「おまえは何者か」と問う。そして、「沖縄はどこからきて、どこへ行くのか」という履歴が糺させられた。

 “沖縄特集”とは何であったのか。そして山形から沖縄へ移動した映画の旅は、どのような映画的実践として受けとめられたのか。日本の内にあって内にない沖縄という“境界”から国民・国家の物語を問い、忘却にあらがう記憶を現前化し、外なるものを開く群像の声とまばたき。そして何よりも表象されたイメージの襞によって沖縄自身が裁かれる経験でもあった、と山形と沖縄を移動した映画の旅を振り返って少なくとも、今はいうことができる。

 沖縄が抱える矛盾と葛藤を隠蔽するトロピカルな“癒しと観光”イメージが膨れ上がり、沖縄イメージが消費される昨今の顕著な沖縄を巡る表象に、「琉球電影列伝/境界のワンダーランド」はすこぶる異風な声を響かせ、脱構築する映画的実践であった。イメージの戦争はすでに始まっていた。終わったところから始まる映画の旅を強く予感させる試みであったといえよう。

 


仲里効 Nakazato Isao

沖縄県南大東島生まれ。『EDGE』編集長。活字と映像(写真、映画)から沖縄の境界性、エッジとしての沖縄を試みる。『オキナワン・ビート』(ボーダーインク社)、『ラウンド・ボーダー』(APO)、『沖縄の記憶/日本の歴史』(共著、未来社)、映画『夢幻琉球・つるヘンリー』(共同脚本、高嶺剛監督)、映像展「丘の上のイエスタデイズ」等。2003年山形国際ドキュメンタリー映画祭「沖縄特集 琉球電影列伝/境界のワンダーランド」コーディネーターとして活躍後、沖縄での最大規模の映画祭となった沖縄版YIDFF 『琉球電影烈伝』(2003年10月31日〜11月7 日)を企画・運営。

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