english

アフリカ映画祭に焦点を定める

デヴィッド・アンソニー


 現代のアフリカ映画において、より劇的な発展のひとつは、この大陸での人生のひとこまから引き出された題材を特徴としている映画祭の出現および急増だ。それらの映画祭は映画そのもののように、典型的なポストコロニアル以降の現象として、植民地と母国の関係をかつて特徴づけた都市とその周辺の関係に根付いている。ここ数年は、手短に“グローバリゼーション”と言われている傾向に影響されて、このようなイベントとそれらの開催地は、アフリカの芸術とアーティストの内と外の矛盾を際立たせている。

映画祭のコンテクスト

 現代のアフリカ映画祭には、いくつかの種類がある。まずはヨーロッパやアメリカで開催されるアフリカをテーマとしている映画祭である。そこでは、アフリカ大陸的な特徴を示している映画祭の名称が多くなってきている。ニューヨーク映画祭は現在、ニューヨークで毎年開かれるアフリカ映画祭のスポンサーをしている。アメリカの他の都市が主催しているアフリカ映画祭は、ワシントンDCでのものと、ロサンゼルスのパン・アフリカ映画祭、カナダでもトロントとモントリオールで開催されている。ヨーロッパではポストコロニアル以降のアフリカ人移民の存在(出稼ぎ労働者や留学生など)と、プレスティージな文化的アイコンとしてのアフリカ映画の地位が、アフリカ映画をもはや、映画のカノン(基準)を権威的に決めてしまうような国際映画祭(例えばカンヌ)の単なる一部ではないとする状況を作り出した。

 アフリカ映画はヨーロッパでは、国際映画祭と特にアフリカ関係に的をしぼった映画祭で上映されている。映画を見に行く人たちは、第三世界の起点または“ルーツ”と元植民地関係が構築した言語的ネットワークを追うことができる。ゆえに、ヨーロッパやアメリカの地でアフリカ映画に触れただろうフランス語を話す観客は、後でダカール、アルジェ、ブルキナファソやモロッコに飛べば、現地の映画交流に参加できるのである。

 さらにはアフリカで開催されている一連の映画祭。それらには1969年から隔年で開催されているワガドゥグ・パン・アフリカ映画祭(通称:フェスパコ映画祭)、南アフリカのシテンギとダーバンの国際映画祭、ダカール地域映画祭、マラケシュ国際映画祭、それに2002年から始まったザンビア国際映画祭がある。しかしこれらの映画祭は、それぞれの地に特有の歴史的状況を反映しているため、ヨーロッパ、アメリカ、またはアジアが想像するより、ずっと多様性がある。

 私が2002年の6月と7月に参加した「ダウ船貿易国――第5回ザンジバル国際映画祭(ZIFF)」と南アフリカの「第4回エンカウンターズ(出会い)――南アフリカ国際ドキュメンタリー映画祭」は状況が似ている。どちらの映画祭でも、アフリカ映画祭のローカルおよびグローバルなドラマを存分に感じとることができる。これらの映画祭は、文化関係の仕事に携わっている人々、社会派ドキュメンタリー作家、様々なジャンルからの人々など、アフリカの若い世代にとっては格好の発表場である。しかし西側のマーケット、配給会社、海外への資金依存に長年に亘り支配されており、その枠組みの中に存在していることも事実だ。例えば、ザンジバル国際映画祭はほとんどがEU、特にスカンディナヴィアからの援助でまかなわれている一方で、北米のフォード財団の援助も受けている。この援助は“驚嘆の家”のてっぺんで、目につきやすいように飾られているバナー広告を見ても明らかだ。ゆえに財政的な意味においては、アフリカの映画祭は、映画の経済が西側資本に支配されている限り、少なくとも部分的にはグローバリズムの延長だと言える。より厳しい言い方をすれば、これは文化的帝国主義を明示するものとさえ言える。現代のアフリカの映画祭は、いまだにこのような外部の援助なしでは容易に開催することができないのだ。

アイデンティティーを定義づけるもの

 これらの各映画祭は、定義づけに対する疑問を即座に提示する。アフリカ映画祭を構成するものとは具体的に何なのか? 実際このような問いかけは、別の問いかけを生む。すなわちアフリカとは何なのか? 数百マイル離れているものの、ザンジバルと南アフリカの間には、明らかな類似がある。タンザニア連合共和国の沖にある島ザンジバルは、1964年からイデオロギー的、官僚体制的に本土と合邦し、西インド洋における文化が集結する場となっている。沿岸のケープタウンと内陸のヨハネスブルグ、エンカウンターズ映画祭は2つの明らかに性質が異なる土地で開催されている。ケープタウンは多くのセンチメンタルな名前があることは有名だが、中でも有名なのが“2つの海の居酒屋”であり、その最西端には、大西洋とインド洋が実際に出会う岬がある。

 ザンジバルとケープタウンの住民は、人種、民族、宗教上の多様性が共通していて、本土および内陸の多様性をはるかに超えている。前者の場合、タンザニアは多くの民族グループ(植民地時代の君主が蔑称的に呼んだように、“トライブ”として、いまだに知られている)を有しているにもかかわらず、その多くは通常、“人種的”には“黒人”とみなされている。人種および宗教の混合が、それぞれの地に別のレベルの複雑さを与えているザンジバルやケープタウンではそうではない。どちらの地でもイスラム教徒が最も多く、特にザンジバルでは90パーセント近くの住民が、ムハンマドによって啓示された教義に基づいたものを信仰している。中でも最大級のグループは、スワヒリ語を話す、いわゆるアフロ・シラジ(以前はハディームおよびトゥンバトゥとして知られ、歴史的に本土と結びつきがあった)、それに、比較的最近オマーンから移民してきた人々(イギリスによる植民地時代以前から支配権をふるったが、今では過去を清算した革命後の生き残り)、さらにかつては大勢いた南アラブ人(多くは単純労働業に従事するイエメンからの人たち)、そして減ってきてはいるが今でも存在する“アジア系”グループ(以前は植民地時代前、および植民地時代の仲介人として商業をコントロールした)である。

 インドネシアから連れてこられた“ケープマレー”の奴隷たちの子孫、および19世紀にこの地に移住してきたインド系イスラム教徒の商人といったケープタウンのイスラム教徒たちも影響力がある。しかし数や文化の上では、混血、いわゆる“有色人種(カラード)”たちのグループが最も目立って影響力を持っている。有色人種(カラード)とは、スティーヴン・ビコが率いた黒人意識運動によって用語が徹底的に変換され、修辞上の存在となる前のアパルトヘイトの時期に形成された言葉だ。時が過ぎ、多数派の黒人と自らを重ねる“有色人”(カラード)は、若者と政治意識の高い世代に限られるようになった。ハイブリッド性がより大きく問題視される、インドネシアやイスラム化を経た島々など広い世界とのつながりの中で、ケープタウンの映画作家たちの会話とザンジバルの映画作家たちの話題が共通していることがよくある。

 どちらの場合も有力な人たちによって、アフリカとアフリカ人という言葉の定義が適用される境界線を厳密に引くために熱のこもった論戦がかつて繰り広げられていた。論戦のかなりの部分はアイデンティティーの基盤を拡大するためのもので、狭義に“黒人”としてフォーカスしてしまわないよう厳密に論議している。同時に、これらの映画祭が生まれた地域の住人たちは、彼らがアフリカ人であるという社会事実に則した役得を所有し独占する。

植民地時代の遺産

 それでも、各映画祭の開催経緯は過去の植民地時代の影を思い起こさせるもので溢れている。ザンジバルで映画祭創設の原動力となったのは、この地に住んでいるアメリカ人レストラン経営者エマソン・スキーンスだ。彼は90年代後半に、島の仲間に対してこのアイデアを伝え、それを実現させたのは自分の功績だと主張している。絵のように美しい香料の島を自分の家に選んだアウトサイダーたちのコミュニティー内で、最も裕福でパワフルなメンバーのひとりであるスキーンスは、この島が一部の地元の有力なファミリーによって仕切られていることを正確に把握している。彼の高級レストランは中心部にあり、この地の経済にとって極めて重要な存在である。文化的帝国主義を意味するポピュラー音楽や海外のイメージが流れ込む中、スキーンスは亡命者のロマンのごとく、映画祭がザンジバルの若い人たちが自分たちの誇れる歴史遺産をもっと認識する手段と考えている。

 2002年の映画祭をサポートする資金の大半は、海外の財団およびスカンディナヴィア諸国からのもので、イギリスからも援助があった。これは驚嘆の家を飾るバナー広告を見れば明らかだ。驚嘆の家は、かつてはスルタンの宮殿で、今ではささやかな国立美術館のエレガントな本部となっている。また、すぐれた企業家であるスキーンスは、舞台裏および公の場で権力を存分に行使し、理事会の地位のひとつを占めている。西アフリカのローブ、パンツ、それにマッチした帽子というカラフルなコンビネーションですぐに彼だと分かる。恐らくその社会のルーツおよび多様性の認識として、さらにはアフリカ内部、向かい合った島々やインド洋の様々な地域からの人々による文化的および商業的やり取りを作り出した社会として、この映画祭が“ダウ船貿易国の祭”という、長くて印象深い副題を持っていることを特に指摘したい。頑強だが柔軟性がある大三角帆の船ダウ(アラビア語でdau)は、インド洋、ペルシャ湾、ヒジャーズおよび地中海文明の真髄を表すモチーフであり続けている。実際この船はスワヒリ都市国家から、海洋帝国ポルトガル、インド諸国に至るまで、これら航海社会の枠組みに共通していたものとしてたたえられていた。ダウとその関連するものは、長期波動型の、千年以上に亘る初期のグローバライジングの強い衝動の象徴だった。これらの船で運ばれた物資は、これら地域の商業をつなぐものでもあった。フルーツ、燃やしていい香りを放つ銘木、香辛料、象牙、…それに奴隷だ。であるから、これらの船に対する我々のセンチメンタリティーには限界がある。

 その時この地で上映された映画の中で描かれていた世界は、アフリカという大陸を越えて、対峙する海岸線および貿易風と共に、有機的かつ流通的に、海、湖、川、小川、島および本土とつながっていた。ゆえに映っているものはアフリカだけでなく、インド、パキスタン、イラン、アフガニスタン、アラブの地、エジプト、アフリカの中でもずっと西にあるセネガル、およびその間とそれを越えた国、それにヨーロッパとアメリカにいるアフリカのディアスポラなどだ。しかしザンジバルは、特に血生臭い時代が引き起こした革命後の事前戦略として、1964年にタンガニーカ本土と合邦した。この複雑な歴史背景があるので、ザンジバル国際映画祭にまつわる現在の定義が、定着するものかどうかははっきりしない。この革命は、大部分が島国におけるアイデンティティーについてであり、抑圧されたアフロ・アラブ、または彼らがそう呼ぶところのアフロ・シラジの多数党によって遂行された。彼らは、文化的、人種的に劣っているとみなしていたオマーン・アラブの少数与党の圧制に対して立ち上がったのだ。その時から、ザンジバルのアイデンティティーの特徴は、アウトサイダーにとっては常に明白なものではなく、それを人種的観点から見る人と、文化的経済的観点から見る人の間で表面下でくすぶっている。その社会は長年に亘って、アジアおよびアフリカからの人々が出会う場となっているため、ザンジバルが“ダウ船貿易国”と呼んできた人々および場所のアイデンティフィケーションは妥協したものであり、文化的要因が人種的アイデンティフィケーションに勝つことを許している。

 エンカウンターズ映画祭の場合は、別の種類のグローバリゼーションが、ユニークなポストコロニアル時代の特色でもって示されている。この映画祭は姉妹関係にある(同一ではない)2つの都心、ヨハネスブルグとケープタウンで開かれている。ヨハネスブルグは金とダイアモンドを抽出するためにアフリカの労働力とヨーロッパの資金が出会った地であり、ケープタウンは西欧がアメリカへ向かう際に手本になったくらい入植地としてもっとも古い辺境の町である。ここではアフリカをどのように建設し理解するかという問題が、同じようにきわめて重大だ。南部のバントゥ語を話す語族の一部であるソト・ツワナまたはングニ(ズールーとコーサ)の視点から見るとそれはずいぶん異なった眺めとなる。ヨハネスブルグではよそ者であればたとえよく慣れている人でも困惑するほど、これら個別の言語が入れ替わり乱れて使われている。この黄金の都市の多言語環境で育った者でなければ、毎日対処しなければならない言語の多様性を獲得して言語を使いこなすことは不可能に近い。教室で習うズールー語やコーサ語や北ソト語(セペディ)、南ソト語(セソト)や、それらと同系統であるツワナ語(セツワナ)と違って、ヨハネスブルグの多言語が入り交じった話し方は、多言語の土地に特有なもので、例えば最も“伝統的”な形で話されているクワズールーナタールのズールー語のように“純粋”ではない。英語とアフリカーンス語と共に、これらの言語と茶色の肌をした人々が目立っていることが、サミール・アミンがかつてそう呼んだ労働予備軍のアフリカの特徴だ。その労働力が印象的なヨハネスブルグの高層建築の建設を可能とした。

 それに反して、ケープタウンにおいてのアフリカ人労働力は目立たないが、人々の肌の色合いは、オリーブ色の黄褐色からセピア色、中間が薄い赤銅色という、茶色の全種類となっている。これが、アフリカーンス語のkleurlingeから直接翻訳された種族名である、この“有色(カラード)”の土地の特徴である。ここではアフリカーンス語が茶色の肌の人と白人によって話されている。しかしそれらには微妙な違いがあり、その違いは、北米で“黒人”英語の多くの異なる方言が、スタンダードな“白人”のメインストリームの英語と区別されることと同じようなものである。この地でソト語、ツワナ語、コーサ語、ズールー語が聞けないわけではないが、エンカウンターズ映画祭の環境では、白人と混血の人々がほとんどで、英語とアフリカーンス語がコミュニケーションの主要な媒介である。茶色の肌をしたアフリカ人も出席しているが、彼らはいまだに主に観客か、自分の労働を売っている関与的観察者だ。

新しいパフォーマンス

 ザンジバルとケープタウンは、世界的な変革の時期に誕生した。両地とも、奴隷制度と奴隷売買が大きな位置を占め、経済の商業的発展の重要な原動力となった過去を持っている。同時にそれぞれが、民族、人種、宗教、つまり文化的論争の場となっている。このプロセスは現在に至るまで衰えずに続いている。これら2つの映画祭は、まさにその文化的な論争の帰結なのだ。ローカルがグローバルに直面し、今まで覇権を行使してきた勢力が、君主になるために合理的に虐げてきた者たちから逆に挑まれているのである。このポスト・マルクス主義といわれる時代においてさえ、これは真実の中核であり続けている。ザンジバルの人にとっては、スワヒリの文明、彼らの島の言葉、および ソマリアから南はモザンビークに至るまで、隣接した沿岸地帯はアラブ化したものだった。スワヒリ語を話す人が文明と言う時に、文字通り“アラブ”という意味であるustaarabuという言葉を使うことがそのいい例だ。歴史的に見て世界の中のこの地で教養を身につけることは、アラブ人のようになる、または彼らのように生きることを意味してきた。

 イスラム教徒のアフリカ人にとっては、これは恩恵でもあり災禍でもあるという両刃の剣である。ザンジバル国際映画祭が東アフリカの映画祭ではなくダウ船貿易国の祭と位置づけられているのは、闘争が終わっていないことを示している。ザンジバルの人々に、彼らのアイデンティフィケーションがどのような形を取るべきかと指図する権利は誰にもないが、ザンジバル国際映画祭がいまだに顔、場所、スペースの融和しがたい矛盾と闘わなければならないことには注目すべきだ。

 それと同じように、特にケープタウンのコンテクストの中にあるエンカウンターズ映画祭は、ヨーロッパから来た先祖の文化的・知的能力の産物だ。しかしそこどまりの映画祭と言ってしまっては、映画祭にとっては失礼な話だろう。なぜなら混血の人々はプロデューサー、監督、俳優、脚本家、音声技師、撮影スタッフ、および撮影監督として訓練されたアフリカ人スタッフと共に、ここでは日の出の勢いだからだ。ここエンカウンターズと特にザンジバルでは、映画製作を教えるワークショップが非常に重要となっている。どちらの地でも、地元で作られた映画がより豊富な外国からの資金による長編映画と共に上映されている。けれど、これらアフリカ映画祭が、新植民地主義というパフォーマンスの背景幕以上のものとなるには、しばらく時間がかかることだろう。

――翻訳:村上由美子

 


デヴィッド・アンソニー David Anthony

カリフォルニア州サンタ・クルーズ校、歴史学科で教鞭を執っている。

[戻る]