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「創造的国家」のなかの
ドキュメンタリー映画

1990年代のオーストラリア

ピーター・ヒューズ


もし我々がドキュメンタリー映画の分野を通して表象と観客への提示の問題についてなにかを学ぶことが出来るとしたら、政治的・倫理的な論点はマルチメディアの発展にとって本質的な重要性を帯びることになる。

国家的アイデンティティー

 1994年10月、オーストラリア首相ポール・キーティングは政府の総合文化政策方針を発表した。これは多くの人々が望んでいたほど野心的な宣言ではなかったが、少なくとも芸術創作を国家が援助し、活動を奨励するものではあった。「創造的国家」(というのがこの政策発表の呼称だった)はまた、オーストラリアで進行中の国家的アイデンティティをめぐる議論に携わるものであり、そしてドキュメンタリー映画はこの議論の重要な立役者である。

 オーストラリアのポスト植民地的文化にふさわしく、国としてのアイデンティティの問題はオーストラリア映画の過去100年間の歴史の中で、劇映画およびドキュメンタリーの双方において一貫するテーマであり続けている。オーストラリアの劇映画産業の復興期にあたる1970年代初頭以来、この種の議論には白熱の度が増しており、オーストラリアの映画館とビデオ・レンタルがハリウッドに支配されているという現状にあてはめて考えることがますます必要になってきている。グレアム・ターナーが「復興」の最初の10年間(1970年代半ばから1980年代半ばにかけて)に指摘したように、オーストラリア映画産業が産み出す作品には「“我々の”物語を“我々の”観客に向けて語りつつ、しかも文化的に豊かで多様性に豊んだオーストラリアのイメージを国際的な観客層に紹介することが期待されていたはず」1だった。しかしながら、「オーストラリアらしさ」として構築されたイメージは、実際には19世紀的意識に根差したきわめて時代おくれの国家主義的なものになりがちであった。この国家的アイデンティティに対する見解は、単一の、統一された、ヨーロッパ的な思考に基づいた、男性上位的な系統のものだったのだ。

 復興の次の10年間に、この国家的アイデンティティの概念は試練を受けることとなる。そしてオーストラリアにおけるテレビと映画の製作は、地方ベースの作品が観客を開拓したことに伴なって、この国家的アイデンティティをめぐるさまざまな議論の恩恵を受けることができたのだ。ターナーはさらに議論をすすめ、全体的に言って20世紀後半のオーストラリアは均質文化的であるよりはむしろ複合多民族国家的であり、その兆候は映画のなかにも現われているとしている。彼はこの4年の間にオーストラリアで作られた映画の幅の広さに言及し、「そこに暗示される国家の定義の幅は広げられ、多様化してきている」2 と論じている。ターナーはこの論文でドキュメンタリーには触れていないが、筆者は、ドキュメンタリーがこのオーストラリアの国家的アイデンティティの再定義のプロセスにおいて、しばしば劇映画産業を先導するかたちで注目すべき役割を果たしていることを論じていきたい。

 その増加の割合が安定して順調だったとはいい難いにせよ、映画の観客数は過去20年間で全般的に成長を続けているが、ドキュメンタリー映画が劇場上映される機会は全体的に減少しており、その傾向は“アート系劇場”や“名画座”においてさえ変わらない。オーストラリアでも他の世界の国々と同様、ドキュメンタリー映画が見られる場は主にテレビに限定され、インディペンデント映画作家たちが社会的・政治的な問題について製作した番組が2つの国営テレビ放送、オーストラリア放送公社(ABC)と特別放送サービス(SBS)で放送されている。放映されるドキュメンタリー映像には多種多様な傾向が明白に現れているが、ここで重要なのは、ドキュメンタリー映画が過去20年間にわたる時代のなかで、私たちの文化のなかで、何が明確にオーストラリア的であるのかという疑問に関して、きわめて重要かつ批評的な議論がなされ、またそれらが反映される場であり続けてきたことである。数多くの作品を通して、オーストラリアの歴史、社会条件、そしてその発展、それにオーストラリア社会における女性とアボリジニーの地位の変化を再検討することが求められてきたのだ。

 ヨーロッパ中心の視点から見たオーストラリアの国家的アイデンティティは、アボリジニーによった、あるいはアボリジニーとの協力関係で製作された作品(例えば「二つの法」(バロルーラ・アボリジニー共同体、1981)、「私が生きる私の人生」(コフェイ、アンサラ、グヤット、1981)、「強き女」(モファット、1988)、それに「亡命と王国」(インジバルンディ、ンガルマ、バンジマと、グラマの人々、リジャヴェク、1993)のような作品がある。)や、アボリジニー以外の映画製作者がアボリジニーを題材にした作品(「黒い男の家」(トーマス、1992)、「いかにして西部は失われたか」(ノアクス、1987)、「バイロンの地の島の人々」(コノリーとグラハム、1989)、それに「飛行機の踊り」(グラハム、1994)など)により覆されてきている。

 女性たちもオーストラリアらしさに内在する男性上位の考え方を覆してきており、それは特に「淑女たちの化粧室」(ギブソン、ランバート、1977)、「美しさ以前の時代」(ギブソン、ランバート、1980)、「愛のため、金のため:オーストラリアの女性たちと労働」(マクマーシー、ナッシュ、ソーンレイ、オリヴァー、1983)、「女たちよありがとう、さようなら」(ハーディスティ、マスリン 1984)、「ハイヒール」(ブルックス、1985)、残念ながら低く評価されている「地滑り」(ギブソン、ランバート、1986)、それに「ナイス・カラード・ガールズ」(モファット、1987)における歴史の再検証では特に顕著だ。

 オーストラリアに渡った日本人戦争花嫁を扱ったソールン・ホアス監督の「お茶とさくらんぼ」(1989)(ホアスは同じ題材の劇映画「アヤ」や、沖縄の鳩間(ハトマ)島についての連作も監督している)のように、オーストラリアの複合文化的側面に目を向けるドキュメンタリー映画の数も増加している。バーバラ・チョボキーは、第二次大戦でチェコスロヴァキアからの亡命者だった自分の母について、当時の書簡、8ミリのホームムーヴィー、それに当時の記録フィルムを組み合わせたきわめて私的な映画を作った。そして関口典子は、彼女の“オーストラリアの母”が日本の両親に会いに横浜へ行く旅を記録した私的な日記映画「ヘガティ夫人日本へ行く」(1992)を製作した。

 世界の政治経済におけるオーストラリアの位置づけに関する国内の政治的議論が危急のものとされている現在、国家的アイデンティティをめぐる論争は、「文化的産物」の域を越えて重要性を増してきている。現在の首相は明らかにこの問題を政権の重要課題とみなしている。この路線は、キーティングがホーク労働党内閣の蔵相だった1980年代初頭に始まっており、その目標は、オーストラリア経済を再構築し成長を続ける世界経済のなかにオーストラリアの地位を確立することである。

 キーティングは、1992年に自身が首相として選出されて以来、この再構築路線が経済的・法的・政治的な再構築に深く関わっているにもかかわらず、なにがしか国家的アイデンティティについてより象徴的な面を強調する路線をとろうとしている。この傾向の顕著な例は、オーストラリアを英連邦から切り離して共和国にする運動だ。オーストラリアの共和国化に関する長年の議論は、2001年に控えた独立100周年と、経済その他の国際化に拍車をかけられた国家的アイデンティティの概念が分裂傾向にある現状を切り抜けることを迫られたキーティングとその政権にとって、昨今あらたに危急の重要事項として浮上してきている。

創造的国家

 「創造的国家」宣言の最初の段落に明らかなように、この政策は以上の文脈のなかでこそ考える必要がある。

「オーストラリアは、世界の他の国々と同様、歴史的に重要な転換点にさしかかっている。この国では、他国と同様、伝統的な価値や理想は流動的になり、世界規模の経済的・技術的な急速な変化は、国家政府が未来に立ち向かう能力への疑いや冷笑を生んでいる。我々の文化のなかで真にオーストラリア的なものは、等質的な国際的大衆文化の重圧を前に危機に瀕している。」

 この序文にはさまざまなテーマが現れている――危機、経済的・技術的変化、それに何が真にオーストラリア的であるかという問題である。オーストラリアにおける「新しいテクノロジー」のなかでのドキュメンタリー映画の形式について、この「創造的国家」政策は何を語り得るのだろうか?ここで要請されている資金援助の三分の一がマルチメディア関係に当てられており、もちろんそれはドキュメンタリーにも重要な意味をもっているという事実にもかかわらず、このことに対する答えは宣言そのもののなかでは明確になっていない。マルチメディアで作品を作るのは誰で、それはドキュメンタリー映画およびテレビ番組に取って変わるものなのだろうか?

 実際のところ、「創造的国家」のなかにはドキュメンタリー映画およびテレビ番組についてほとんど触れられていない。ドキュメンタリーという言葉に言及があるときは、例えば「映画、ドキュメンタリー、それにテレビ番組」(p43)と言ったひとからげの言い回しにおいてのみであり、ドキュメンタリー映画やテレビ番組はそれぞれ独自のカテゴリーとしてはもちろんまったく扱われていない。だが、明確なのは、この宣言のなかでオーストラリアにおけるマルチメディア産業に特筆すべき部分が割かれていて、この産業の発展は、1995年の有料テレビ(このことは「創造的国家」ではほとんど言及されていない)の開設とともにドキュメンタリーの製作にも重要な意味を持っているということである。

マルチメディア

 きわめて商品化された文化の見方として、「創造的国家」宣言では一貫して「内容」という観点からマルチメディアと情報ハイウェイを世界経済のなかで取引される商品と見なしている――「(商業テレビ製作)基金では番組の創作と著作権をより多く取得することを奨励することになる」(49頁)、「マルチメディアは文化的表現の新しい形態と世界にむけて販売する主要輸出品目をもたらすことになるだろう」(イタリック部筆者、55頁)、「絶対的に重要なのは内容である。我々が情報ハイウェイに何を乗せるのかこそが問題になるのだ」(55頁)。この「内容」の重視とその商品化の姿勢は、それ以前に発表された「内容による商業:双方向マルチメディア市場におけるオ−ストラリアの国際的未来」という題名が全てを語っているような政府報告ではさらに直接的である。

 アイデンティティに関する諸問題を取り扱う文化――「我々が自己の文化を保とうとするのは、それが我々は何者なのかという問いへの理解のしかたに根源的な意味合いを持っているからである」(5頁)――を生み出したいという欲求と、世界市場へむけた“商品”の生産への欲求のあいだには、矛盾が内包されているように思える。宣言では、一方である形態の文化(明言はされていないが、おそらくは”古来の”形態)は伝統の保持と文化遺産――オ−ストラリア人のアイデンティティの起源はここに求められる――と関わり、他方でマルチメディアは国際化に関わるものであり、未来についてであり、そして国内ではなく国外を意識したものとされているようだ。この明らかな分割のしかたは、議論と論争は文化に活力を与えるためにあるということへの認識不足からきている。アイデンティティとは固定して安定したものではなく、常に流動的なものだ。文化とはこの流動性が生成されている場であるはずだ。

 他方で、この外向けの姿勢はいいものだとみなすこともできる。タ−ナ−は最近の劇映画の多くについて「自国の文化的起源に対する自意識が乏しいこと3」を讃えている。ある意味では国家や映画産業が国家的アイデンティティの議論により無力化されてしまうということもありうる。国際化は筆者が先に触れたような国家的アイデンティティと文化の異種混合性を促すことにもなる。実際のところ、国際的な称賛をうけたオ−ストラリアの強力なドキュメンタリ−映画の多くは、オ−ストラリアの「外の」問題をあつかったものである。たとえば南太平洋でのアメリカの核実験の影響を扱ったデニス・オロ−クの「半減期」、中央および南アメリカを取り上げたデイヴィッド・ブラッドベリの一連の映画(「ニカラグア:ノ−・パサラン」、「チリ・ハスタ・クァンド」、「国境の南」)、それにパプア・ニュ−ギニアの日本占領期の遺産を扱った関口典子の「戦場の女たち」のような作品がある。東南アジアで製作された映画には「暗号名:七つの薔薇」(ルウェリン、1992)、それに「鏡が燃えるように」(ブリザ−トン、1991)(ともにベトナムが舞台)、それにカンボジアを舞台にした「十番目の踊り子」(イングルトン、1993)がある。

 しかしながら、批評的な視点はドキュメンタリ−には必要不可欠なものである。すなわち国際的な観客を想定することにより、ときには特定された視点であればもたらしうるであろう鋭敏さを鈍らせることになる。個々のドキュメンタリ−作品を明確に独立した重要なものとしうるのは、その作品が題材に対して提示しうる特定の文化的視野であり、議論である。

 この宣言のなかで一貫している「内容」についての話のなかにはこの決定的な点が欠けている。そのなかでは「内容」があたかも固定されて安定したものであって、議論から切り離されたものであるかのように扱われている――実際に歴史そのものからでさえ切り離されたものであると考えているようだ。ドキュメンタリ−の関心は「内容」だけでなく、議論と論争にもある。ドキュメンタリ−の目的は物事に対する姿勢、価値観、態度を見直すというところにあるので、観客という問題は常にドキュメンタリ−の中心にあるはずのものだ。ドキュメンタリ−の持ちうる意味とは、単に個別的で意味の固定された内容が、観客が分かりやすいように手の届くところに示されるよう“与えられ”るだけのことではないはずだ。むしろ、意味は多様な受容の文脈のなかで映像テキストと観客の相互作用から生まれてくるはずだ。テキストと観客の関係と、そこに含まれる意味は、ドキュメンタリ−映画の作家たちと理論家たちにとって議論の的であり続けてきた。それはオ−ストラリアではジョン・ヒュ−ズ、ロス・ギブソン、トレイシ−・モファット、サラ・ギブソンその他大勢の作品によく現れている。表象をめぐる問題は先住民を取り上げた映画の増加とともにますます危急の問題となってきており、この問題についての理論的な議論は映画のなかでも取り上げられ、マルシア・ラングドンの反響を呼んだ論文「ええ、私はそれをラジオで聞いて、テレビで見ました 4」でも論じられている。

テレビとドキュメンタリー

 オーストラリアのドキュメンタリー映画作家は、現在では作品完成前のテレビとの契約にほとんど完全に依存している。それは直接製作費を提供される場合と、テレビと契約したことで映画資金公社(FFC、映画への投資を目的に連邦政府が設立した「映画銀行」で、かなり商業ベースで運営されている)への資金提供の申込が可能になるからである。FFCはドキュメンタリー映画に海外の配給者(主にテレビ)からの出資か作品完成前の契約の存在を条件として課している。そこで徐々に、製作される作品には国際的市場への適合が求められている。これは映画作家たちがより質の高い企画を立てることを促してもいるが、一方では企画を特定の内容に絞ることを避けさせる危険を有している。またこのような作品完成前の契約を条件づけることで、映画作家たちはオーストラリア放送公社から、さらにはSBSからの影響に拘束されることにもなってしまう。この二つの国営ラジオ/テレビ放送局が購入しているインディペンデント製作のドキュメンタリー映画の数はこの10年間で増加を続けており、今ではABCはインディペンデント映画作家にとっては最大の市場になっている。

 しかしABCは国営放送であるという条件からの制約があり、限定された観客を対象とするよりは幅広い視聴者を対象とした放送でなくてはならないことから「ドキュメンタリー映画製作者としてのエネルギーを、自局製作の番組、外部発注の番組の双方で失ってしまっている5」。この結果オーソドックスな作風が幅を効かすことになってしまった。映画観客(限定された観客)とは逆に幅広い視聴者を対象としなければならないというプレッシャーは、映画の財源を獲得するために作品完成前にテレビ局との契約を取らなければならないことと併せて、映画作家たちを束縛しているのだ。

 テレビによりドキュメンタリー映画がより多くの観客を獲得していることは正しく認識されなければならないし、国営放送であるという制約の反面、逆にABCが映画作家たちに幅広い作品発表の機会を与えてもいるのである。しかしながら、テレビにおける支配的なドキュメンタリー観とは、良いドキュメンタリーとは透明なものである、という現代の時事的な問題と強く関わっていなければならないというテレビのドキュメンタリー製作者の多くが属しているジャーナリズム的な思考に起因したモデルに基づいたものである。

 同じようにマルチメディアにおいても世界的な市場を想定した「内容」を目標とすることは八方美人的で安全だが、いかなる文化的な関連性をも欠くものになってしまうことからくる、すでに映画やビデオの分野で働いているものたちが直面しているのと同じ危険性を内包しているのである。マルチメディアの発達には「いいアイデアが商業ベースの製品となることを保証する」私企業の存在が前提としてある。政府はソフトウェア業者と「伝統的な内容の製作者」(57頁)との現在進行中の対話を奨励するためのフォーラムに財源を提供しようとしている。先に発表された宣言に逆らって、この政策のレトリックのなかでは、「マルチメディア」は「アイディア」に対しても、あるいは創造的な個人という概念(おそらくは時代がかった意味での)に対してもほとんどつながりが認められない。これによれば、マルチメディア製品は産業として、会社組織のなかでまるで自動車のように製作される。ここではおそらくは「伝統的な内容の製作者」(政府はこの言い回しがどういう意味なのかまったく明らかにしていない)が商業用ビデオやスポンサー映画を作ることになると考えられている。ここにはインディペンデントのドキュメンタリー映画作家にあたるような分野の人々を支援しようということなどは、示唆もまったくされていない。この文化観は、明らかに文化は一つの産業であるという見方である。このようなモデルから見て、製作への参加や、ドキュメンタリー映画作家と対象とのあいだの民族的・政治的関係や、その他のドキュメンタリー映画作家たちの意識のなかで過去数十年間のあいだ追及されてきたさまざまな問題への意識は、明らかにこの宣言のなかで抜け落ちていると言えるだろう。他のノンフィクション映画・ビデオの形態に対してドキュメンタリー映画を決定づけている特徴は、ドキュメンタリーの持っている題材への批評的なアプローチである。この特性は現代のドキュメンタリー映画が教育用・訓練用の映像と一線を画しているものなのだ。

ドキュメンタリーから学ぶこと

 この宣言のなかでは「マルチメディア」が具体的に何を意味するのかまったく明らかにされていないが、「内容」はフィルムやビデオを通してではなくCD−ROMの形で流通されることになっているように思われる。この宣言のなかで「マルチメディア」を論じている部分はかたくなに「内容」の問題をめぐる議論に終始しており、支配的な見方は、よいマルチメディア作品とは透明なものだということである。技術的なことに主に関心が集中している映画産業のなかの官僚たちの大部分にとっては、これが一致した考え方のようだ。当然、オーストラリア映画委員会と交渉したことのある映画作家たち――彼らは三年間にわたってマルチメディアの作品のための資金を探している――は、マルチメディアの形態についてはほとんど関心がもたれていないことに気がついている。それは、オーストラリアで製作された新しい形式に挑戦するようなドキュメンタリー映画が、放送局からは「問題のある作品」とみなされているのと同様に、マルチメディアの場合にもその手段としての可能性をめぐる理論的な質問や、観客がいわゆる双方向メディアに内包されている意義をどのようにして作り出して行くのかには、今日までほとんど関心が払われていない。一般にはこのような問題は論ずるまでもないことのようにみなされているようだが、しかし、たとえばマボ6において、マルチメディアのプロジェクトに取り組んでいるメルボルン在住の映画作家ジョン・ヒューズのような映画作家は、この種の問題は重要な関心の的だと考えている。

 マルチメディアのテクノロジ−は既存のドキュメンタリ−を変革するものなのだろうか。だとしたら、それはどうやってなのだろうか?マルチメディアとは音声、映像、それにテキストと関わる多数のテクノロジ−の総合の結果として生まれるものである。テクノロジ−の「双方向性」と、それぞれの構成要素をばらばらに扱うことができるというその特質は、映画やテレビと異なり単一の線上構造でないテキストを創造する可能性を意味している。実のところ、このことから「テキスト」という用語自体が必ずしも適したものであるとは言いがたい。作品との相互作用を通じて、その度に利用者・観客はそれぞれに違った「テキスト」を作る可能性がある。その可能性は、映画でいうところのモンタ−ジュの概念がはるかに押し広げられることにある。つまり、マルチメディアの使用者は、例えばテレビのニュ−ス報道のア−カイヴ映像、新聞の長文記事、議会の演説、ラジオの時事報道からのキャッチフレ−ズ、政府官報、それにその他のニュ−ス素材から、そこに考えられる関連性を自由に探求することができるのである。マルチメディア観客にとっての選択の余地は無限ではない(双方向性メディアのテキストが供給するものに左右される)ものの、観客は映画作家の側が指定したテキストの選択と関連性に従うことは必ずしもないのである。この意味でマルチメディアのドキュメンタリ−は話法の展開ということにさほど拘束されることがないと言える。この可能性は「テキスト」と「観客」のあいだにはるかに強制的でない関係をもたらすことになる。それはドキュメンタリ−映画作家が長年にわたって追求していたことだ。

 しかしながら、マルチメディアがユ−トピア的な成果をもたらすのは可能性があるというだけのことで、その実現は保証のかぎりではない。マルチメディアの作品でも多くのドキュメンタリ−映画作家がその作品や理論的な戦略、それに認識論的な仮説を前面に押し出そうとしているのと同じような戦略を立てなければならないだろう。もし我々がドキュメンタリ−映画の分野を通して表象と観客への提示の問題についてなにかを学ぶことが出来るとしたら、政治的・倫理的な論点はマルチメディアの発展にとって本質的な重要性を帯びることになる。マルチメディアがもたらす、音声、映像、テキストをさらに自由に組み換えることができる可能性と、そこに成立しうるメディアのさまざまな組み合わせと配列は、単に「内容」やマ−ケティングへの考慮を越えたところにあるものだ。だがもしオ−ストラリアが本当にこの分野で世界的なリ−ダ−になろうと言うのなら、そしてマルチメディアが単なる産業のもたらす製品でなく「文化」として見なされるのであれば、以上の論点について議論される必要がある。マルチメディアを単に、教育産業や旅行産業のための権威主義的な教育・宣伝の手段として考えるのは十分ではない。筆者自身がマルチメディアによる著作物発表に関わった経験からいえば、そうした製品はむしろ短絡的で一方的な決めつけになりやすいところすらあるのだ!

 「創造的国家」では6箇所のマルチメディア・センターに「教育/訓練的分野と他の公営/私営企業との共同事業」(59頁)として開設資金を提供することを謳っているからには、このことを認識しているように思われるが、この宣言が大げさな言葉遣いでここでも「新しい主要輸出産業の成立のための(中略)製品検査と価値判定」(60頁)について語り始めるところを見てもそれは保証の限りではない。マルチメディアの理論化になにがしかの注意が払われるかもしれないというかすかな希望が感じられるのは「(オーストラリア映画委員会の新映像調査プログラムは映画に加えて実験的マルチメディア・プロジェクトもその研究対象とする」(61頁)というくだりにおいてのみであろう。

 教育やその他の文化的事業体を通じても、マルチメディアの形態と特性をめぐる生き生きとして理論的しかも冒険的な議論や、マルチメディアの分野においてドキュメンタリーの分野ではすでに活発に行われているような快活な反主流的な文化を目指す議論への支援が行われることが期待されているのである。

(翻訳:藤原敏史)

 

(注)

1. Graeme Turner, "Whatever Happened to National Identity?: Film and the Nation in the 1990s, " Metro: The Media Magazine 100 (Summer 1994/5): p. 32.

2. Turner, p. 33.

3. Turner, p. 33.

4. Marcia Langton, " Well I heard it on the radio and I saw it on the television..." (Sydney: Australian Film Commission, 1993).オーストラリアのメディアにおけるアボリジニーの表象に興味を持つ人にとって中心的な論文である。

5. ABC理事会への公開的質問状のなかの、映画製作者、メディア評論家のフィリップ・アダムスの発言。The Australian, 21〜22 January 1995: p. 10 掲載

6. マボというのは、最近の最高裁判所の裁定のことで、今日「オーストラリア」と呼ばれている地域の所有権は、まず先住民にあったことを認めている。この訴訟には深い意義が含まれており、これをめぐってはいまだ論争が絶えない。