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審査員
フィリップ・チア


-●審査員のことば

 グローバリゼーションがこれほど狡猾な力でもってあらゆるものをその道筋へと引き込むことに、あなたは疑念を抱きはしないだろうか。この10年を振り返ってますます明白になりつつあるのは、新作アート・フィルムまでもがグローバル化を被っているように思われることだ。映画における定型表現や、こうすれば間違いないという公式が、あたかもそれがあることがアート・フィルムの必要条件であるかのように世界中に拡がっており、そうした状況は、フィリピンでもカザフスタンでも、中南米や欧州に至るまで択ぶところがない。文化は異なっているのに同一の形式言語が用いられる。雰囲気を醸し出すゆったりとしたリズム、意味ありげな長回し、時折挿まれる不条理ながら詩的な場面といったものは、よく知られた修辞の一部に過ぎない。

 なぜそうなってしまったのかを辿っていくと、ひとつには、映画産業が農業を範としながら新しい作品を収穫してきた、ということがあるだろう。資金の割り当ては決まっており、契約は出資する側の国益を守るようにできている。その只中で奮闘しつつ歩んでいると、つい作り手たちは、自分がどこにも頼っていないという幻想にとらわれることがあるけれども、結局はこうした条件に同意しているだけなのだ。

 高度に体系化された現代の農場システムは、高い助成金で最高の機械を導入することで、移ろいやすい市場から自身の身を守っている。映画という農場のシステムも同様に、国の助成で製作されたものが、国の助成で運営される映画祭の支援のもと、国内の配給会社に買われたのち、外の市場――それが作り手の出身国でも同じことだ――と高額で取引される、という一連の流れを保障するものとなっているのである。

 フィルム・マーケットがグローバル化された経済となれば、文化を大いに活性化させるための多様性は、のっぺりと平坦なものになってしまう。映画の心はどこへ行ってしまったのかと訝るには、それでもう十分だろう。

 村上春樹が『1Q84』で思い起こさせてくれたように、「心から一歩も外に出ない物事なんてこの世界には存在しない」。

 あるいは、ボブ・ディランが「Maggie's Farm」で歌っているように、「俺は俺なりに/俺であろうとしたけれど/みんなが俺に望むのは/みんな同じでいることさ」。


フィリップ・チア

フィリップ・チアは、玩具とレコード盤なら何でも収集するマニアにして映画批評家、シンガポール唯一の独立系ポップ・カルチャー誌『Big O』の編集責任者。NETPAC(アジア映画促進会議)の副代表も務めている。東南アジア映画祭、アジア映画配信サイトAsiaPacificFilms.com、ジョグジャカルタ・アジア映画祭、上海国際映画祭、ハノイ国際映画祭、ドバイ国際映画祭などでプログラム編成のコンサルティングを手がける。また、共編著として『And the Moon Dances: The Films of Garin』、ノエル・ヴェラ著『Critic After Dark』、ゴ・フォン・ラン著『Modernity and Nationality in Vietnamese Cinema』がある。2004年の釜山国際映画祭では、これまでの韓国映画への貢献に対しコリアン・シネマ賞が贈られた。2008年には、シネマニラ国際映画祭でも、そのアジア映画への寄与を称えられアジア映画賞を受賞。YIDFFには、1991年にACPAC(アジア映画国際会議)、1995年にNETPAC審査員として参加している。