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アジア千波万波


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アジア千波万波 特別招待作品

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アジア千波万波 審査員
テディ・コー
塩崎登史子 土の記憶 | 「枝川ハッキョの子どもたち」プロジェクト

アジア千波万波 特別企画
ロックスリースペシャル

夢のはじまり

 私の父は、若年性アルツハイマーで55歳の時から、私たちが一般的に理解している記憶というもの――身体的には、脳の記憶を司る海馬の一部――を徐々に失いながら、生きている。彼が何を考えているか。常に考えているのは、一番身近にいる母で、こうしたいのだろう、ああしたいのだろうと推測を積み重ねることで、生活を共にしている。私やきょうだいも会いに行くと、勝手に、そうだ、そうじゃないと、解釈の正当性を探る。ふと、実は父は全部理解していて、それに対して、意見を伝えていても、私たちが気付いていないだけなのではとも思う。それは、分からない。

 何かの思い出や記憶とはあいまいなもので、記憶として取り込まれる時、頭の中に蓄積される時、引き出される時と、一連の記憶の刻印が繰り返される時と、同じであるということがない。映画を最初に見た時と、歩いている時にふとあるシーンを思い出す時、このカタログのシノプシスを書く時と、また違っている。映画を見て初めて、その映画を巡る一つの物語を想像し、そこに至る推測が蓄積され、私個人の映画体験となって身体に記憶される。映画の登場人物、ひいては作り手の心の中まで分かったような気持ちになることもあるし、のぞきこんでしまったという、そわそわした気持ちになったりもする。確かなことは、映画の作り手の怒り、愛、哀しみ、または戸惑いが、作り手のまなざしを通じて、画面に滲み出ること、出てしまわざるを得ない、アジア千波万波の映画から、そんな作り手の預かり知れぬ無数のストーリーが生まれることだ。確実な「何か」が存在しないことは頭で分かっていても、その手がかりをたぐり寄せようとしながら。

 作り手も、観客も、父も、母も、私もある記憶の断片を手がかりとした、終わりのない物語の紡ぎ手であり、その物語――記憶と表裏一体である夢――には、当然のことながら、はじまりも終わりもなく、波にのって、終わりのない海を巡る。映画祭は、アジア千波万波は、その道中にある交差点であり、そこを照らす灯台なのかもしれない。それぞれのストーリーを持ち寄って、もう一つの夢がはじまる。

- 1989年から、時には来形、時にはTシャツデザイン、先付け、デイリーニュースの連載漫画で、山形映画祭に宿り続ける、ロックスリー(とそのスピリット)特集を今回、アジア千波万波スペシャル上映・展示として行う。展示では、彼と縁のあった映画祭スタッフや友人たちの家に宿っていたロックスリーの作品も、いったんその住処を離れて記憶の断片と共に集結する。山形映画祭が今回初めての方も、何度も足を運んで下さっている方も、どこかですれ違い、どこかで彼の作品を目にしている方も多いと思う。

 最後に、この場を借りて、映画祭に応募して下さったすべての作り手、準備段階から様々な局面で力を貸して下さった多くの方々に感謝します。そして、海外渡航が可能でないために今回参加できない監督、これから映画を見る観客の皆さんに、愛を込めて。

若井真木子(プログラム・コーディネーター)