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小川紳介論のために

上野昂志


同時代の記憶

 小川紳介が、初めて自主製作・監督で『青年の海―四人の通信教育生』を作った1966年に、わたしは、『ガロ』という漫画雑誌に、社会時評的なコラムを書き始めた。わたしは小川より5歳年下だが、その意味では、同時期に活動を始め、同時代を生きてきたといえる。ただ、そのときは『青年の海』を見ていなかったし、その存在さえ知らなかった。小川作品を初めて見たのは、その翌年に作られた『圧殺の森』である。これを見たのは、第一次羽田闘争のあった67年10月8日から、11月12日の第二次羽田闘争の間のいつかだったと思う。場所は、たぶん四谷公会堂だったろう。はるか昔の記憶の片隅に、古びた床に塗られたワックスの匂いと、講堂の窓に下げられた遮光カーテンの間から漏れてくる光が揺れているからである。当時、この公会堂は、映画や演劇の自主公開や自主公演によく利用されていたのだ。そして、のちに一般的になる小川作品の自主公開というスタイルも、これが最初だったのではないか。

 ただ、『圧殺の森』を見たといっても、そのときのわたしは、これを映画作品として見ていたわけではない。あくまでも、高崎経済大学という、地方の小さな大学の闘争の記録として見たのである。実際、わたしは、『ガロ』のコラムでこの作品に言及しているが、それも映画としてではなく、学生たちの闘争の現在的なありようを考える資料として引用しているにすぎないのだ。むろん、そうすることになったのは、この映画が捉えた学生たちの姿に強く惹かれたからであったが。

 だが、それは、この『圧殺の森』(1967)だけではない。そのあとの『現認報告書』(1967)はもちろんのこと、『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968)に始まる一連の三里塚シリーズも、映画としてというよりは、三里塚闘争の記録として見ていたのだ。そのときにはむろん、小川紳介の名前も、小川プロの存在も知っていたし、それで映画館ならざる場所にも見に行ったのだけれど、一本一本の映画を作品として見るという意識はなかった。といって、当時のわたしが映画に興味がなかったわけではない。わたしが初めて映画の批評を書いたのは1968年のことだが、それ以前も、いわゆるシネ・フィルほどではないが、暇さえあれば映画館に入り浸っていたのだ。にもかかわらず、小川紳介ならびに小川プロの作品を、一本の映画作品として見る姿勢はきわめて稀薄だった。一方で、鈴木清順や加藤泰などの映画に感動しながらも、小川作品をそれと同じ地平で受けとめるといふうにはならなかったのである。

 これはやはり、1960年代末が闘争の時代(68年革命?)だったからであろう。そして小川作品は、その闘争の最前線の空気を伝えるものだったのだ。なんといっても、小川紳介の作品は、カッコよかった。もっとも、これは、いま、多くの映画と同じ地平で、一本の作品として見るようになっても、小川紳介のフィルムはカッコいいのだが、当時は、それを小川の映画作りの手法(とりわけ編集)によってもたらされたものだなどとは少しも思わず、闘争の現場で撮ったものだからだと思っていた。それが変わったのが、『三里塚・辺田部落』(1973)からであろうか。

 変わったというのは、この作品から受ける感触がそれまでのものと変わったことで、こちらにとっても、それまで後景に退いていた「映画」が改めて前面に出てきたということだ。ただし、これにもやはり時代の変化が関わっている。この作品が作られた1973年は、その前年に起こった連合赤軍事件によって、闘争の時代が落ち込んだ無惨な袋小路が明らかになったあとだったからである。闘争に関わった人はもちろん、それにシンパシーを抱いてきた者も、そこから何事かを汲み上げようとした者も、この事件を前にして、なんらかの転換を模索せざるを得なくなったのだ。小川プロが、山形県の牧野に移るようになったのも、それと無縁ではあるまい。

 1960年代は、政治的なラディカリズムと芸術的なラディカリズムが競合しつつゆるやかな連帯を組み得た時代であったが、そんな幸福な時代は、1971年から73年ぐらいまでの間で終わりを告げたのだ。大島渚が、それまで同志的な結びつきで映画を作ってきた創造社を解散したのも、73年である。むろん、個人や集団にはそれぞれの事情があったのだろうが、この時期に60年代的なラディカリズムが行き詰まりを迎えて、なんらかの転換を促されていたことは確かである。

 『辺田部落』にも、暗黙のうちに、このような時代意識の転換が現れていると思うが、見る側の意識も変わっていたのである。それまでの三里塚闘争の記録から、小川紳介の作品というように。現在では、それは自明のことだが、そうでなかった時代というものがあり、小川紳介が、そのなかで映画を撮っていたという事実は忘れてはなるまい。むろん、一人の映画作家としては、一作ずつ対象との関係を模索し、ドキュメンタリーとは何か、映画とは何かを手探りしつつ作っていったのだろうし、その映画としてのありようをきちんと見てほしいという思いもあったろう。しかし同時に、何を対象として選ぶかという選択には、個人の志向とともに時代の空気が大きく作用しており、そのなかで選ぶ=選ばされることにおいて初めて可能になる映画ということもあったはずだ。実際、第一次羽田闘争で山崎博昭が死に、それを追って第二次羽田闘争にカメラを持ち込んで『現認報告書』を作ったとき、小川紳介たちは、それを作品としてでなくニュース・フィルムとして捨てる覚悟があったはずである。しかし、それもいまでは一本の映画でしかなく、作品でしかない。そして作品として見たとき、作家としては不満もあるだろうし、逆に観客にとってはそれでも面白いということはある。だが、そのことがあまりにも自明化されると、果たしてそれが本当にこの作品にとって幸福なあり方だといえるかどうか、疑問である。

映画作家としての歩み

 だが、にもかかわらず、小川紳介の作品を初期から一本ずつ見ていくと、『辺田部落』以前にも、段階を追って明らかに変化があるのだ。たとえば、『青年の海』ではごく当たり前に使われていたナレーションが、『圧殺の森』ではやや抑えられながらも維持されているが、『現認報告書』では捨てられるというように。ナレーションは、それまでのドキュメンタリー映画では、あって当たり前のものだった。だから小川紳介も、『青年の海』を作るに当たって、ごく自然にナレーションを使ったのであろう。そのことを、わたしも忘れていたが、数年前に、小川作品の全作品批評というのを試みたとき、改めてこの作品を見直して、その存在に驚いたくらいだ。小川作品においては、ナレーションがないのが当然と思っていたからである。

 ナレーションは、画面の外から、画面内に映っているものを説明する。そこに起こっている事態を説明すると同時に、それがどのような文脈にあるかを説明する。説明すると同時に、その作品の文脈を構成する。構成すると同時に、その作品の全体を統括する。そのような力をもったナレーションは、どこからやってくるのか。むろん作り手からであるが、作り手の立場や考えを抑制して、作り手と受け手、つまり観客との中間にあるように装われることもある。いわば事態を冷静に見ている客観的な第三者というわけである。観客は、その声に導かれつつ、いつかその声を自身の内から発したものであるかのように同調していく。いずれにせよ、外から画面に働きかけ、画面内で展開する出来事を方向付け統括するのがナレーションである。その意味で、ナレーションには大変な力があるが、その威力を最大限に駆使したのが、亀井文夫の『日本の悲劇』であろう。そこでは、戦中の映像が、戦後的な価値観に乗ったナレーションによって、その意味を180度転換させられているが、わたしは、そのような安易なナレーションの使い方に反対である。だが、そう考えるようになったのは、小川たち戦後のドキュメンタリストの作品を見たからである。

 一本の映画を成り立たせるにはさまざまな力が働いているが、ドキュメンタリー映画におけるナレーションは、その最たるものであろう。そのナレーションの力、いわば権力としてのナレーションを放棄して、小川紳介は、三里塚に取り組むのだ。すると、外からの超越的な声に代わって、現場のさまざまのざわめきや声が比重を増してくる。それはすでに、ナレーションを残している『圧殺の森』で顕在化し、『現認報告書』でいっそう鮮明になる。『三里塚の夏』に始まる三里塚のシリーズでは、それが農民の怒号や呟き、マイクやウォーキートーキーを通した声、それにドラム缶を叩く音からパトカーのサイレンに鳥のさえずりと、多様化し重層化して豊かになると同時に、その合間合間の音のない、無音の時間が強く印象づけられるようになる。その無音の時間のなかで、われわれはただ目の前に拡がるスイカ畑や桑畑を見る。実際に、その場に立っていたらそれほど虚心に見ていられなかったであろうものを、ただ見てしまうのである。それは、映画を介してしか得ることのできない経験であろう。

 これは当然ながら、三里塚に移り住むという撮る側の姿勢からもたらされたことでもあろう。外から見ている限りでは、「事件」であり「問題」でしかないことが、そのなかで暮らしてみれば、必然的に、その事件や問題としての枠組みを取り払わざるを得ないからである。そこには、事件や問題以前に、そこに生きている人があり、彼らの生活の場がある。だが、といって、そのようにして問題の内側に入り込むことだけで、あのようなドキュメンタリー映画が生まれてくるわけではない。そこには、内のなかのもう一つの外とでもいうべき眼があるのだ。それは、最終的にはカメラや録音マイクというモノにまで還元しうるものかもしれないが、そこに至るまでのいくつかの階梯については、もっと細かな分析が必要であろう。と同時に、それによって生み出された小川プロの映画が、いつでもいきなり始まることで観客であるわれわれを動揺させたのはなぜか、というようなことについても、作品の連続性と不連続性との両面からの分析が必要であろう。

 


上野昂志 Ueno Koshi

1941年、東京生まれ。大学及び大学院においては、魯迅の雑感文を中心に研究。1966年頃より批評活動を始める。映画批評は、1968年創刊の『シネマ69』から。主な著書に『鈴木清順全映画』『肉体の時代・60年代文化論』『ええ音やないか』『映画全文』『写真家 東松照明』等

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