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ヤマガタ・ドクス・キングダムを取材する

YDFFネットワークからの報告

ヤマガタ・ドクス・キングダム
ジョゼ・マニュエル・コスタ、 ケース・バカーへのインタビュー


ヤマガタ・ドクス・キングダム


 2001年の山形国際ドキュメンタリー映画祭(10/3〜9)で「ヤマガタ・ドクス・キングダム」セミナーは開かれた。この企画は映画祭のほとんどの作品上映が終了しつつある8日に午前と午後の2部に分かれ、丸1日かけて行われた。

 まずセミナーは、司会兼コーディネーターのケース・バカーとジョゼ・マニュエル・コスタの話から始まった。彼らによれば、このセミナーは、もともと2000年のポルトガルの小さな町セルパで、ポルトガルとドキュメンタリーの置かれている状況を、製作・配給のレベルではなく映画表現のレベルから、会場参加のインフォーマルな対話の中で考えようという企てから生まれたものであり、 特に、今回の山形では、欧米であまり知られていないアジアの若い監督に、人々の前で発言するチャンスを与えるという目的をもって開催されたそうだ。また、セミナーに参加してもらうパネリストたちはバカーとコスタが映画祭期間中インターナショナル・コンペティション、アジア千波万波など可能な限り作品を見て、選んでいくという方法を取り、実験的な試みでもある。映画祭で特集が組まれているロバート・クレイマーの同名映画を名前に冠しているこのセミナー、ひとつにはクレイマーへのメモリアムであるけれども、クレイマーの話をするのではないことも付け加えられる。

 さて、午前のパネリストには関根博之監督、陳凱欣(タン・カイシン)監督、川口肇監督、ジョン・ジョスト監督が招かれ、各作品の一部が上映された。その選択の理由として、ジョゼ・マニュエル・コスタは4人の映画(順に『U・O 5』『塩素中毒』『異相』『シックス・イージー・ピーセス』が「ドキュメンタリーにおいて、作品作りの手段自体に関して興味深い作品」であることをあげた。作品作りの手段自体=撮影媒体と限定することはできないが、いずれにせよ関根監督の作品は8mmフィルム、ジョスト監督の作品はデジタルビデオ、陳監督と川口監督の作品がその両方によって撮られている。そして、司会の緩やかな誘導もあり、やはりこの新旧テクノロジーの話題がディスカッションの中心となっていた。

 例えば、ジョスト監督は自作『シックス・イージー・ピーセス』がデジタルビデオ固有のイージーな側面――お金と時間があまり必要ないこと、それゆえに自分が本当に作りたいものを作れること――に負っていることを説明し、「デジタルビデオはすっかり退屈しきっていたムービングピクチャーへの興味を再び取り戻してくれた」と続けていた。陳監督も「いくらでもコピーできるノンリニア編集であれば、様々な変種ができますし、1コマの単位でも様々なことができます。私は、その事を面白いな、と感じています」と、デジタルビデオの魅力を別の側面から語っていた。

 一方、こうしたデジタルの特徴である手軽な複製性に対して、フィルムの一回性を保とうとする動きも見られた。例えば、関根監督のフィルム1リール分を賭けた手持ち長廻し撮影は、ミスが許されないがゆえに一回性があるのでは、という会場からの指摘。当の関根監督(20年に亘り自主製作・上映を続けておられるという)も「上映も一つの表現になりうると思うので、自分の作品を上映するときは、必ず自分が映写機を回すようにしています。あるいは劇場映画の場合でも、その都度に微妙に異なるお客さんの人柄や空気がある…」と語り、上映自体にも一回性を見出そうとしていた。

 上映については他に、映像をデータベース化すればその必要がなくなってしまうのでは、という会場の声もあがっていたが、この上映とニューテクノロジーの問題を、川口監督は冷静に分析していた。「私は(映像の)インターネット配信にはすごく可能性を感じています。特に個人映像作家の絶対数を向上させるひとつのブレークスルーになり得ると思います。ですが、それと上映は別物だと思います。…ケミカルフィルムとデジタルビデオについても言えることですが、どちらかがどちらかを完全に置き換えるのではなく、むしろ選択肢の多様さを意味していると考えるべきだと思います」。

 …以上が、ディスカッションの一部の内容である。しかし、仮に午前のセミナーに意義があったとするなら、それはその発言内容(まあ、これさえもカバー出来ていないが)自体よりも、むしろ、話されたかもしれないが実際には話されなかった事柄を想像することにあるのかもしれない。例えば「フィルムであれ、デジタルビデオであれ、撮影するモノについてどう考えているのでしょうか」といった黙殺された会場の質問を思い出してみたり、「映像がデータベース化すれば…」という質問を今日的な世界の表象の問題に接続してゆくことに意義があると思う。バカーの言うように「ひとつの結論を得ることが、このセミナーの目的ではない」。

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 午後からのセミナーには、『この冬』の仲華(チョン・ホア)監督、『団地酒』の大野聡司監督、『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタ監督が招かれた。ケース・バカーはその選考基準を「強い人間関係から出発した作品で、ドキュメンタリーという媒体を通したときに人間関係をどう伝えたか」としていた。 確かに、いずれの3本も何らかの形で対象への愛と力強い映画形式を備えている。そして、司会も仲監督と大野監督にディスカッションの糸口になるようにと、こうした問題を作品に則しながら尋ねていた。それに対して、大野監督であれば「(父親が終盤まで話さないが)実は10時間くらいインタビューしました。でも、全部撮影し終わった時テープを見たら、父親の酒を作るときの米を一粒も逃さない手とか、絵を描くときの手とかに、インタビューの時の言葉よりも父親の気持ちとか、母や僕に対しての優しさを感じたので、インタビューは全部カットしました」と応じ、仲監督であれば「よく話をして、彼ら(被写体の人々)の思い、生き方を共有してから撮影し始めます」「私は撮影していても、その場に私が存在することを隠しません」と応じていたはずだ。しかし、これらの司会が導いた発言は、その後のディスカッションにおいて、ほとんど触れられることはなかった。というのは、映画祭期間中に熱狂的なファンを生んでいたペドロ・コスタ監督に会場からの質問が集中したためだ。

 そういうわけで、仲監督と大野監督は話す機会が少なくなってしまった。もちろん彼らの作品が人を魅惑しなかったわけではなく、仲監督の『この冬』について、ジョゼ・マニュエル・コスタは「今回の映画祭で非常に良い驚きを得ました」と告白し、ペドロ・コスタ監督は「非常に神秘的な作品なので、いまはまだ何も言えません」と漏らしていた。大野監督の『団地酒』も、「ドクス・キングダム」セミナーにとって興味深い作品として評価され、2002年9月のポルトガルでのセミナーに川口肇監督とともに招待されることが決まったそうだ。

 ペドロ・コスタ監督には撮影媒体や音など多岐に渡った質問が向けられていた。その中から上の選考基準に関わる問答を取り上げると…。「演出かどうか判断のつかない映像があったが、物語をどう形づけようと考えているか」という会場の問いに対して、彼は「シナリオを書いたわけではないし、人々にどう動くか指示を与えたりもしませんでした。…この映画には色々な「声」が聞こえて来ます。私の声ではありません。自分の声には全く興味はありませんから。一人の声、二人の声、一足す一の声が聞こえてくるという非常に神秘的なプロセスによって、一人の人間の話ではなく、その場所の話をしているんだということになる、すべてが完璧な円になる素晴らしい瞬間が生まれるのです」と答え、その瞬間に至るために7ヶ月に渡る編集作業が必要だった、と続けていた。

 すべてのディスカッションを終えたあと、クレイマーのレトロスペクティブということもあり、彼の公私にわたるパートナーであり続けたエリカ・クレイマーの短い話が用意された。また、『ガンズ』(1980)以降ほとんどの音楽を担当したバール・フィリップスも招かれ、『シックス・イージー・ピーセス』の一部をオリジナルのサウンド・トラックで上映し、彼のライブ演奏付きで再映するという試みがなされた。彼は映画祭期間中、他にも閉会式や香味庵など至る所に姿を現し、凄まじい演奏を見せてくれた。

報告者:小手川大介

 


ジョゼ・マニュエル・コスタ、 ケース・バカーへのインタビュー


――セミナーでは、ドキュメンタリーにおけるデジタル技術の可能性についてのディスカッションが行われたと思いますが、おふたりはどうお考えになりましたか?

バカー:ペドロ・コスタ監督(『ヴァンダの部屋』)も言っていましたが、技術自体は進歩しましたが、何よりもまず、作品を作る上での出発点は監督のヴィジョンです。デジタル技術というものはそのヴィジョンを作っていくことを可能にしただけだと思います。

コスタ:ジョン・ジョスト監督(『シックス・イージー・ピーセス』)も言っていたように、彼は当初、前衛的な作品を作ろうとしていましたが、それだけでは生活が出来ないので、コンベンショナルな作品も作っていました。しかし、デジタル技術の時代になり、制作費の心配をすることがなくなったという面などから、また映画製作の(自分の作りたいものを作るという)原点に戻れたのです。そういった意味で、デジタル技術の進歩は、資金の心配をせずに、映画の原点に戻れるというチャンスを与えてくれたと思います。

――午前の部のセミナーで、「デジタル技術により、将来的には映画祭や映画館自体の存在もデータベース化されるのでは?」というディスカッションも話題になっていたと思いますが、どうお考えになりましたか?

コスタ:映画というのはふたつの考え方があります。ひとつは映画が生まれてから現在に到るまでの、技術の化学的な面での媒体です。もうひとつは、暗いところで、多くの人と、一緒に観たいというニーズに応えるような媒体です。こういったニーズは、シネマが発明される以前(例えば中国のマジックランタンのようなもの)からあったわけです。ですから、これからシネマが消えたとしても、そういったニーズは残るでしょう。ですから、そういった意味でも、映画祭は、そのような人間のニーズに応える手段でもあるわけです。もちろん、インターネットなどは、違うメディアであるわけですから、結果が違うとは言い切れませんが、いずれにしても、そういった人間のニーズが続く限り、映画祭や、映画館というものの存在は続くでしょう。

――世界のドキュメンタリーにおいて、アジア作品についてはどうお考えですか?

バカー:私はヨーロッパの多くの映画祭に行っていますが、私の中ではアジアとヨーロッパの作品における差というものはあまりありません。主題として強いものはありますが、それを映画という手段によって上手く用いている作品は稀です。そういった意味で、アジアだからという違いはあまりないのです。

コスタ:今やドキュメンタリーの製作は世界中でブームです。しかし、アジアのいくつかの国におけるドキュメンタリー作品は、少し、ヨーロッパで作られる作品とは異なっており、社会的なテーマを持った作品が多いと思います。それは、やはり、新しい技術を使い、より安く作品を作れるようになっている現在ですから、それを利用し、社会に対する危惧や緊急性に対して作品を作っている作家も出てきています。と同時に、いくつかの国では、ドキュメンタリー映画の手段として考えた時に、今までとは違った方向へ持っていこうとしている挑戦的な作品も中には見受けられます。そういった様々な作品が混在しているという意味で、アジアという地域はバラエティーに富んだ地域ではないかと思います。

インタビュアー:岸ユキ、河角直樹
通訳:カトリーヌ・カドゥ
採録・構成:岸ユキ


山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)ネットワークは、1989年の第1回の山形映画祭を成功させる会ということで、旗揚げした。山形映画祭の発案者である小川紳介監督は、山形市の主催する、行政主導の継続的なイベント運営に、危惧を抱いていたと思われる。地元の映画、イベント好きの若者が関わらなければならないと、各方面に声を掛け、集まった人達を文字どおりネットワーク化して、映画祭の成功のために協力していけないかと呼びかけた。これがYIDFFネットワークの誕生の第一歩である。

 ネットワークの最初の活動は、ドキュメンタリー映画の上映と鑑賞だった。ロバート・フラハティや小川プロ作品、それに当時の新作の上映会が、県内各地で行われた。また、アジアを中心とする作家を招待しての交流上映など、小規模ではあるが、今思えば映画祭の基本そのものの活動が既に始まっていたことに気付かされる。

 このように当時の仕事は、市民向け上映などの、映画祭の告知と宣伝活動であった。ただ、映画祭が近づくにつれ、期間中に何をするのかという疑問が出始めた。そんな時、小川監督から提案されたのが、日刊紙の取材と編集の仕事であった。印象的だったのが、ベルリン映画祭の日刊紙を見せてくれて「いい映画祭にはいい日刊紙が不可欠なんだよ」という言葉だった。これが、デイリー・ニュースの誕生である。ここから、映画祭のひとつのメディアを担うという重い責任を、いまだ背負いつづけることになる。しかし、これは作家と映画と対峙するという経験をさせてくれた。また、写真、ビデオによる記録、版組や印刷など、含まれる要素は膨大なものがある。具体的な作業を通じて、地元の人間も国際映画祭の中での仕事を身につけていった。

 現在は、デイリー・ニュース関係の他にも、各プログラムの企画、作品選考、運営や、カタログの編集など、映画祭そのものの仕事の一翼を担っている。また、学生の参加によるスタッフの若返りと、インターネットによる告知により県外や海外からの参加者も増え、開催の数か月前から活動に入っている。

 期間中は、作家や関係者へのインタビューを中心とする取材活動を中心に進められる。

 その中からデイリー・ニュースのスタッフが取材した山形ドキュメンタリー映画祭2001の期間中に開催されたセミナー、「ヤマガタ・ドクス・キングダム」の報告とインタビューを紹介する。

YIDFFネットワーク事務局長、桝谷秀一

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