english

対談

フレデリック・ワイズマン

ロバート・クレーマー


「Documentary Box」の人気記事でもあります日本のドキュメンタリー作家インタビュー記事シリーズは、今回お休みをいただき、山形国際ドキュメンタリー映画祭'97に参加いただきましたゲストの対談とインタビューを特別 に掲載いたします。60年代から活躍し、いまだ影響を与えつづけているロバート・クレーマー監督とフレデリック・ワイズマン監督の2人の対談に本誌の編集者アーロン・ジェローと映画研究者の藤原敏史が参加いたしました。

―編集部


藤原(以下Fフレッド、あなたはここ20年、ずっとカメラにはジョン・デイヴィーを起用して仕事していますね(『軍事演習』[1979]以来)。彼との共同作業について聞かせてください。

ワイズマン(以下Wたいていは我々3人の撮影クルーだ。私が監督して録音をやり、ジョンがカメラをやり、アシスタントが補充用のフィルム・マガジンを運ぶ。

F:ではロバート、あなたの場合のクルーは?

クレーマー(以下K):ここ最近のクルーは、もし1人─つまり私自身─でなければ[最近のデジタル・ビデオ作品は基本的にカメラを持ったクレーマー自身だけで撮影できる]、だいたい5人ぐらいだ。カメラ(私だ)、録音マン、もし長編劇映画なら、普通 は録音助手が付く。私にはカメラ・アシスタント、それから誰か照明をやる人間、つまり撮影監督かそれに類する人間だ。『ルート1』(1989)の時は3人だった。そのテクニカル・クルーに製作担当が1人、それに俳優が1人だ。『ウォーク・ザ・ウォーク』(1996)は6人だった─特機が1人いたんだ。私は撮影クルーを出来る限り最小限に押さえようとしているし、それは特にフルに人数を揃えたプロのクルー─60から75人─を使って、極度に不愉快でしかもおもしろくもない体験を2、3回してからというもの、なおさらだ。そうなると私の立場は軍隊の指揮官みたいなものになってしまう。私はできる限りそれを避けている。本当のところ、こんな大勢のスタッフはいらない。本当に複雑なものでさえ、もっと少ない規模でだってできるのだ。

F:クルーの規模の小ささが、あなた方の作品の物理的/身体的性格を作っているのかも知れませんね。

W:身体的といえば、自分で機材を運ばなくてはならないところもね。だが私の作っているような映画の場合、素早く動かなければならないし、常に身構えていなくてはならないんだ。しばしば、もしある事件の最初の10秒、15秒を撮り逃すことは、その場に居合わせなかった人に対して何が起こったかを説明する際に決定的に重要になる説明の部分を撮り逃すことにもなる。だから素早く判断して素早く動く必要がある。しばしば、追っている対象の人々が走るので自分でも走らなければならない。それもぶら下げたナグラ・テープレコーダーがバタバタ尻にぶつかっても、その音がサウンドトラックに録音されないような走り方をしなければならないんだ。マイクの位 置にしても、追いかけている相手の出す音は録音しても、自分自身が走って息を切らしていたり、一緒に撮影している人間が息を切らしていたりする音や、足音は入らないようにしないといけない。

K:そうでないと不可能だ。私の場合は映画製作のエコロジーとでも言うべきことを考えていて、それはつまり撮影中も常に現実の状況内にいる以上、その状況のエコロジーを決して乱してはいけないということだ。『ウォーク・ザ・ウォーク』のような映画[一応は俳優がフィクションの役を演ずる劇映画である]でさえ、すべて現実の状況内で撮影しているから、もし撮影クルーが大きければ、もし撮影クルーが鈍感なら、もし撮影クルーに[そういう状況内で]働く習慣がなければ、映画はそこに撮影クルーが来たときのことについての映画になってしまい、現場の人々の関心がすべて撮影クルーに向かってしまう。我々は見えない存在になりたいんだ。

W:その通りだ。見えなくなりたいんだ。

K:それに規模の小ささは我々の使うテクノロジーに大きな影響がある。スタッフの人数が少ないということは、自分がどんな材料を使って映画を作るのか厳密に考えていることでもある。最低限必要なものだけで、テクノロジーを可能な限り見えなくするのだからね。大規模な映画と言うのは服を全部着たままで泳ごうとしているようなもので、我々がやっているのは出来る限り素っ裸に近い状態で泳ぐことだ。私は過去20年間のテクノロジーの新しい展開の恩恵を大いに受けている人間だよ。アトーンの新しいカメラはフィルムにコマごとのタイムコードを記録できるから、映像と音との関係についてまったく新しい柔軟性をもたらしてくれたし、それは映画を撮影するプロセスでの夾雑物を取り除くという点で、まさに大きな一歩なんだ。映画を作っているのに、その作っているという行為そのものは隠そうとしているんだから、複雑な話だ。問題は隠し撮りカメラではなく、ただ撮影の技術的な面 を、撮影対象と同じレベルの規模に留めて置くことなんだ。カメラの持つパワーはあらゆることにとって夾雑物になりうる。カメラがそこにあると、すべての動きが止まる。だれもがカメラとの関係性で行動しようとし始める。その中で撮影しなければならないんだし、それは人々の心理、我々の使っている機材、それに作業のやり方すべてに関わる。

W:妙なことだが、私の経験とはまったく異なるね。私の経験では99%のケースで撮影される人間はカメラにもテープレコーダーにも反応しないし、それに慣れてもらうのに時間を取る必要もない。ほとんどの場合、撮影されている人々はその1回しか我々の姿を見ない。たとえば福祉事務所での撮影では(『福祉』[1975])、あるケースに目をつけ、その関わる人々を追い、シークエンスを撮ってしまったら、後は2度とその人達に会わない。そして私自身には計り知れない理由なのだが、虚栄なのか、関心がないのか、メディアへの慣れなのか、演技力がないのか─いずれにせよ我々のほとんどが自分以外の役を演ずることができない─、とにかく機材とそれを操作する人間の存在は、なんの違いも引き起こさない。

F:でもそれは『コメディ・フランセーズ 演じられた愛』(1996)では少々事情が違うのではありませんか? 多くの人がプロの俳優でもあるのだし。

W:まあね、コメディ・フランセーズ相手では若干違うかも知れないが、経験としては何も違わなかった。『コメディ・フランセーズ』では同じ場所にはずっといたが、同じ人達ばかり撮っていたわけではないからね。ちょうど公共住宅プロジェクトの映画を仕上げたばかり(『パブリック・ハウジング』[1997])だ。そのプロジェクトには5000人ほどの人が暮らしている。誰だろうとそのうちの特定の人をずっと撮るようなことはまずない。登場する一場面 が私がその人達と出会った1度の機会だった。

K:たぶん大きな違いが出るのは、我々が我々の人物を、現実の状況の中に引き込むときだろう。

W:ああ、その違いは大きそうだね。

K:『ルート1』がそうだったし、『ウォーク・ザ・ウォーク』でもそうだ。人々に我々を気にして欲しくないと同時に、その人たちには異分子である存在を放り込んでいるという矛盾した状態がある。そこに生まれる違いは、この点から説明できるかも知れない。それはまたドキュメンタリーとフィクションの違いを巡る延々とした議論にもつながるのかも知れないが、それは私にとってまったく気まぐれな問題でしかない。どんなレベルでも興味をひく形でこれを論ずるのは無理だ。だが人はそこに大きな違いがあると思っている。だから最初に聞かれるのが「これはドキュメンタリーか、それともフィクション映画なのか?」という質問だ。でもこの質問の本当の意味は、そこに出ているのが俳優かどうか、そして普通 はその俳優が他の映画に出ているのを見たことがあるかどうかの問題なのだ。「作っているのはフィクション映画だが、皆さんがフィクション映画と言われて普通 考えるようなフィクション映画ではありません」とさえ言ってしまえば、すぐ別の次元の会話に入れるし、人々はそこにとても興奮してくれる。ただ「あなた方の人生を撮ります」とか、そういう類いのことを言うよりもね。そこに新しい要素が生まれ、違ったシチュエーションが生まれて、その中で映画を作る必要がでてくるわけだ。そこで普通 の人々は、俳優が別にメイキャップのチームを連れてくるわけでもないし、俳優と言ってもそれまで見たことのある映画では見たこともない俳優なのだと気がつくわけだ。

 『ウォーク・ザ・ウォーク』では妙なことがあって、黒人の俳優はテレビ・ドラマで黒人の刑事を演じて実はとても有名な人物だったんだ。私は彼を雇った時にはそのことを知らなかった。ただ彼が出ていた小規模な映画で知っていただけでね。さてそこで撮影に地方の町に行くと、市長が待ち受けていたりする! 市長が彼に何かスポーツ大会の審査員を頼みに来たり、サインをもらおうと皆が集まってきたり、私はゾっとしたが、結局はうまく行った。

 もうひとつ論ずるのが難しいのは、「メディアに対する慣れについては、誰もが演技者であるアメリカと、例えばフランスの場合と比べたとき、カメラの影響などについて違いがあるかどうか」だ。

W:コメディ・フランセーズの映画では問題があるかと心配したが何もなかった。驚いたね。

K:それは相手が俳優だからかな?

W:そうは思わないね。それから俳優である以上、委員会の会合だとか、演劇の上演でない状況でも演技をしてしまうのではないのかとも思ったが、そうは見えなかった。実のところこの経験は福祉事務所で撮影するのとまったく何の違いもなかった。

K:うーん、それは私がこれまで20年間ヨーロッパに住んでいるあいだにも随分変わったからね。最初来たときはアメリカで撮るのと大変に違うと感じたが、今は本当の意味で違いは感じない。

W:海外で撮影すること自体は初めてじゃないが、私にとって別の言葉や別の文化を撮影するのは初めてだった。過去には海外のアメリカ人を撮っていたから、その意味ではアメリカのアメリカ人を撮るのとなんの違いもない。だがなんの問題もなかったのは嬉しい驚きだったね。

K:随分変わったんだよ。テレビのせいだろうか、映画のせいだろうか。映像は生き方の1つになっている。

 私の言葉が不自由だったせいで最初のうちは必要以上に居心地が悪く感じていたということもありえるだろう。でもヨーロッパで10年暮らしてから『ルート1』を撮りにアメリカに戻ってみて、人々がただカメラを自然に受け入れるだけでなく、自分自身を演じるということについて明確な理解を持っていたのには驚いた。外面的に表現し、状況を利用すること、それも時にはまったく目を見張るようなやり方でだ。まるで人間誰もが俳優なんだと思わせる。そこから自分を演ずることこそが最強の切り札になる社会をめぐる様々な思索も始まるわけだ。

W:すべての人間が演技者であって、ただ普通は様々な役柄を演ずる幅がないだけだとは思わないかね? 君の意見には少しだけ賛成できないのだが、それは私から見るとそこにまったく違いがないと思えるからだ─我々はすべて自分自身を演ずることができるし、また常に演じ続けている。我々にその能力がないのは、誰か別 の人を演じることだ。その点でドキュメンタリー映画を作っている時に利用できるのは、人々が複雑な状況の中で自分自身を演じている場に居合わせた場合だ。もしそれが起こっている現場に居合わせることができたなら、圧倒的にすばらしいシークエンスが撮れる。だがメディアに慣れ親しんでいるかどうかが、唯一自分自身で発展させた役柄を演ずること以上に、この話と関係するとは思えない。コメディ・フランセーズの映画をやる上で私に関心があったことのひとつは、俳優を撮ることだった。それも理屈から言えば誰でも演じられる俳優であり、実際に上演や稽古ではそうしていた。ただしその彼らも、会議だとかでは自分の役─確固した自分自身というアイデンティティ─に戻るのだ。様々な役を演じられるという彼らの能力は、他の我々のような者にはない自由を彼らに与えていた。ある意味で彼らはある他者に、あるいは一連の様々な他者になることができる。だがそれでも、もし彼らが演ずる様々な役と、他のドキュメンタリー映画で見る様々な事件とを比べたら、そこにあるとてもドラマティックなシークエンスは、写 っている人間が同じことを2度と繰り返せないことを除けば、ほとんど演出されたのと同じぐらいドラマティックだ。それは画面 のワクの中に捉えられているからでもある。その姿は記録され、記憶に組み込まれている。もし運よく自分の見ているものが何か分かれば、どんな演出されたドラマにもまけないくらいドラマチックなものがある。

K:まあ、それは本当だ。役柄を演ずるという話については分からないが。私がフランスに行った時には、カメラは人々を彼らが自分自身がこうであるべきだと思っている考えのなかに押し込める働きをすると感じた。日本のドキュメンタリーについてはよく知らないが、私の感じでは、もしたとえば私がここを散歩していて、誰かが私に見られていると感じたら、その人は何かしなければいけないと感じるのではないか? 私にはなんのことだかさっぱり分からないコードにしたがって、礼儀作法のコードか、社会階級のコードか何かでね。私はフランスではこれを強く感じたね─カメラが人々に自分自身であるよう促すのではないとね。

W:話の腰を折るようで申しわけないが、人が自分自身であるのと、コードにしたがって演じるのと、その違いはどう区別 するのかね?

K:そこに違いがあると考える古来からの政治的思想があるわけだ。私自身はどう区別 をつけるのか分からないが。「これは本物でこれは本物でない」というようなことではもちろんないだろう。次元が違うはずだ。そう感じるかどうかだよ、フレッド、とても直感的なことだ。誰かと話していて、撮影していて感じるだろう。撮影を始めると、どこかで一般 論ばかり言い出したり、態度のどこかで、正しく喋っているかどうか感じるんだ。何か自分自身の知っていることを話しているのか、それともその下で何かがブツブツ泡を作っているのか。そこで、その“何か”を掘り下げようとするのだ。我々がフィクションの映画を作る理由もそこにある。まあそれは私にとってのフィクションに過ぎないのかも知れないが。ただ私はその人物のアイデンティティについてその根底にまで行かねばならない、彼らが口にしようとしない話まで掘り返さなくては駄 目なんだ。実を言えばそれが、映画を評価することについての私の価値基準でもある。作ってる人間がその作業をしていないと感じて私が否定してしまっている映画は山ほどある。私にとってこれ以外の基準で映像を判断するのは不可能なんだ。何か本当に言うべきことがあるのに自分が表面 に停まっているような気にさせられてしまってね。

W:そこには映画で描写されていることと、インタビューが行われている場合の違いもある─対象となる人々にとって質問者に対峙することが居心地悪く、それで形式張った態度をしている場合と、もっと観察的な類いの映画で、この場合は少なくともその一人は自分にとってごく普通 の行動をしている、つまり映画とは関係ない、現実の出来事の方が、映画が撮影されているということよりも重要なのだ。もし相手が撮影されることを居心地悪く感じていたとしても、少なくとも私の経験では、撮影についてでなく、自分がその場にいる現実の状況にふさわしい態度を取るものだ。そしてその限りでは、それこそ私の欲していることなんだ。人々がその場でやるような行動をとっている状態だ。

K:これは本当に興味深い議論だね。特に君の言う、今撮影している相手とは2度と会わないであろう状況という説明はおもしろい。というのは私自身が映画を作り続けて来たなかで、その撮影することを居心地悪く感じるようになって来ているんだ。自分があまりうまくなかったと思うだけでなく、対象となった人々に、もっと他のことをするのを許すだけのゆとりを与えて来なかったんじゃないかとね。彼らがやりたかったことはもっと他にあったのではないか、だから再び同じ場に戻ってもっと映画を作ろうとも考えているんだ。

W:それはまた別の種類の映画だろう。

K:その通りだ。だが現実の状況への愛は共通している。私たちはお互いにまるで違った映画を作って来ているが、2人とも、この世界がどんな場であるか、それに魅了されることから映画を作り始めているのは確かだ。別 に我々の年とった世代だからというのではないが、だがそこには政治もある役割を果たしている。

 これがどこまで意味のあることかは知らないが、突き詰めればそれはロバート[私]がただ世界を書き記そうとしている、結局のところロバート[私]の求めている何かが結局はロバート[私]自身であって、彼の正面にいる人間ではないというのも、確かだと思う。今考えているのは『Point de d姿art/Starting Place』(1993)というヴェトナムについての映画のことなのだが、この映画は通訳と一緒に撮っていて、それも彼は1969年にも私の通訳だった。この男が私には、フランス語で言う“ラング・ド・ボワ(木製の舌)”の典型に思えた─つまり政治的に配慮した、問題にならないようなことしか言わないということだ。これは私には意外に思えた、というのも彼はもともととても機知に富んだ男だったから。だが私がカメラを向けると、その途端に彼はカメラ・モードに入ってしまう。彼は一生を通じて自分の考えを隠して公式どおりのことを言う人間をやって来たのだが、一方で誰かが彼のポケットにコインを入れれば、とたんにそうでない人間になるところが私は好きだった。彼はそういうことすべてを信じきって生きて来たのだし、それは今も変わらない。そこで私はとてもイヤな気持ちで家に戻り、そこで「彼とは何か別のことをやらなければならない」と思ったんだ。彼が苦しんでいるのはよく分かっていた。彼の人柄から言って、私が追い込んだ状況の中では彼にはそう行動するしかなかったのだ。だから状況をまるごと変えねばならないと感じた。ワイヤレス・マイクをつけてもらって、ずっと遠くにまで追いやってから、好きなことをなんでもいいから言ってくれ、その広い庭のどこでも行きたいところに行っていいから、そして、自分にとって私に伝えるのが重要と思っていたのに私が尋ねようとしなかったことを何でも2、3言ってくれ、と頼んだのだ。そこで我々は新しいレベルに到達することができた、というのはそれがモノローグだからだ─彼がたった1人で、自分自身だけを相手にして。もちろん彼は自分が撮影されているのは知っていた。そのことに関しては隠し事は一切していない。

 確かに、映画の仕事では常に個人個人が相手だ。それには、人間はある目的地をもって生きているのだと私が思っているせいもあるのだが、これは私の幻想に過ぎないのかも知れないね。

W:それはまた、目的地に行くのにどういう道筋を取るかの問題でもあるんじゃないかね。同じ場所へでも行き方はたくさんある。

K:私は1つのことにだけこだわるのを信じていない。そうだ、同じ場所へ行くのでも行き方はたくさんあるし、同じ人間を相手に同じ場所で膨大な時間を費やすこともある。

W:そうだね、私の場合は『コメディ・フランセーズ 演じられた愛』と、修道院で撮った映画(『Essene 戒律』1972)、それに『Sinai Field Mission シナイ半島視察団』(1978)の3本がいい例だろう。

K:『チチカット・フォーリーズ』(1967)はどうかね、あれは違うのかい?

W:違う。『チチカット・フォーリーズ』は900人が住んでいる施設だった。

K:だが、かなりの同じ人間ばかりを撮っているだろう。

W:収容者は違う。

K:じゃあ何度も出てくる断片は、実際には1度に撮影したものをバラバラにして使っているのか?

W:まあね。『チチカット・フォーリーズ』で何度も出てくるのは収容者とスタッフの合同ヴァラエティ・ショーだ─実際には1晩の出来事だよ。症例の検討会議はどれもそれぞれ、別 々の症例のものだ。映画に何度も出てくる看守は、我々の案内役をやってくれた看守だ。だが映画の95パーセントは、我々と1度しか会っていないと言える。修道院の場合は、20人しかいないのだから、みんな我々のことを知っていた。コメディ・フランセーズでは450人の人間が働いているが、私はその450人全員を撮ったわけではないし、その一方で同じ俳優のいる同じ芝居の稽古に何度も行っている。だがほとんどの映画では、事情はまるで違う。

K:私なら、たとえ同じ福祉事務所を撮っていても、同じ状況が2度3度起こってくれないとだめだね。

W:だって同じ状況は2度と起こるわけがない。

K:そう、確かにまったく同じ状況というわけにはいかないが、それはそれでいいんだ。私の見方の方が進歩するからね。私の場合、自分が今まで行ったこともない場所で撮影することが多い。だから最初に撮影してみたところで初めて自分がそれについてどう考えているかが分かってくることも多いし、2度目からは別 の角度でも見られるようになってくる。

W:私の場合なら、『Essene』と『コメディ・フランセーズ』を例外とすれば、いつもそれぞれの場で、そこで撮影するのは初めてということになる。

K:それはそれで、だからこそ美しいこともあるのだがね、その方がより、今言ったようなやり方を生かせるし、うまく行くときには、うまく行くと分かるだろう。

W:毎回違った人たちを相手にしていると、そこで対応すべき状況も問題も、常に新しいものになるから、繰り返すことはできない。

K:そうだ、だが組織・施設は人々よりも大きいだろう、場というものは常に人間よりも。

W:それはどういう意味だね、私にはよく分からんが。

K:つまり、同じ場所に戻っても大して違いは、実はないんじゃないかということだ。私の頭にあるのは、『ルート1』のときに何度も撮影に戻ったブリッジポートの福祉・給食センターのことだ。そこにいるのがいつも同じ人だったかどうかは、実は問題にならない。その施設は確かにそこに根付いていたし、そこにやって来る黒人たちと、古着の山、それをもらうためにデスクのところで待っている白人女性のあいだの関係性は常に同じだ。その意味でこの“ハウス”はそこを通 過して行く人々の総計よりも“大きい”─すべてが、その全体が如何に機能するかに準じて意味をもって来る点でね。

 だがここでは、フレッドの言う毎日が撮影初日だという話に戻ろうと思う。それは宗教的な旅路だという気がするんだ、それでこそある個性が生まれる。この対話の最初に出て来た物質的/身体的性格の問題だよ。もし初日に本当にオープンな状態になれなければ、すべてを見失ってしまう。

W:その通りだ、それがおもしろいんだ!

K:そうだ、それがおもしろい。“その日”のテンションが撮影の期間ずっと続くこと。『ルート1』の場合は5カ月だった。“その次の日”こそが偉大な教師だった。映画作りの話で、脚本やエージェントの話になってくると、私にはなんのことだかさっぱり分からなくなる。そんなことは私が浸っている映画作りとはなんの関係もない。毎日毎日に映画作りを当てはめて行くという大きなフレームワークの中にある冒険こそがすべてであり、それが刺激的で、素晴らしいんだ。

W:できあがった映画がどんなものになろうと、それは楽しい。

ジェロー(以下G):お二人とも60年代後半の、その時代特有の政治的・映画的状況のなかで映画作りを始められましたね。そのことについて少しお話いただけますか、それに30年間のあいだにものごとがどう変化して来たかについて。

W:私の場合ここですぐ答えられないのは、その手のことについて一般論を言うのが苦手なんだ。私自身にとっては、今しがた話したばかりのことと結び付いている。その時々、瞬間瞬間にどれだけ反応して─瞬間瞬間というのは2、3カ月のことだってありえる─どんなアイディアを考えるか、そしてそのアイディアに沿って行動できるか、つまりそれが、許可を得て、資金を集め、映画を作ることなのだ。私がこの30年間やって来たことについて唯一、ある程度安心して言えるのは、私の映画がより観念的でなくなっていることだろう。私は自分が、映画を通 してより複雑なことを表現できるようになっていると思いたい。私はよりイデオロギーを排した映画を作るようになっている、とはいえ私の映画は最初からそんなにイデオロギー的であった試しはないがね。私にとって常に重要なのは、私の映画が私がその映画を作って学んだものを表現していることであって、事前に持っていた考えをただその題材に当てはめるのではない。その映画のできあがった結果 に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果 がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる。その意味で私に、おおげさな言い方をすれば“思想”やコンセプトがないわけではないが、それが目隠しにならないように、その映画を作っているときの私の思想性に合致しないからといってものごとを排除することがないように、心掛けている。

G:今までのお話をうかがっていると、過去にはお二人には意見の相違があったように思えますが。

K:2人とも一緒の舟に乗っていた試しがない。最初のころよりも今のほうがまだ近いんじゃないか。フレッドはずっと北[ワイズマンの拠点ジッポラ・フィルムはボストン郊外のケンブリッジ]にいたし、私はニューヨークだった。それに私の場合、最初から映画作家になろうとしていたわけじゃないし、それはフレッドも同じだ。私はまず最初小説を書き始め、それで物質世界を描写 しようとしてえらく時間をかけたことを憶えている。さっき施設/組織の方が人々よりも強いという意味のことを言ったが、事物もまた人よりも強いと信じてるんだ。だからたとえば、『ウォーク・ザ・ウォーク』はモノの方が我々の身体よりもはるかに強い存在感があるし、永続もするというという考えがベースにある─言い換えれば我々の身体は非常にもろいものだし、我々が自分のために創造した化け物じみた殻に較べてはかない。そして、その殻である機械やテクノロジーや物体ばかりが、この惑星の上でひしめきあっている。私は物質世界をなんの理論もなく、ただひたすら描写 しようと思って多くの時間を費やした。私は小説を書いていたが本当に語りたかったのはこの物質的世界のことだった。初めて映画を撮り始めたとき、私がひたすら努力して来た物質的世界の描写 が、映像のレベルではなんの努力もなくそこにあることに気づいたんだ。

 もうひとつ憶えているのはこういう議論だ。私はもう2人の若い映画作家といっしょに映画作りを始め、ささやかな会社を設立した─ノーマン・フレクター、ボブ・マックオウヴァーと私の3人でね。我々はまた、アメリカでシネマ・ヴェリテ、あるいはシネマ・ディレクトと呼んでいたものをやっていた人々ともつきあいがあった。彼らは本当のドキュメンタリー作家だった─ドキュメンタリー映画作りを信じきっていたし、長回し撮影によって真実を語ることができるという考えの限界には本当は到達していなかったにせよ、長回しこそが正しいやり方だという考えに完全にはまっていた。彼らの場合、それをとてもシンプルに定義できた。彼らは現実を十分な洗練と知性をもって撮影すれば、編集室でも脚本があって撮影したのと同じぐらいの自由をもって編集ができるはずだし、そうできるようになりたいと考えていた。クロースアップが必要になる場所ではクロースアップを予め撮っておく─フィクションの映画を撮るときに普通期待される細部の豊かな描写を得られるよう、撮影対象となる世界に一切介入することなく撮影できることを目指していたんだ。

 私はこう思った、「俺は自分の知っていることについての映画を作りたい。もしかしたら映画[の脚本]を書きたくなるかもしれないが、しかし観客にはそのとき初めてその事態が起こっているように感じさせたい。この即物的な現実全体の雰囲気が欲しいが、一方で自分で語りたくもある。人々を通して語りたい、自分も映画の中にいたい。」これが始まりで、その後さまざまな変化を経て来た。自分では一切の理論なんて持たず、ただ映画作りがこれまでの人生を通じて続いてきたのだと言ってしまいたい。映画はなんであろうと私が自分の生きているなかでやろうとして来たことを通じて生まれてきたしそこには、それは他人にも見せるものだということ、ただ私個人の関心事であるだけでなく、外の世界とつながっているのだという考えがあった。映画は他の何事よりもずっと私の人生をぴったりフォローしてきたし、それぞれの映画にももちろんそれぞれのその後の生がある、一種のサイクルだ。私は政治闘争の映画作家であったためしがないし、政治闘争の映画作家として受け入れられたこともない─私の“同志たち”はいつでも私の映画をこきおろしてくれたからね!

 この旅路には何度も浮き沈みがあった。私は世界が私が映画を作り始めたころと同じだとは思わないし、映画作りのコミュニティもまるで違う。私が考えるのは自分たちがやっていた映画の作り方のことだ─我々は何の報酬もなく、金はどこか他所から得て、馬鹿げた額の金で映画を作っていたのだ。最初の長編(『Milestones』)は1,500ドルかそこらだった。『Ice』(1969)は2時間半の映画で未だに上映される機会もあるのだが、これは13,000ドルだ。この映画で働いた人間のすべてが無償で働いていたんだ。それが映画作りの状況をまったく変えてしまったし、誰か自分の意見が非常に重要だからそのためなら牢屋に入ってもいいと思っている人間に、「この台詞を言えと俺が言っているんだから、この台詞を言うんだ」と言うのはまったく不可能だ。彼らは「そんな台詞は言わない。俺はそんなもの信じていないから」と言うだろう。ここで即座に生まれているのが、実はとてもおもしろい状況なのであって、まだ続くんだ。私はこう言うだろう、「まあ、それなら構わないけど、このキャラクターにとってはよくないよ。どうする?」。そこで向こうは、「まあね、その部分を言わないでいいのだったら他の部分は引き受けるよ」と答えるかもしれない。私はこういう駆け引きが好きだし、こうなるとドキュメンタリーとフィクションの境界も一層あいまいになる。なにしろこの時問題になっているのは、映画の中にいる人間の実人生なのだから。これは今日の『ウォーク・ザ・ウォーク』についても、60年代70年代に作っていた映画についても、両方に言えることだ。

 だがすべて変わってしまった。今日、若い映画作家たちはひどい状況の中におかれている。私は若い映画作家にずいぶん会っている─去年カルフォルニア芸術工科大学で教えたからアメリカでは今どうなっているかも知っている。簡単に言えば彼らは、もし最初の映画で商業的な成功を収められなければ、映画作りでの将来はないと信じている状況にある。つまりテレビに売れるか、ハリウッドに行くかだ。彼らに将来はない、最初から間違った考えで始めているのだから。実験を試す余地はまずないし、また新しいテクノロジーがこれだけあるのに、誰も週末を利用してHi8やデジタル・ビデオの長編映画など作っていない。なぜだか分からない。60年代の初めには誰もがこれをやっていたような気がするんだが。誰もが、働いていないときに友達を集めて作った映画を持っていた。それを見せる場もあった、シネマテークだとか、人の家だとか、それに人々も興味を持っていた。なぜこうした変化が起こってしまったかを分析するのは、ここでの話題としては大き過ぎるだろう─それは世界が変わってしまったことや、人々にパワーがなくなってしまったこと等など、さまざまなことと関わっているからね。私はこの状況は若い映画作家にとって悲惨なことだと思うし、映画の将来にとっても不安だ。

 これは残念なことだよ。あれはすごい時代だったからね。本当にエキサイティングだった。私から見れば、さまざまなことが、政治と混ざり合って行ったこと─政治運動と映画作りの間に壮大なピンポン・ゲームの応酬があったんだ。この2つはまるで別のことだし、私自身はそのあいだで折り合いをつけることが未だできずにいるんだが、しかし折り合いがつかずさまざまな軋轢があるからこそおもしろい。このレベルでの軋轢というのは、むしろとても健康だと思う。話し合うべき相手、あるいは怒鳴り怒鳴られる相手がたくさんいた。それはいいことだと思う。現状はむしろ孤独な大西洋横断飛行のような気がするね。だからって何かの解決のつもりでヨーロッパに行ったわけじゃないが。

G:ロバートは、自分の人生を映画に注ぐことが変化したと言っていますが、あなたはどうです、フレッド? 映画作りはあなたの人生をどう変えたと思いますか?

W:私は映画を作るのが好きだ。私にとってこれは仕事じゃない、自分のやっていることにすっかり熱中してしまうのだ。私の人生に関して言えば、あからさまに変えてくれたと思うね。私は他人よりもずっと多く旅行をするし、いろいろおもしろい状況にも出会うことができる。だが職業という感覚はしない、情熱の対象があると感じている。ここには大きな違いがある。たぶん情熱の方が仕事よりいいのだろうからね!

F:あなたは1年に1本映画を作っている、今日の世界では稀な映画作家の一人でもあります。

W:映画を作るための金を集めるのは、とてもとても大変だ。その点では働いているよ、皆と同じでね。

K:皆とまったく同じとは言えないな。ここで話題になっているのはある特別 な動物だよ。頭が2つあって、体もまったく異なった動物だ。それはフルタイムの仕事で、生活をまるごと注ぎ込む仕事だ。ただ映画を完成させて、それじゃ休暇へ行こう、という類いの話じゃない。経済的な要素もある─私の場合、経済的な要素があることは自覚している。私は映画を作るために生きている─映画の配給のためじゃない。その意味でこれは情熱と同時に仕事でもある。だから基本的に、もし映画と映画のあいだに数カ月休みを取ろうと思ったら、その時期のあいだ食べて行けるように余分に仕事をするよう計画しなければならない。

W:映画作りは情熱であり、仕事とは資金集めだ─これはまったくの苦痛だよ。もう随分以前に、この仕事をやってくれる者なんて誰もいないと悟った。少なくともアメリカでは、プロデューサーは見つからない。私としてはいかに自分でやりたくなくとも、自分でやるようになんとか都合をつけるしかない。自分でやらなければ、誰も私のためになんて、やってくれはないのだから。現実に、この種の映画を撮らせてくれる資金源は世界中に7つか8つしかない。何年かやっていると、誰が資金を使い誰が資金を提供しているかが分かってくる。待ち合い室で友人たちと顔を合わせ、その顔にほほ笑みが浮かんでいるか落ち込んでいるかを見る。自分もまたまったく同じ立場だ。毎年この8つの事務所をハシゴして資金を得ようとする。得られるときも、得られないときもある。ときには借金で映画を作る。私は銀行と、自分の以前の作品のネガを担保に金を借りられるよう取り決めを交わしている。実際それを使うことになるのもしばしばだ。

K:私の場合事情は少し違うが、それは今の私がさまざまな異なった形態で映画を作っているからで、その結果 あっちの資金源からこっちの資金源へとしょっちゅう跳びはね回っているんだ。『ウォーク・ザ・ウォーク』は伝統的なヨーロッパ共同製作で、メインのプロデューサーはスイスから。別 の映画はヨーロッパの実験的テレビ局[『マント』(1997年)はフランス=ドイツ共同出資のテレビ局アルテの出資]だったし、別 の映画はまったくちがった若手のプロデューサーになるだろう。本当につぎはぎのパッチワークだよ。ひとつにはヨーロッパとアメリカの違いがあるが、しかしドキュメンタリーとフィクション映画の本当の違いは、資金にある。ドキュメンタリーだと資金は少なく、テレビ局はより少ない資金でより多い放映時間を確保できる。

 私はそのシステムの周囲を飛び回っているし、そういう立場を気にはいっている。いろいろと違った製作状況を体験できるからね。経験で自分の立場をうまく守るだけでなく、映画そのものもかなりコントロールできるようになった。これも小規模のスタッフで撮影する理由のひとつだ─どの段階でも結局は時間との戦い[時間当たりの人件費をいかに低く押さえるか]になるからね。考える時間、働く時間、正確に撮影するための時間、編集するための時間。

 私の場合、編集にはものすごく時間がいる。フィルムで編集して、編集室を使って編集マンと編集助手がいて、その他あらゆるものがプロダクションにとって膨大な出費になるために編集に費やせる時間がどんどん限定される─本当は編集作業はあまり好きじゃないんだ─状況を何度か経験した結果、12年ほど前から編集をビデオでやるようになったのだが、そっちの方が快適だったのだ。結局、1番安いビデオデッキ、Hi8のデッキを買った。過去5年間に君たちの見た私の映画は基本的にどれもHi8で編集したものだ。まず35ミリ─『ウォーク・ザ・ウォーク』の場合はスーパー16mm─から直接Hi8に落とす。それから自分の時間を使ってビデオで編集をするわけで、これだとプロダクションには一切経費がかからない。基本的に私のギャラは映画1本毎であって、私は週払いの労働者ではないからね。それで自分でかけたいだけ時間をかけてから、編集者がやって来て私と一緒にフィルムで本編集をやるのだ。基本的に私が編集した粗編集をプリントして、これを基にフィルムで映画を仕上げるわけだ。

 映画の編集をビデオだけで仕上げるのは明らかに不可能だ。ビデオと映画のあいだには本来何の関係もない。これはまずビデオで編集をしてからフィルムで仕上げるというやり方を取ったとき最初に気づくことだ。また現代になぜ誰もが考えることができなくなっているか、なぜ分析的・理論的な思考のプロセスがこの惑星上から消えつつあるのかもよく解ってくる。ビデオはそうしたことについてのものではない。なにかとても興味深いもの、流れについて、音楽についてのものだ。だからビデオ・クリップはうまく行くのだ。ビデオは事物が流れ出す蛇口であって、どのショットがどこで始まりどのショットがどこで終わるのかもさっぱり判らない。フィルムでの作業に移るとき、私の手元にだいたい3時間ぶんのビデオがあるとしよう。1週間でそれを2時間のフィルムにできることは分かっている。ビデオで編集したものを一目見れば、「なんてこった! カット、カット、カット!」と叫んでいるからね。

F:ロバートが今フィルムで考えることについて話しましたけれど、フレッド、あなたがいつもフィルムで編集をする理由もそこにあるのではないですか?

W:さあね、私はフィルムで作業するのが好きなのだよ。関わっていたある芝居のための短い映像が唯一の例外で、それ以外に私はビデオで何かを編集したことはまったくないし、そのたった1度の体験も気に入らなかった。編集するときは私は1人でやるが、それは主に編集について誰かと議論するのが嫌いだからだ。自分で何を考えているのかをはっきりさせるだけでも大変なのに、その上他の誰かが何を考えているかまで心配する余裕なんてないよ。作業のプロセスに何かがあるのではないか─フィルムでの作業は、考えなくてはできない。私はビデオで作業したことがないから、なぜビデオになったら考えることをやめなくてはならないのかは解らんが─もちろんそこに考えるべきことがあればの話だがね。私はフィルムをいじるのが好きなんだよ。ロバートと同じで、私も編集には自分で必要なだけの時間をかける。10カ月から14カ月のあいだだが、まあたいていは1年だ。

F:『コメディ・フランセーズ』の場合はいかがでした? 1年ですか?

W:撮影は2月の末で終わり、『パブリック・ハウジング』の撮影で6週間あいたのを除けば、整音が終わったのが翌年の3月末だから、だいたい1年の編集期間だね。

G:ロバートが現代の映画作家の卵たちについて話していましたが、あなたは今日作られている映画についてどうお考えです?

W:実のところ、彼のほうが私よりはるかに若い映画作家たちとコンタクトがあるようだ。私としては一般 論は言いにくいよ。それに、たいして映画を見てるわけでもないから、その質がどうかもよく分からない。私が見ているフィクション映画の質から判断する限り、あまり将来は明るくないね。さらに事情が複雑になるのは。私が大学に行っていたころは誰もが小説家になりたがっていたのが、今では皆が映画を作りたがっていることだ。そこから偉大な映画作家がたくさん生まれてくると期待することには、かつて偉大な小説家がたくさん生まれてくるはずだと考えたのと同様、なんの根拠もない。別 に意地悪を言うつもりはないんだが、経験からしてそうとしか思えないんだ。私から見るとテクノロジーの方はそう複雑ではない─問題はそのテクノロジーを使って何をするか、アイディアの、考えることの問題だ。これは何でも同じだろう、映画作家に限った話ではない。医者でも、弁護士でも、ビジネスマンでも、なんでもね。

F:あなたの映画もまた新しいテクノロジーの恩恵はこうむっています。たとえば1950年代には存在しなかった高感度フィルムであるとか。

W:その通りだ。1981年まではどの映画も白黒だった。それから、幾つかのやりたいと思った題材の中で、カラーでやるべきだと感じたものがあった。たとえばろう学校や盲学校だ[『Blind 視覚障害』(1986)に始まる聾唖と盲目の映画 Deaf and Blind Films 4部作]。また『ストア』(1983)では、洋服の色とその芝居がかった展示のしかたは映画のストーリーの重要な一部だ[『ストア』がワイズマン最初のカラー作品になる]。だがたとえば、『バレエ』(1995)のような場合もある。最初は白黒で撮るつもりで、その方がより抽象的で様式的になると思っていた。実際、初日は白黒で撮影している。だが翌日、ラッシュを現像所で見たところ、照明が悪くて使いものにならない。翌日、高感度のカラー・フィルムを使ってまったく同じ照明の条件で撮影したところ、この色が素晴らしかった。これはたぶんコダックが、ビデオテープとの対抗上、カラーの実験をより多く重ねているからだろう。もっともベーシックな白黒フィルム、コダック7222は、たぶん1960年代から変わってないんじゃないか? 一方でカラーの方は、毎年新しく素晴らしいカラーのネガフィルムを開発している。最新作で使ったヴィジョン500は素晴らしく感度も高いし美しい。

F:『コメディ・フランセーズ』もそういうフィルムがなければ撮れない映画でしょう。

W:ヴィジョン500は『コメディ・フランセーズ』のときにはまだなかった。とはいえ『コメディ・フランセーズ』のかなりの部分は、照明の非常に少ない状況での撮影だった。たとえば『ドン・ジュアン』[ジャック・ラサール演出]のような芝居の上演では、照明はとても暗かったからね。

F:この映画ではカメラ移動やズームレンズでずいぶん凝った画作りをなさっていますね、特に舞台のリハーサルや上演のシークエンスで。

W:繰り返し起こる状況下では何度も撮り直しができる点が大いに異なる。そんなことは私が作っているドキュメンタリーの状況下ではまず起こり得ないのだが。たぶん『ドン・ジュアン』を15回は見て、そのうち10回か12回は撮影しているはずだ。撮影して、戻ってフィルムを見る。それで正しく撮れてなければまた戻って撮影すればいいのだ、というのも俳優は翌日も同じ場面 で同じ位置に立たねばならないからね。次の晩も同じ俳優で、同じ衣装、同じメイキャップだ。こんな贅沢は普通 ならありえない。1度はストレートで撮影し、別の日には照明さえOKならズームを使い、次は今度は固定焦点の望遠レンズでクロースアップだけを追い続けてもいいのだ。

F:まるで劇映画みたいですね。

W:まったく劇映画みたいだよ! 一方で上演を撮影するのは他のドキュメンタリー撮影の状況と違って不便なこともある─すぐそばまで近寄れないのでね。普段ならカメラは7、8フィートしか離れていないところで撮影し、撮影している事件の関係者の周囲を動き回ることだってできるが、上演を撮影するときは客席の中にいるしかない。上演風景の撮影ではカメラ位 置は固定されたままだし、出演者も観客も邪魔してしまってはいけない。

F:『コメディ・フランセーズ』と『ウォーク・ザ・ウォーク』のどちらを見ても、アメリカ人の映画作家がフランス語で映画を撮っているという状況があります。ロバート、『ウォーク・ザ・ウォーク』の脚本はフランス語で書かれたのでしょう?

K:先程話した出演者との駆け引きのプロセス─「そんな台詞は言わない。俺はそんなもの信じていないから」「じゃ、何を言う気だ?」─は、実は今でもそんなに変わっていない。というのも私がフランス語で書くにしても─私はバイリンガルだ─正確なフランス語ではない。脚本を書いたときには、俳優との共同作業が必要になる。俳優たちは必ず「そんな言い方はだめだよ」とか「それじゃ意味が違うよ」と言うだろう。そこで我々は異なった言語や文化のあいだにあるグレーゾーンのなかで試行錯誤することになる。基本的にこれは今の私にとって仕事の一部だ。これが自分の言葉から離れて仕事することの意味のひとつだ。

 私が言いたいと思っていることの多くがフランス語では言えないというのは事実だ。たとえば今度東京国際映画祭で上映する映画の1本[『マント』]の中で、ある人物が「私は自分の息子のために何をしてやればいいと思う?」と尋ねる。そこで彼女は「彼のそばであなた自身であること」と答える。これをフランス語で「誥res toi avec lui」と言わせるのはショッキングかどうかを見極めねばならなかった。ショッキングというのは「そんな言い方はしないよ」的な意味での次元だ。それで観客の目にとまるんだ。この手のことがいっぱいあって、私にはそれがとても気に入っている。

 それから、私にはフランス映画は演劇から来ているように思えるのだ。これは演劇的な形態であって、より発展した形、たとえばヌーヴェルヴァーグでさえ、映画でしかしないような話方でしゃべっている。もちろんそんなことは、私にはまったく興味がひかれないものだ。プロデューサーが─悪いプロデューサーが─私と仕事をしたいという度に、そうしたフランスの脚本家を起用したがるのだが、私はいやだ。このことでは大ゲンカをやって来ているし、そのせいで多くの人と気まずい関係にもなっている。最初に映画を作ると、人からはそんなことやっちゃいけないと言われるが、問題は本当のところなにをやってはいけないのか分からないことで、というのもそれがどういう風に聞かれているのか、そこに無知を感じ取られてしまうのか、無礼に聞こえるのか、どうなんだろう? あるいはただグロテスクに響くのでちゃんと聞いていられないとか。これは常に問題だが、しかし私はそれが好きなんだ。我々はこの小さな惑星の上を行ったり来たりしているのだし、私は新しい国に来てそこで仕事を始めるたびに、自分がこうした問題の最前線に立っていると感じるんだ。

 私の撮った映画のいくつかでは、そこで何が言われているのか実のところ私にもよく分かっていなかった。そしてとても好奇心をかきたてられるのは、その結果に私が満足していたからなんだ。私は自分のエネルギーの感覚に、人々の発している何かに基づいて進んで行こうと思っていたし、あまり手持ちの生フィルムがなかったから、どの時点で撮影できるかも問題だった。普通は、対象がいいかどうかで判断していた。だがやがて、これではまったくあてずっぽうだと思い始めたし、なんでも実際に撮影したものはそう悪くないとも思った。自分の判断がどれだけ正確かどうかを見極めるのはとても難しい。ただとてもおもしろいと思うのは、多くがボディ・ランゲージにかかわってくる点だ。言葉を聞くのでなく、動きを聞く、目や表情、他の人々との関係性を聞いて、それを基に撮影して行こうとする。さまざまな不自由や障害が、逆に世界についてまったく異なった色彩を与えてくれると思う。私はクロースアップにとてものめり込んでいるが、それが私自身の視力が変わって来ていることと関係があるかどうかとも考えている。私は今まで、眼鏡なんてまったくかけたことがなかったが、最近はものを読むときに眼鏡[老眼鏡]を使うようになっている。

W:『コメディ・フランセーズ』を作っていたときは、何が起こっているのかまるで分かっていないんじゃないか、今聞いていることについて私の考えていることはまるで見当違いなのではないか、自分の言語や自分の文化だったら当たり前のこととして受け取っているはずのささやかな文化的キューを聞き逃しているのではないかと、いつも不安だった。自分の文化だったら常に正確だと言っているのではないが、少なくとも邪魔にはならない。それが『コメディ・フランセーズ』では大きな足かせだった。問題は、自分がこの国における政治性について十分に理解しているのか、話題になっていることの政治的枠組みや、スポーツの話、組合の交渉について十分知っているのかだった。結局、十分題材をカバーしている保証がほしくて、余計にフィルムを回す傾向になっていることに気づいた。そうすれば編集段階でじっくり題材を研究できるからね。だから君の言う、言葉をさっぱり理解できないからうまく撮影できるという話はおもしろいね。

K:我々2人のあいだのもっとも大きな違いは、君が外の世界について、その外の世界自体の中で起こっていることを探している点だと思う。私が興味をもっているのは、基本的に“外の世界”なんて存在しないのであって、それとそれを見るものとのあいだの関係にこそすべてがあるのだという考えだ。これは現実についての、まったく異なった2つの考えだと思う。私が今話していることは物理学や心理学、ものの見方についての最新の展開と深くかかわっていると感じている。だからこそそのアイディアにすっかりはまりこんでしまっている。

W:つまり私は古臭いと言うのかね!

K:いや、そういう意味じゃない。君は自分の外の世界に、それだけで自足して成り立っている固有の何かがあるのだという考えにより確信があるのだろうということだよ。ある意味でそれが、私が君の映画とのあいだに持つ会話でもある。「ここで俺は本当は何を見ているんだろう?」 私に分かるのは、『ルート1』を見た観客が「これはまた、何て複雑な映画だろう」と言うことであり、その複雑さとは映画を通 してずっと“私”と“それ”のあいだの駆け引きがあることだ思う。私はその駆け引きの真っ只中にいるし、だからそれは私が考えている他のあらゆる雑多なことにまで影響を及ぼしているほど重要だ─人生とかそういったものすべてに、だ。私はそれをもっともっと推し進めようとしている。だからこそ私がカメラを持つと、物事はその方向にさらに過激に突き進んでしまうのだ。私はますます、伝統的な意味での監督の役割、外側からの監督の役を演じないようになって来ている。“それ”を自分はこうだと見ている、その中にどんどん入り込んで行くのだ。危険信号はそこらじゅうに現れる。独善主義、自分のなかに耽溺して自分を見失うこと、だが私はそうした問題を扱うためなら、そんな危険との駆け引きは覚悟している。

 言葉の細かなキューがつかめないまま映画を作るというのも、この同じひとつの考えの一側面に過ぎない。いつもそうやろうとは思っていないが、そのことを否定したり避けたりはしない。時には、たとえばヴェトナムで撮った映画のように、私のさっぱり理解していないこともたくさんある。これが言い例だ。君がそれを見てどう感じるかは私には分からない。ヴェトナムの映画は撮影の全期間を通じて、私が自分自身と自分が一緒にいた人々の関係性について、最初から最後まで、ほとんどシステマティックに誤解していた初めての映画だと思う。私は連中が自分を好いてくれていない、自分に本当のことを教えてくれていない、みんな政治的に当たり障りのないことだけを求めていると、本気で思い込んでいたんだ。撮影から戻って、ラッシュを見てみて、自分は馬鹿だと思ったよ。本当に素晴らしい人間関係があったんだ。彼らは自分の文化のなかで、ギリギリの限界まで自分を表現していたんだ。

W:それも言葉をしゃべれないときの当然の帰結のひとつではないかね?

K:ああ、まったくその通りだ。だが映画はその寛大さを見せてくれる。恥ずかしいのは私が毎晩ホテルに戻って考えていたことだ、「畜生、連中はみんな俺をなめていやがる!」

W:だがそのパラノイアは、周りで何が起こっているか理解できないときに誰もが感じることだよ。

K:さて、自分の周りでなにが起こっているなんて、理解できる人間がいるものかね?!

W:それは究極の形而上学的な意味では真実だが、しかし自分が喉が渇いていて、コップに水が入っているくらいのことは理解できる。

G:ロバート、その文化の差異という問題がでて来たところで、『電気の亡霊』が東京税関に検閲された件について話してもらえますか?

K:この検閲について私は複雑な気持ちなんだ。「検閲があってはいけない」みたいに単純な話ではないと思う。検閲はあってはならないし、言論の自由があるべきだ。だがそこまで言ってしまったところで、もっと興味深いことも言えるだろう、たとえば「なぜ日本の関係機関の誰もが、この問題について動かないのだろう?」とか、「なぜ東京映画祭はここまで臆病なのだろう?」とか「シバタ・オーガニゼーション(フランス映画社)の場合はアントニオーニとヴェンダースの映画のために金を積むことができたが、ではそのことに誰も疑問を差し挟まなかったのだろうか?」とか。これは日本の問題であって、ロバート[私]の問題ではない。日本でこの映画が上映されようがされまいが、ロバート[私]の知ったことじゃない─そういうレベルの問題としてはね。私は実のところとても頭に来ているし、東京映画祭の対応については特にそうだ。検閲当局と戦う気がないから、検閲カットされた部分に入れる字幕タイトルは絶対だめだというんだ。あの映画祭は検閲と、現在のところ和平状態なのだ。和平とはつまり、私の映画は検閲されるが、コンペ出品の大作映画はノーチェックでパスするということだ。そんな中で、なぜ私がこの問題について努力しなくてはならないというんだ? これは君らの問題であって、私の問題じゃない。私の映画はどうせ世界中で上映されるのだし。いずれにせよ、これは文化的な問題だ。国内の問題の真っ只中に、私がこんな怒りのすべてを込めた態度で割り込んで行くことになる。これは本来、権力との関係性についての日本の文化的問題なんだ。

 私は今、卵の上を歩いている。もし何らかの組織からのサポートがなければ、もしただ誰もが「頑張れ、頑張れ、頑張れ」と言っているだけなら、なぜ私がそんなにおもしろい闘士でなければいけないんだ? 君はどうだ? 彼らは? 政治的な検閲をめぐる似たような問題だったら、ヴェトナムでもすでに経験している。絶対的な政治的検閲、そして私はそこに激怒はしなかった。相手の立場を理解して、少しづつ解決しようとしただけだ。3週間前に私の映画を、映画を作って4年後になって初めて上映してきたばかりだ。それまではビデオ・カセットで、半ば秘密活動的に見られていただけだ。

 これは例の言語の問題、異文化のなかで作品を作ることとも関わってくる。私はすっかりこの問題に熱中していて、いまさら細かな文化的コードまで分かっている場所に戻る気なんてなくなってしまった。私は毎日出掛けるたびに、自分がどこにいるのか分からない、自分の向かう先に何があるか分からないと感じることの問題を愛してしまっている。まるで麻薬だよ。

W:フランスでそれが大きな文化的血脈だと感じた。

K:そりゃそうさ! だが私という味気無いニンジンにたっぷりスパイスを効かせてくれたのさ。

F:フレッド、あなたは第1作がいきなり検閲され上映禁止になったという、世界でも稀な映画作家の1人なわけですが。

W:ああ、24年間ね。

F:あなたのお考えは?

W:私の見方はロバートのそれより単純だ─私は反対だ。しかし君の指摘する共謀の問題、検閲をしている側の人間は映画の作り手を彼らの判断に巻き込もうとしているというのは、本当によくあることだよ。私はしばしばアメリカのPBSテレビでこいつにぶち当たる。アメリカのPBSテレビは州ごとに運営権限が細分化されたバルカン半島状態で、中には「マザー・ファッカー」や「シット」といった言葉が放送で流れるのを決して許さない局もある。私はPBSとの契約で、私の許可なしには一切のカットを認めないことを書面 で明記している。毎年向こうからは、サウス・カロライナの局やヒューストンの局がかくかくしかじかの映画を放映しないと言っているのだが、あなたはカットするかと尋ねてくる。私の答えはノーだ。もしその言葉をカットすれば、自分で自分の映画を検閲することになる。私が連中を厄介な立場から救ってやることになる。私の映画は放映してほしいが、私が正しいと考えていることについては、彼らがその映画を放映できるようにしてやるためだろうが、妥協はしない。『パブリック・ハウジング』の映画でも絶対に同じことが、毎度おなじみの場所で起こるだろう。今まで私は「そうか、放映したくないのなら、放映しないで結構」と言ってきただけだ。今度はその地域で最大の新聞社に手紙を送り、「見てください、これが現状だ。私はカットするよう頼まれ、私はカットに応じないので、結果 として皆さんの地域でこの映画を見たいと思った人は見ることができない。それは皆さんからすれば赤の他人の判断が適確でないからだ」と言うつもりだ。「なぜ人々は、自分がその映画を見たいかどうか、自分で決めることができないのだろう」とね。

K:それが検閲を考えるときの基本だ。人々が自分で判断をするべきなんだ、Vチップとかなんとかに頼るのでなく。

W:映画作家はそのことを誰にだろうと押し付けはしないが、しかしその一方で、私は誰か「マザー・ファッカー」という言葉が好きでない人間がいるからといって、そのせいで私自身の作品をカットはしない。これが私にとって最初に起こったのは警察についての映画、『法と秩序』(1969)の時で、この映画では黒人の青年が警察に殴られて、目に入る人間を片っ端から「マザー・ファッカー」呼ばわりする場面 がある。警察だけじゃなく、黒人の隣人もみんなだ。この場面の意味は、18回繰り返される「マザー・ファッカー」の言葉をカットすれば、失われてしまう。

K:今回のことは興味深くはある。まったく予測していなかった事態だからね。向こうに『電気の亡霊』のどこそこをカットしろと言われたとき、私はこう思ったんだ、「よし、OK、映画は上映しよう、だが挿入字幕を入れるんだ。」

W:つまり何がカットされているか言うつもりなのかね?

K:いいや、私は「日本の税関検閲は人間の身体は検閲するが、銃はしない」と入れようと思ったんだ。映画祭側はパニックになった。そして結局何も入れてはならないということになったのさ。「検閲済」とも何もね。検閲スタンプを入れるのも一切ダメ、挿入字幕はなしだ。なぜか? 税関と喧嘩したくないからだ。こうなるとすべてがあまりにも弱腰な話になってくる。すべてが金に関わる話になるからだ。東京都から東京映画祭に出る助成金のことだ。私は連中の問題に巻き込まれるのは真っ平ごめんだ。あまりに弱腰なので、ただ映画の上映をやめてすべてを忘れてしまうのではなく、何かをすべきだという私の衝動的な感覚がどんどん鈍って行ってしまうほどだ。

W:『チチカット・フォーリーズ』の場合、マサチューセッツ高等裁判所の判決は、映画の最後に、「映画が製作された後、ブリッジウォーター─あの映画を作った施設だ─の状況は改善された」という字幕を入れなければならないというものだった。そこで私は「マサチューセッツ高等裁判所の判決は、状況はその後改善されたという記述をこの映画に付記するよう命じた」というタイトル字幕を入れた。この字幕のあと、続けて「状況は改善された」という字幕が出る。これはあの映画にとって完璧なエンディングだよ、裁判所の命令の愚劣さを強調しているのでね。

G:興味深い議論を、本当にありがとうございました。

(訳:藤原敏史)

 


フレデリック・ワイズマン Frederick Wiseman


1930年ボストン生まれ。ダイレクト・シネマ最盛期の1967年、精神病院刑務所に取材した『チチカット・フォリーズ』で監督デビュー。同作品は90年代初頭まで上映禁止となったが、ワイズマンは以来、ほぼ年に1本のペースで着実に作品を発表している。一貫したテーマはアメリカ社会の施設・組織の日常生活で、学校(『高校』(1968)『High School II』(1994))、病院(『病院』(1969)『臨死』(1989))、警察(『法と秩序』(1969))、軍隊(『軍事演習』(1979)『Missile』(1987))、劇団(『バレエ』(1995))などを扱ってきた。本映画祭では1991年に『モデル』(1980)を招待上映、1993年に『動物園』(1993)がコンペティション部門最優秀賞、1997年には『コメディ・フランセーズー演じられた愛』(1996)が同部門で特別 賞を受賞した。1998年国内でフレデリック・ワイズマン映画祭が大規模に開催された。



ロバート・クレーマー Robert Kramer


1939年ニューヨーク生まれ。1965年『Faln』で監督デビュー。60年代後半のベトナム反戦と若者たちの反逆のうねりのなかで、ジョン・ジョストらと共に映像による左翼前衛闘争集団“ニューズリール”の結成メンバーとなり、集団製作により4年間に50本の作品を発表。以後アメリカを代表する左翼インディペンデント・フィルムメーカーとしてドキュメンタリーとフィクションの境界線上に現代社会の本質を政治的・批評的立場から見つめる作品を発表し続けている。80年代からはパリに在住。主な作品に『Milestones』(1975)、『Guns』(1980)、『Nôtre Nazi』(1984)、『Starting Point / Point de départ』(1993)などがあり1989年の大作『ルート1/USA』が1989年の本映画祭で最優秀賞を獲得した。1997年は審査員として来形、『ウォーク・ザ・ウォーク』上映。また、同年に開催された東京国際映画祭シネマプリズム部門で『ドックス・キングダム』(1987)等が上映された。