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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 20

高嶺剛

聞き手:仲里効


1. フィルムの粒子には映画のマブイ(魂)が宿っている。

仲里効(以下、仲里今回山形国際ドキュメンタリー映画祭の沖縄特集「琉球電影列伝/境界のワンダーランド」の中で、「特集内特集」的な位置づけで『レッドマン』と『V・O・H・R』を除いて高嶺さんのプログラムを組むことになりましたが、今日はこれまで高嶺さんが作られた映画に沿いながら、高嶺さん自身の映画体験なども絡めて話を聞けたらなあと思っています。いきなり飛びますが、かつて高嶺さんはこの(京都・哲学の道沿いの喫茶店)近くに住んでいたわけですよね。

高嶺剛(以下、高嶺ここは「哲学の道」っていう西田幾多郎(1870-1945)が散歩した道らしくて、かつて僕は80年初頭ぐらいに、ちょっと恥ずかしいけど、この近くに住んでいたんです。そこで『V・O・H・R(人間関係の眺め)』というブルーフィルムみたいな映画を作ったんです。たまたま僕の住んでいるマンションの一室が、向かいの吉田山の中腹から見えるポジションがあって、そこから特殊な超望遠レンズを使って、その部屋の中での男女のいとなみ…セックスしたり、飯食ったり…そういうダラダラした日常の様子を盗み撮りのような手法で、撮ったことがあります。かつて、沖縄の波の上という歓楽街でアメリカ兵が横行している頃のキャバレーとかそういう所で、ひそかに上映された“映画”っていうとブルーフィルムを指しましたでしょう。デュープ(複製)を重ねた8mmフィルムは、ものすごく粒子が荒くなり、暗闇の中でうごめいている男女の様子は、愛とかなんとか… その気にさせるというより、壮絶な体操みたいで…だからあのような感触を持った映画を一度作ってみたかったんですよ。

仲里:『V・O・H・R』は、高嶺さんが京都から沖縄に帰り、一時は仕事にもつくが、京都にまた戻ってきた80年代当時の高嶺さん自身の心象風景みたいなものを、荒い粒子の中に被せてるんじゃないかって言った批評家がいましたが、そのような言われ方に対してはどう思いますか?

高嶺:僕はそこまでは考えていなかったと思うがね。でも京都での僕の不毛な愛欲の日常を撮ったものでしたから何がしかの思いを込めていたんじゃないかなあ。それに「荒い粒子」はスタン・ブラッケージの8mmからの影響もあったんじゃないかな。今思うに、フィルムの粒子はケミカル現象の域を越えて、映画のマブイ(魂)が宿っていると…。

 沖縄以外でロケーションした映画はあれが初めてです。僕は19の春に京都に出てきているから、もうこっちにいる方が長いんですよね。いつのまにか沖縄で撮って京都で編集するというサイクルができて、『V・O・H・R』は、京都で撮るってことが僕にとってものすごく…ここでの不毛さみたいなものを、ひとこと言っておきたかったというのがあって。雪も降ったしね。まあ傑作を作ってやろうというより、愛欲に耽る30男の不毛の記録みたいなものだね。僕の京都での気持ちっていうのは今もって整理してないからよう分からんね。

2. 映画体験・沖縄芝居

仲里:ブルーフィルムの話が出たが、かつて沖縄がまだ日本ではなかったアメリカ占領下で、高嶺さんも僕も少年時代を過ごしたことになるわけだが、少年高嶺にとっての映画体験といえばどんな感じでしたか、例えば観た映画とか場所とかは?

高嶺:映画を見たのは石垣島から那覇に移り住んでからだね。石垣島でも見たと思うがよく覚えていないなぁ。小学校や中学校の頃は、例えば日活の映画とかが沖縄に入ってきていたから、あの頃の赤木圭一郎や小林旭の映画はほとんど観ているし、東映だとチャンバラね、東千代之介とか大川橋蔵。普通の少年並みには映画を観ていたんですよ。僕は孤独で暇な少年だったから映画観るのは好きだったよ。テレビはあまり普及してなかったし、あの頃は週変わりぐらいの早いペースで日活の映画かかってたから、大体超満員で、立ち見で頭越しにスクリーンの3分の1位しか観れないんだけど、それが普通だったわけね。そして、映画をアタマから観るっていうこともあんまりなくてねぇ、自分の都合に合わせて、飛び込んでいって、途中から観て、また次のアタマを観て、自分の頭の中で繋いで観るっていうのが普通だったんだよね。こっちに来るとね、皆タイムテーブルをキチンと守って、もう10分まえにはちゃんと席についてね、映画を鑑賞するって…きちょうめんな映画の見かたは、僕にとってはちょっとしたカルチャーショックだったな。いまだに僕は映画館に飛び込みで行って、頭で繋ぐ習性があるんです。自分で映画作っていてなんだけど、ストーリーということだけでは観ないタイプかなぁ。日本映画で標準語でわーっとしゃべられると、もう物語を取り逃がしてしまうってことがあるんだけど、外国映画の場合は省略があるとはいえスーパーが出るからさ、僕にとって、物語のつかみやすさからいえば外国映画かな。これは沖縄人特有の現象というより、私の性格でしょう。気になる映画は2、3回は観ることにしています。

仲里:あの頃の沖縄での娯楽と言えばもちろん映画、いわゆる映画の黄金期だったわけね。もうひとつ、高嶺さんの映画づくりにも影響を与えているウチナー芝居も映画と同様に沖縄の大衆娯楽として親しまれていたが、芝居体験はどうでした?

高嶺:沖縄芝居はけっこう観たし、沖縄の役者が沖縄の言葉でやっている芝居で、盛んな頃はいっぱい劇団があったよね、人情モノ、英雄伝説モノ、ちょっとした喜劇であるとか、ヒットしたらロングランだからね。僕の母方の祖母は那覇の郊外の具志に住んでいて、家の塀に芝居のポスターを貼らせて、その代償として招待券をもらっていたから、僕は祖母に連れられてよく行ったね。僕の世代からすればわりと観たほうじゃないかな。僕は『ウンタマギルー』っていう映画を作ったんだけど、「ウンタマギルー」というのも、義賊を主人公にした沖縄芝居の定番なわけ。映画『ウンタマギルー』は芝居「ウンタマギルー」を下敷きにしているけど、芝居好きの人からは映画版は本当の「ウンタマギルー」ではないといわれているからね。

3. 沖縄から京都に来て「ファクトリー」で『サシングヮー』をつくった。

仲里:そういった環境の沖縄で高校まで過ごし、それから京都に来るわけだが、最初に自覚的に撮ったのは『サシングヮー』[サシングヮー=写真ちゃん]ですよね?

高嶺:そうでもないんじゃないかなぁ。あの原画の着色写真はタブローの個展のためにつくったものだったんだ。ええっとその辺の事情を思い出してみれば…。僕の生まれは石垣島の川平というところで、5歳ぐらいまでいた。それから那覇に移って、高校まで那覇にいました。仲里さんは僕の高校時代のちょっと先輩ですよね、当時は知らなかったけど(笑)。その後京都に来たんですけど…絵描きになるっていうか。当時京都では…もちろん沖縄でも学生運動で激しい頃でしたからね、仲里さんなんかもいろいろやったと思うんだけど、僕は活動家じゃなかったんだけど時々ヘルメット被ったりしてね、なんか周囲は目がギラギラしていて、美術の世界でも、表現そのものを基本的なところから洗い直せという風潮だったからな、アトリエで教授の所属する公募展に向けてせっせと絵を描く奴はバカにされていたわけ。

 話をちょっと遡っていけば、僕が京都に来たわけは、合法的な家出だったわけですよ。僕の家は那覇の小市民的な親だったからさ、子どもの能力以上のことを望むっていうか、俺に医者になってくれっとかね。とにかく貧乏からオサラバしたいっていう願望の押しつけ…絵描きとか、文科系じゃなくてとにかく医者。金持ちのシンボルでしたから。そういう感じだったんで、高校を卒業したら親と一緒に生活するのはもうこりごりという感じでね、一応大学に行くっていう口実で、合法的に家出したわけ。

仲里:高嶺映画を特徴づける、いくつかのキーワードを僕なりに拾ってみると、ひとつは“風景”だと思うんだよね。風景の描き方や感じ方が映像の質感にまで高められているところがある。「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦で破壊しつくされ、その後にアメリカがやってきて居座り続けたため、いくつもの要素が混成された独特な風景が出来上がってしまったのが沖縄の戦後であった。そんな沖縄から、合法的な家出というか脱出をして京都に来る。京都というのは、括弧つき日本の典型的な風景に充ちみちていることになっている。いってみれば沖縄とは対極にある場所だよね。高嶺さんの風景センサーが感応した、京都体験はどうなんだろう…?

高嶺:京都の大学に来たって言ったんだけど、沖縄で行なわれた国費留学試験は、とりあえず美術が入りやすかったということで、そもそも裸婦を描くなんて気はなかったんで。それで、これまでの自分を全部ご破算にして、さあゼロからやってみようかなって感じがしたわけね。だから、好きなことを思う存分やればよかったしね。

仲里:国費っていうのはディキヤー(秀才)しかいけなかった。非常に勉強が出来たクラスね。

高嶺:もともと出来る方ではなかったけれど、入れるぐらいの努力はしたよ。運転免許みたいに。授業料はタダだし、月々のおこづかいまで出るわけよ。つつましい生活をしていれば、なんとかやっていけるわけ。ちょうど学校の一角に、旧日本軍の兵舎がまだあったんでね。倉庫にされていて、僕はそこの一室をウォーホルにならって「ファクトリー」と称し、占領してね、そこで絵を描いたり写真焼いたり、女友達と遊んだりね、8mmフィルムも作っていたのさ。だが映画っていう意識は全然なくてね、東映とか日活のかつて観たような映画を自分がやるなんて全然思っていなくて、美術の価値観を全部洗い直すという状況だったから、撮影所の制度から生まれたような産業としての映画ってのは、自分と関係ないし、もしあれが映画なら、俺のフィルムは映画じゃなくてもいいって思っていたぐらいだからさ。そういう感じで8mmやっていて、『サシングヮー』ってのはその中から出てきたわけ。だから当時は映画というより美術作品のつもりだったんですよ。だけど僕の映画の原点みたいになってしまい、僕にとっていとしい短篇です。

4. 『オキナワン ドリーム ショー』

 沖縄を撮る前に京都の風景も撮っていたのだが、京都の風景って、たしかに美しかったりするんだけど、その美しさに僕は実感をもてなかったんだな。風景にリアリティーを感じないわけ。なぜこの風景なのかと。京都の風景は私にとって異国情緒いっぱいだったね。

 ついこのあいだの家出少年がね、日本の塊のような京都にきて、一人になったら、なんやら足元がおぼつかないっていうか、アイデンティティに悩むわけ。それで、沖縄の風景を見るっていうことにしたらどうかなって思ったのね。とっかかりとして、まずは自分にとって日常的な風景…自分が手の届くような風景から始めていくっていうことにしてね。だから、沖縄問題に目覚めて沖縄を撮るということではなかったね。沖縄でなら自分の表現欲といおうか気持ちのテンションを無理して上げなくても撮影作業が出来るのではと思った次第です…。だから俺の実家の前の路地の風景から撮影は始まったわけ 。

 今にして思えば、沖縄で風景を見るというか、対峙することが、僕が映画というのを自覚したことの始まりだったかな…。日本復帰前後の沖縄は、風景そのものが激変していったでしょう、有象無象のものがドバーッとやってきてね。だが、風景の根っこってみえなくてもそう簡単なくなるものではないのね。

 僕は風景を見ているうちに傍観者ではなく、8mmカメラで風景の死臭を嗅ぎ取っていきたいっていうことを思ったんですよ。確かに8mmフィルムはビジュアルなんだけど、見ることによってそこから匂いを嗅ぎ取っていきたいと。もうちょっと言えばね、かつての戦争で、沖縄の土地はほとんど死体で被われたというでしょう、敗戦後の復興と共にいろいろと整理されていって、典型としてひめゆりの塔だったりね。でも屍は普通の風景の中にもあったのだから…。そういう話は親とかからもかなりリアルに聞いていてね、普通っぽくね、死体の隙間を…時にはちょっと踏みながら逃げ回ったという話を聞いたりするわけね。そうするとやっぱりこういう死者の霊というより…死者のマブイ(魂)みたいなものがやっぱり沖縄の風景には整理されずにね、さまよっているんじゃないかっていう思いがしたの…。そういったものも含めて、まるごとの風景を、カメラで吸い取りたいと思ったわけね。だから僕はあの時映画キャメラは掃除機みたいなものだと思ったの。風景を写して、意味だけを提供するんじゃなくて、匂いを吸い取るような、掃除機だと思ってたわけ。そのためにはできるだけ長い時間撮る。ほとんどワンカット・ワンシーンで、8mmですから、カートリッジ入れて3分ぐらい廻すわけ。それを10本ぐらいね。だから1回のロケで50本ぐらい持っていって、ワンカット・ワンシーンで延々と撮るわけ。

仲里:今のは『オキナワン ドリーム ショー』についてのコメントということになるが、この映画は高嶺さんの風景観というか、まあ先程いみじくも言っていたように「風景の中に死臭を嗅ぎ取っていく」ところに括弧つき風景映画にはない特異点がある。転換期の沖縄の政治や意味に絡め取られていくシュチュエーションをあえて選ばず、映されている被写体はごく普通の路地だったりで、もちろん基地もそのフィルムの中には映し込まれているんだけど、風景の特権化をあえてせずに、風景を等価性としてみていったこところがある。「風景の中に死臭を嗅ぎ取った」映像は、記憶を誘発したり、意味に回収されない何かを考えさせるんだよね。それに『オキナワン ドリーム ショー』のスローモーションは、風景の細部を見させてくれるだけではなく、ある独特な時間体験をさせてくれる。あの時代に『ドリーム ショー』が撮られた意義はやはり大きいと思うね。ここまで高嶺さんの映画の特徴のひとつである“風景”について話してきたが、もうひとつの重要なキーは“沖縄の時間”ということができる。

 次の作品の『オキナワン チルダイ』は“時間”を映画化したものであるといっていい。要所要所で挿入される「小禄は日本なのか、ダンナ。チルダイがなくなっちゃたら日本だよ。」という科白は、沖縄が日本に復帰して“オキナワンタイム”はどうなるかというモチーフに貫かれている。先程の話にも出た映画を観る際に、最初からタイムテーブルに沿ってキッチリ初めから終わりまでを見るんじゃなくて、途中から入る見方とも関係するかもしれないが、日本復帰は沖縄がいわば時計の時間に入っていく事になるわけだよね。定時定速の効率と、前に進むことにしか価値を置いていない。沖縄の時間はタイムテーブルを逸脱して、横っちょや後ろに乱れたり、遊んだりするところがある。時計の時間の価値尺度からは沖縄の言葉と同じように“チルダイ”はそれこそ撲滅の対象でしかないわけだね。誰かが“時間戦争”を描いた、といってたように、時計の時間とオキナワンタイムのせめぎ合いを風刺をこめて描いたのが『オキナワン チルダイ』であった、と見ていいと思うが。

高嶺:『オキナワン ドリーム ショー』の場合、最初は作品にしようと思わないで方法だけを決めて撮っていて、作り込むというより、風景を観るってことに関心が大きかったわけね。だけどあれを映画としての作品にしようと思ったのは、ちょうど撮っている4年目にジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』を観まして、映画といいきってもいいんじゃないかって思うようになって。まあ映画会社から生まれる映画ということじゃなくて、生まれた家の柱一本さわりに行くとこだって映画になるというか。おこがましいが自分なりの高嶺映画があってもいいんじゃないかっていうふうに思うようになりました。メカスに映画の世界にドボーンと突き落とされるような感じでね、私は意を決し、石垣島のシーンを最後に撮り足して、それを『オキナワン ドリーム ショー』とタイトルしてね、20時間ぐらいのフィルムを3時間ぐらいにまとめた8mm映画にしたのです。『ドリーム ショー』かついで自主上映したが、何でそうなったのか、今もって分からんが、東京のあるお寺だったかな、上映会場を機動隊が取り囲んで、観客の荷物のチェックやら検問でもう大変。警察は危険な映画とでも思ったのかなあ。ある所では500円とかの入場料返せ、返さぬで揉めたりしてね。

 私の京都での生活態度といえば『オキナワン ドリーム ショー』のあとも、大学の作業場の「ファクトリー」でなんやらごそごそ続けていたら、とうとう学校も…そうだ、その間に日本復帰があったりしてね、さすがに国費留学生も、立場がなんだかあやふやになってしまって、依願退学といおうか、クビだよ。

5. 『オキナワン チルダイ』(沖縄の聖なるけだるさ)

 その後に『オキナワン チルダイ』になると、あれは言ってみれば僕のフィクション混じりのデジャヴみたいな映画でしてね。例えば沖縄が戦争で全部やられて殆ど何も残ってないと言われているけど、もし100年ぐらい前のフィルムが戦火を逃れてね、出てきたらどういうふうになっているのかっていうふうなことを、再現したり、自家製オプチカルプリンターを拵えて、あえてそういう味を持ったフィルムを作ったわけね。でも実際映っているのは農夫がその辺の野原で草を刈っていたり、それから神隠しにあってんだかなんだかわかんないような少年が森をウロウロしたりね…それから誰のものでもなかった古代琉球人の日常を仮想したりしてね、そのようなことを綴った映画なんだけど。僕はこの『オキナワン チルダイ』では僕の心地いい時間感覚を再現したかったの。まあのんびりしているっていう、チルダイしてるっていうのかね。それと、日本復帰への苛立ちね。

 『オキナワン ドリーム ショー』が4年かけて撮られ、そして3時間の映画を観るうちにだんだん映画に立ち上がっていくということに比べて『オキナワン  チルダイ』は最初からもう映画っていう自覚と企みがあってね。だからあれ全部脚本があるんです。古代琉球人たちのシーンは未完成の『オキナワン ハーダーリー』からの引用です。

 一見ドキュメンタリーふうっていうか、なんでもないシーンみたいなんだけど観光客が沖縄の平和通りの裏でウミヘビの燻製を買う時にどのようにして買うのかを再現したりね。平良とみさんにウミヘビ屋のおばさんをやってもらったんですよ。平良とみさんは今沖縄を代表するオバーですよ。

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高嶺剛 Takamine Go

1948年沖縄石垣島川平生まれ。高校卒業まで那覇で過ごしたあと、国費留学生として京都教育大学特修美術科に入学。その頃から8mm映画を撮り始める。1974年日本復帰前後の沖縄の風景を凝視した『オキナワン ドリーム ショー』でデビュー。その後も一貫して沖縄を撮り続ける。『パラダイスビュー』(1985)は初の劇映画。1989年『ウンタマギルー』(1989)でベルリン国際映画祭カリガリ賞など内外で多数受賞。その他、『夢幻琉球・つるヘンリー』(1998)、1996年のジョナス・メカスがきっかけとなり生まれた『私的撮夢幻琉球 J・M』(1996〜)を発表。現在、専門学校や大学にて非常勤講師をしながら、劇映画『変魚路』を準備中。2003年山形国際ドキュメンタリー映画祭インターナショナル・コンペティションの審査員、さらには沖縄特集「高嶺剛の世界」でも特集上映される。

 

主な作品歴


  (作品名/上映時間/フォーマット)

1973  サシングヮー/10 min/8mm

1974  オキナワン ドリーム ショー/180 min/8mm

1975  サシングヮー(16mm版)/15 min/16mm

1978  オキナワン チルダイ/75 min/16mm

1979  オキナワン チルダイ〈特別版〉/78 min/ Video

1982  V・O・H・R ― 人間関係の眺め/15 min/16mm

1985  パラダイスビュー/113 min/35mm

1986  パラダイスビュー〈特別版〉/123 min/35mm

1989  ウンタマギルー/120 min/35mm

1991  TVCF「水虫薬ポリカイン」(照屋林助ヴァージョン)演出

1992  Photo on the Stone/3 min/16mm

1994  嘉手苅林昌 唄と語り/59 min/Video/セスコ ジャパン
A・S・O・P(シューリー・チェンの場合)/50 min/Video

1998  夢幻琉球・つるヘンリー/90 min/Video

2003  夢幻琉球・オキナワ島唄パリの空に響く/60 min/Video
夢幻琉球・つる in パリ(仮題)/70 min/Video
私的撮夢幻琉球 J・M/54 min/Video
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