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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 21

松川八洲雄

聞き手:日向寺太郎


 今回の日本のドキュメンタリー作家シリーズでは100本近いドキュメンタリーを手掛けているベテラン作家松川八洲雄氏にお話をお伺いしました。氏の映像世界は対象、テーマも様々ですが、ご自身も画家を目指していたその視線で芸術・工芸・職人を捉えている作品が少なくありません。『鳥獣戯画』(1966、YIDFF '93)はイタリア・ベルガモ映画祭芸術部門大賞、『出雲神楽』(2002)は2002年度キネマ旬報文化映画部門ベストテンの1位等、長きキャリアに亘り多数受賞しています。今回は数多くの作品の中からエポックメーキングとなる作品を中心に語っていただきました。本インタビュー記事は10作品以上で松川氏の助監督を務めた日向寺太郎氏が数回のインタビューを行い、構成したものです。

編集部


1. 映像のアルチザン

日向寺太郎(以下、日向寺松川さんは以前、「映像のアルチザンになりたい」と野田真吉さんに言われました。そして「作り手の思想や考え方というのは、具体的な映画作りの方法に関わってくる」ということも言われています。私も約10年間、松川さんの助監督をする中で、そのことを実践的に学んだつもりです。今日は具体的な作品を通して、松川さんのお話を伺いたいと思います。まずは、映画界に入るきっかけからお聞きしたいのですが。

松川八洲雄(以下、松川あまり自覚しない頃から絵描きになるくらいのつもりでいたんでしょうね。だから大学に行く時も芸大を受けるつもりでいたんです。小学校の友人の父に水彩画家がいて、「一人前になるにはデッサンの修業を重ね、その積み重ねたものが身長をこえるくらい描かねばならぬと言われている」と脅かされたんですよ。それはかなわないなと思ったのと、それまで反対されたことのない父親から巡査、教員、医者、坊主に加えて絵描きも反対されました。ちなみに父も又よくある“全生活画家”――職業画家――を挫折した小学校教員でした。

 それで文学部に行ったわけですけど。大学3年の五月祭にはスライドを作ったんです。そうとうたくさんのスライドを使って、『現代絵画とヒューマニズム』というタイトルで、思えばもうすでにちょっとした短編映画そのものだったわけですよね。メキシコの画家たちの壁画運動などを取り上げたりしてね、1時間くらいの長さで。仲間には、松本俊夫や藤原智子がいましたし、スライドを作ったその他の何人かも結局、映像のプロになりましたからね。そこでスライドを作ったってことがやっぱり…決定的な選択理由になったわけですよね。それと同じ頃かなあ、北海道のニシン場でアルバイトしたことがあるわけ、ひと冬ね。沖の現場にニシンをとりに行くための船に乗ったんだけど、近づいていくだけでも舟に酔っ払っちゃってね(笑)。結局岸に上がって、箱に漁場の名前を刷り込む作業を御婦人方や子どもと一緒にすることになっちゃったんだけども、帰ってから、その1週間の克明なドキュメントを書いたんです。その当時はシナリオのつもりじゃないんだけど、記録を書いたんですよね。後にね、新理研(新理研映画社)に入ってから社長に見せたらね、えらく感動というか、おおげさにほめられました。けれどこの翌年からニシンはピタリと来なくなりました。今も尚。

日向寺:新劇のぶどうの会にも入られていますよね。芝居にも興味があったのですか?

松川:ぶどうの会は、山本安英が始めた新劇研究所なんですけど、大学に近い本郷にあって、面白半分受けたら入っちゃったんです。僕の両親は芝居がとても好きだったんですね。都民劇場っていうサークルに入っていて、時には切符もらって行くっていうこともあって…おそらく、新劇通の学生の10人のうち、ひとりに入るくらいよく観ていたし、それなりに批評もしたりなんかしてね。両親は僕が子どもの頃は新劇の役者にしたがったくらいなんです。戦時中にね、築地小劇場の舞台にも出されました。北林谷栄さんが初めての老け役でね、演出は久保田万太郎。ぶどうの会の頃は俳優への意欲は一切なかったけど、演出してみたいと思ったわけです。ところが、ぶどうの会は、演出者は演技者でなければならぬっていう、当時のモスクワ芸術座のシステムをとっていたもんだから、研究生の中からしかるべき嫁さんと一緒になるとさっさと辞めちゃったわけだけども(笑)。それでいよいよ結婚するには、お金がなくちゃならないからコピーライターになったんです、ほんの短期間。そしたら松本俊夫君がね、「今、新理研で募集しているから受けろよ」って言うからね、新理研に入ったわけですよ。彼が引き入れたから映画に入ったみたいなもんですね。新理研は、途中でストライキやったりして1年いませんでした。そしてまた松本君の紹介だけれども、「日映科学が空いているからあそこを受けろ」って、それで日映科学映画に行ったんですね。ここも半年いなかったんですけどね(笑)、最後は組合の委員長をやりました。どこもボーナスもらうまでいたことないんです。

 その頃、日本デザインセンターっていうのができたんです。田中一光、亀倉雄策とか有能な才能を一手に集めて、そこに映画部もできるという話をふと知ったわけですね。その頃僕は8mm映画を数本演出していただけの“若手演出家”でした。ともかく省略した履歴書で就職し、ここで、微速度撮影の名手の鈴木喜代治さんと、日本で初めてカラー映画を撮った佐藤昌道さんというカメラマンと僕とで、『一粒の麦』(1962)という映画を作りました。ほとんど初監督作品のこの映画が、できたばかりの日本産業映画コンクールの第1回日本産業映画大賞をとり、東京都教育映画コンクールの金賞もいただいて、僕の“職人”としての最初の映画歴を飾ってくれました。松尾一郎さんは中尾駿一郎さんと『日本横断パイプライン』をまわしたり、松本俊夫さんは木塚誠一さんと『私はナイロン』というナイロンのイメージ映画を作りました。斬新なプロダクションの最初の年ですからね。とってもおもしろかったですね。新しいビルの一室にイラストやキャプションなど、マスコミの一匹狼たちと共に映画界からも集めた実験的でもあったちょっと素人の集まりみたいな映画会社でした。PR映画に賭けてたんですね。僕が瀬川順一さんと出会ったのもその時です。皆さん、宮島義勇さん以下ね…東宝でのあぶれものですよね。本来はくっつくべきグループでないのがくっつくことで、出会いがいっぱいあったわけね。映像芸術の会では一緒でしたが、黒木和雄さんとの最初の具体的な仕事もここです。『日本10ドル旅行』(1962)という僕が初めて劇映画仕立ての脚本書いて、演出は黒木さんに頼んだわけです。その後で日映新社の堀場伸世さん、当時の社長ですけど、堀場さんから僕に「何か劇映画のシナリオ書いてみろよ」って言われて、それが『とべない沈黙』(1966)の出発点になるわけです。だけど、ぶどうの会にいたせいもあるんでしょうね、芝居というのはどうもそらぞらしくてね、劇の世界をやってみたいとは思いませんでしたね。

2. 『鳥獣戯画』

日向寺:『鳥獣戯画』(1966)は、松川さんがいわゆる注文仕事じゃなくて、撮ろうと思われた最初の作品ですよね。

松川:その頃初めて、仕事を断った覚えがあります。35歳位で子持ちだったかな、2人目の子どもが生まれる時で、とても断るべき身分じゃなかったんです。でも、怠けものだったんですね。断って以降、うんともすんとも電話が鳴ったことがないわけ、仕事が来なくなっちゃって。ある日、藤原智子が僕の所に来た時、たまたまテーブルの上に岩波写真文庫の「鳥獣戯画」があったんですよ。それで、こう仕事がないんじゃ仕方がないっていう話をして、これでもやるか、なんて言って。きっかけはそういうことなんです。彼女がね、交渉役を引き受けるって言ったと思うんだよね。それでまわりにいた藤原智子、大沼鉄郎、杉山正美、杉原せつ、富沢幸男、瀬川浩で作ろうってなったんです。まず国立博物館に、撮影の申し込みをしたら、にべもなく断られるわけですね。ディズニーが版権を持っているから、今更言ったって遅いと言うんですね…それからね、1年近く何遍も交渉に行くわけです。その結果、ディズニーが持っていたのは、絵本にする版権であって、映画化権は一切関係ないってことがわかるわけ。だからあの映画ができた最大の功績はそこまで追求した藤原智子や杉山正美さんたちの執念ですね。それと、ディズニーに対する敵意が僕にはありましてね、それでディズニーならここはこういうふうにモンタージュするだろうという見当はついたから、アニメーションにはしてやるまいぞと思ったわけね。

日向寺:動かないものを動かそうとするんじゃなくて。

松川:そう。むしろ動かずに凝視することでやってやろうと思ったわけです。それで、おそらく絵コンテを描くという最初の行為があったわけね。絵を描くために絵巻物実物大のコピーを買ったわけ、2万円か3万円かな。最初の膨大な出費としてね。本物は国宝中の国宝ですから、箱も触れることはできないっていうくらい。それでここではこういうふうに撮ってやろうという所の絵をいっぱいスケッチに描いたわけ。蛙の相撲の全景だったり、目玉のクローズアップだったり、足のアップだったり、そういう絵を山ほど描いたわけ。多分300くらい描いた。それを壁に貼ったわけです。それで最初は細長い絵巻を最初から終わりまでずっと移動をしていくという絵を頭にして、次は蛙のアップだというふうにね。こういう絵の切り貼りは、終生そうするようになっちゃうわけだけれども。

日向寺:実物がなかなか撮れない為に逆にじっくり検討する時間ができたわけですね。

松川:本物を検討する時間がないかわりに、映画作りごっこしたわけです、数カ月。紙で映画を作ったわけです。実際の撮影はあっという間に終わりました。博物館が閉まってから5時以降9時までだから、この間にセットして並べて撮影して、3日か4日でしたね。これはこのサイズでこうって、最初から決まっていますからね、流れ作業です、どんどんどんどん。

日向寺:実際の編集はその通りにいったんですか。

松川:これがおもしろいところで、予定通り並べてみたらそうはいかないんだね。そのとおりじゃ緊張感がてんでないわけですよ。これはぞっとする話で、一体何が原因だろうってことで、カットの放浪が始まるわけです。無責任な6人も放浪することになるんだけど、水を浴びた気持ちで孤独だったのは僕であって、他の諸君は麻雀したりなんかしておっかしいんだよね。「これじゃ駄目だよ、松川」なんて言いながら、「ポン」なんてやっているんだよね(笑)。共同演出だって言うのはうまくいっている時であってね、悪くなると、「演出は松川なんだから」って。

日向寺:先ほど言われた凝視するっていう言葉は松川さんの映画の特徴と言えると思うんです。それと同時に絵巻物の「鳥獣戯画」の中に、絵に表れていない時代、当時の乱世という時代を描いていますね。そこに今も失われないアクチュアリティを感じます。

松川:穴といえば穴ですよね、つまり何も描いていない紙は凝視したところで毛羽立っている和紙の表面が見えるだけじゃないかっていう…。いつ、誰が漉きあげた紙か、あるいはモノは、間違いなく1,200年前のモノで、ヘタに絵なんて描いてない紙そのものはその存在証明じゃないかっていう。そういう凝視をしてみようってことをしたわけです、あの中でね。それはとても大事な…それはゴダールの映画に発見した視線と重なるでしょうね。もうひとつ別の空間があるってことね、紙そのものが持っている空間を捉え出す。時相(テンス)の違いを見ようということですね。だからうさぎそっくりに描かれたうさぎのいる架空の世界がひとつありますよね。それから紙そのものが漉かれた1,200年前の紙漉き場に連なる世界がある。あるいは今撮ろうと言って、わいわい我々がたかっている1960年代現在の空間がある。探していけば色々な空間があるんだよね。その色々な空間で、空間を組み合わせて構成する――立体派のオブジェのように――さまざまな空間を想像することであの絵巻が素晴らしいと、すなわち飛翔することができるわけです。うさぎと蛙のお遊び、つまりディズニーの世界で終わろうとするのではなくて、トータルにあの空間を暴きだしてみようということが試みだったんです。加えて、音楽の間宮芳生さんの実験は見事でした。まったくのド素人を何人か呼んできて、「ぎゃー」とか、「わー」とかいう声をね、そのオブジェとしての声と合唱団のコーラスとをぶつけながら作った。だから実験としては、まず申し分ない実験をしていましたね。他の作品でも僕は似たようなことをやっていますけど、そのヒントを与えたのはやっぱりゴダールだってことが言えますね。

日向寺:この時の編集の試行錯誤が、後の絵コンテ編集の発想につながるわけですね。

松川:そうです。

日向寺:ただ、絵コンテを描くのが撮影後になりますね。撮影したラッシュをビュワーで見て、1カットずつ描いていく。

松川:撮影前に絵コンテを描いたのはこの時だけですね。カメラマンの自由な発見を邪魔しちゃいけないと思っているからです。ただ、この時の経験から絵でものを考える方法を見つけたんですね。

日向寺:松川さんが忙しい時に、一度僕も描きましたけれども、絵を描くということはものをよく見ることだと実感しました。1カット1カット、隅々まで見ることになりますね。

松川:そうそう。「背景の樹が風にゆれているぞ」とか、「ホントだ、チドリはチドリ足で歩くのだ」とかね(笑)。それとね、麻雀のパイのように、欲しいカット、邪魔なカット、つながっていないところが見えてきて、だんだんと整理されてくるんですよ。ロートレアモンの詩に「ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出会い」という一節があるでしょう。絵コンテを壁にぶらさげて眺めているとね、「あ、これだ」っていう時があるのね。この詩の一節のように出会わないものが出会えるんですよ。それは言葉や意味だけで考えていると見つからないんです。

3. 『土くれ』

日向寺:次に、『土くれ』(1972、YIDFF '95)について伺いたいと思います。この作品は彫刻家の木内克さんの創作現場と作品を言葉による説明なしでつくられた作品です。以後、『hands・手』(1975)『花の迷宮』(1986)など、ナレーションがない作品は何本も作られることになりますが、映画は画と音で見せるものだという松川さんの考えがはっきり出ている作品だと思います。

松川:これは、最初、シナリオだけ頼まれたものだったんです。そこで僕が書いたものは、いわゆるシナリオの形式をとらない詩のようなものだったから、劇映画畑の演出家は当惑しちゃったのね。だけど、木内克さんが僕のシナリオを気に入ってくれて、「それじゃ、2本作ろう」っていうことになったんです。だから劇映画風の“本編”の撮影が優先で、“本編”が終わると、ちょっとだけ僕らがカメラをまわしました。こうして完成した僕の映画は17分ですけど、まわしたフィルムは22分です。凄いでしょ(笑)。木内さんの彫刻はテラコッタと呼ばれる、いわゆる素焼きね、粘土を手早く形にしなきゃならないんですよ。粘土を瞬間のモデルの姿にひねりあげてそれで終わり。それに、わずかな時間で粘土は掌の中で、意外に早く硬化するんです。それを見ていてね、よし、この方法を編集に活かしてみようと思いました。ああでもない、こうでもないと何回も試行錯誤するくせに、一回性の編集に賭けたのは後にも先にもこれだけですけどね。

日向寺:ナレーションをつけないのは初めての試みで、不安はありませんでしたか。

松川:たくさんの優れたカメラマンと一緒に仕事をするうちにね、映像が言葉以上の言葉を持っていると学んだんです。その結果、ナレーションは、どうしても文字にしないと伝わらないもの、そうしたものに出会った時に、しぶしぶ加えるものだと思い始めました。そして映像をいっそう豊かにするための言葉を選び出すのは優れた詩人と才能を競うくらいむずかしいと思うんです。映画をサイレント時代に戻せとは言いませんけど、カットのつながりが、漠然とにせよ、伝えたい情報を表情をもって語っていなければいけないんですね。映像から音も音楽も聞こえるくらいに。[松川註:小津安二郎に全く関心のなかった“非”映画青年でしたが、「小津生誕100年」の2003年に、小津も又同じような発言をしていることを知ります。]

日向寺:そしてこれも後の作品にも見られる豊かな手の表情を捉えていますね。『にんぎょう』(1992)という作品で、職人さんを撮る時に、作っている人形はフレームから外れてもいいから、手を撮ってほしいと撮影の小林さんに言われたことをよく覚えています。

松川:例えばね、誰もがやるようにロクロを画面の真中に置くと、確実にこの粘土の塊は茶碗になりましたよっていう見事な茶碗の画になるんだけれども、手がこれを作ったってことは全然出てこない…ものすごく手が多くの表情を持ってるってことが消えちゃうのね。シナリオの最後に、演出メモ的にこう書いたんです。「手を撮るのでなく、ほら穴で秘密のいとなみをする、クモに似た怪獣を撮るのだから」と。

日向寺:木内さんが粘土を手に取るまでの日常の時間から創作の時間へと移るのが、椅子に座っている木内さん、何かをつかむようにかすかに動き出す手、部屋のたたずまい、粘土を手に取る木内さん、横たわっている猫、テラコッタの猫、というモンタージュによって、木内さんの気持ちが高まっていくのがよくわかります。

松川:完成試写の時にね、木内さんが挨拶で、「映画に写っている僕がホンモノで、今ここに立っているのはニセモノです」って言ってくれた時は嬉しかったですね。それと、“起承転結”というでしょう。これは木下順二さんからの受け売りですけど、わかりやすく言うとね、起――向こう横丁の糸屋の娘、承――妹十八、姉二十、転――諸国大名は弓矢で殺す、結――糸屋の娘は目で殺す、となるんです。大学の一番最初の美学の講義で、アリストテレスの“劇”についての定義を習ったんだけど、いまだに頭に残ってるのね。あまりに当たり前に思えて、かえって印象に残ったのかもしれないけど、今になってみると実に大切なことなんだね。それは、ドラマには“はじめ”と“まん中”と“おわり”がなければならない、という定義です。本当に当たり前に思えるけど、大事なんですよ、このことを意識しているかどうかは。長年映画をつくってきて体得した職人の勘に近いものとして、映画は始まったら止まってはいけない、たえず前に進まなければならない、と呪文のように唱えるようになったね。何か仕掛けを考えなきゃ決してそこから前に行けないということをなぜ人は考えないのだろうかっていうことを感じます。単につなげるのは簡単だよ、本当に。だけどそこが実はそれではつながらないところをなぜ発見しないのかな、っていう気がするね…快い悩みですね。「“はじめ”。そこから始まり、終わらずに、かならずあとに続く。“まん中”。前から続いてきて止まらず、かならずうしろに続く。“おわり”。そこで終わり、そのうしろ(あと)が決してあってはならない。…。」つたない経験から言っても“承”を2度やったりね、“結”を2度やったりすると必ずボロボロになっちゃうんだよね。

次頁へ続く>>


松川八洲雄 Matsukawa Yasuo

1931年東京生まれ。1956年東京大学文学部美学美術史学科卒業。新理研映画社、日映科学映画を経てフリーに。『鳥獣戯画』(1966)でイタリア・ベルガモ映画祭芸術部門大賞を受賞。近年の『出雲神楽』(2002)もキネマ旬報文化映画部門ベストテンで1位になるなど、受賞歴多数。『ヒロシマ・原爆の記録』(1970)『不安な質問』(1979)など代表作は、現在も上映される機会が多い。手掛けた作品は100本近くに上る。『ドキュメンタリーを創る』などの著作の他、装丁、挿絵も多く手掛ける。

 

主な作品歴


  (タイトル/分数/フォーマット/製作/メイン・スタッフ)

1960  印画紙の話/16mm/20分/日映科学/後藤淳(撮影)

1962  一粒の麦/35mm/30分/日本デザインセンター/佐藤昌道、鈴木喜代治(撮影)

1964  日本のかたなとよろい/35mm/20分/日映新社/白井茂(撮影)

1966  とべない沈黙(脚本作品)/35mm/105分/日映新社/黒木和雄(監督)
鳥獣戯画/35mm/30分/七人の会、映像社/瀬川浩(撮影)、大橋鉄矢(録音)

1968  今は昔しのとおきな/16mm/40分/東海テレビ/中島洋(撮影)

1969  壁画よみがえる/35mm/45分/日映新社/杉崎理(撮影)、神口章(録音)
ヘルメットの男たち/35mm/70分/日映新社/林田重男、篠宮喜代四(撮影)、福田誠(録音)

1970  ヒロシマ・原爆の記録/16mm/30分/日映新社/杉崎理(撮影)、福田誠(録音)

1971  仕事=重さ×距離/16mm/30分/リクルートセンター/瀬川順一(撮影)、大野松雄、大橋鉄矢(音響デザイン)

1972  土くれ/35mm/17分/隆映社/喜屋武隆一郎(撮影)、甲藤勇(録音)、大野松雄(音響デザイン)

1973  JAPAN/16mm/100分/テレビ朝日/立石潔、土橋孝次(撮影)、竹上隆夫(録音)

1975  hands・手/35mm/30分/毎日映画/杉崎理(撮影)、大橋鉄矢、黒須昭(録音)

1976  飛鳥を造る/16mm/50分/四季映画放送/瀬川順一(撮影)、甲藤勇(録音)、大野松雄(音響デザイン)

1977  円空/35mm/30分/科学映画社/内藤雅行、瀬川順一(撮影)

1979  不安な質問/16mm/85分/たまごの会映画製作委員会/瀬川順一(撮影)、弦巻裕(録音)

1985  曳山まつり/35mm/30分/英映画社/江連高元(撮影)、加藤一郎(録音)

1986  花の迷宮/16mm/30分/岩波映画製作所/八幡洋一(撮影)、弦巻裕(録音)

1987  仮名手本忠臣蔵/16mm/12時間/英映画社/瀬川順一他(撮影)、加藤一郎(録音)

1990  花いける/16mm/54分/岩波映画製作所/八幡洋一(撮影)、久保田幸雄(録音)

1992  にんぎょう/35mm/34分/英映画社/小林治(撮影)、甲藤勇(録音)

1993  ムカシが来た/16mm/45分/農村都市計画研究所/瀬川順一他(撮影)、弦巻裕(録音)
オオシカの村/ビデオ/67分/東海テレビ/中島洋(撮影)

1994  景清の衣裳/16mm/30分/英映画社/八幡洋一、小林治(撮影)

1995  凪―山田貢の友禅/35mm/30分/英映画社/小林治(撮影)、加藤一郎(録音)

1996  青森発・縄文元年・日本/ハイビジョン/23分/東北新社/八幡洋一、大洞陽佑(撮影)、弦巻裕(録音)

1997  鍛金―奥山峰石のわざ―/16mm/30分/岩波映画製作所/八木義順(撮影)、弦巻裕(録音)

1998  記録・森鴎外/ビデオ/120分/エンジンネットワーク/黒柳満(撮影)、弦巻裕(録音)

2000  今西錦司・自然科学から自然学へ/ビデオ/50分/桜映画社/黒柳満(撮影)、弦巻裕(録音)
みちのおく/16mm/94分/ナフルコーポレーション/黒柳満(撮影)、瀬川徹夫(録音)

2002  出雲神楽/35mm/41分/英映画社/小林治(撮影)、弦巻裕(録音)
吉野作造 マイ・ブルー・ヘブン デモクラシーへの問い…。/ビデオ/44分/桜映画社/八幡洋一(撮影)、弦巻裕(録音)

2003  中江兆民 一粒の民主の種子を/ビデオ/50分/ポルケ/八幡洋一、大洞陽佑(撮影)、弦巻裕(録音)
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