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雲の南のドキュメンタリー事情

藤岡朝子


 海抜1890メートルの高地、中国雲南省・昆明市の爽やかな青空が広がる。急速に都市化が進むこの町に、ひときわ高くそびえ立つ新しいオフィスビルがキラキラ輝いている。テレビ局「昆明電視台(昆明テレビ)」が入っている市政府・新聞(広報)局の新築ビルだ。

 20年近く前、ドキュメンタリー作家の呉文光(ウー・ウェンガン)はこのテレビ局で映像制作と出会った。「創設当初の昆明テレビの事務所は2部屋、スタッフがたった13人。機材はカメラだって1台もなかった。必要なときに外部から借りて取材に出る始末だった。」

 雲南大学を卒業後、新疆ウイグル地区の高校教師を経て、呉文光は故郷の昆明に戻りここに就職した。当時、中国中央電視台(中央テレビ、CCTV)以外の地方テレビ局はまだ動き出したばかりで、番組づくりの経験のある人はほとんどいなかった。文章がうまかった呉文光は「思いっきり詩的なナレーションを書いて映像と合わせた番組」を作ると、北京のCCTVに採用され、昆明テレビで一躍トップ・ディレクターになったという。

 呉文光はその後北京に移りCCTVの仕事をこなしながら、テレビ局の機材を利用して『流浪北京:最後の夢想家たち』(1990、YIDFF '91)、『私の紅衛兵時代』(1993、YIDFF '93)など若者の本音が生々しいドキュメンタリーを個人で作るようになる。当時、公式のメディアでは決して発表できないような個人の声、芸術家たちの等身大が映る映画だった。呉文光はその後、海外の映画祭などで知ったフレデリック・ワイズマンや小川紳介の仕事を中国に紹介し、中国ドキュメンタリー運動の推進力となっていく。

 今は、デジタル・ビデオの普及とともに、自宅のパソコンで自由に映像作品を作る個人が爆発的に増えている中国だが、当時の呉文光らはテレビ局という政府機関とのバランスの中で、内容にも形式にも検閲を受けないインディペンデントな作品を作り始めた、まさにパイオニアだった。

 ところで、1989年の天安門事件直後、北京の混乱を逃れた彼が『流浪北京』などの編集を集中して行なったのが故郷の昆明だった。

 北京から寝台列車に乗り、南下すること2泊3日。ベトナムやミャンマーと国境を接する雲南省の昆明までは43時間の旅である。

豊かな自然や民俗が題材

 雲南はラオスやタイへ流れるメコン川の上流に位置し、文化圏としては遠く離れた北京よりむしろ東南アジアと近い。国境をまたいだ山地に暮らす多くの少数民族、風光明媚な山や湖の自然環境、穏やかな気候など、いわゆる観光資源が豊富な土地として国際的に知られている。

 この地の独自の文化と生態学的な多様性は今も昔も多くの映像制作者をひきつける。瀘沽湖畔に1年間いれば、100隊の撮影チームに出くわす、との笑い話もある。雲南テレビや昆明テレビといった地元テレビ局が作るドキュメンタリーも、少数民族や豊かな自然、独特な地理風土にモチーフを得る番組が多い。省や市政府の直営広報機関であるテレビ局では、政治や社会問題に直接触れる内容の番組はタブーでも、地域の特性を生かした民俗誌を長年奨励してきた。中でも雲南テレビの郝躍駿(ハオ・ユエジュン)は少数民族や山中に住む人々の生活を題材にすぐれたドキュメンタリーを作り、国内外で受賞している。

 撮影の被写体としての雲南はかねてから注目されてきた。

 1957年より10年間、中国は国家事業として全国の少数民族についての記録映画シリーズを制作した。このとき、ハニ族、チワン族、タイ族、ミャオ族など中国全土で認定されている少数民族の半数以上が住む雲南省で、多くの作品が作られた。

 中国科学院の民族研究所が八一映画制作所や北京科学教育映画制作所などと共同制作したこの15本の記録映画シリーズは、後の文化大革命で大きく変貌することになる少数民族の生活や風俗の細部を、モノクロの美しい35mm映像に残している。

 例えば雲南省西盟山地に住む少数民族の社会風俗を記録した1957年の『ワー族』。焼畑式農耕、祭祀における牛の生け贄、部族間の闘争と首狩りの風習などを紹介しながら、ドラマチックな弦楽器演奏のサウンド・トラックが流れる。制作当時の政治風土を思わせるマルクス主義的社会学論によるナレーションの解説が加わる。

 この記録映画は、2003年の雲之南人類学映像展で『オロチョン族』(1963)と『永宁におけるナーシー族の阿注婚姻制度』(1965)と合わせた特別プログラムで回顧上映され、雲南出身のバイ族の監督・楊光海(ヤン・グァンハイ)が来場して当時の制作話を披露した。

 映像展のボランティア・スタッフ、27歳の和淵(ホー・ユェン)がカタログに書く。「昔の中国の古ぼけたホコリくさい記録映画なんて、と遅れて上映会に赴いて、驚いた。スクリーンには安定した美しい映像と音楽の魅惑的な世界が映っていた。イメージに身を投じ、その向こう側にあるものを探究したくなる何かに背を押されるようだった。」自身がナシ族出身の和淵はその後、高齢なこれら民族誌映画の先駆者たちへのロング・インタビューをまとめ、雑誌に発表した。

 異文化の習俗を記録し、時の政治の公式見解を権威的なナレーションで押し着せる、このような古典的な記録映画のパターンは、呉文光の世代が1990年代に反発・抵抗したものかもしれない。しかし政治的抑圧を解かれ、改革開放路線の中で育った現代中国の若者たちの感受性はまた違ってきている。歴史社会的な文脈を相対化し、映画としての素晴らしさを再発見できる距離感が、先人の仕事への尊敬と継承に結びついた。

巨大な国家事業から個人制作へ

 ところで、呉文光ら初期インディペンデント・ドキュメンタリストたちが1990年代に取った制作スタイルは、テレビ局に籍を置きながら、あるいは契約を結び仕事を引き受けながら、局の機材と予算を流用して個人の作品を完成させる形だった。作品は公式な場では発表できないいわば“地下映画”としてVHSの形で人の手から手に渡った。

 デジタル・ビデオ時代の到来以降、テレビ局と全く関係のない個人でもデジタル・カメラを購入し、パソコン編集システムで映像制作が可能になった。今、作品制作の過程に政府当局の規制や検閲が介入することなく、市井の人々の手により膨大な数の映像作品が全中国で誕生している。

 同時にテレビ局の職員でも、局の承認する番組にあき足らず、個人で映像制作をする者が増えてきている。

 雲南テレビのディレクター譚楽水(タン・ルーシュイ)は1955年生まれ。1996年にパナソニック社が初めて雲南テレビにデジタル・カメラの売り込みに来たとき、個人で見本品を38,000元(現在のレートで約51万円)で買った。今は3台目を使っている。

 彼は2000年以来、同世代のテレビ・ディレクターなど仲間たちと「複眼小組」という自主映像制作グループを作り交流している。仕事外で作った映像作品が完成すると、上映会を開き、お互いの作品評をする。メンバーは40歳代、テレビ局や公的機関に籍を置き、安定した収入を得、興味あるテーマについて個人的にコツコツ自主制作する。民間の環境保護団体「雲南人興自然基金会」を主催する譚楽水は、環境保全などのテーマに熱心だ。

 彼の父親は1950年代、国の記録映画制作に監督・カメラマンとして参加した。多民族の共存を理想とする共産主義のもと、少数民族の生活風習を記録する事業は文化的に高く評価され、膨大な資金と労苦がかけられた。「当時、記録映画の制作者はひとつの巨大な装置の一部だった。」と、譚楽水は言う。「消え去ってしまうかもしれない小さな共同体を記録するという使命を抱え、観客の啓蒙を目的に仕事に従事した。」また、雲南の山中で35mmのカメラや大がかりな撮影機材の運搬や補給は物理的にも大変な作業だった。

 「今の時代、私はひとりで動けるのがいい。テレビの撮影隊だって、少なくともスタッフ5人を引き連れなくてはならないが、個人制作なら時間や金に制約されずに続けられる。この10年間、撮影に通い続けている山村があるが、ひとりで動く自由とひとりで編集する自由を得られてとても幸せだ。」と彼は言う。今は編集が楽しすぎて作品がなかなか完成しない、と嘆く。自宅でパソコン編集する多くの作り手たちの悩みどころである。

 雲南テレビでこのような個人の自主制作を手がけるディレクターは10人くらいいると言う。呉文光がインディペンデント制作を始めた十数年前と異なり、公営放送局という特権的なメディアに所属しながら、個人メディアとしての映像文化を矛盾なしに謳歌できる時代になっている。そこにはマイホームを持ち、外車を運転し、経済的にも社会的にも安定した者の趣味的とも言える自己表現は許容する、現代中国の一側面を見る。

テレビ・ディレクターの自己批評

 眺めのいい昆明テレビのオフィスで、ドキュメンタリー部のチーフを務める周岳軍(ジョウ・ユエジュン)が自主制作作品を数本見せてくれた。

 テレビ局の記者がひとりの小学校教師にインタビューする、6分の短編。ある有名人の極貧の子ども時代について証言してもらおうとしている。ところが教師はインタビュアーの求めるようなことがうまく言えず、撮り直しが続く。公的な立場にある教師が、求められている模範解答がわかっているだけに、焦りを深めていく姿が象徴的だ。取材者と被取材者の間の力関係、メディアの操作を問題にしながら、間にはさまれ分裂している個人の姿が見える。

 『霧の谷』は、少数民族ハニ族の村で民俗誌的な番組を作った時の実際の体験を、同じ村に戻って再現演出した作品。山中の村は、伝統的な民族衣装を着て畑仕事をする村人や美しい棚田を撮影に訪れる人が多い。水牛を1頭撮影するのに、村人は金を要求する。潤沢な予算で撮影被写体との関係性を長年“買って”きたテレビ局や観光産業が、ひとつの共同体の金銭感覚を狂わせていることを作品化している。

 「撮影先の村で感じた自分の困惑を、家に帰って中学生の娘に話したら、『お父さん、それを番組にしたら?』と言われて思い立ちました。」と周監督。友人にディレクター役を演じてもらい、実際の村で撮影した。金に執着しないで手伝ってくれたハニ族の少年ら本人が出演した。

 完成したドキュドラマは評判が高く、後に昆明テレビに購入され放送された。ところで、放送後、この村を訪れ撮影する人はさらに増えたという。主人公の少年の学費を支援したい、という人が現れたりもして、メディアの影響力と功罪についてさらなる論議の材料となりそうだ。

 「複眼小組」の別のメンバー、雲南テレビの劉暁津(リウ・シァオジン)は雲南大学時代、呉文光と同級生だった。彼女は20年近くテレビ・ディレクターの仕事を続け、今は放送番組の枠外でもドキュメンタリーを自主制作している。

 『仮面』は、テレビ・ドキュメンタリーの企画としてスタートしながら、どんどん膨らんだ構想がしまいには放送の枠をはみ出た作品。監督は当初、平安と豊作を願って伝統的な演劇を奉納する村の祭りを撮影しようとした。ところがこの有名な祭りを取材しにテレビや新聞がしょっちゅう訪れる。本来は春節の特定の時期にしか行なわない祭りを、撮影のために年に何度も行なうようになっていた。取材を申し出ると撮影費が要求される。撮影効率を最優先に、神聖な儀式の段取りを端折ったり変えたりする。映像制作のこのような舞台裏を、ディレクター、カメラマン、文化人類学者それぞれのナレーションで語らせ、メディアが報ずるイメージがどのような操作で形作られているかをおもしろおかしく伝える試みだ。

 周岳軍や劉暁津の自主制作作品は、テレビ・ディレクターとしてドキュメンタリーを作る中で感じてきた素朴な疑問を問い返し、映画づくりの倫理の問題を自己反省的に捉えている点が興味深い。中国ではテレビ・ディレクターとは金銭、権限、情報、人脈などの多くの面で非常に特権的な立場であるだけに、そのような“強者”のメディアがコミュニケーションの仲介に立つときの関係性の問題について、当局の体制外で作品化しようとしている動きは示唆的だ。

雲之南人類学映像展の開催へ

 ところで「複眼小組」の活動は“体制外”といっても、その意味は20年前とだいぶ様相が異なる。現在、テレビ局も改革開放の時代だ。昆明テレビでは、局内に限らず番組企画を広く募り、外部の制作者も“有力な企画”があれば放送枠を得られる、新制度に乗り出す。これは北京のCCTVでも増えてきた、いわゆる“外部プロダクション発注制”。今後は外部(自主)制作作品を局が買い上げる、あるいは企画参加する番組が増え、日本の放送局と似たシステムに移行していくことと思われる。ついては、今後の“有力な企画”が何を指すのか。政治的な検閲に重ねて、さらに視聴率という商業主義的な検閲までが加わってくるのだろうか。

 1990年代まで“体制外”とは“地下”であり、インディペンデント映画は海外の映画祭で上映されたり、個人の手から手へと流れるしか上映の道はなかった。今もまだ公式には発表の自由はない。しかし主要都市ではギャラリーやカフェに非公式な上映の場が誕生し、当局におおむね黙認されている。また、大学で上映されたり、まだ少ないがDVDを発売・流通させる人もいる。体制内制作、体制外制作の区分は曖昧になり、“インディペンデント”は“反体制”とイコールでなくなっている。

 テレビ局や当局の許可を経ずに“制作”されるドキュメンタリーは百花繚乱の様相でも、今後は“発表”の機会がどのように広がっていくのか、注目したいところだ。そういう意味でも、2003年の3月に第1回目の「雲之南人類学映像展」が開催されたことは、画期的だった。映像展の詳細についてはコラム参照

 このイベントの成功は、たくさんの支流が集まり大河となるように、近年昆明で大小さまざまな映像関連の活動が行なわれていることと無関係ではない。目立つのは、1950年代生まれの呉文光や「複眼小組」メンバーの“子どもの世代”――今20歳代の若者たち――の〈作る〉〈見せる〉〈交流する〉幅広い活躍だ。若い彼らは語学力に長けており、海賊版DVDで映画を勉強し、世界に通じている。パソコンやデジカメを使いこなす技術を身に付けている。同時に、経済の改革開放で社会が急速に変貌していく昆明で、失われつつある価値観や文化に意識的だ。そういう彼らが映像作品を作り、上映し始めている。

 例えば、1999年から2004年まで開設された東アジア映像人類学研究所(East Asia Institute of Visual Anthropology、略してEAIVA)。雲南大学構内の施設を借り、年12人の学生が映像人類学の基礎から実践までを、ヨーロッパから来た専任講師の元で学んだ。共通言語は英語。ドイツのフォルクスワーゲン財団からの助成で全費用がまかなわれ、学生は学費も機材費もいらない。カリキュラムは、参与調査や映像制作におけるメタ・コミュニケーション論も重視し、“作りもの”である映画の本質について考察もする。16本のドキュメンタリー作品が完成した。

 昆明電影学習小組は、EAIVAの学生の中でも映画好きが始めたシネクラブ。2年間に渡り、毎週1回、アントニオーニやブニュエル、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、キェシロフスキ、ゴダールなどの映画をDVD上映した。メンバーのエッセーや地元の映像作家との対談を採録した『Filmnotes 電影筆記』という記録集を数冊出版するなど、本格的な活動を展開した。

 長い歴史を誇る地元の芸術大学、雲南芸術学院が2001年に設立した「映画テレビ美術学部」は、いまや新入生150人の定員に全国から応募が殺到する人気学部となっている。2001年は学内でデジタル・ビデオ・フェスティバルを開催し、雲之南人類学映像展でも会場を提供しイベントを共同主催した。学部では総合的な映像制作をカリキュラムとし、若い教員を登用して活気ある雰囲気を作っている。

 この他、雲南民族学院などでも映像制作の普及とサポートは広まっている。そして雲南省博物館では2002年より毎週、主に雲南の自然や文化をテーマにしたビデオやスライドの定期上映会が続いている。

 これら活動のうねりの中心には前述の和淵ら若者たちグループがいる。雲之南人類学映像展の企画と運営を主体的に引き受け、雲南ならではの新しい映像文化を仕掛けている。

 最後に、紹介したい作品がある。呉文光と同世代の詩人、于堅(ユィ・ジエン)が2003年暮れに完成させた長編ドキュメンタリー『碧色駅』。これも、撮影・編集に渡って和淵と楊昆(ヤン・クン)などEAIVA卒業生が深く参加している。インドシナ植民地時代に、フランスがハノイ・昆明間に作った鉄道の駅をめぐるこの映像エッセーは、雲南で多く見られる民族誌でも映像ジャーナリズムでもなく、暗闇と音を生かした映像の力で歴史と人間の悲喜劇を見つめる。

 現在中国を動かす価値観は“政治”から“経済”にすり替わり、昆明も古い町並みが軒並みピカピカしたビルに取って替わる。かつて北京へ飛び出し、政治に迎合するきれい事のテレビ・ドキュメンタリーを批評した呉文光と対照的に、あるいは同様に、于堅は雲南に居残りながら、経済開発の目くるめくスピードと忘れっぽさからのインディペンデンスを表明するのである。

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藤岡朝子 Fujioka Asako

「アジア百花繚乱」(YIDFF '95)、「アジア千波万波」(YIDFF '97, '99, 2001, 2003)のコーディネーター。2003年12月より文化庁在外研修特別派遣研修員として3カ月間中国へ。雲南には1週間ほど滞在し、主に北京にて中国のドキュメンタリー状況をリサーチした。

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第1回雲之南人類学映像展

 2003年3月20日〜27日に開催されたドキュメンタリー映画祭。会場は雲南芸術学院、雲南民族学院、雲南省博物館、映画館「新建設電影院」。主催は雲南省博物館だが、費用はほとんどカンパ、実務はほとんどがボランティアの若者が取り仕切った。ディレクターは博物館館長の郭浄(グオ・ジン)。ポスター、中英2カ国語のカタログ、スケジュールチラシを制作。上映はDVが中心、フィルム上映は数本のみ。

 テーマは「個人・コミュニティ表現のための道具/映像を通して対話する」。100本近くから選ばれた国内作品のコンペティションにはテレビ番組とインディペンデント作品が並ぶ。審査員の段錦川(ドゥアン・ジンチャン)や蒋越(ジアン・ユエ)などの新旧作品、1950-1960年代の重要作品の回顧上映。海外からは、米国ケンタッキー州の元炭鉱の町で草の根映像制作者を育ててきたアップルショップというコミュニティ・メディアからゲストと作品を迎えた。地元雲南大学を拠点にする東アジア映像人類学研究所(EAIVA)の学生制作ドキュメンタリーも16本上映。この他、映像教育などについてのセミナーとプレゼンテーションあり。総上映本数約70本。

2003年のグランプリは『一緒の時』(監督:沙青〈シャー・チン〉/2002/49分/YIDFF 2003小川紳介賞受賞作品)。隔年開催予定。次回は2005年の春を予定している。

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