日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 18
川口肇
聞き手:アーロン・ジェロー
川口肇監督の作品はYIDFF '97の「日本パノラマ」で『位相』が、またYIDFF 2001の「アジア千波万波」では『異相』が上映されている。川口監督は学生時代より異なるフォーマットや装置を使って映像の変容や生成を追求してきたが、現在東北芸術工科大学で学生たちに教える傍ら、映像の可能性をさらに探究し、制作活動を続けている。9月に開催されるポルトガルの小さな町セルパでのドクス・キングダム・セミナーにも招待されている川口監督にアーロン・ジェローがお話をお聞きしました。
アーロン・ジェロー(以下AG):今日は遠く山形からお越し頂いてありがとうございます。川口さんは17年間くらいの間にたくさんの作品を撮られています。私はその一部しか拝見できませんでしたが、今日は作品の中の様々な実験や試みについてお訊きしたいと思います。
まず初めに、年代順に言えば、初期の作品の中で、8mmフィルムや16mmフィルムを使って映画そのものを探求するような作品が見られるのではないかと思います。例えば『dis-contact』(1988)のような作品は、スクリーンとはどういうものか、映写するとはどういうことか、そして“Motion Effect”そのものはどういうものか、という実験が見られると思いますが、川口さんが若い頃からこのような探求をしていたのには驚きましたが、その当時はどのように考えてらしたんでしょうか?
川口肇(以下KH):『inter-medium』(1987)からは大学に入ってから作り始めた物なんですが、作品を作り始めたのは、いわゆる実験映画という文脈からスタートしているんです。九州芸術工科大学で、福岡にあるんですが、僕が在学していた頃は実験映画的な作品はやや下火になっていたのですが、九州芸工大の学生の作品群は、以前は実験映画の特徴的な時代を担っていた時期があったんですね。それは松本俊夫先生が九州芸工大で教えられていた時代に学生が触発されて作りだした、方法論にかなり特化したタイプの実験映画ですね。僕が作り始めたのは、わりとそのスタイルを踏襲した形から入ったんです。例えば、伊藤高志さんはその中でも最も代表的な作家の一人だと思います。僕はそういった作品群の強烈な影響を受けて、作り始めたというところはあります。
AG:例えば、伊藤高志の『SPACY』(1980-81)といえば、川口さんの『異相』と同じように写真を使ってアニメーションを作るような試みがあるんですが、彼のアニメーションにおける動きは“完璧”に見えます。でも川口さんはそれとはちょっと違って、その“motion”を遅らせ細分化し、動きの作り方そのものを中心に、つまり“medium”そのものを前景化する試みが見られるのではないかと思います。
KH:大学時代の最初は単純に「あんなことがやってみたい」というところから入ったんですが、作り始めるとやっぱり考えるわけです。「自分の今やっていることは何なのか」とか、「やってみて面白いと思ったこの面白さは一体何だろう」、そこから作品を通しての思考がスタートすると思うんですね。初期の『inter-medium』なんかは写真を使った視点移動型のアニメーションがやりたかったというのと、写真をコピーにとって、どんどん像が劣化していくことを利用する、その2つの軸で何かできないかというところから始まったんですが、やってみるとそういう技法的なものとはまた別のレベルで、写っている物と自分との間にある「このなんだか分からないものは一体なんだろう」、ということがすごく気になってきたんです。それが引っかかるというか、後の作品でもどんどん問題としてでてくる形になっていったんです。
AG:自分と被写体の間にでて来るものについて後でもっとお訊きしたいと思いますが、この時点ではその間にある物は、明らかに映画という技術的な媒体でもありますが、それの探究が最初にでてくると思いますが?
KH:初期の作品では方法論的なアイデアから入って、「この方法を使うと一体どんなふうに見えるんだろう?」というところから制作を始めていました。
AG:『Aquarium』も『filmy』(1988)もそうですが、“映画”を映写しながら、一方ではそういう映画を“鏡”あるいは現実への“窓”として見せながらも、そのスクリーンの外、映画のフレームの外を見せることによって、「これは窓ではない。これは単なる映写された物質=光である」と。映画の両面性が見られる実験がかなり面白いと感じたんです。
KH:最初はシステムでフレームの外と中を異化していって、その差の感覚を楽しむ方向になっていったんですが、『mirror』(1989)という作品あたりからそれに対して「まてよ」と思い始めたんです。差異を作りだすためにいろんなテクニックを使うんですが、結局やってることはスクリーンの中と外ということで、観客にとっては、その差っていうのはそれがどんな映画であっても、見る段階で必ず存在しているわけなんです。で、その差異を強めるために色んな工夫やエフェクトをかけるわけなんですが、結局のところ、エフェクトを何もかけなくても、本質的には、その差異は厳然と存在しているんです。そういうことを工夫するってことは、お化粧をどんどん厚くしていくようなもので、本質的な物が逆に隠れて行っちゃう面もあるんだな、と思い、そういうエフェクトを最小限に押さえて作ろうとしたのが『mirror』あたりからです。
AG:伊藤高志の『SPACY』もそうなんですが、あまりにも視覚的なスペクタクルが前景化して、それだけを楽しんでしまい、それを越えて媒体について考えることに至れない観客もいると思いますが。
KH:伊藤さんの当時の作品は今でもすごく好きです。他の人には決してできないようなことをされていると思います。その一方で、少し違う方向にも可能性は感じました。エフェクトに寄らない観客の視線というか、本質的に横たわる“差”というものはどうしたらでてくるのかな、という1つの方向はありますよね。
AG:『mirror』という作品が1つの転換になったと思うんですが、この作品が作られたのが1989年ですね。面白いことに同時にこの年からビデオによる作品を作り始めていますね。そう見ると、この“転換”とビデオを使い始めたことがどっかにつながっていませんか。『filmy』のように、良くでているフィルム傷が表現できないビデオでは物質性は簡単に表にだせないですね。もしかするとビデオは“化粧”無しに媒体性を探る際の適切な方法なのではないかと思うのですが。
KH:僕がビデオで作品を作り始めた頃は、まだまだ8mmフィルムの方が作品を作りやすい時代だったんですね。まだ機材的に誰でもコンピューター1台で何でもできちゃうという時代では無かったので。そういう不自由の反面、その時に思ったのは、フィルムでできないことがビデオではできるんじゃないか、ビデオでできることは一体なんだろう、というところから始めたんです。この『ゆめのうつつ/うつつのゆめ』(1989)は、ビデオで夢を見られないか、というところで作り始めた物なんですね。見た夢の再現ビデオを作るわけじゃなくて、ビデオそのものの中で夢を見ることができないかっていうことで。フィルムだとダラダラ長廻しをすることもなかなかできないし、「こう撮らなくちゃいけない」と決めてから撮っていかないと素材が凄い量になっちゃって、コストもかさんじゃうという面がありますが、ビデオではそういう撮り方もできるものだし。あるいは編集していくときもフィルムは実際に長さがあるものですから、何もないところから継ぎ足して作っていくという、例えて言えば、粘土などで作っていく“塑像”という感じですが、それに対してビデオは一定の時間の中をどんどんどんどん細かくしていけちゃう特性がありますよね。“彫刻”のように、次々に削り込んでゆく事ができる。それも考えてこの作品の場合は全体の基本シークエンスを作ってそれに次々とシーンをインサートして細分化していって、というスタイルで作りました。撮影もできるだけ頭を空っぽにして何か思いついたときにどんどん撮るみたいな感じで。というわけでこの作品の場合、作っているときは、自分としてはそれまでフィルムでやってたこととは違うことをやろうと考えていて、制作しているときには、それまでの作品との共通点を特に意識はしていなかったのですが、後で見てみると、やっぱりどこかつながっているように思えますね。
AG:例えば『現実断層』(1992)も『mirror』と共通しているところがあるのではないかと思います。
KH:その前のビデオ作品『鏡面 real/imaginary』(1990)も『現実断層』に凄く近い作品ですが、これはビデオの表面で鏡を作りだすっていう試みなんですね。ビデオモニターと僕らの世界の間の境界で鏡面を作りだしたいという作品だったんですが、『現実断層』はその流れを汲んでます。
AG:特に『現実断層』は工夫が無くて、つまり、すごくシンプルで、ビデオにしかできないものなんですが、それによって現実の異なる“断層”を作る試みとしては、その前の『dis-contact』や『filmy』とは違う方向であると見たのですが。
KH:『dis-contact』や『filmy』はどれだけ巧みにフレームの違いを引きだしていくか、それをどれだけ巧みに見せていくかという試みですが、『現実断層』の場合は“普段見ている物に気づかせる”っていう、そちらのほうですね。どんな作品を見てても、観客の視点・見方によって随分作品は変わってきて、本当は見えているはずの物が普段は見えていなかった、ということに気づかせたい、というか、気づきたいというところですよね。だからむしろ“見方を問う”作品になっていってるのかなと。あんまり映像がサービスするのではなく、これなんか単なるスローなんですけれども、普通は単なるスローっていうことに対しては、ゆっくりになったということしか意味を見いださないと思うんですけれど、それは単に現実をゆっくり見せるということではなくて、ビデオの持っている特質というか、“ビデオ固有の時間”がそこにあるんじゃないかということなんです。
AG:そこで何度も速度を切り換えるわけですが、切り換えるたびに少しだけ露出がオーバーになったりアンダーになったり、場合によってはピントが甘くなったり、いわば映像的な劣化が見られるとともに、丁度これは古墳のある場所で撮影された作品ですから、1つの神秘性ともいえるものが映像にでていますね。
そういうビデオの特徴を使って、もう1つの現実の“断層”を見せる作品としては『Corridor』(1994)とか『Mechanical Kitchen』(1993)がありますね。
KH:『Mechanical Kitchen』なんかはまさに“ビデオの時間”についての作品といえます。人工的な時間、つまり僕らの住んでいる現実の単なるコピーということではなくて、ビデオというメディアの中の時間。独自の世界というか、そういうものがあるんじゃないかと。
AG:『Mechanical Kitchen』では画面の両側を黒マスクで切っていましたよね?
KH:もともと『Mechanical Kitchen』は縦型モニターのために作ったものなんです。オリジナルはモニターを転がして縦長にして見るものなんですね。ただそれだと簡単に上映はできないので、ビデオエフェクトで90度ひっくり返して横に隙間を作ったヴァージョンを後で作ったんです。
AG:縦型モニターを使うのはどういう理由からですか?
KH:1つはビデオが横っていう必然性は無いんじゃないかということです。ビデオモニターってひっくり返せば縦で見られますから。他にも理由はあるんですが、これは修士2年の修了制作で作ったものですが、その時に“Moving Image”の研究というか、考察をやっていたんですよね。いろんな歴史的な試行錯誤の中で映画ができていく前のいろんな玩具や装置なんです。映画が横長なのは舞台が起源にあるわけですが、装置としては、もともとは横長である必要は全然なくて、“Moving Image”には結構縦長の装置も多いんです。“ゾートロープ”というものがあるんですが、これも大体縦長なんですね。それの複雑に進化したものとして縦置きモニターというものを考えてみたということもあります。
AG:初期の作品と最近の作品に関連している“映像の枠(フレーム)”をどこにつけて見せるかということに関係していると思います。そのような“枠”を考えると、“映像の枠(フレーム)”に限らず、川口さんの作品でいえば、人が現実に対して考えるときに使う“枠”とか“構造”などもあると思います。例えば『Point 1415』(1996)という作品は徹底的に現実の“定数”を追求する作品といえるのではないかと思いますが、この時は“π”という定数を使っているのですが、かなり不思議な作品ですよね?
KH:『Point 1415』については、ある意味では『ゆめのうつつ/うつつのゆめ』に近い作品ではないかと今になって思うんですが、あんまり明快に構造化してないんですよね。1つのルールとしては何をやっていてもそれを記述している定数というものはどこかに在って、僕らがどんな生活をしていてもそれは淡々と続いていく、というすごく冷徹な世界の原理みたいなものがあって、そういうものと並行して生活してる自分がいる。その自分の中ではすごく大きな物語や出来事があったり…。この中でも猫が死んでるんですけど(笑)。これを作ったときは、その後の作品にもでてくる“猫の死”ってものが現実に起こった直後で、かなり僕自身が動揺している時期で、その“猫の死”をこの作品ではかなり直接的に描いているというか、感情的に描いているんですが、その反面ですごく冷徹な“定数”はどこかで常に刻み続けるという…。
AG:これは川口さんの後の作品に、より表にでてくる特徴の1つなんですが、“構造映画”という言葉を使って良いかどうかは別なんですが、一方では仰った通りの冷徹な“構造”を使って作られている作品が、同時にその中にかなり“パーソナル”で“感情的”な、“構造”に沿わずただその場で想いのままに撮ったような側面もあります。その両面をどういうふうに自分の中で考えてらっしゃいますか?
KH:“どちらか”ではないというのが現実、あるいは“真実”ではないかなと思います。作品を着想する時点ではすごく構造が強かったりするんですが、実際に作品作りがスタートして転がり始めると、単に構造を説明するための仕掛けに過ぎなかったテキストというか物語ですよね、こちらの方が力を持ち始めるというか。で、最初は考えていなかったような方向に転がってったりとか、むしろ中の物語が構造を逆に取り込もうとしたりということが起こってきたりするんですよね。それがすごく面白いな、と思うんです。
AG:その背景にある日本の実験映画史を見ると、1970年代後半くらいから2つの傾向が顕著になるわけですが、強固な構造的な作品、そしてよりパーソナルな作品があると思います。今の若い作家を見ると自分のお婆ちゃんの話とか、家族の話とか、そういうパーソナルな題材を撮っている人が多い中で、川口さんはより構造の方に重点を置いているんですね。でも完全に構造ではなく、いつもパーソナルなものが入っていますね。その立場はかなりユニークに感じられますが、川口さんご自身は例えば鈴木志郎康のようなパーソナルフィルムにあまり興味がなかったんですか?
KH:最初は全然(笑)。私はそっちの方ではなく構造的、方法論的な方が面白いと思って入った口なんですね。普通に映画を観て楽しむっていうことと、作るっていうことを、特に最初は切り離してたっていうか、自分の中では別だったんです。小説を読んだり、劇映画を見たり楽しんだりするのは嫌いじゃないんですが。特に作り始めた頃の動機は別でした。
AG: その動機の中で、実験映画を通して媒体そのものを探るというものがあるわけで、初期の8mm作品から後のビデオ作品の間には転換もありますが、媒体についての関心はいつもあると感じられます。初期の作品に見られるような実際の技術についての関心から、全体の人間の知覚あるいは自己と現実の関係性、その間にある媒体性についての関心が、後の作品ではでてくると思います。
KH:最初はメカニカルなもの、「映画ってどうなっているんだろう?」「何でこんなに不思議に見えるんだろう?」というものへの関心ですよね。で、その内に、作品制作でやってることってのがそのまま自分と自分の知覚、あるいは自分を取り巻く世界との関係と同じなんじゃないかということに段々気付いてきたんです。最初は映画っていうことの構造が興味だったんですけど、そのうちに“映画の構造≒現実の構造”、映画の構造を現実の雛形・模型として見立てることに移行していくわけです。今の考えでは、現実の相似形である映画という模型を作り、相似形である模型に何らかの影響を与えることで、現実が共鳴しないかってことなんですね。一種呪術めいた行為なんですけどね。
AG:それに至る路としては、初期の『dis-contact』のように“映写とは何か”だけじゃなくて、例えば『filmy』のように映画を映写して、更にそれを撮影して、そしてそれを更に撮影して、というふうにコピーのコピーのコピーを見せることによって媒体性そのものを2重化・3重化して、媒体そのものを増殖・増幅するような試みがまずあったと思うんですけれども。
KH:それと並行してただ純粋に「フィルムって美しいな」っていうのもありますよね。ノイズの美しさですとか。
AG:それは『Corridor』ですね。
KH:はい。あれはビデオですが、それと同様のことをフィルムの粒子の美しさという方向で制作したのが8mm作品の『Air』(1992)です。『Air』はフィルムの再撮影時に、6分間かけてゆっくりズームアップしていって、相対的に中の粒子が大きくなっていくんです。撮影素材は遠ざかってゆく人なんですよね。ゆっくり遠ざかってゆくんです。できあがった作品のなかで、最初から最後まで人のサイズは同じなんですけど、相対的に粒子が大きくなっていく、そういう作品です。この時期の作品は構造的なものに加えて、ただ単純に粒子の美しさとか…。
AG:そうですね、2つの側面、一方では媒体性そのものを探る、もう1つは媒体の“美しさ”を探る、そういう両面性が川口さんの作品にはあると感じます。
KH:美しさは探るというか…
AG:楽しむというか…
KH:そうですね。見て楽しむという感じですよね。
AG:その前者の方はより論理的な立場で、基本的に媒体性があるから私たちは虚構だけじゃなくて、自分も完全に知ることができない問題がある、ということになります。その問題の探究はいくつかの作品の中にあるわけなんですね。
KH:理屈では明解なんだけど、実際は分からないという部分なんですよね(笑)
AG:『psyche-connector』(1989-90)みたいなインスタレーション作品では、見る側がヘルメットをかぶってその中に離れたカメラの映像しか見ることができない設定によって、つまり自分の知覚と身体性の間に距離を作ることによって媒体を前景化して、自分を形成する知覚とは何か、自分とは何か、自分はどこにいるか、というような問題がかなり面白くでてくる感じがしました。
KH:ここら辺のことは恐らく言葉ではもう語り尽くされていて、言葉の上での結論はでると思うんですね。だけど、実際体験してみることで分かること、言葉の間をすり抜けてしまうようなことがあるんじゃないか、そういうことをやるのが映像の仕事じゃないか、と思っているわけです。だから『psyche-connector』もそうだし、その後の作品なんかもそうだと思うんですけど、理屈でいえば既に語り尽くされていることをやっていたりするんですけれども、純粋できれいな論理展開の中で削られている部分を再発見したいんです。
AG:例えば『異相』の中にその論理が言葉としてでてきますね。「貴女は虚構に過ぎない。私が作ったものだ」という主張が一方にあって、でもそのすぐ後に「僕自身も実は作られた存在かもしれない」という疑問も登場します。両方ともよくいわれる理論なんですが、川口さんの作品はどちらかに偏らずその両方を見せることによって、その語り尽くされている理論にでてこないような複雑な“新発見”を探っている印象を受けます。
KH:逆にいえばそのどちらでもありうるというか…。光を粒子と見るか波動と見るかっていう、どっちの物差しでも測ることができるようなもの、でもそれって一体なんだろうというのあるんですよね。僕は物理がすごく好きだったんですけど、電子雲モデルってあるじゃないですか、原子核の周りに電子が廻っている…。それは電子雲モデルで表現されるけれど、実際には雲のようなものがあるわけじゃなくて、電子は“どこか”にしかない、でもそれは確率でしか表現する事ができない。それって一体なんだろうって。理屈ではもう良しとされちゃうんだけれども、だけどそんなものって目で見えるわけはないし、そういうものでしか表現できないものっていうのは、どうやって理解するべきなんだろうという、そのへんですよね。そういうことがやりたいのかな。
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川口肇 Kawaguchi Hajime
1967年東京生まれ。都立国分寺高校でアニメーションの自主制作サークルに参加。これがきっかけとなり九州芸術工科大学(福岡)に進み、実験映画に出会う。大学1年の1987年から作品制作を始めて以来、フィルム・ビデオメディアを中心に、世界の探求を基本テーマとする作品群を継続して制作している。映像作家集団「フィルムメーカーズフィールド」に参加。1993年から山形に移り住み、大学の教員を務めながら制作を続けている。『位相』はYIDFF '97「日本パノラマ」で、『異相』はYIDFF 2001「アジア千波万波」で上映。
主な作品歴
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1985_ |
『蠢』(1 min, 8mm) |
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1987 |
『太朗、空をとべ。』(1 min, 8mm)
『inter-medium』(3 min, 8mm)
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1988 |
『dis-contact』(3 min, 8mm)
『filmy 』(5 min, 8mm)
『un-recognizable』(4 min, 8mm)
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1989 |
『mirror』(3 min, 8mm)
『ゆめのうつつ/うつつのゆめ』(15 min, Video)
『psyche-connector1』(装置) |
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1990 |
『鏡面 real/imaginary』(15 min, Video)
『psyche-connector 2』(装置) |
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1991 |
『Aquarium』(7 min, 16mm)
『粒子束』(3 min, 8mm)
『世界』(3 min, 8mm)
『prominence』(3 min, 8mm)
『熱帯夜におけるレム睡眠についての演劇』(90 min, 映像担当) |
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1992 |
『Air』(6 min, 8mm)
『現実断層』(20 min, Video)
『Reaching』(12 min, Video) |
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1993 |
『Mechanical Kitchen』(20 min, Video)
『cliche kitchen 』(3 min, 8mm) |
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1994 |
『Corridor』(11 min, Video)
『青(世界/2)』(3 min, 8mm) |
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1995 |
『世界/1』(16 min, 8mm) |
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1996 |
『Point 1415』(24 min, Video)
『世界/3 inter-face』(3 min, 8mm) |
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1997 |
『位相』(30 min, Video)
『世界/4 active-scan』(3 min, 8mm) |
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1998 |
『異相/version 1 』(15 min, Video)
『異相/version 2 』(20 min, Video)
『phase 3』(3 min, 8mm) |
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1999 |
『異相/version 4.1』(30 min, Video) |
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2000 |
『99』(8 min, Video)
『世界/5 portrait 』(3 min, 8mm) |
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2001 |
『異相/version7.6.1 』(51 min, Video)
『世界/6 eyelids』(3 min, 8mm) |
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2002 |
『savepoint』(web, digital photo) |
作品解説
- 『inter-medium』(3 min、8mm、1987)
- 室内のスチル写真と、そのゼロックスコピーによるアニメーション。
『dis-contact』(3 min、8mm、1988)
- 鳥の映像を1コマずつ、人が持っている「スクリーン」に映写し、それをバルブ撮影(長時間露光)によってコマ撮りした時間の再構成作品。
『filmy』(5 min、8mm、1988)
- テキストを読み上げる女性の映像を映写し、それをさらに撮影するという反復。映画のフレームの中の時間と観客の感覚とのシンクロが外れた瞬間、映像は前景化し、観客は外から見ている自分を見いだす。
『un-recognizable 』(4 min、8mm、1988)
- 『filmy』のヴァリエーション。映像を再撮影によって輻輳・干渉させることで、その意味が剥離され、視覚的なパターンである映像そのものへと変質する。万華鏡のように。
『mirror』(3 min、8mm、1989)
- 女性のアップの長廻し。スクリーン越しに観客と交わす視線。瞬きの瞬間の暗黒、フィルムを感光させる“カブリ”などによって映画を鏡にする試み。
『ゆめのうつつ/うつつのゆめ』(15 min、Video、1989)
- VTRによって、夢の再現ではなく、夢を創り出すこと。計算や計画性を極力排し、その場での感覚に依存するなど、無意識が直接投影されるように心がけた。
『psyche-connector 1』(装置、1989)
- 知覚感覚が身体から抜け出すと、一体どうなるのか?という興味から作られたこの装置は、言い換えれば幽体離脱を擬似的に体験させるものということもできる。
『鏡面 real/imaginary』(15 min、Video、1990)
- 常に映っているのは空と流れゆく雲、そして時間。そこに木製の鈴が、画面いっぱいに音と動きをまき散らす。その瞬間、ビデオの画面はrealとimaginaryとの間と交差する。
『psyche-connector 2』(装置、1990)
- 『psyche-connector 1』のヴァリエーション。よりコンパクトに再構成したもので、鑑賞者自身が装置を装着したままで自らの身体で歩行することを目指した。夢遊病者の感覚
『Air 』(6 min、8mm、1992)
- 8ミリフィルムの再撮影技法による作品。こちらを振り返りながらも歩いて遠ざかってゆく女。彼女は歩いてゆくに従って、フィルムの粗く、美しい粒子の中に埋もれ、映像そのものに還元されてゆく。
『現実断層』(20 min、Video、1992)
- ビデオのシンプルな手法によって異界をつくりだす試み。手持ちカメラで撮影した小さな古墳跡の丘のシーンを変質させてゆく。
『Mechanical Kitchen』(20 min、Video、1993)
- ソファ、台所と玄関の一部を映しているカメラの視点から、画面の女の“同じ時間”が二重、三重化して、不思議な時間を構成する。ビデオを映画発明以前より存在するゾートロープといった映像玩具の装置の末裔と捉え、より強力な現実感の生成装置として扱ってみた。
『Corridor』(11 min、Video、1994)
- 猫の映像を繰り返しダビングする。現れたそのビデオノイズはやがて虹色の輝きとなって被写体そのものとなってゆく。元来、作品制作の大敵であるビデオノイズ・音声ノイズを徹底的に増幅させた作品。
『Point 1415』(24 min、Video、1996)
- 定数・日常・死といったキーワードをもとに構成された視覚的体験。
『位相』(30 min、Video、1997)
- 何気ない日常と、祖母の葬式。画面上のテロップ文字とコンピュータ音声によるナレーションによって人間関係を巡る物語が構成されてゆくフェイク・ドキュメンタリー。
『異相/version7.6.1』(51 min、Video、2001)
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この作品は、7つのパートで成り立っている。1998年〜2001年の間、上映されるごとに新たなphaseを付け足していくことにより作者の“現実”を取り込み、作品自体を変容させていく試みを行った。作者と作品世界の“現実”をテーマとする。
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