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記録映画史の空白を探る
日本映画社ジャカルタ製作所の興亡

岡田秀則


2つの“ドキュメンタリー”の遭遇

 1942年3月1日、今村均中将率いる日本陸軍第16軍はジャワ島に上陸し、9日にはオランダ軍を降伏させた。その時、宣伝班としてメラク海岸の上陸部隊に随行していた映画人は、芸術映画社で秀作『雪国』(1939)を発表していた文化映画演出家の石本統吉、日活多摩川撮影所のキャメラマン糸田頼一、撮影助手菊地周、ほか数名だったという。ジャワに限った話ではないが、劇映画人と文化映画人の区別もない混成部隊である。彼ら撮影スタッフは、軍の指令に従ってバンドゥンのオランダ軍降伏を撮ったあとバタヴィア(ジャカルタ)に赴き、さっそくオランダ人J・C・モール経営のスタジオ兼現像所、ムルティフィルム・バタヴィアを接収した。ムルティフィルムとは、戦前のオランダで教育映画を製作していた会社である。優秀な録音技師で、フランスの巨匠ルネ・クレール監督の初期トーキー作品『巴里の屋根の下』(1930)のために、自分の録音スタジオを提供したとして知られるモールは、ムルティフィルムでは優れた科学映画の演出家であり、その作品は、すでにヨリス・イヴェンスを擁する映画集団フィルムリーガの強い支持を得ていた。ユダヤ人だったため、ドイツ軍を避けて植民地のバタヴィアに渡ったが、1940年にオランダ系資本から買い取って設立したムルティフィルム・バタヴィアは、たった2年で日本の手に落ちたことになる。そこにはアケリーの録音機能付キャメラやデブリーの自動現像機といった当時の最新設備があり、亡命ロシア人 I・W・フェドロフがモールを補佐、インドネシア人タフシールが現像機の管理をしていた。ほどなくティモール戦線から合流した高場隆史によれば、日本のスタッフが持ち込んだ使い古しのアイモやパルヴォといったカメラは恥ずかしくてモールに見せられなかったという。上陸時に海に落としてしまったという生フィルムさえ、近くのタンジュンプリオク港で、アメリカから輸入されつつあったストックを発見している。石本らはモールやフェドロフらに自分らと一緒に働くよう説得し、これに応じた彼らは収容所に入らなくて済むことになった。石本といえば、ポール・ローサを論じ、英国ドキュメンタリーを実践的に学んできた製作集団、芸術映画社の先鋒の一人である。英語ができて、欧米の諸芸術に造詣の深い教養人石本の人柄が信頼されたこともあるのだろう、と菊地氏は語っている。また撮影所内でモールの科学映画の上映会を開き、その作品群に石本が感嘆していたとの証言も聞くことができた。ここに2つのドキュメンタリーが出会ったのである。

宣伝班の陣容

 やがて、スマトラ上陸組など、南方各地からの宣伝班員がジャカルタに合流してきた。スマトラ組には松竹大船撮影所を支える名物カメラマン長岡博之もいた。そのジャワ宣伝班の最初のニュース映画が、天皇誕生日(4月29日)のバンドゥンの街を撮影した『ジャワの天長節』である。当時この映画は日本でも公開されたため、フィルムが国内(東京国立近代美術館フィルムセンター)に現存する唯一の戦中ジャワ作品となっている。また、日本とインドネシアの“友情”を謳い上げるテーマソング「八重汐」をフィーチャーした映画『八重汐』も宣伝班時代の作品である。文化軍人として名のあった町田敬二中佐、続いてスカルノが冒頭で演説をしているが、東南アジア現代史の倉沢愛子氏(現慶応義塾大学教授)は、このスカルノの演説が、対日協力を決めてから最初の登場だった可能性を示唆している。

 宣伝班は、ジャーナリストの大宅壮一を筆頭に阿部知二(作家)、武田麟太郎(作家)、飯田信夫(作曲家)、河野鷹思(美術家)、倉田文人(映画監督)、横山隆一(漫画家)、小野佐世男(画家)といった各界の文化人を擁した強力なものであったが、配給・映写事業までを視野に入れた総合的なプロパガンダ戦略を策定するにあたり、映画を専門とする新しい組織の設立が必要とみなされるようになった。それが、10月1日に成立したジャワ映画公社であり、製作・配給機構がすべてここに移管されたほか、映画館のない地域のための巡回映写班が本格的に組織された。理事長には大宅が就任し、製作部長は石本、経理や機材管理などの実質的な切り盛りは高場隆史が担当した。ニュース映画は正式に『ジャワ・バル』という名前を持つようになり、同社が改組される1943年3月までに8号を製作している。“新ジャワ”の意味を持つ『ジャワ・バル』は、やがて1943年1月に創刊されるプロパガンダ雑誌の名前としても知られる。もはや、文化工作はインドネシア占領の最重要課題の1つになっていた。それは倉沢氏も指摘している通り、日本軍が戦線を広げすぎて、この広大な地域を治める軍隊が手薄だったためである。ここに、出版や放送と並んで、映画というメディアが大きな鍵を握ることになった。日本が占領した他の地域には、これほどの組織的なプロパガンダ戦略は行われていない。

日映ジャカルタの時代へ

 1943年4月1日、ジャワ映画公社は解体され、製作面は日本映画社 (日映)がジャカルタ製作所(以降「日映ジャカルタ」と略す)を設立して引き継がせ、配給は映画配給社ジャワ支社が担当することとなる。かくしてジャワの映画事業は正式に内地のシステムにリンクされることとなった。日本映画社は、日本の国策に沿う形で1940年にニュース映画の大手4社が統合された日本ニュース映画社を母体に、1941年に設立された一大プロダクションである。そのため新聞社系、通信社系といった戦前期ノンフィクションの複数の潮流が同居する“寄り合い所帯”の色彩が強く、日本が敗戦を迎える1945年8月まで、日本の記録映画史の中でも国家的なバックアップを得た独特の盛り上がりを見せている。

 前述のようなプロパガンダ政策の中で成立した日映ジャカルタは、日本映画社海外局が管轄する外地の拠点の中でも、飛び抜けて盛んな製作活動を行っていたことで特筆される。南方ではマニラにも製作拠点はあり、『新比島ニュース』などを製作していたが、現像から編集まで一貫した作業ができたのはジャカルタだけであり、南方各地のフィルム現像なども引き受けていたという証言もある。東京の本社からは『日本ニュース』が送られ、彼らの映画に活用された。またジャカルタ製作所は、本社のために南方報告のフィルムを送った。石本統吉が製作部長を務め、また戦後ドキュメンタリーに多大な貢献をなした演出家・編集者伊勢長之助、やがて顕微鏡撮影で世界的な名声を得ることになるキャメラマン小林米作といった人物が映画作りに携わっていた日映ジャカルタは、映画史的な人脈の面からも無視できない場所である。伊勢や小林たちにとっての“ジャカルタ”の意味は、今後、重要な研究対象となり得るだろう。

 日映ジャカルタ設立と同時に、『ジャワ・バル』は『ジャワ・ニュース』と改称され、原則として隔週公開となった(1943年12月までに19号を製作)。そのテーマは戦意昂揚や防諜、増産奨励が中心であるが、衛生生活、運動会、パッサル・マラム(夜市)に至る生活の描写にも力を入れており、そのフィルムがたたえる空気は、本土の『日本ニュース』に比べてむしろ伸びやかでさえある。この時代、宣伝班員だった東宝の作曲家飯田信夫は、オランダ人が育てていった良質のオーケストラを使っていとも贅沢な音楽収録を行うことができた。またジャワの文化に惚れ込んだ画家小野佐世男は、現地で描いた絵の画集まで発表したが、残念ながら彼が日映ジャカルタのために人形をデザインした人形劇映画『おしゃべりクロモおじさん』は現存していない。

 『ジャワ・ニュース』は1944年1月から『南方報道』と改称されるが、文化映画の製作が本格化するのもこの頃からである。また劇映画部門であるインドネシア映画部は、日活多摩川撮影所の監督倉田文人を責任者に、インドネシア人監督・俳優を使って『南の願望』などの作品を発表している。内海愛子・村井吉敬著「シネアスト許泳の『昭和』」(1987年発行)によれば、当時、軍の直接の仕事(オーストラリア人捕虜の扱いを題材にした『豪州への呼び声』)を拒んだ倉田は、インドネシア映画人の教育に専念していたとされる。露骨なプロパガンダ作品の生産を軍当局より命じられていたとはいえ、積極的な技術移転への努力によって戦後インドネシア映画の誕生にもつながったという意味において、これは日本映画史と東南アジア映画史との貴重な接点であったと言えよう。これらの残存フィルムはいずれも録音が素晴らしく、モールが維持した仕事の水準もうかがい知れる。

 ここで1944年4月の日映ジャカルタのスタッフを記してみよう。小規模とはいえ、紛れもなく1つのスタジオであったことが理解できる。

日本映画社ジャカルタ製作所人員表
(「日本映画」1944年4月1日号による、現地人従業員除く)

所長 …… 山崎真一郎(昭南兼任)
次長 …… 石本統吉

総務部
 部長 … 長野七郎
 部員 … 青木精一、平井政雄、三輪孝一、渡辺敏夫

企画部
 部長 … 小林勝(昭南兼任)
 部員 … 村瀬敏一、橋本又雄、井戸川渉

製作部
 部長 … 石本統吉(兼任)
 演出 … 伊勢長之助、外松直彦、上砂泰蔵
 撮影 … 小谷享利、栗林実、笠間秀敏、森博、笹原松三郎、
      小林米作、古矢正吉、朝妻金次郎
 現像 … 林龍次、笹崎岩雄
 録音 … 増田正郎
 電気 … 松山広太郎

インドネシア映画部
      倉田文人(軍嘱託)、金子敏治、井村利助

 文化工作の重視、設備の充実とならんで3年5か月にわたる活動を維持できた理由として忘れてはならないのは、皮肉にも戦争全体の流れにとってインドネシアが“忘れられた土地”になっていたという点である。優勢となった連合軍はジャワを通り越して日本本土へ向かい、ジャカルタは戦争終結まで戦火にまみえることがなかった。日映ジャカルタのニュース映画にしばしば登場したテーマに“敵の監視”があり、『対敵監視』(1944)という文化映画も存在するが、最後まで“敵”が出現することはなかったのである。ビルマ宣伝班員であった一色義忠氏によれば、帰国した宣伝班員の間には「ジャワ極楽、ビルマ地獄」という言葉さえ存在したという。1945年8月を迎えるまで、『南方報道』も数々の文化映画も無傷のまま製作され続けた。モールは最後まで日映ジャカルタを見届けた。最後の号となった『南方報道 第43号特報』(1945年8月)には、おそらく日本の敗戦で作業を中断したためか、一部音声が入っていない。このフィルムは、歴史の断絶そのものを物理的な痕跡としてとどめているのである。

 その後すべての製作機構は、ムルティフィルムと日映ジャカルタという2つの時代をカメラマンとして生きたインドネシア人、ラーデン・マス・スタルト率いるインドネシア映画ニュースに移管された。やがて彼らは、再びやってきたオランダ軍の攻撃を逃れるため、12月にはやむなくジョクジャカルタへすべての製作機構を移し、4年にわたる独立戦争を戦うことになるだろう。

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