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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 17

大津幸四郎

聞き手:加藤孝信


 大津幸四郎氏はカメラマンとして日本のドキュメンタリー世界の中で最も重要な作家たち(小川紳介、土本典昭、佐藤真等)と共に歩んでおり、氏の作品歴はさながら日本ドキュメンタリー史の縮図のようです。今回は大津氏にカメラの向こう側から見えてくるドキュメンタリーについて技術的なことのみならず多岐に亘るお話をお聞きいたしました。聞き手には小川プロの最後のメンバーでもあり、山形映画祭との繋がりも深いカメラマンの加藤孝信氏にお願いいたしました。加藤氏は『映画の都』(監督:飯塚俊男、1991)で、大津氏のカメラの助手を務め、そこがカメラマンとしての人生の原点となったようです。久々に再会した師弟による、また現役で活躍中のお二人のプロの撮影者としての対談が興味深く展開されます。


1. 岩波映画製作所から「青の会」へ

加藤孝信(以下KT大津さんが映画を志された理由は何でしょうか?

大津幸四郎(以下OK映画をどうしてもやりたいというつもりはなくて、そういった意味では映画青年ではなかったんです。でも映画は好きで、高校の時には2〜3人しかいないシネクラブみたいなことをやっていたけど、それは作る方ではなくて、むしろ劇場に行って映画を観て、というファンクラブ的なものですよね。大学の頃も、ちょうど増村保造の映画が出始めた頃ですが、「テンポの乾いた面白い映画人が現れたなぁ」と大変な興味を持ったということはあります。

 で、映画(業界)に入って来た理由ですが、最初僕はジャーナリズム関係というか、出版社とか新聞関係に就職しようと思っていたんです。ラジオにはあんまり興味がなかったし、その頃本当に出来たばっかりのテレビには行こうという気はなかったですね。

 僕は1958年に大学を卒業しましたが、その当時、一般企業は思想調査まがいの人権侵犯行為が横行していましたので、そんなところはこちらから御免と、比較的自由なジャーナリズム関係、新聞社が殆どだったんですけれども、マスコミ関係を志望しましたが、これはあんまりうまくいかなかった。で、やっと引っかかったのが岩波書店で、最終試験まで残ってたけど、結局駄目になって。でも当時、岩波書店の最終試験まで残ると、希望すれば岩波映画の入社試験を受ける機会が与えられるというのがあったんです。それで岩波映画を受けに行って最後まで残っちゃったっていうわけです。

 だから映画に興味はありましたし、岩波映画に行こうという時に、新しい会社であることと、いわゆる劇映画ではなくて、その時期はまだ文化映画から記録映画にやっと脱皮し始めた頃で、新しい動きをやるということで興味を持ったんです。

KT:岩波映画に入社されて、最初からカメラマンとしてやっていこうと思ってらしたんですか?

OK:いや、僕は本当は演出がやりたくてね。僕はもともと文化系で、機械を扱うなんて全く出来なかった。ビスをドライバーで捻る時、どっちに回したら良いか分からないくらいの機械音痴だったわけですよ。

 ところが岩波映画は当時、会社のポリシーとして文化系の人間をカメラマンにしたいという意向があったんですね。というのは、一人きりで現場に放り出しても作品をまとめて来られるようなカメラマンを養成したいという考えがあったんですね。文化系出身者を持ってきて、撮影部に放り込んでガタガタやって、何年かしたらカメラマンに養成するという計画があったんです。

KT:岩波映画は新しい会社であるとおっしゃいましたが、そういう雰囲気の中で、普通はあまりないことだと思うんですが、撮影部と演出部がかなり議論を重ねたりとかいうこともあったんですね。

OK:演出部の人たちが大部分若いということがあったと思うんですよね。

 当時はドラマだと15年とか20年たってもまだ助監督というようなシステムだったんです。良く言えば経験を積ませる、悪く言ったら殆ど飼い殺しにして、それからやっと一本にする。日活なんかは若い会社だったけど、それでも10年くらいは助監督でやってましたでしょうね。岩波では演出家の場合、入って2年か3年したら一本にしていくんですよ。勿論それは小さな規模の作品とか、側で誰かが見ているとか、(編集や仕上げにタッチしない)現場だけの演出とか、いろいろ条件はありますけどね。

 一方、カメラマンの場合は、例えばドラマの場合は脚本があって、それに基づいてコンテを作る。それをどう変えるかは演出家の力量ですけど、イメージの中で漠然とこうなるんだろうなと見えている中で演出家の意図が前面に出てくる。ところがドキュメンタリーの場合だと何が起こるか分からないこともあって、それをどういうふうに消化していこうかということは、殆ど現場任せですよね。そういう中でカメラマンの肩に比重がかかってくるということになってきて、現場での発言力が強くなっていったわけです。

 その辺でいわゆる技術部、撮影部や録音部と演出部の若手同志のフランクな交流がしょっちゅうあったわけです。縦割りのシステムじゃなかったんですね。会社自体若く人数が少ないということもありますけど、演出家と若手の撮影部の助手が飲みに行くことがしょっちゅう出来た。

 それが最後には「青の会」に発展していくわけだけれども、そういう研究会を作り皆が自由勝手にやっていく中で頭を出してきたのが小川紳介君や東陽一君。黒木和雄さんとか土本典昭さんなんかは当時一本になっていましたので、また別格ですけれどもね。

 例えばそういう研究会の中でアラン・レネの『夜と霧』(1955)を借りてきて見る。これは元映研の小川の得意分野ですよね。映写室は書類に書き込むだけで岩波のが無料で借りられますから。そういうことで職場の延長みたいな形で上映したり自由に討論したり、研究会としては恵まれているわけですよ。亀井(文夫)さんの『小林一茶』(1941)を借りてきたりすると、土本さんとか黒木さんたちも見に来て一緒に討論するということになります。

KT:作品をご覧になって討論されるということは、内容は抽象的なものではなくて具体的に…

OK:ええ、非常に具体的になりますよね。こちらも駆け出しとはいえプロですからね。だから細かなカット割りとか、シーンの順序とか、フレームの切り方とか討論しました。

 エイゼンシュテインの衝突のモンタージュ論とかね、それなんかを援用しながら、例えばロング(ショット)とロングを繋ぐにはどうしたらいいかとか。そのころロング・ミディアム・バスト・アップという形の迫りかたがオーソドックスだと言われるとすると、じゃあ何でロングからアップに行けないのかと。中間のサイズをとばしてアップからロングにいくのも乾いていて、面白いんじゃないかとか、あれこれの映画の感性に与える思想的影響、政治と芸術の関係といった抽象的な問題まで青いといえば青臭いわけですが、自由にディスカッションする。例えば『小林一茶』は何で面白いか、ということになるとかなり抽象的な議論をしますよね。『夜と霧』のどこが何故面白いとかね。もちろん黒木さん、土本さん、後にフランスに渡って彫刻に転向する藤江孝さん等の出来たての作品を監督に来てもらって批評し合うとか、相当に自由な雰囲気がありました。後メンバーの大半が岩波映画をやめてフリーになるわけですから、研究会の雰囲気は「青の会」に引き継がれていきます。相変わらず作品研究は小川の主導の下でやられるわけですが、個々人がぶつかっている制作の具体的な問題から映画と政治、映画と芸術とか、まあそんなことを当時の我々には手にあまる問題をまともに議論していくわけです。

2. 『圧殺の森』

KT:そういった話し合いの中から今度は具体的に作品が出来てくるわけですけれども、大津さんが最初にカメラマンとして参加されたのは『圧殺の森』ですよね?

OK:そうです、一本でやったのは『圧殺の森』(1967)が最初です。その前に『青年の海』(1966)、この作品は撮影に3年以上掛かっているんですが、最初の年の2ヶ月位は僕が廻しています。

KT:その『圧殺の森』ですが、退学処分を受けた学生達が高崎経済大学の学生ホールに立てこもりますね。彼らの閉塞感は最初から狙って撮ってらしたんですか? カメラは殆ど外には出ませんよね。

OK:具体的には出られない状況でした。あの大学の敷地の一番端に自治会が管理している会館があるわけですよね。それで、彼らは退学処分を受けてからは正門からは入れないわけですよ。映画にちょっと写っていますけど、裏の垣根に穴をあけて出入りするわけです。で、同様に我々も正門から入ったことはないわけです。で、自治会室にこもる。校庭に出ていくと右翼を含めて、必ずやられるわけです。「おかしな奴らがいる」というわけです。そういう意味での閉塞感は否応なくあったというか、押しつけられたものが反映していったことがありますよね。

 もうひとつは撮影のスタイルにあると思います。この作品は、日常の生活の場にカメラを持ち込んで、普通の日常の光線を使って撮っていこうという考え方を初めて実行した作品なんです。昔はフィルムの問題があるからそれにあわせて光線を作って撮っていく、そうしないときれいに撮れない、というのがオーソドックスな撮影技術でした。

KT:それはフィルム感度の問題ですか?

OK:感度の問題もあります。特にカラーフィルムの感度は低くてASA感度100になったばかりでした。でも、『圧殺の森』の頃は白黒を使っていましたから、ASA感度80くらいから400くらいまでのフィルムが使えました。もっともこれ(ASA400のフィルム)は粒状性がめちゃめちゃ悪くてね。まぁ、今から見ると多分粒状性の荒さが面白いというか、それを利用したのが内田吐夢さんの『飢餓海峡』(1964)だったりしたわけですが、ともかく、ちょっと使い方を間違えて、例えば暗いところで撮って、しかもメインのきちっとした光線が入ってこないと、粒子が荒れてしまって、受信状態の悪いテレビみたいに映像がモヤモヤっとなってしまうわけです。で、この作品の場合はASA200のダブルXという中程度の感度のフィルムで黒の再現性の良好なものを使いました。

 その頃、キーライト・フィルライト・バックライトの三方向のライトがあって初めて物が立体的に浮き上がって来る、それがライティングの原則だと考えられていました。そうすると、例えば被写体が窓際にいるとバックライトは入ってきますけれども、カメラの背の方に窓がないと押さえのフィルライトが入ってこない。そうなると三方向のライトをいかに作るかということになってくる。現実には必ずしもそういう光は無いからです。その頃はフィルム感度もレンズの性能もあまり良くないから、最低1kWのライトとか、多い時には10kW、20kWのライトなんかを使うわけです。

 でも『圧殺の森』を撮ってる時にはライトなんか何も点けられないわけです。あの作品で言えば、一回だけアイランプの300Wか500Wを点けたかどうかというくらいでした。というのは、ライトを点けたら撮影していることがバレバレになってしまうから、いかにそこにある自然な光線、今で言うアヴェイラブルライトをいかに使っていくか、現実の光線をいかに生かし切るか、ということに徹するわけですよね。悪い撮影条件を逆手にとっていかにアクチュアルな感じを出すか、その辺で当時僕がやった撮影方法が新鮮に見えたのかもしれません。

KT:今では当たり前の技法ですけれどもね。

OK:その当時は殆どやってなかったですよね。ともかく、撮る時にはちゃんと三脚を立ててというのが岩波にいた頃の絶対条件ですよね。それに対して鈴木(達夫)さんなんかが1960年くらいから手持ちのカメラワークをやるわけです。今ではそれは当たり前のことだし、手持ちが楽に出来るように考慮されたカメラが造られている。ところがその頃はそんな物はないわけです。その中で手持ちをする、そうすると多少はブレますよね。すると「見にくい」とか何とか必ず文句が来るわけです。だから必ず三脚に載せる。そしてきちんと照明する。そういう世界だったわけです。ところが段々アヴェイラブルライトで、状況に応じて手持ちを使って撮影が行われるようになってきて、いかにブレないでシャープで生きのいい映像を撮るかということが技術的な要請になってくる。「あ、アイツの手持ちは上手い」となるわけです。その中でピカイチになっていくのが鈴木達夫さんでした。あの手持ちは本当に上手いです。

KT:『とべない沈黙』(1965)の蝶を追っていくところなんか素晴らしいですよね。

OK:ほんの少し広めの玉を使って蝶を追いかけました。レンズの選択の上手さは抜群ですよね。鈴木さんの場合には同時に超望遠のレンズを使い切っていくということが『とべない沈黙』の中にもはっきりありますよね。両方の方向ね。で、僕なんかは一緒にやってたこともあるから彼からは色々な撮り方を勉強しました。[編集注:『とべない沈黙』では大津氏は撮影助手を務めている]

KT:『圧殺の森』では多分意図的に使ってらっしゃると思うんですが、望遠レンズを使っていわゆる盗み撮りをしてらっしゃいますね。

OK:普通のやり方では撮れないということでね。その時は運動の主役の一人が運動から脱けていくリーダーを説得にいくシーンで、カメラを裸で持っていって、直ぐ近くから撮るわけには行かないだろう、という状況だったから、向かいの部屋を借りてそこから望遠で撮ったわけです。ただこれはラッシュプリントが上がってきたところで、「こんな方法はやるべきではなかったんじゃないか」ってスタッフみんなで頭を抱えてね。それ以後は小川も土本も「盗み撮り」はやらなくなったと思うんですね。これはかなり苦い薬だったですね、はっきり言って。あのショットを使う使わないという議論もあったけど、結局使っちゃった。異質なカットですよね。それは何故かというと、例えばこうしてここで話をしているところにカメラがいて、撮り方はカメラマンに任せるわけだけれど、そこにカメラが「いる」ということは撮られる側が了承したんだと、契約とは言わないまでも、ある信頼関係ね、それが無い限り撮ってはいけないんじゃないかということですよね。そういう哲学が在ったか無かったということです。で、無しでやっちゃったわけです。相手とカメラとの関係性を作るということをないがしろにしてね。

 それは何故かというと、「写らなければゼロだ」という考え方が何処かにあったんですね。でもそれは本当は間違いなんだよね。人間の中で肝心なことは、多分撮れない。写らないよね。撮ってはいけないこともあるだろうし、撮れない場合もあるかもしれない。それはひとつには我々には土足でズケズケと入ってはいけない場所があるのだと。これはTVも含めていつも頭に叩き込んでいなくてはならない問題だと思いますよ。

 もうひとつは、例えば目の前に二人の人間がいるとしますよね。そうすると、その二人の中に流れている空気みたいなもの、「話をしている」という事実ではなくて、そこに漂っている空気みたいなもの、あるいは独りでいる時に背中に漂っているもの、言ってみれば「風情」ですよね。本当はそういう物で人間のありようを撮らなくてはいけないんですよね。目に見えない物、目の前に存在している物の向こう側を撮らなくてはいけないところに我々は行くはずなんだけれど、カメラマンの習性としては「写らない物は存在しない」ってことがかなりあったと思いますよ、盗み撮りをしたことの根底には。それが完全に間違いであったということはあの最悪なシーンで証明されたというか、以後絶対にやらなくなりましたね。

 それから先に出てくるのが、小川も土本もそうだけれども、何処に荷担していくか、ということになっていきますよね。何処にカメラを据えるかという問題ね。権力の側に置くのか、権力に対峙する側に置くのかということです。現在では権力というのは非常に見えにくい形になってきているけど、その辺はもう一度考えてみる必要があると思いますね。

3. 小川プロを離れて水俣へ

KT:その後小川さんとは『三里塚の夏』を最後に別れて水俣に行かれるわけですね。その辺の事情はどういうことなんですか?

OK:2つあると思うんです。ひとつはこの時期、小川が政治的な側に一番接近して行った時期です。「三里塚」を作っていく上で、資金的な面でも運動の面でも政治的な運動に近づいていったんだと思います。それが僕には段々疑問になってきた。というのは、常に我々は政治性を思考して作るだろうが、政治に動かされてはいけないのではないだろうかと。政治に囚われたらやっぱり違ってくるんじゃないかと。常に我々は政治的なパースペクティブの中でモノを作っていくべきじゃないかという、それが一点ですよね。(小川も同じようなあやうさを感じていたのだろう。それは『日本解放戦線・三里塚の夏』以後の彼の映画づくりにはっきりと現れている。)

 もうひとつにはそれに関連することで、具体的には「小川プロダクション」という名称を付けるか否かということです。僕はそれには異議を提出したんです。これは個人名を付けてはいけないんじゃないかと。「小川プロダクション」とは何事であるかと。これまでは「自主上映組織の会」とか「映画班」と名のってきたわけだけど、ある集団としてのイメージを表わす名前を付けるんだったら良いんだけれど、というこだわりがかなりありました。小川の独裁性というかカリスマ性がちらちらと目につきはじめた頃で、反天皇制を意図しながらモノを作っている人間集団がね、中に「天皇」を作っちゃいけないんじゃないかと思ったわけです。

KT:そうすると、作品的・芸術的な相違じゃなくて、いわゆる政治的な見解の違いのために袂を分かつことになったのですね?

OK:そうです、そう言った方が良いと思います。

 だから小川が山形に行ってからも作品が上がると「ちょっと見てよ」とか「今こんなことで悩んでいるんだけど?」ということはあったし、「東京に帰ってきているから」ということでお茶を飲んだりなんかしてる。ケンカ別れではないんです。

 ところで、小川や土本は反体制という形で、広く括っちゃえば体制としての映像産業からはみ出てしまったわけだよね、やむなく。そうすると、岩波での僕の経験も含めて言うと、次に映像産業からいびり出される一番風当たりが強い現場はカメラマンですよ。

 田村(正毅)君は前からつき合いはありますけど、特に『圧殺の森』を見てからこっちに来ますよね。そうすると我々と一緒に仕事をすると、今度はなかなか普通の制作会社では使ってくれないわけですよ。危険視されてね。爪弾きにされるわけです。僕としては制作の外でカメラマンとして育って作品を作り続けてきたわけだけど、次々に新しい人が体制の外で育ってどんどん交代していく、というふうにならないと運動は続かないと思っていたんで、当時僕は他でも多少は食えてきたし、そういうことも含めて、「小川が良ければ、僕が辞めた後、既成のカメラマンを呼ぶんじゃなくて、田村君を一本にしてくれないか、それがどうしても出来なければオレが残るけど」と言ったんです。「じゃあ出来るだけそうしよう」ということでね、田村君にお願いしたんですよ。

次頁へ続く>>


大津幸四郎 Otsu Koshiro


1934年、静岡県に生まれる。1958年静岡大学文理学部法経学科を卒業後、岩波映画製作所に入社。演出部を志望するが撮影部へ配属される。5年間撮影助手として努めるが、PR映画の制作に耐えられず退社。以後フリーランスのカメラマンとして独立。小川プロ、青林舎、シグロ、映像記録センターなどで主にドキュメンタリー映画、TVプロジェクトの撮影に従事。

 

主な作品歴


1967_ 『圧殺の森』(小川紳介監督)
『現認報告書』(小川紳介監督)

1968 『日本解放戦線 三里塚の夏』(小川紳介監督)

1969 『パルチザン前史』(土本典昭監督)
『にっぽん零年』(藤田繁矢、河辺和夫監督)

1971 『水俣 ― 患者さんとその世界』(土本典昭監督)

1973 『水俣一揆 ― 一生を問う人々』(土本典昭監督)

1975 『不知火海』(土本典昭監督)
『医学としての水俣病 第I部 資料 証言篇』(土本典昭監督)
『医学としての水俣病 第II部 病理 病魔篇』(土本典昭監督)
『医学としての水俣病 第III部 臨床 疫学篇』(土本典昭監督)
『鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い』(吉田憲二監督)

1978 『難病「再生不良貧血性」と闘う 君はいま光のなかに』(吉田憲二監督)

1980 『きらめきの季節』(吉田憲二監督)

1983 『泪橋』(黒木和雄監督)

1985 『おもしろ学校のいち日 名取弘文の公開授業』(西山正啓監督)

1987 『ゆんたんざ沖縄』(西山正啓監督)

1989 『出張』(沖島勲監督)

1991 『映画の都』(飯塚俊男監督)
『狭山事件 石川一雄・獄中27年』(小池征人監督)
『魂の風景 大野一雄の世界』(平野克己監督)

1993 『アイランズ 島々』(セミヨーン・D・アラノヴィッチ、大塚汎監督)

1994 『黄昏のアインシュタイン』(蜂須賀健太郎監督)
『全身小説家』(原一男監督)*イメージ篇撮影

1998 『まひるのほし』(佐藤真監督)

2000 『ドルチェ ― 優しく』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)

2001 『花子』(佐藤真監督)
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