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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 20 高嶺剛(2/2)

6. 劇映画『パラダイスビュー』

仲里:『オキナワン ドリーム ショー』で沖縄の風景の中に死臭を嗅ぎ、『オキナワン チルダイ』では沖縄の時間を描きこんでいくというようなことをやったわけだが、ドキュメンタリーからドラマが立ち上がっていっていくというか、ドキュメンタリーからフィクションへの中間というか、いわばブリッジのようなもので、そのあと『パラダイスビュー』を作る。それはかつての風景論や時間論を総合化…、総合化というとちょっとおかしいかもしれないけど、そういうものを高嶺さんの文体でやったところがある。そして『ウンタマギルー』で高嶺ワールドを物語として総合化して見せた。沖縄の映画史を、高嶺以前の映画と高嶺以後の映画という区切り方が可能だとすれば、『パラダイスビュー』と『ウンタマギルー』は、その句読点になった映画じゃないかなと僕は思ったりしてるんだけど、『パラダイスビュー』や『ウンタマギルー』に行くっていうことの事情は?

高嶺:『パラダイスビュー』を撮ったきっかけは、ある人から「お前は自主映画専門で劇映画とかは出来ないんだろ」ってからかわれたわけ。「やったろやないけ!」ってことが直接のきっかけなんです。(笑)だけど僕の中でも『オキナワン チルダイ』を作った後、映画の企みっていうのがどんどん増殖していって、このような風景のなかでいったい何ができるか、ということにしだいに関心が大きくなってきたんで、シナリオっていう形をとると劇映画みたいな方向になってね。だから出演者もこれまでのような、手隙のスタッフの兄ちゃんとか姉ちゃんとかじゃなくてね、ちゃんと役者さんにお願いして、出演してもらう態勢で臨んだんですけど…。ただ、ゆずれないこととして、沖縄でしか成立しない劇映画でなければと…。私個人の虚構物語ではなく、風景に漂う、たとえばマブイ(魂)、そのような沖縄の風景のなかの物語…。そのような『パラダイスビュー』みたいなところへ行かないと、私の映画は行き詰まるなあって感じがあって、あと辞めるか撮るかって。『パラダイスビュー』の場合にはそこに沖縄の“マブイ”を…精神的な芯みたいなものだとか、沖縄の歴史的な体験から生み出された沖縄の精神的な概念じゃなくて、人のなかの整理されてない心の領域っていう…。そういうところに関わりながら劇映画が撮れないものかと思ったわけ。だから“マブイ”っていうキーワードを得て、『パラダイスビュー』は出来たと思うんだけど。でも実際目に見えない“マブイ”を描くにはどうしたらいいかってのがあるんだけどね。逆に目に見えないものを見せていくっていうよりは、頭の中で…観客に頭の中で作ってもらおうって、そういった感じかな。だからストーリーは一応はあるんだけど、頭で作り込まれた「〜ということでした」という物語ではないですね。かといって自然賛歌でもない。そしてそういう“マブイ”がある沖縄の風景賛歌というわけでもないの。いいとか悪いとかもそういうもの全部おいといて、なんかしら不思議な領域を抱え込んでしまった人間の有様を、沖縄の風景の中にどっぷり浸かりながらやってみたかった。これは『オキナワン ドリーム ショー』からの延長で、風景の中になかなかわからないようなものがいっぱい漂っていて、するといろいろなものが映画の中にしみ込んでくるっていう気がしてね、それを期待して映画撮ったわけです。そのような言い方って抽象的すぎるかなあ。

 私は先程から“マブイ”を連発していますけど、小林薫演じるレイシューという男は“マブイレスマン”と設定されています。“マブイレスマン”の見せ方で、私と小林薫は意見の対立があったが、私たちは“マブイレス”について熱心に話しあうことをせず、私は仕草だけを要求してね。なんか“マブイレス”は合意された途端、マブイレスじゃなくなっていくみたいで…。

7.「地・血・知・痴」そして「ち」

仲里:『パラダイスビュー』や『ウンタマギルー』を観ていると、沖縄っていう土地からファンタジーが立ち上がってくる、その立ち上げ方を“マジックリアリズム”という言い方をすると、(ガルシア・)マルケスなんかとどこか共通する世界の描き方があると思うんだよね。そういうものが“高嶺ワールド”を形成していて、高嶺映画は、この日本っていう土地の中では、ある意味じゃ異物っていうか、異化の効果を誘発してやまないやっかいな映画だと思うんだけど。

 高嶺ワールドをキャッチーに言い当てるとき使わせてもらっているが、今回の山形映画祭の「琉球電影列伝」の高嶺特集のタイトルにもなっている、4つの“chi”がある。まあ最初の“chi”は血縁とか血統の“血”、次に土地の“地”、3つ目の“chi”はインテレクチュアルの“知”、そして痴呆の“痴”(笑)。で、「沖縄の血、地、知、痴、そしてChi――高嶺剛の世界」となる。

高嶺:さらに明らかにすれば、最初の“blood”と“earth”と“knowledge”はね、あれは友人の映画プロデューサーの西村隆っていう人が高嶺映画には3つの“chi”「血」「地」「知」であるっていうふうに言ったわけですよ。そこに僕はクレイジーの“痴”を後でくっつけたの(笑)。それで、もうひとつあるの。ひらがなの“ち”ってのがさ、そうすると4つのアース(earth)とかブラッド(blood)とかの理屈はもうええんじゃないと思って… ひらがなの“ち”ってかわいいしね(笑)。

仲里:『夢幻琉球・つるヘンリー』は前の4つの“chi”を含みつつ、それでいていずれにも帰属しないっていうか、固定化されない。もうひとつひらがなの“ち”のところに『つるヘンリー』はひょっとするといっちゃったのかもしれない。

 具体的に『ウンタマギルー』の内容的なものに入っていきますと、あの映画は物語として円環する構造があるが、一方、時空の境目を境界横断的に行き来しながら、例えば沖縄芝居を劇中劇として登場させたり、沖縄の民話や伝承なりを映画的に解釈し直しながら、登場人物たちは現世と他界、過去と現在をそれこそ等価なものとして生きている。ただその中で今日的な課題も書き込んでいるわけね。時代背景としては復帰前の沖縄で、オープニングで西原親方が「佐藤ニクソン共同声明で日本復帰が決まった。沖縄はまさに転換期、復帰するか、独立するか…しっかりやれ」といったような、決意表明とも問いかけともいえる言葉を吐くところがある。そういう沖縄が潜ろうとする政治の季節を背景にしながらも、必ずしもそれには絡め取られない物語の解き放ち方をしているし、役者さんたちにも自由感がある。

高嶺:私の映画の場合、大いに沖縄芸能のお世話になっています。それぞれ得意なことを映画のなかでやってもらってね。もちろん芸は芸としての楽しさがあるんだが、一方的な芸の披露ではなく、彼らの芸がたとえば、沖縄の“地”、“人”を感じさせることも大きな魅力です。役者としては、演技のなかに本人がいるとでもいおうか、無理のない沖縄人を感じさせてくれるし、沖縄語とか仕草が自然なのね。今は沖縄人が沖縄人を演じるのが流行っていますが…。照家林助さんのワタブーショー(大腹沖縄時事解説島唄漫談){ワタブー=大きなお腹}は、そのあたりを見事に対象化していると思います。林助さんのワタブーショーは映画にアレンジされているとはいえ、ほとんど映画に並行移動ね。林助さんのワタブーショーは、あらかじめ物語のなかでイメージされていましたからね。僕は小さい頃よく聞いていたんですよ。『ウンタマギルー』でそれをぜひやりたいと思ったのはほとんどひらめきです。映画のなかでワタブーショーは島唄漫談のなかに、物語の背景とか進行状況、時事解説をもりこんで一種の狂言回しみたいな役目を担ってもらったんです。ワタブーショーは映画の中にすっかり食い込んでしまっているっていう感触があってね、そのようなことって、フィクションなんだけど、幸福な出会いといおうか、映画メディアの豊穣さを感じさせるね。

 沖縄で映画を作っていてね、沖縄問題学習映画とみられるのって嫌なのね。海外での映画祭とか、東京でもややその傾向はあるが、沖縄問題の学習として映画を観ようというのがやっぱりあるわけね。僕の映画で沖縄を学習できないことはないかも知れないが…。入り方を間違うと大変になるはずだし。もちろん映画は現実の鏡であるとかね、政治とか国家とかの批評とかね、そういう様々なものを撃っていく武器みたいな、情報の提供も含めて、そういうメディア特性があるかもしれないんだけど、僕の場合には…そういうことと同じような重要さでもって、沖縄で映画が自由に作られるべきだしね。これは正論だよ。でも沖縄にはそういう学習したくなることがいっぱいありますから。マスメディアはどうしても中央と地方という関係で捉えがちなのね、中央ではフィクションが成立するけど、地方はフィクションを発信するというより、情報提供の場所ね。だけど僕は沖縄の島でこそ、様々な問題を抱えながら…確かに日本にある米軍基地の75%が沖縄に集中していることは絶望的なぐらいに憤りを感じます。まあ沖縄にも75%を望む人はいますが。そういったなかで、自分の声で、劇映画、ドキュメンタリー、個人映画など、映画の種類を問わず、願わくば勝手気ままに新しい映画をやっていきたいです。

8. 『ウンタマギルー』・沖縄の役者・沖縄語のインターナショナル・日本復帰

仲里:沖縄芝居の「ウンタマギルー」という演目があって、それを「劇中劇」として引用することによって、物語がもうひとつの時間を獲得していく。そうなると、現実が芝居という架空の世界、もちろん映画自体もフィクションであるけど、現実が夢の中に溶け込み、同時に夢のほうも現実に照らし返されるというような構造になるだろうと思う。

 それと、あの中でもうひとつ特徴的なのは、音楽の使い方。沖縄の民謡がまずあって、それとコンディショングリーンというパワフルで個性的なロッカーも役者として使い音楽も使ったり、それから兼島麗子さんっていうオペラ歌手を登場させたりってことで、いくつもの音のそれこそ無国籍的な絡み合いがある。『ウンタマギルー』だけではないんだけど、ああいうのはどういうところから? もちろんシナリオの段階ですでに作り上げられていると思うけど。

高嶺:映画の大部分のイメージはシナリオの時点で盛り込んでいるつもりですけど、ほとんどのキャスティングはシナリオと並行してやったのね。うーむ、もしかしたら先にキャスティングがされていて、この人で何ができるのかとか、そのようなこともあったかも知れない。コンディショングリーンのカッチャンとエディはやっぱりルックスが素晴らしいし、職業的な映画俳優じゃないですけど、かつてベトナム戦争の頃からコザ(現沖縄市)のBC通りで米兵とロック格闘して鍛えられたひと達ですからね。まったく映画負け、キャメラ負けしないね。エディの演技もなかなかのものだよ。思った以上にすごかったね。小林薫を食ったところもあったんじゃないかな。でも小林薫もエディに男気を感じていたし、互いにそういう信頼関係はあったと思うよ。

 ウンタマギルーは超能力を生かして沖縄独立党ゲリラ隊へ武器調達の支援を行なうという設定があるんですけど、そこでゲリラ隊は「インターナショナル」を沖縄語で唄って気勢を上げるということでね。あれは日本語の歌詞を照屋林助さんに沖縄語に直してもらって、リンケンのサンシン入りでゲリラ達が唄ったわけだが、91年だったかな、ニューヨークのロバート・フラハティ フィルムセミナーってのに行ったんですけど、そこに 「インターナショナル」を研究している人がいましてですね。その人が沖縄語の「インターナショナル」を初めて聞いたってことで、急遽「インターナショナル」映画というものに出演させられまして、私はひまわり畑のなかで「インター」を唄ったりしたんだが、あれはいったい何だったのかねぇ。

 思うに、沖縄の復帰前の学生運動とかで沖縄語で「インター」を歌うことがどうしてなかったのか。勇気かなぁ…があればね、僕もうちょっと変わったんじゃないかっていう感じがするのね。反日本…反日本復帰とかを標榜しながらも、日本語で物事を考えてしまうっていうか…。はたして当時沖縄語でマルクスを考えた人がいたかどうか。そしてその意義はとなると…。

仲里:そうだね。「インターナショナル」をウチナーグチで歌うあのシーンは、非常に想像力を喚起させたね。『ウンタマギルー』は、そういった意味では沖縄の状況に対する、映画という想像力によって批評していった。映画の想像力によって現実が食われるっていうことが、ありうるということを見せつけた。それが映画の力だろうと思うんだが、沖縄語インターナショナルを歌うワンシーンだけでパッと現実の裂け目が開け、観る者はハッとさせられる。

 これ高嶺さんに以前にも話したことなんだけど、ちょうど『ウンタマギルー』が劇場公開されてる時で、たまたま乗ったバスの中でオバー連中が『ウンタマギルー』の噂をしていて、『ウンタマギルー』がやらせだっていうわけです(笑)。要するにあれは本物の「ウンタマギルー」じゃない、芝居でやる「ウンタマギルー」じゃないと。あれはユクサー(嘘つき)だって、『ウンタマギルー』を観たオバーがもう一人のオバーに不満をぶちまけてるわけ。これを聞いて笑ってしまった。ここでどういうことが起こっているかというと、現実が想像力によって食われてしまったということだね。オバーの感想としてはそれがむしろまっとうなんだろうが、高嶺さんの映画には“ファンタジー”とか“オキナワンドリーム”とひと括りできないような現実の根っこのところを挑発していくところがあるんだよね。

高嶺:これはもう殆どの作品で、僕は割と気にしていることなんだけど、'72年の日本復帰というのがあるわけね。僕の映画は殆ど時代設定は復帰前なんですよ、例えば60年代後半であるとかね。僕の中では今もって、日本復帰っていうのが消化されていないっていうのかな、了解できていないわけよ。あの頃は様々な闘争があったんですけど、結局日本復帰を経て、急速に日本に併合されていくっていうかね、日本化されていくっていうことに対して、沖縄人というのがそれに対して具体的な反応を明確に積極的に果たしたかというと、75%という数字を前にするとその辺は疑問だね。もちろん沖縄人で闘っている人はいます。思うに、米軍基地はアメリカや日本政府から押しつけられているにしてもね、それを受け入れているというか、それをまあ結果的には容認しているのは“沖縄人”だと思うしね、だから…あの調印式だけで、僕は日本人だという意識っていうのがね、あまり持てないわけですよ。

9. 『夢幻琉球・つるヘンリー』・ガジュマルのヒゲ

仲里:『夢幻琉球・つるヘンリー』にしても日本復帰以前の、沖縄がまだ日本じゃなかったような時代を背景にしている。まあ『つるヘンリー』の場合は『ウンタマギルー』の世界とはまた違う、もっと混沌した状態で、物語の迷路に入っていくようなところがあるが、『ウンタマギルー』と『つるヘンリー』の違いっていうのは、端的に言えば、あるとしたらどこなのかな?

高嶺:そうね…『ウンタマギルー』とか『パラダイスビュー』が風景の深部で魑魅魍魎のようなものをさぐる試みだとしたら、『つるヘンリー』は縦横無尽に、現実と劇中劇の迷路をさ迷う親子の物語です。ただ作者としては、そんなに隔たりがあるとは思わないね。例えば時間が循環していくっていうことだとか。『ウンタマギルー』ではこれがもっとはっきりした形になっていて、輪廻転生っていうこともあるんだけど、要するに頭と尻がメビウスの輪のようにねじれて、繋がり、ぐるぐる回っていくっていうことね。なんていうか沖縄ってそういう世相っていうかね、歴史をみても、同じことやっているんじゃないかっていう気がするわけね。映画の物語もいろいろなものが、必ずしも統一されていなくて、整理不可能な部分は、あえて整理していないね。

 僕は、映画の中で映画論をやっているつもりはないよ。例えば『ウンタマギルー』っていう映画の中に「ウンタマギルー」という沖縄芝居を取り込むっていうことが、『ウンタマギルー』という映画を語るとか、評論するとかというのではなくて、見せ場として、ひとつのエピソードとしてやってるわけです。『ウンタマギルー』という映画のなかで、「ウンタマギルー」っていう芝居があるから、ウンタマギルーたちはワシ等もちょっと出てみようかっていう感じで、たまたまおもしろ半分で出たら、それが命取りになって、西原親方に槍で刺されて一応死んだふうになってしまう。林助さんがウンタマギルーの最期を看取るように抱っこしてあげていたら、林助さんはウンタマギルーの割れた頭から「光っている脳みそ」を発見(笑)…そしたらウンタマギルーは妙な気分になって、起き上がり槍が刺さったままの頭を抱えて、トコトコ歩いて暗闇に消えていくわけです。そのようなウンタマギルーは名前が変わって、別の場所に登場。時空間がずらされた格好の構造なんですけど、ああいうのは映画の物語としては、さほど珍しいことではないんです。作者としては、フィクションとはいえ、沖縄ではそのようなことが絵空事ではないような気がして…もちろん現実では嘘だけど、願わくば、その嘘は映画を拒否するものとしてではなく、映画の中で罷り通るスクリーンの現実とでもいおうか…。

 『つるヘンリー』は僕にとって、とても刺激的な作品だったよ。自分でもときどき話の筋を忘れてしまうぐらいでね、複数の話のラインを絡ませてしまったのが原因かな…。沖縄の言葉でマチブイってのがあるでしょう、マチブイってのは「もつれ」のことです。ガジュマルの木ね、幹がごつごつした大木、あの木の枝から垂れ下っているヒゲは木根というらしいが、俺の髪みたいにマチブっているわけ。あれは、どんどん成長して垂れ下がっていくとひとつの幹になるのね。だからあれは単にもつれたヒゲの束じゃなくて、そのうち木を支えるひとつの幹になるんです。まあこれはちょっとこじつけかもしれないんだけど…。私としては解きほぐせないマチブイでもいいんですが。

 物語を混沌とさせていくっていうか、マチブイの世界に誘い込んでいくというのが、狙いとしてあったんだけど。沖縄の現状というか、普通の…我々でもそういう混沌とした何かを抱えながら毎日を過ごしたりしているんでね、特に沖縄の世相はね、マチブイそのものじゃないかっていうふうに思ってしょうがないね。劇中劇を積極的に取り込んでいってね、こう…自分達が拾ったシナリオの中に自分達が降りていって戻れなくなったあの怖さっていうかな…例えば役者さんがね、役にはまってしまってなかなか抜け出せなくなったっていう話を聞いたりするんだけど、もしかしたらそれに近いところがあるかもしれないね。ただこれは役者さん一人、個人の問題じゃなくて、親子二人がそういう世界に入っていってなかなか抜け出せないってことは、なにかしら…すごく怖いことだなって感じがあってさ、まあ時々は出たり入ったりするんだけど、そういうのを絡ませながら劇中劇っていう入れ子形式でやったんですけど。『夢幻琉球・つるヘンリー』は大城美佐子さんのワンマンショー映画だったって感じがするね。女嘉手苅と称される大城美佐子がエレファントゲージ前で唄う『白雲節』は絶品だね。出演者からインスパイアされると、とても嬉しい。はじめての役者さんと組むということがあればそれはそれなりにやるかもしれないけど、やっぱりある程度知った人というか、ぜひこの人という魅力的な役者さんと組みたいものだね。

10. 「嘉手苅林昌」の大きなくしゃみ

仲里:あとは、『嘉手苅林昌 唄と語り』を最後にいきますか。

高嶺:僕の映画は、特に劇映画になると、殆ど沖縄芸能の方々…まあ東京の役者さんも何人か主役級で出演しましたけど。それを迎えるのは沖縄の芸能人なんです。沖縄には映画専門の役者さんはいないので、沖縄芝居、沖縄の島唄歌手、民謡歌手っていうかな。照家林助さんの場合は沖縄漫談。宮里栄弘さんという方は彼が作った鎌を使った創作空手ですよね。それにコザのハードロッカー・コンディショングリーン、このような沖縄芸能が映画の中に注ぎ込まれているっていうことが、映像の具体性というか、映画を彩ってくれている…。だから沖縄の素顔というか、沖縄人を見たっていう感じがするから、沖縄で撮っているという実感があるんだ。で、沖縄に住んでる他の人は沖縄人じゃないのかって…どこか違うんですよ。今、沖縄人は沖縄人を演じないと沖縄人になれない時代ですからね…。沖縄の芸人さんって、そういうことしなくても沖縄人なのね。それは素晴らしいことだと思うわけ。それにしても、日本復帰の為のあの沖縄語排斥運動の苦々しさよ。

 嘉手苅林昌さんにも幾つかのいくつかの映画に出てもらいました。1994年に嘉手苅のビデオを作ったんですけど、これは映画をつくることを口実にして、嘉手刈さんと直に接したかったっていうのがあるのね。10日間ぐらい僕は嘉手苅さんに接して、嘉手苅さんと同じ空気が吸えたことは、僕にとってとてもハッピーなことだった。島唄の記録も、スタジオでやればいい音が録れるかもしれんけど、そうじゃなくて、竹富島のオープンエアーの中で唄ってもらってね。だから音質的には微かに鳥や風の音が入っているんだけど、それは雑音とかノイズという否定的な音ではなく、嘉手苅林昌がこの時代の中に生きていたということを感じさせてくれる空気かなって思うんですよね。あとは語りですけど、語りというよりはもう…嘉手苅さんはトマトジュース割のビールが好きでね。それでもう…それが入ってくると、もうへべれけのぐにゃぐにゃした爺さんになっちゃうんだけど…そのように変化していく様に、さりげない味があってね。嘉手苅さんの言葉って嘉手苅語なんですよ。私にはなかなか理解できなくて、通訳が必要だったのね。嘉手苅語は唐突な飛躍、省略、自分の身内話にいくしね、固有名詞だって当然のごとく出てきたりね。様々なものがマチブイのようにいっぺんに出てくるから、それがわかる人じゃないと、なかなか話の芯っていうのが掴めないんですよね。だからそういう話を記録しておくのも、楽しいなと思ってね。いつも3台のキャメラがスタンバイしていて、カメラマンの方にも自由にやってもらってね。嘉手刈さんはキャメラ負けしないというか、撮影を無視する人だからね、嘉手苅さんが撮影の最後にやったのはくしゃみね、大きなくしゃみを一発やって終りでした(笑)。僕は嘉手苅さんの島唄の偉大さを語れる自信はないが、体のどこを押しても島唄が出てくるっていうかね、島唄が体にぎっしりつまっているようで、島唄のマブイの塊とでもいうのかな、ルックスもルー・リードより格好よかったしね。ああいう沖縄の空気感覚を自然と身につけた芸能人っていうのはねぇ…嘉手苅林昌はもう亡くなりましたけど。僕は嘉手苅林昌を撮れて本当によかったと思います。

11. 連鎖劇芝居をつくりたい

 連鎖劇ってあるでしょう。『夢幻琉球・つるヘンリー』でもちょっとやりましたよね。フィルムと舞台芝居のドッキング劇で、たとえば舞台で芝居やっていて、お姫様かなんか悪者に魘われ万事休すの時、助けに行く侍が馬で疾走するシーンだけスクリーンがスーッっと降りてきて、フィルムが映されるわけ。音楽や効果音は舞台の袖で地謡の人がライブで奏でるのね。連鎖劇芝居をやってみたいと思っているんです。あれをやった最後の役者さんは平良進さんあたりの世代でしょう? 観たのは僕らの世代までかな。連鎖劇そのものは戦前に東京から来ているの。明治ぐらいかな。だけどあれが沖縄で戦後流行ったのは、米軍と関係があるんだよね。勝ち戦をやっている国は、報道班が必ずくっついてくるでしょ。カメラとか現像機ごと持ってくるわけ。それで米軍の機材っていうのは一定の時期がくると民間に払い下げるの。その中にカメラとかなんとか混じっているわけ。…というように米軍のもたらした機材が、一時期映画を作るっていうのを残してくれたということになるし…。僕の『オキナワン チルダイ』も米軍の放出機材でつくったんです。ダビング用のシンクロナスモーターの映写機が放出屋の倉庫に無造作に転がっていてね。皮肉なことに戦後沖縄芝居を保護したのは米軍なんですよね。沖縄語でなされる沖縄芝居は沖縄の塊のようなものですから。当時は教職員が日本復帰運動をしていて、沖縄語禁止令を出し、沖縄的なものをことごとく抹殺しょうとしていましたからね、沖縄芝居はとんでもないものだったんです。逆に米軍は沖縄の日本復帰に反対だから、沖縄芝居の役者さんたちも保護されるわけ。沖縄芝居の役者さんたちは一時期は公務員だったんですよね。もちろん米軍は沖縄統治戦略のひとつとして映画を利用したが、連鎖劇と「オキナワン チルダイ」も残してくれたのね。

仲里:そうそう。

12. 映画が映画を生む

高嶺:僕の映画は沖縄芸能人のお世話になりっぱなしなので、沖縄の役者さんとか、芸人さんの記録をライフワークとしてやりたいね。仲里さんともいくつか企画を考えて、いいとこまで行ったんだがね。

 時々思うに、残りの人生を映画の本数で勘定したりすると、とくに劇映画つくるのに10年もかけていたんじゃ、あと1本か2本かと思うと…ええっと思ってしまうよ。20代の頃は僕の映画人生ってのは永遠だと思ってたわけ。僕はもしかしたらフェリーニになるんじゃないかって思ってたわけね(笑)。とんでもないね。今、企画とかシナリオは何本か持っているが、僕がこれまでに撮った映画は…まあ自主映画入れたら2桁あったかなって感じなんだけど。映画を撮らなかった人生を空想してもしょうがないしね。これからは映画が映画を生んでいくことを期待しながら映画に溺れるつもりです。

(2003年5月25日、京都にて)

 


仲里効 Nakazato Isao

1947年生まれ。『EDGE』編集長。活字と映像(写真、映画)から沖縄の境界性、エッジとしての沖縄を試みる。『オキナワン・ビート』(ボーダーインク社)、『ラウンド・ボーダー』(APO)、『沖縄の記憶/日本の歴史』(共著、未来社)、映画『夢幻琉球・つるヘンリー』(共同脚本、高嶺剛監督)、映像展「丘の上のイエスタデイズ」等。2003年山形国際ドキュメンタリー映画祭「琉球電影列伝/境界のワンダーランド」コーディネーター。

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