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韓国におけるドキュメンタリー映画

卜煥模(ポク・ファンモ)


序―韓国ドキュメンタリー映画の時代区分

 ドキュメンタリー映画の機能を風物の記録と再現、ニュース・宣伝、及び社会参加という機能に分けて見るとき、韓国のドキュメンタリー映画80年史はこの三つの機能でその歴史を確然と区分できる点が興味深い。

 韓国でドキュメンタリー映画が初めて製作・上映されたのは、主に日帝時代初期の1919年のことだ。その頃の韓国のドキュメンタリー映画は、主に風物を記録して紹介するものだった。動く映像媒体が与えるリアルな再現の面 白さは、当時抑圧されていた民衆が享受できる唯一の大衆娯楽だった。

 1945年に日本の植民地支配から解放されると同時に、強大国に南北に分断され、ついには韓国戦争という同族相争う悲劇を生んでしまった。1950年から三年間の韓国戦争が終焉すると、北朝鮮の共産政権を牽制するという理由から、李承晩、朴正煕と続く強力な独裁政権が出現して、韓国の民衆はまたもや40年近くもの政治弾圧に苦しまねばならなかった。この時期の韓国のドキュメンタリー映画は、戦争督励用のニュース映画と独裁政権の宣伝用プロパガンダ映画ばかりが多く製作され、映画館で義務的に上映されて独裁政権維持に利用された。

 1979年末、独裁政権をふるっていた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が殺害され、30年にわたる独裁政治が終わるかに見えた。〈ソウルの春〉だと称えつつ民主主義が花咲くことを期待した民衆は、翌年またもや別 の軍事政権が登場し、弾圧を受けざるを得なくなってしまった。韓国の春が水の泡になると、民主主義を渇望していた民衆は、90年代初めまで続く軍事政権に組織的に反発するようになった。若い映画人たちはドュメンタリー映画を通 じて、軍事政権下で抑圧される民衆たちの代弁をするようになった。大学街の若い映画学徒たちが中心となり、人権・労働・教育問題など当時の政府にとって敏感な事案を、自主製作方式のドキュメンタリー映画に製作して大学街の小劇場で上映したのだ。

 独裁政権に利用されてきた韓国のドキュメンタリー映画は、この時から政治・社会を批判する社会参加的機能を備え始めたのだ。この分野のドキュメンタリー映画は現在、韓国での映画製作自由化の風とともに重要なジャンルとして発展し続けている。

1. 韓国の初期風物ドキュメンタリー映画

 欧米映画が活動写真という名で初めて一般大衆に公開されたのは、1903年のことだ。当時の日刊新聞に掲載された広告内容を見ると、欧米各国の風物を30〜50フィート程度の短いフィルムに収めた短編記録映画だったことが分かる。ソウルに駐在していた外国の商社が、自社製品の販売促進のために、ロンドン、パリ、ニューヨークなどの大都市の風物をとらえたフィルムを持ち込み、一般 大衆に公開したものだ。

 活動写真が人気の高い大衆娯楽としての位置をつかむと、韓国人による映画製作も模索されるようになった。日本の地方巡回新派劇団だった《瀬戸内海》が1918年にソウルで連鎖活動写 真劇を上演して成功を収めたのを契機に、翌年には韓国でも連鎖劇『義理的仇討』を製作した。『義理的仇討』を撮影した朴承弼(パク・スンピル)らの製作陣は、ソウル市内や近郊の風物を記録した『京城全市の景』と『京城市郊外全景』という風物映画も同時に製作した。この『京城全市の景』は『義理的仇討』が団成社で上映された1919年10月27日に同時公開され、韓国最初のドキュメンタリー映画として記録されることになった。

 『義理的仇討』と『京城全市の景』で興行的に成功し、製作技術も蓄積した当時の映画人たちは、連鎖劇とドキュメンタリー映画を引き続き製作した。

 『金剛山大活動』という、金剛山一帯を中心に有名な観光名勝地の風景を撮影した35mm四巻のドキュメンタリー映画が製作され、高宗(コジョン)皇帝の国葬光景を収録したドキュメンタリー映画『高宗因山実景』も1919年に製作された。

 この他にも東亜日報社が主催した、第一回全朝鮮女子庭球大会の実況を撮影した『全鮮女子庭球大会』(1924)、ソウル一帯の大洪水を記録した『漢江大洪水』(1925)、純宗(スンジョン)皇帝の国葬光景を撮影した『昌徳宮純宗皇帝廟儀』(1928)などが製作された。

 初期の韓国ドキュメンタリー映画は、このようにソウルを中心として、風物や歴史的事件を収録して再現する、単純な記録映画の域を脱することができなかった。短編ではあるものの、たゆまずに製作された韓国の初期ドキュメンタリー映画は、1926年に朝鮮総督府令として発布された活動写 真検閲規則により、日帝から解放される1945年まで製作がほとんど中断されてしまった。

2. ニュース、宣伝映画としての
韓国のドキュメンタリー映画

 韓国は1945年に日帝からの解放後、アメリカ、ソ連などの強大国が参加したポツダム宣言により南北に分断され、38度線の南は米軍政権下に置かれることになった。韓国に駐屯した在朝米国陸軍司令部軍政庁朝鮮関係報道部は、1945年9月に《朝鮮映画建設本部》を設置し、韓国人にニュース映画を製作させた。

 映画監督の尹白南(ユン・ペンナム)を委員長に、李明雨(イ・ミョンウ)、金学成(キム・ハクソン)、金成春(キム・ソンチュン)など、多くの映画人の参加した朝鮮映画建設本部では、韓国各都市に撮影チームを随時派遣して「解放ニュース」というタイトルのニュース映画を製作し、これが解放後の映画活動の始発点となった。

 同じ時期に韓国の左翼系列では《朝鮮映画同盟》が組織され、左翼系列の活動をニュース映画として記録したりした。

 一方、在韓米陸軍 502部隊は、1948年から『前進大韓譜』や『戦友』のようなドキュメンタリー映画を作って、毎月二回づつ劇場で上映していた。1950年に韓国戦争が勃発すると 502部隊は「リバティー・ニュース」を製作するようになり、後にドキュメンタリー映画を専門的に作る《国立映画製作所》の産みの親となった。

 ニュース映画が活発に作られるようになるとともに、韓国の為政者による宣伝用の記録映画も製作されるようになった。35mm六巻からなる『民族の絶叫』(1948)は、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領の演説と業績を記録した映画で、ソウルの国際(クッチェ)劇場で公開された。『民族の絶叫』が最初となった大統領の宣伝用記録映画は、李承晩大統領の20年間にわたる長期執権期間中ばかりでなく、最近までも製作され続け、大統領の偉業を国民に知らせる手段として利用された。

 1948年8月15日、南に大韓民国単独政権が樹立して南北が完全に分断され、韓半島では共産主義と反共主義のイデオロギーが鋭く対立するようになった。この時から韓国映画では共産主義に反対する〈反共記録映画〉が重要なジャンルとしての位 置を占めるようになった。

 1948年10月、韓半島南端都市の麗水(ヨース)に駐屯していた韓国軍で反乱事件が起きた。左翼思想をもつ将校が人民を解放して共産化しようと、部下40数名とともに反乱を起こし、一晩のうちに麗水を完全に掌握、左翼系の学生たちと合流してその勢力を急速に拡大していった。政府軍によって鎮圧はされたものの、イデオロギーに起因するこの事件で、数多くの国民が命を失った。国防部では金学成(キム・ハクソン)というカメラマンに現地の惨状を収録させた。35mm二巻からなる『麗水・順天叛乱事件』は同年11月に、共産主義の蛮行を広く知らせるという目的からソウルの首都(スト)、国際劇場などで封切られた。

 同じ頃、〈啓蒙映画協会〉では、尹逢春(ユン・ボンチュン)監督に『崩れた38度線』(1949)という映画を作らせた。ソ連に抑留された後、日本に帰還する日本人とのインタビューを通 して、共産国家の蛮行と悲惨な生活像を暴露するドキュメンタリー映画で、これもまた反共産思想を鼓吹する目的を持っていた。

 『民族の絶叫』から始まった大統領宣伝用記録映画が40数年の間、韓国の記録映画の重要なジャンルとなってきたように、『麗水・順天叛乱事件』から始まった〈反共記録映画〉も最近まで数多く製作され、韓国民衆に対する反共産主義啓蒙用として利用されてきた。解放と戦争を経つつ、朝鮮映画建設本部、米軍部隊、国防部などで製作されたニュース宣伝用記録映画は、1960年代に入って国立映画製作所でつくられるようになった。軍事クーデターにより政権を掌握した朴正煕軍事政権は国立映画製作所を設置して、全ての記録映画製作を担当させ、許可のない記録映画の製作を禁止した。

 軍事政府の傘下機関である国立映画製作所は〈文化映画〉と称して、当時の朴正煕大統領の業績を記録したり、政府の施策を広報するための「大韓ニュース」という映画館用のニュース映画も製作した。政府はドキュメンタリー映画の製作を統制したばかりでなく、全ての映画館で劇映画の上映前に「大韓ニュース」と〈文化映画〉を上映することを義務づけた。

 この時から朴正煕、全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)と30年近くにわたって続いた軍事政権により、韓国のドキュメンタリー映画はその製作と上映を徹底的に統制され、「大韓ニュース」と〈文化映画〉という名の政権維持のための道具に転落してしまった。

3. 自主製作(独立)映画グループの
社会参加的ドキュメンタリー映画

 1980年代初めに〈ソウルの春〉とともに展開された韓国民衆の民主化闘争の中で、ドキュメンタリー映画の社会的参加の機能を意識した大学街の若者たちが、1982年3月に《ソウル映画集団》という映画団体を結成した。1970年代後半からフランス文化院やドイツ文化院などで映画研究の集まりを開いていた彼らは、ドキュメンタリー映画に対する新たなる熱情を抱き始めた。劣悪な環境の中でも8mm、16mmなどの小型短編映画を作り、〈民衆映画〉に関する研究も活発に行なった。映画は民衆が主題となる芸術であり、民衆の側に立って弾圧者らに対抗するべきだという、彼らの〈民衆映画〉の概念は、相次いで結成される「独立映画」という、日本でいう自主映画製作グループの精神的土台となった。

 《ソウル映画集団》の代表的作品には『水利税』(1984/8mm/35分)、『その夏』(1984/8mm/35分)がある。『水利税』は全羅南道の求禮(クレ)で起きた、農民の水税現物納付闘争現場で、直接農民たちにインタビューしたものと事件の記録とで構成されている。『その夏』は労働者を始めとする疎外階層の人々が、韓国社会の矛盾構造の中で挫折の生を生きていいく姿を描いた作品だ。『水利税』と『その夏』は農民と労働者の生活を通 して現実を批判する映画で、既存のドキュメンタリー映画では取り扱えなかった禁忌事項の題材だった。

 軍事政権がドキュメンタリー映画の製作と上映の全てを管理する状況下で、彼らのドキュメンタリー映画を通 じた社会改革活動は実に勇気ある闘争だった。

 《ソウル映画集団》の社会批判的映画活動に刺激を受け、同じ頃に大学生を中心とした《映画広場ウリ》、《開かれた映画》などの映画製作グループが結成され、小型短編映画祭を開催するなど、自主映画製作に拍車がかかった。

 1986年、《ソウル映画集団》はそれまで民衆の視点から社会参加的映画運動をしていた小規模映画製作グループをまとめて、《ソウル映像集団》を創立した。

 《ソウル映像集団》の創立理念を見ると、彼らの映画に対する視点を知ることができる。そこでは「映画運動は穀物の低価格と政策に苦しむ農民、劣悪な条件の下で働く労働者、深刻化する貧富の格差により拡散する低所得者らの側に立って、民衆生活権を確保する努力をしなければならず、それには反民主的、反民族的要素の排除のために一翼を担うようにしなければならない」と主張されている。ソウル映像集団のこのような創立理念は、以後政治運動が政治・社会など諸般 の現実に対する抵抗的参加の方向に向かうということを意味している。実際に彼らは、労働者・農民・低所得者たちの生活現場をリアルに記録して公開した。

 ソウル映像集団のこうした映画運動は当然、軍事政権勢力との摩擦を惹起し、ソウル映像集団の作品ばかりでなく、自主製作映画という形態で製作された映画は、政府の強力な弾圧の対象となった。

 『青い鳥』(1986/8mm/40分)という作品は、その最初の例と言えよう。ソウル映像集団が1986年に作った『青い鳥』は、農民たちの苦しい生活と農家経済の破綻を描いた作品だ。農民運動組織の要求で製作され、農民の現実と闘争を記録し、農村と大学を中心に上映された。政府派この作品を農民扇動映画と規定し、公演倫理委員会の事前審議なく不法に上映されたという理由から、製作スタッフを逮捕した。

 この事件で自主製作グループの映画活動は、一時停滞期に陥るしかなかった。

 1980年の〈ソウルの春〉に続き、1987年は韓国の民主主義発展のもう一つの飛躍的な転換期だった。大学生や労働者を中心にした民主化運動は六月抗争につながり、当時の全斗煥政権を克服させて〈六・二九宣言〉という民主化の土台を作り出した。

 民主化の熱気の中で、韓国の自主映画製作も学生運動圏と連携して再び活気を得た。また、当時大衆化され始めたビデオは、零細な自主映画製作スタッフたちにとって、便利で経済的な媒体として脚光を浴びた。若い映画人たちはビデオカメラを携え、民衆化運動の中心部から社会批判をしながら、政権との闘争の記録をリアルに作り出すことができた。この自主映画製作活動は、韓国のドキュメンタリー映画を発展させる契機となり、その当時のスタッフたちは現在もドキュメンタリー映画の製作現場作品を作り続けている。

 1988年にビデオで製作された金東元(キム・ドンウォン)監督の『上渓洞(サンゲドン)オリンピック』は、現在でも独立映画ドキュメンタリー映画の典型的な作品とされている。

 ソウルの上渓洞という所に多くの低所得者が、古くから無許可の家を建てて住んでいた。ソウル市はそこに高層アパートを建設するために、撤去班員を投入して居住民を無慈悲に追い出した。行き場のない貧しい居住者たちは、市が派遣した撤去班員に抵抗し、自分たちの住む権利を主張した。

 金東元監督は撤去された家々と破壊された家具を記録するために、ビデオカメラを携えて上渓洞の撤去現場に入った。住民たちと生活をともにしながら、彼らの苦痛を収録したのだ。監督が居住民の立場になって彼らの視点から製作した『上渓洞オリンピック』は、ドキュメンタリー映画の社会参加的機能から見た時、その典型的な作品と言えるだろう。

 大都市の低所得者層にフォーカスを合わせた『上渓洞オリンピック』に続き、労働者闘争を記録したドキュメンタリー映画も多く製作された。

 1988年に設立された《民族文化研究所》は〈民族映画〉という概念を取り上げ、自分たちが製作したいドキュメンタリー映画の理念と方法論をはっきりと提示した。彼らは〈民族映画〉の製作活動は、労働者階級が主導する民族主導に重点を置かねばならず、映画の主題は労働者の解放のための闘争と、自主・民主・統一を勝ち取るものでなければならないと力説した。

 韓国の民主化の熱気の中で、労働者に対する不当な待遇を知らせ、彼らの権利を保護するために《民族文化研究所》では、ビデオをかついで労働者闘争現場の中心部に立ち、数多くのドキュメンタリー映画を製作した。

 代表作としては『労働悪法改善のための全国労働者大会』(1988/ビデオ/35分)、『チェ・ユンボム烈士−また生まれても民主労組を』(1989/ビデオ/50分)、『カンスニ−シュア・プロダクツ労働者』(1989/ビデオ/40分)などがある。このうち『カンスニ…』はスタッフがシュア・プロダクツ労働者たちによる偽装ストライキ取り消しのための闘争に一緒に参加して、闘争過程をドキュメンタリー映画にした。『上渓洞オリンピック』と同じく、製作スタッフが労働者と一ヶ月にわたって生活をともにしながら、共同運命的な立場から製作した映画であるため、現場性とリアリティが優れたドキュメンタリー映画との評価を受けている。

 1989年、労働運動の拡散とともに全国労働者大会が開かれ、韓国における労働運動は小規模拡散的でなく連帯闘争の性格を持つようになった。全国的な規模の労働連帯闘争に合わせて、労働問題に関心を示していた若い映画人たちもドキュメンタリー映画製作を労働運動の延長上に置くようになった。労働運動との連帯を構想していた幾つかの映画団体が集まり、《労働者ニュース製作団》を結成し、ドキュメンタリー映画を通 じた労働運動が本格化していった。

 《労働者ニュース製作団》のスタッフたちは現場で働く労働者たちが労働運動の主体となる彼らを教育し、彼らの活動を宣伝することをドキュメンタリー映画制作の第一の目標とした。また、スタッフたちは労働運動組織と結合して、労働現場で自らも働きながら、現場の姿をニュース形態に構成して「労働者ニュース」という現場ドキュメンタリーを製作した。

 実際に活動している労働運動組織と連帯して作った「労働者ニュース」は組織網に乗って配給され、全国の労働者に向けて上映された。

 1980年代後半、このように労働現場で労働者とともにドキュメンタリーを企画・製作・配給した《民族映画研究所》と《労働者ニュース製作団》は、韓国の社会参加的ドキュメンタリー映画製作における発展の重要な契機になったと言えよう。

 1980年代後半のドキュメンタリー映画製作ブームとともに、女性と児童の問題をドキュメンタリー映画として製作しようとするグループが登場した。

 1989年大学街や映画現場で活動していた女性映画人たちが中心になり、《バリト》という映画製作グループが結成された。

 『小さい草にも名がある』(1990/16mm/42分)は《バリト》が初めて発表した作品で、OLの問題点を扱った作品だ。二部構成のこの作品は、一部では働く既婚女性が一生の職場を作っていくことに重点を置き、二部では働く女性たちが労働組合を作っていく家庭を描きつつ、女性の勤労条件の問題点を剥き出しにしている。

 《バリト》は1990年に『私たちの子供たち』(山形映画祭 '91で上映)をビデオで製作し、児童問題にも関心を向けた。《バリト》の創立メンバーのうち、ビョン・ヨンジュ 、洪孝叔(ホン・ヒョスク)、洪亨淑(ホン・ヒョンスク)といった監督は、現在もドキュメンタリー映画専門製作会社を作り、女性・児童問題や教育問題を扱う代表的なドキュメンタリー映画監督となっている。

 1980年代初めから韓国最初の映画運動を組織的に展開してきた《ソウル映像集団》は、1990年に進歩的なドキュメンタリー映画製作専門団体として新しく出発した。住宅・労働・環境・教育など、全般 的な社会問題をテーマとし、企画から配給まで、各テーマと関連する社会団体と手をつないで活動し、《労働者ニュース製作団》のように、より民衆的な視点からドキュメンタリー映画を製作しようと努力した。

 住宅問題を扱った『生活の場、闘争の場』(1995/ビデオ−洪亨淑)、現代(ヒョンデ)精工の労働闘争を描いた『54日、その夏の記録』(1993/ビデオ−洪孝叔)、教育問題を扱った『村の新しい学校』(1995)(山形映画祭95で上映)などが、新しい《ソウル映像集団》の代表作だ。このうち洪亨淑監督が演出した『村の新しい学校』は1996年に韓国で初めて開かれたドキュメンタリー映画祭である《第一回ソウル・ドキュメンタリー映画祭》で最優秀賞を受賞している。

 1993年12月、京畿道加平郡ドゥミル里という村の初等学校の分校が、政府の農村漁村小規模学校統廃合で廃校になると、ドゥミル里の住民などが廃校処分取り消しを要求して法廷闘争をした。洪亨淑監督は六ヶ月間その村に住みながら、住民たちの苦痛を記録した。人為的なナレーションやBGMを極力自制し、監督の主観を最少化して、住民たちの闘争を客観的な立場から描写 した。洪監督はこの作品を通じて、ドゥミル里村ばかりでなく韓国の根本的な教育政策に対して批判を投じている。

 《ソウル映像集団》に続き、1991年に映像を通じて社会変革運動に賛同するという趣旨で《青い映像》という進歩的なドキュメンタリー映画製作団体が結成された。『我々は戦士ではない』(1995/ビデオ−朴起復=パク・キボク)、『分断を越えた人々』(1995/ビデオ−金兌鎰=キム・テイル)、『お母さんの紫色のハンカチ』(1996/ビデオ−金兌鎰)など、今までに、20数編の作品を通 じて南北統一問題を始めとし、労働・貧民・環境・売春など、様々な社会問題を取り上げた。『我々は戦士ではない』は浮浪者問題を初めて取り上げ、ドキュメンタリー映画の題材の多様さを示してみせた。

 《青い映像》のスタッフとして加わったビョン・ヨンジュ監督は『アジアの女として』(1993/ビデオ)(山形映画祭93で上映)を製作し、韓国協会女性連合会主催により試写 会を開いた。女性スタッフたちにより作られたこの作品は、国際売春、特にアジア地域で様々な形態で行われている売買春を集中的に扱った56分のビデオ・ドキュメンタリー映画だ。

 記録映画製作所《ボイム》は1993年7月にビョン・ヨンジュ監督が『ナヌムの家』を製作するために設立されたドキュメンタリー映画製作専門会社だ。『ナヌムの家』は第二次世界大戦当時、日本軍により従軍慰安婦として駆り出された韓国の女性たちを題材とした作品だ。すでに70歳近くなった登場人物の現在と話は、戦争が女性たちにどれほど大きな被害を加えたかを訴えている。

 『ナヌムの家』は1995年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で小川紳介賞を受賞し、韓国ドキュメンタリー映画として初めて海外に知られるようになった。

 また、この作品は1995年4月にドキュメンタリー映画としては国内で初めて一般劇場で封切られ、政府によりドキュメンタリー映画の上映が統制されているこの国で話題を呼び起こした。

結び

 80年代初めの〈ソウルの春〉とともにドキュメンタリー映画を通じて社会変革の先頭に立った若い映画人たちが、今では韓国ドキュメンタリー映画の現場での中心となっている。彼らは未だ零細な製作環境から抜け出せずにいるものの、ドキュメンタリー映画に対する情熱をもって多様な題材を取り上げつつ、その可能性を広げている。

 ドキュメンタリー映画に対する韓国社会の環境も、最近数年の間に大きく変わった。96年には韓国で初めてのドキュメンタリー映画祭もソウルで開かれた。50数編の作品が出品され、一般 の観衆からも好評を得たこの映画祭は、企業の支援を受けて毎年開催される見込みだ。ドキュメンタリー専門のCATVも設立され、国内の作品が活発に紹介されている。これまで、大学街の小劇場や限られた人々を対象に上映されてきたドキュメンタリー映画が、今では一般 の観衆にも広く紹介されるようになった。

 96年10月には映画を統制してきた映画事前審議制度が撤廃され、完全な表現の自由が保証された。製作と上映についての制約がなくなり、流通 の道も広がり、ドキュメンタリー映画は80年という流れの中で、今やっとその本質に接近できるようになったのだ。

 


卜煥模(ポク・ファンモ)


1958年韓国生まれ。 韓国漢陽大学校文科大学演劇映画学科卒業。
早稲田大学文学研究科大学院映画学専攻修了。
修士論文は「成瀬巳喜男監督の作品様式」。
現在、韓国光州の湖南大学校芸術大学演劇映画学科主任教授として映画学・映画美学などを教えている。