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ガリン・ヌグロホ インタビュー (2/2)

I:次に『カンチルと呼ばれた少年』について少し話したいと思います。私がこれを最初に見たのはNHKで放映された時ですが、これは新作の劇映画『枕の上の葉』につながるという意味でも重要なドキュメンタリーなわけです。1番驚いたのは、一旦家へ戻ったストリートチャイルドが家へ帰って解決するかというと、解決しないで、また家を出てしまう。『水とロミ』でゴミを取っても取っても増えていく、という問題と、もちろんテーマはちがいますが、ガリンさんの追求している「ドキュメンタリー的テーマ」という意味では似ているんではないかという気がしたんですけれど。

N:そうですね。人生は周期的に回っているようなものですが、人間は、その周期を経てよりよい方向に自動修正できる存在であるかと言えば、そうでもありません。まずバランス、すなわち総体的な「調和」があり、それから混乱というか不安定な「非調和」の時期が訪れます。その大嵐の後に、1歩前進した「調和」の時期にたどり着くことが理想の人生サイクルだと言えます。そんなサイクルが永続的に展開していけばよいのですが、私が撮った作品の登場人物たちの人生では、大嵐の後に必ずしもよりよい「調和」の時期が続くとは限りません。むしろ、以前の状態に逆行することもあるわけです。それは彼らの責任というよりは、国民に真の解決策を提示できない政府の責任です。

私の作品の主題が悲劇であっても、人は心の奥深いところで感動してくれます。もちろん、悲劇を売り物にしているといって、私の作品を非難する批評家もいます。そういう批評には、私はいつもこう言うのです。「悲劇の存在を知ることは私たちの生活に欠かせないものである。血が流れているのを知るのに身体を傷つけなければいけないのと同じように」と。ナイフで傷つけなければ、この身に血が流れていることも、生命とは何であるかということも分かりません。悲劇とは、他人の痛みを知るために流さなければならない我が身の血なのです。

インドネシア政府は、『水とロミ』および『カンチルと呼ばれた少年』を試写した後、私のところに諜報部の人間をよこしました。私はその後、情報部への出頭を命じられもしました。テープを出すように要請されたので、ビデオを渡し、この2作品は映画ではなく環境セミナーの教材だと説明しました。インドネシアでは、ドキュメンタリー映画を製作するには政府の許可が必要です。脚本を提出して検閲を受け、タイトルをつけるのも政府と協議し、撮影クルー全員の名簿を提出しなければいけません。ですが、通常私はそういう手続きを無視しますし、とりわけこの2作については必要がないと思いました。実際、研究セミナーの課題用に撮る作品については、そういった規制は何もないのですから。また、この2作をスハルト政権下の当時、国内の他の場所で上映するために、(日本の)国際交流基金や外国の大使館のような、権威ある団体が主催している国際フォーラムを利用するという手も使いました。たとえ政府が検閲の手を伸ばしたくても、強力で中立的な外国の組織が関与している以上、手を引かざるを得なかったというわけです。ああいった場で上映できたおかげで、政府の介入を避けることができました。

I:だから1993年に私たちも東京でインドネシア映画祭[国際交流基金アセアンセンター主催]を開催できて、すごく良かったです。ガリンさんの作り方は、今言ったように検閲が口を出せないつくりになってると思うんですよ。というのは、つまり作り手がなにかメッセージを声高らかに言うという作りではなくて、もうひたすら被写体をじっと見つめるっていうドキュメンタリー。『水とロミ』にしても、『カンチル』にしても。だからそこには、ただ本当の真実の映像が写っているだけですから。この辺は非常にしたたかだな、という気がしました。

N:ほとんど非合法的と言ってよい政府とは、まともに敵対するだけでは張り合っていけません。とはいえ、何かしなければ何も変わりません。それがどんなに間接的な方法であろうとも。大革命が無理だとしても、『1000の島の子どもたち』のようなドキュメンタリーでも戦略的な抗議行動の一端を担えます。あの作品は百科事典的な形式をとっているので、あまり政治的には見えず、テレビ放映も可能です。その後次第に私たちの(スハルト政権に対する)抗議の思いを強くしていったのですが、それも、私たちの思いが国民の多くに受け入れられるようになるには一足飛びにはいかないと分かっていたからです。民衆の尊敬と支持を受けている宗教関係者を含め、多くの有名人も私たちの運動に参加してくれました。最近、ストリート・チルドレンについてのドキュメンタリー5作を総監督しましたが、女児のストリート・チルドレンと売買春との関係といった、非常に繊細な、とりわけ保守的な宗教の面からすると難しいテーマについても扱いました。これらの新作品も一般社会に受け入れられるだろうという自信はあります。私が90年代から撮ってきた作品を人びとが見続けてくれているからです。

今、1999年の段階では、新政権が徐々に機能し始めています。新制度が不安定なこの混乱の時期にこそ、私たちは、大きな変革の動きを作り、宗教や共産主義やセックスといった繊細なテーマにも取り組んでいかなければいけません。真実と戦略が不可分である限り、こういったテーマをどんどん取り入れるべきです。

I:アジアの多くの国ではそういった圧力が大きくて、これまでその真実に迫るドキュメンタリーってものを作るのがなかなか難しかったと思うんです。しかし、インドネシアがまさにそうであるように、さまざまな規制がゆるんできて、不安定になって来ているという状況があります。そしてもうひとつはテクノロジー的に、非常に軽くて安いビデオカメラみたいなものが、どんどん普及している。となると、個人的な映像、つまり個人的なドキュメンタリーとか、身の回りの社会的な問題を撮ったドキュメンタリーなどがどんどん出てくるのではないでしょうか。インドネシアだけでなくアジアの多くの国で、これからそういう時代になるという予感がしているんですけれども、こんな見方についてはどう思いますか?

N:世紀末の今、来世紀を迎える2000年の末までに、私たちは新世紀への船出の準備をしなくてはいけません。1990年代は民放テレビ局の時代の到来を告げましたが、それでもまだ政治の、しかも無政府状態の政治の影響を強く受けています。経済問題が政治問題を上回ったときに、ニュース報道番組と同様、ドキュメンタリーもその姿を現わしました。かつてインドネシアのニュース報道といえば、国営局を通して流れてくる独裁政権の政策だけを指していました。その後、6局の民放会社が設立され、それぞれ独自のニュース番組を流しています。そして、こういった会社からドキュメンタリー・フィルムの新基盤が現れました。

1999年には学生たちが街で抗議行動を始めた結果、民放局が自由に独自の報道をおこなってよいとの約束を政府から取り付けました。ところが、いったん自由な報道が始まって危機感を覚えた政府は、この自由報道をやめさせて、再び政権独占型のニュース報道だけになりました。軍部の高官たちがテレビ局の編集室へ踏み込んで、現場の人間をその場で解雇するという事件さえ起こりました。しかし、政府がニュース報道を独占している状態への抗議が広がっていったため、政府も多少はニュース報道に対する規制を弱めました。今ではニュース番組は、ドラマやクイズ番組や、他の人気番組以上の視聴率を常時誇っています。一連の出来事のおかげで、現在のドキュメンタリー映画製作新時代の幕開けを迎えたわけですから、今後はこれを発展させていくのが私たちのつとめです。さまざまな事象に対してオープンな姿勢を持ったドキュメンタリーを製作することが大切になってきます。と同時に、無秩序から生じる新たな問題に対しても注意の眼を向けていく必要があります。特定の民族や宗教などに対する不当な憎悪の蔓延などがその例です。私たち映画製作者がそういったテーマにきちんと取り組みさえすれば、来世紀はドキュメンタリー映画にとって歓迎すべき時代になりそうです。

I:そうですね。拝見した『私の家族、私の映画、私の国』は、それまで作ってきたドキュメンタリーの断片を監督がもう1回それにコメントを入れる、という形で作られていますね。つまりそれぞれのオリジナルの時点では、監督はコメントはあえて挟まなかったんですね。それを、この『私の国』に至って自分のコメントをもう1回かぶせるってことを私は見て、ああ、これはきっと政治的状況が変わったからこういうものをお作りになったんだと感じたんですが。今のお話も絡めて、そういうふうに理解していいでしょうか。

N:そういう部分もあります。インドネシアでは、あれを見た人や批評家から同じ質問を何度も受けてうんざりしましたよ。というのは、ジャワ島以外で撮影すると製作費が高くつきすぎるんじゃないかとか、ある種のテーマを持った映画を相当な費用をかけて作ったのに配給しないというのは道理にかなわないんじゃないかとまで言われたんです。なんて面倒な映画作りをするんだろう、というのが皆の意見でした。あんまり頭にきたので、「これまでの作品を全部ひとまとめにした映画を作っただけです」って答えていた時期もあります。

とはいえ、あの作品では事実、「これが私の作品なんだ、これこそが私の視点なんだ」と皆に知ってもらうための私なりのやり方をとったんだという気もしています。そしてまた、私は自分の国に対するある種の不安をずっと抱いていたんだということや、その不安が現実のものになろうとしているってことを伝えたかったということもあります。私が映画を作るときは、必ずシグナルを送りだしているんです。「ほら、何かが起こりそうですよ、見てください」と。だから、編集作業というのは私なりの説明行為なんですね。映画製作は単に映画製作というだけでなく、現状についての警告を発する手段なのです。

いまはAV、オーディオ・ビジュアルの時代だと言いますが、いわゆる「多民族国家」と言われる私の国で、ある民族がテレビにほとんど取り上げられないのであれば、これは問題です。たとえば、イリアンで暴動があった、ソロが焼き討ちにあったとする。私は政治家ではありませんので、その件について声明を出すようなことはありません。でも、それについて私にできることは何かあるはずで、その事件を予防するために何もなされないのであれば、事件をどう理解すればよいか、人びとが考える時に手助けになるようなものを、映画を通して作っていきたいと思います。

インドネシアは島嶼国家です。それぞれの島にそれぞれ異なる民族が暮らしていますが、テレビは営利目的ですから、権力や資金力や、コマーシャルで広告されている商品を購買する意向のある人びとをターゲットにした番組しか作りません。その結果、イリアンを始めとした他の東部インドネシアの諸島は、経済的には比較的に貧しいので、ここ35年というもの、そういった地域の人たちがテレビで取り上げられることはほとんどありませんでした。現在もそうです。もし現在、これらの地域で反政府的な動きがあったり、そこの人びとが社会に対して不満や怒りを感じていたとしても、それは当然です。もしテレビが国家の体現であり、イリアンや東部インドネシアの人びとがテレビに映ることがないのだとしたら、彼らがインドネシア国民としての自覚を持つことなどできるでしょうか。

こういうわけで、私はジャワ島以外の島でドキュメンタリーを撮り続けているんです。そのほうが撮影費は高いですけれども。自分の国の未来のあり方と比較したとき、お金の問題は意味のない議論です。金や森林や油田豊かなイリアン・ジャヤがなくなってしまうかもしれないのに、百万ルピアがどうのと言っていられますか。

I:その辺境の島へ出かけていって撮る、というお話でしたけれども、状況が進んでいって、さっき私が言ったように安いビデオカメラがどんどん普及していった時に、その少数民族の側がカメラを持つような状況になっていくとは思いませんか?

N:コカコーラの宣伝文句みたいにですか?(笑) カメラ技術や映像技術は、いつでも、どこででも、誰の手にも入手可能です。ということは、ドキュメンタリー映画は、万人のための、万人による、万人から発信できるものであるべきです。今世紀も終わろうとしている今、新たなデジタル化が導入されたおかげで、映像は、普及や保管や創造という点でも、新たな局面を迎えています。検閲や監視のシステムも、このデジタル時代には意味をなしません。いま私は、「ビデオ・フォー・オール(万人のためのビデオ)」というコンセプトでビデオ・フェスティバルを開こうと企画している若い世代の支援をしています。少数民族に属する人びとが、自分たちを抑圧する権力に立ち向かうための重要な手段としてビデオを手にするようになることは、私たちの願いです。このデジタルの時代には、ビデオは強力な武器となり得るのです。

I:そろそろ時間なんですけれども、1960年代当時、第三世界と呼ばれていた国々で「カメラが武器になる」という説を唱えた人たちが映画のムーヴメントを起こしましたが、今のお話で、今度はもっとミクロなレベルで「ビデオが武器になる」というお考えを聞いて、非常に刺激的に感じます。

N:ビデオが圧制に対する武器となるまでにはまだ問題が残っています。まず、一般家庭の茶の間にビデオが入ってくるようにしなければなりません。テレビはすでに多くの一般家庭の生活に入り込んできています。テレビは、政治や経済や社会制度についての問題を、茶の間に持ち込んできているのです。

現代がマルチカルチャー(多文化)、マルチメディアの時代であるなら、テレビは多チャンネルの時代です。テレビのチャンネルが増えるにしたがって、テレビは、さまざまな番組編成を通して、マルチメディアと多文化を実現し、多文化なテーマを助長するものであるべきです。しかし、今までのところ、テレビは、腕や脚や口を多く持つ巨人になってはいますが、脳味噌が1つしかない存在であるのは残念なことです。1つ例を挙げてみましょう。これまで、都市と地方を結ぶ道路がたくさん建設されてきました。もともとは、地方の人びとが都市の人びとのニーズにあったサービスをするため、またその逆のために作られた道路でした。しかし現実は、都市が地方の富を吸い上げるためにその道路を利用しただけで、地方の住人は、かえって都市の富に依存した生活を強いられる状況に陥っています。これまで私たちは、こういった「地方の画一化」を数多く目の当たりにしてきました。この道路の話のように、テレビの多チャンネル化は、多文化的なテーマを充実させる目的があるにもかかわらず、現実は、力のある者をより富ませるだけなのです。技術はテーマを具現化しますが、その中身、その精神は、文化の画一化を進めるのです。そこで、どうすればビデオの新しいデジタル技術を、抑制に対抗し、大部分の世帯に入り込む方向を見つける武器として使うことができるか、が問題になってきます。私たちがこれから取り組まなければいけない事業の中でも最も実現が難しい課題だと思っています。

I:大変面白いお話をありがとうございました。あえて今日は、劇映画のことは一切聞きませんでした、悪しからず。

N:こちらこそありがとうございました。私の作品の多くは、もう手元にありません。全30作のうち、自分で持っているのは7作ほどです。しかし、そう遠くない将来、明るい未来が、すなわち政治ドキュメンタリーがインドネシアのテレビに登場する日が訪れるでしょう。私自身は、11月からそのような(政治的な)映画の撮影に入りたいと思います。アリガトウゴザイマシタ。

(訳:庄山則子)