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ガリン・ヌグロホ

インタビュー

聞き手●石坂健治  通訳・採録●田村亜紀


1999年6月、4作目の劇映画『枕の上の葉』をかかげて来日したインドネシアの新鋭、ガリン・ヌグロホさんは、劇映画監督として91年にデビューする以前から、多くのドキュメンタリー作品を製作されています。インドネシアの政治情勢も目まぐるしく変化するなか、ヌグロホさんの作品はインドネシアの歴史をかいま見させ、またインドネシアの映画史を更新、覚醒していくものばかりです。インドネシアのドキュメンタリー映画製作状況について、またヌグロホさんのドキュメンタリー作品について、お聞きしました。聞き手は、国際交流基金アジアセンターの石坂健治さんにお願いしました。


石坂(以下Iドキュメンタリーには、非常にはっきりと2つのタイプがあって、つまりそれは政府や権力の側が自分たちをPRするために作るドキュメンタリー、それから反体制的に、あるいは権力に対抗するために作るドキュメンタリー。どこの国でもその映画の歴史を見ると大体この2つのタイプに大きく分かれていると思います。

日本の場合は後者の反体制的・社会派的ドキュメンタリーの歴史と伝統があって、それは非常にユニークな日本映画史の特徴なんですが、しかし戦争中には、前者の政府の宣伝映画もたくさん作られました。インドネシアの映画・映像史の中で、監督はどのようにドキュメンタリーの歴史を理解しておられるんでしょうか。

ヌグロホ(以下Nその分類の仕方は適切だと思います。インドネシアで製作されるドキュメンタリーの90パーセントが政府のプロパガンダです。インドネシアでは、ドキュメンタリー映画は国の歴史と密接な関係があると言えます。ドキュメンタリー映画は、まず20世紀の初頭、ヌサ・テンガラ地方にキリスト教の宣教師によって持ち込まれました。残念なことに、当時のフィルムは現存していませんが、わが国におけるドキュメンタリー映画史は、オランダの植民地時代に端を発していると言えます。当時はジャカルタのナイト・バザール(夜市)で上映されていたようですが、そのうちいくつかは、オランダ女王を描いた作品だったと聞いています。

オランダがスマトラ島に大農園を作った頃に、ジャワ島の小作農を移住させるためのプロパガンダ映画として、ドキュメンタリー映画を利用していたようです。日本の占領時代にも同様のことが起こりました。日本軍は、映画を「大東亜共栄圏」思想のプロパガンダに利用していました。インドネシアの初代大統領スカルノも同様で、レーニンの言葉を引用して、「映画は革命の手段である。それはいわば国の手段であり、国営化すべきものである」と言っています。

スハルトの「新秩序」時代に、ドキュメンタリー映画は2つの道をたどりました。1つめは、「新秩序」が国の発展に寄与した成果に大賛辞を送るという、政治教育的目的で作られたものです。たとえば農業森林省なら、省の事業に関する作品を作りました。それから2つ目は、5パーセントから10パーセントという少ない割合ではあるけれども、一般教育や科学知識の普及といったものを目的とした、民族学的映画または環境保護型の作品です。

独立(1945年)以降90年代までのインドネシアのドキュメンタリー映画は、経済発展プロパガンダ型か、科学知識普及型の2種類しかありません。科学知識普及型にしても、その題材への取り組み方や、とりあげる題材そのものは、非常に限られています。たとえば、イリアン族についての民族学的なドキュメンタリーであれば、1970年代のBBC放送やNHKといった、英国や日本のテレビ番組の影響を非常に色濃く受けています。ですから、90年代になってからも、テレビ・ドキュメンタリーは70年代のスタイルで撮っているのです。具体的にどういうものかと言うと、そうですね、まずイリアン・ジャヤを題材に選んだとすると、そこの地図を写しだします。それからロケ地まで飛行機で飛ぶシーンがあって、その後に地元の人びとの日常生活を紹介するナレーションが続き、そして有名な部族の儀式、これは欠かせません。それから、わが国のドキュメンタリーのかなり多くが、自国の映画製作者と、NHKのような海外の大テレビ会社との共同製作という形をとっているので、個人でドキュメンタリー映画製作をする人がいなくなってしまいました。

このような状況が90年代まで続いたのは、インドネシアにはTVRI(インドネシア共和国テレビ)というテレビ局1局しかなかったことが原因です。結果として、テレビ・ドキュメンタリーでは、「この村はこうして発展を遂げていったのです」的なものしか放映しなくなっています。政府の役人がテープカットをしているシーンなどが典型ですよ。ドキュメンタリー・ドラマというのもよくある手法です。これは、農林省など省庁が作ることが多いです。ドラマの構成はワンパターンです。ある村に、中央政府から派遣された農業技術指導員がやってきて、新しい農法を伝えます。主人公は、地元の美しい娘と恋に落ちますが、大抵三角関係に悩まされます。くだんの新農法については、最初こそ地元農民には受け入れられませんが、結局は成功を収めて、めでたし、めでたし。こういったドキュメンタリーは、70年代から90年代にかけて、だいたい60作くらい製作されたはずです。当時、私も有名なドキュメンタリー製作会社に勤めていて、社命により、そういったドキュメンタリーをたくさん撮りました。世界のドキュメンタリーとわが国のドキュメンタリーを比較したところ、インドネシアの作品は内容、構成、題材への取り組みすべてにおいて時代遅れです。それに気づいてからは、プロパガンダというプロパガンダに抵抗を感じるようになりましたね。

I:有名な劇映画の監督たちもそうしたドキュメンタリーフィルムを撮っていたんでしょうか、それともドキュメンタリー映画の専門の監督というのがたくさんいたんでしょうか?

N:両方撮っていた監督もいますよ、ジャヤ・クスマ(Jaya Kusma、故人)のような人が。クスマは劇映画で非常に有名な監督ですが、ドキュメンタリーも撮っています。ほとんどの監督が、少なくとも1度は政府に要請されてプロパガンダ目的のドキュメンタリー・ドラマを撮っているんじゃないかと思います。ですが、独立系のドキュメンタリー製作者は、たいてい仲間同志のサポートネットワークを持っています。

I:そうすると、製作費は、政府や省庁がいわばスポンサーのものが多かったわけですか?

N:そうです。製作費の出所は、大きく分けて3つあります。まず、ユニセフや食糧農業機関(FAO)のような国連機関。それから、政府の省庁。最後に、外国のテレビ会社です。外国のテレビ会社の出資による製作は、全体の10パーセントくらいでしょう。

I:そういう中で、ガリンさんは1980年代の半ばぐらいからドキュメンタリーを撮り始めているんですが、自分でお撮りになるに際して、自国のドキュメンタリーはあまりお手本にならなかったのですか。例えば外国のドキュメンタリーの影響を受けたんでしょうか。

N:私の場合は、映画学校でのトレーニングが、よい勉強になりました。詩的なもの、社会派の手法を取り入れたもの、その他ドキュメンタリーにはさまざまなタイプがあることも学びました。一方、インドネシアのドキュメンタリー・フィルムは全てが政府のプロパガンダだという事実に、私は怒りをおぼえました。スタイルといい、題材への取り組み方といい、諸外国のドキュメンタリーは多様性に富んでいます。内容もそうですね、社会派ドキュメンタリーや政治的なものもある。フラハティの『極北のナヌーク』のような作品の前では言葉を失います。また、映画学校では、オランダのドキュメンタリー鑑賞という課題も毎週出されました。ヨリス・イヴェンス監督などの作品を見ました。あのころは本当にたくさんのドキュメンタリーを見ましたが、どれも一級品でした。

I:ガリンさんのドキュメンタリーを初めて目にした時、僕は大変ひきつけられました。具体的には『水とロミ』『カンチルと呼ばれた少年』それから『私の家族、私の映画、私の国』。何にひきつけられたかと言うと、撮る側、つまりガリンさんと被写体つまり対象の目線が同じなんですね。つまり今ご説明いただいたように、ドキュメンタリーっていうのは下手をすると宣伝のものであれ、啓蒙のものであれ、高いところにいる者が下に向かって、弱いものに教える、という形になりがちだと思うんです。しかし、ガリンさんのドキュメンタリーは、ひとつは非常に目線がフラットであるということと、もうひとつは社会の中の弱くて虐げられた人たちが登場してくる。こういうドキュメンタリーを、僕はそれまでスハルト時代のほかのインドネシア映画の中で見たことがなかったんです。

N:インドネシアのドキュメンタリーと諸外国のドキュメンタリーとを比べると、頭に血が上ります。カメラワークという意味では、インドネシア方式ではカメラが常に三脚から離れず、遠く離れた被写体をクールに撮影しているような感じですね。それから、「観客たるもの、ドキュメンタリーはうやうやしく見るべき」かのごとき暗黙の了解があり、観客の感情をひきつける努力がありません。それはプロパガンダ以外の何物でもないんですね。こうなると、もうドキュメンタリー映画は言語以下になり下がり、普通の人びとの声ではなく封印された事象のように扱われるしか道がありません。しかし、ドキュメンタリーというものは、実際は開かれた言語でなければなりません。何のためかと言うと、その作品の目的のために、です。

私にとってドキュメンタリーとは、人生そのものです。何が起こってもおかしくない日常生活そのものと言いましょうか。ドキュメンタリーは、未来へ続くものであるとも言えるし、過去を深く掘り下げるものでもあります。ドキュメンタリーは、ドキュメンタリーそのものの有り様を自由に変えることも可能です。いまのドキュメンタリーを見ていると、いわゆる「流れに逆らって泳ぐ」ような何かを作り上げたいという気持ちにさせられます。残念ながら、『水とロミ』『カンチルと呼ばれた少年』それから『私の家族、私の映画、私の国』は、3作ともテレビ放映には不適切と見なされました。1番古い『水とロミ』は91年に撮ったのですが、3作ともこれまでにたくさんの人に見ていただいていて、今でも学校やモスクや大学から多くの上映要請があります。

90年代には、テレビのニュース報道に対する規制が比較的弱くなり、今では6局の民放があります。私自身はこれをドキュメンタリー新時代の幕開けと考えていて、テレビ用に『Anak Seribu Pulau(1000の島の子どもたち)』を製作しました。13話の放映分のうち2話を監督し、残りの11話の構想についてもスーパーバイザーをつとめました。同シリーズが民放6局すべてで放映されたところ、莫大な数の反響の投書があり、高い評価を得たと思っています。今ではビデオ販売もされています。ドキュメンタリーでここまで売れた作品はありませんでした。

I:『1000の島の子どもたち』の内容を簡単に紹介してもらえますか。

N:全13話がインドネシアのさまざまな島に住む子どもたちの日常生活に焦点をおいています。たとえば、アチェの子ども歌手についての話(ネン・トリフェニ・アフナス監督『僕はガヨの歌い手』)は、前回97年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されました。他には、イリアンでカンガルー狩りをする3人の子どもを撮った話、深海釣りの手ほどきを受ける子どもたちの話、スマトラの「象使い」の子どもの話などがあります。放映を機に、人びとは、インドネシアのいろんな地域に再び注目することになりました。

I:監督がよく「多様なインドネシア」、「インドネシアは多様な文化が一緒にいろいろある国なんだ」とおっしゃいますけども、まさにそれをそのまま映像化したという印象を受けます。

N:そのとおり。ドキュメンタリーは、一般人にも親しまれるアーカイヴみたいなものにもなりうると私は思っています。人生の苦みや知識を、積極的な意味で、またプロパガンダ的になることなく、人びとに役立つ情報として受け継いでいくようなものだと。

I:これを監督した人たちは、ガリンさんの教え子で、若い人たちを中心にガリンさんが全体を統括した、と聞いていますけれど。

N:そうです。よいドキュメンタリーを撮るための人材をそろえるのは簡単なことではありません。もっと正確に言うと、ドキュメンタリー映画のことをきちんと分かっている人間を見つけるのは大変難しいことなのです。インドネシアでは、皆プロパガンダ以外のドキュメンタリーを撮り慣れていませんから。外国のテレビ・ネットワークのような組織で働いた経験のある人や、技術や能力がしっかりした若い人など、基本的にドキュメンタリー映画作りの基礎知識のある人間を集めました。

I:ちょっと作品ごとに具体的にお話を聞きたいんですけれど、例えば『水とロミ』、これをお作りになるきっかけは?

N:ジャカルタのゲーテ・インスティテュートが水と環境についての環境セミナーを開催するための資金を提供していたのですが、私はそのセミナー用のドキュメンタリーを作ることになったのです。最初は、国の大臣の1人にナレーションをさせること、といったプレッシャーがかかったりもしたのですが、このドキュメンタリー製作は私の自由にさせてくれと言って断りました。何といっても、社会派ドキュメンタリーにするつもりでしたからね。テーマが環境とはいえ、社会環境の問題ですから。もう何年もの間、インドネシアのドキュメンタリーといえば、ナレーションがつきものでしたが、実のところ私はその手法に飽きていました。映像の主体そのものが自分たちのために「語り」をつとめたのは、私のこの作品がおそらくインドネシアのドキュメンタリー史上初めてのものでしょう。あれからですよ、インドネシアでこの手法が主流になったのは。

当時、ドキュメンタリーといえば何か壮大なものやエキゾチックなもの、それからたとえばイリアン・ジャヤなど、ジャカルタから遠く離れた土地をテーマにするものだという思いこみがありました。そういう作品も悪くはありませんが、人間の生活を記録してはいないのですね。ですから、この水についてのドキュメンタリーでは、私は、ジャカルタの汚い川の水の中を歩いて掃除している労働者の人たちに着眼し、彼らの話を記録しました。

I:日常を描くっていうことは、当り前のようだけど非常に難しいと思うんですね。特にインドネシアのスハルト体制のもとで、ああいったものをお作りになったというのは、私は初めて見た時びっくりしました。ロミの親子が川でものすごいゴミを泳ぎながら手分けしてゴミ拾いしてるわけですけども、カメラの位置が、一緒に川の中に入って、ロミと同じ目線にまでカメラが入っていきますね。私はこれを見て感動したんですけれども、その川の中での撮影について、どういう意図であのようなカメラポジションをとったのか、教えて下さい。

N:あの位置からの撮影は、かなりきつかったです。川はものすごい悪臭を放っていましたし、撮影中もゴミがどんどん押し流されてくるんです。撮影が何週間も続いたあとは、シャワーを浴びていてもゴミと汚水に埋もれている感じがしました。でも、私はドキュメンタリーでは、いろんな方向から被写体を撮影すべきだと思うのです。いつも高い所からの目線で物事を追うのではなく、さまざまな視点で物事を見るべきだし、足もとや膝あたりからカメラを回したっていいと思います。この眼は身体のどの位置にあってもいいのです。カメラはもっと自由に、見上げたり、同じ視線でいたり、上のほうから見下ろしてみたり、ということをすべきです。そうすると、被写体の人生にぐっと入り込むことになり、映像を見ている人にもぐっと訴えかけてくるんです。被写体をのぞき見るだけでいいのか、それとも被写体にきちっと照準を合わせたいのか、または追いつめようと思っているのか。どういう形をとってもよいのですが、いずれにも限界があることを意識しておく必要はあります。被写体の行動や考えを妨げるほど近くに寄っていって撮影するべきではありません。ドキュメンタリーと言えども、カメラを向けられる人の心理状態を乱す権利はないのです。

日常生活についてのドキュメンタリーを撮るということは、被写体の全身全霊を映し出すということです。撮影クルーは被写体の感情に溶け込みつつ、被写体が撮影隊の存在を意識しないで行動できるよう細心の注意を払います。ドキュメンタリーの対象、すなわちミクロのいきいきとした行動を撮るために、バランス感覚をとるのに欠かせない自由な関係、すなわちマクロを構築していくのが私たちの仕事なのです。

I:そうするとね、そういう自由な関係を作るには、特に被写体、この場合ロミという男との、コミュニケーションが出来てないと、そういうことにはならないと思うのね。そもそもこのロミさんを見つけて、主人公にしようというまでに、どういうプロセスがあったんでしょうか。それからロミさんにしてみれば、自分がやってる非常にこの臭くて汚い仕事を撮られるわけですから、そのことを監督はどういうふうにロミさんにアプローチして出演してもらったんですか?

N:とてもいい質問です。信頼関係を作るためには、ドキュメンタリー製作者は心を真空にしなくてはなりません。いわば、禅宗の悟り、数学のゼロ、の状態ですね。たとえて言うと、日本酒の飲み方に似ているのではないでしょうか。お猪口が小さいので、相手に何度もお酒を注いでもらう格好になりますが、そのボディ・ランゲージ自体に意味があるのですね。被写体に向かって自分の価値観を押しつけていると、たとえそれを口にしなくとも相手に拒絶されます。

『水とロミ』の主な登場人物は3人です。1人は水売り。それから、商品に化学添加物を入れているかき氷商人。そして、川の清掃人です。ロミは反語的な象徴で、いわばインドネシア政府の隠喩とも言えます。ロミは政府のおかげで仕事にありつけているかのように見えますが、その仕事には非常な危険が伴っています。仕事場である川には常に大量の廃棄物が流れていて、それがためにさまざまな疾病の危険に身をさらしている彼は、早死にする可能性が大いにあるわけです。政府は寛大にも希望の灯火を与える政策をとっているかのように見えますが、現実は、国民を自殺に追いやっているだけなのです。禅宗の精神や日本庭園のパラドックスにも似ているのですが、ロミはまた、力の象徴でもあるのです。無力であると同時に、インドネシアにおける環境問題のカオス状態、すなわち無益という大問題を象徴している存在なのですね。


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ガリン・ヌグロホ


1961年、インドネシアのジョクジャカルタ生まれ。インドネシア大学法学部卒業後、ジャカルタ芸術大学(IKJ)に入学、映画学部で学ぶ。85年卒業後、数々の短編、ドキュメンタリーを製作。劇映画の4作は、すべてが国際的に高い評価を受けているが、『そして月も踊る』(1991)はナント三大陸国際映画祭にて審査員特別 賞を受賞、『枕の上の葉』(1998)はカンヌ国際映画祭に正式参加した。インドネシアを代表する若手監督であり、映画界の中心的存在として活躍中。本インタビューに出てくるドキュメンタリー作品は、以下の通 り。

◆『水とロミ』(1991) ジャカルタで水とともに暮らす人々を紹介する。水売り、かき氷を売る商人、川の清掃人の3名を中心に、汚染が深刻な川での生活の現状に目を向ける。1992年ドイツの環境映像祭「エコメディア」でフライブルク市長賞を受賞。

◆『カンチルと呼ばれた少年』(1996) インドネシアの童話に登場する、小さくてたくましいネズミジカ「カンチル」…そんなあだ名をもつストリート・チャイルドと、その仲間の日常生活を綴る。家出をして路上暮らしをする少年たちの抱える夢や悩み、そして家族の問題を、淡々と描く。本作品はその後の劇映画『枕の上の葉』の構想のベースとなり、同じストリート・チルドレンが登場する。

◆『私の家族、私の映画、私の国』(1998) それまでに製作した映画の場面の数々から構成され、監督が再度コメントを挿入するかたちでまとめられた作品。非常に私的に語られると同時に、インドネシアの現状や未来についても視点が広げられる。