スクリーンにおける現実の実験
――ドキュメンタリー映画における現実の原則についての考察
フランソワ・ニネイ著/ブリュッセル、ドゥ=ブック大学/2000年/フランス語/ISBN 2-8041-3543-8
François Niney L'épreuve du réel à l'écran. Essai sur le principe de réalité documentaire
Bruxelles: De Boeck Université, 2000, ISBN 2-8041-3543-8
評者:ベルナール・エイゼンシッツ
ドキュメンタリー映画作りの本質とは何であろうか。また、その限界とは? 作り手や映像と現実との関係はどうなっているのか。ドキュメンタリー映像によって、スクリーン上の現実だけでなく実際の現実社会が変わるのか。観客は映像とどう関わりを持つものなのか。「ドキュメンタリー」は常に「いわゆるドキュメンタリー」でしかないと考えるべきであろうか。こういった問題をフランソワ・ニネイが340ページの近著で提起している。『L'épreuve du réel à l'écran. Essai sur le principe de réalité documentaire(スクリーンにおける現実の実験――ドキュメンタリー映画における現実の原則についての考察)』というタイトルへの期待に違わず、同書はノンフィクション映画の新しい見解を示している。
いくつもの複線が交差する同書は、歴史書と呼ぶべきかエッセイというべきか迷うところだ。その両方の側面を同時にあわせもつからである。リアリティについての哲学的な問いが、美学的な問題に切り替わり、シネフィルが好む傾向に見事に要約されている。ニネイが本の頭で述べているように、ドキュメンタリー映画は、「哲学と美学、この2つの問いが交差する試金石のようなもの」(p.7)なのだ。
5章構成になっている同書の第1章には、ゴダールの語呂合わせを思わせる「Le (Re) production du monde(世界の(再)生産)」というタイトルがついている。著者の主張によれば、19世紀から20世紀の変わり目に出現した偉大な発見は、レントゲン写真や心理分析学、キュービズム、相対論そして映画であるという。それらはすべて新しい眼でそれぞれ別個の視点から現実を見つめ直す手段であり、科学的なところと美学的なところが融合している。映画創生期より脈々と続く2つの要因がある。一方はドキュメンタリーという本質であり、もう一方は舞台装置によるドキュメンタリーの干渉である。確かに舞台装置は空間的な構図および時間的な限界を補うために始まっている。すなわち『リミュエール工場の出口』だ。この2つの要因の曖昧な関係は、映画史において極端にまで展開されてきた。ニネイはオーソン・ウエルズの『市民ケーン』を例に挙げているが、実のところは同作ほどは知られていない独創的な傑作『オーソン・ウエルズのフェイク』を引き合いに出してもよかっただろう。同書のもっと後ろの章でニネイは『フェイク』の中からピカソの言葉を借用し、「芸術とは、真実を悟らせてくれる嘘」と述べている。
著者は、モンタージュの発明を再構築する過程において、逆説的ではあるが、ヴェルトフの“映画=機械の目”――現実がよりよく見え、よりよく分析できるのは人間の眼よりレンズのほうであるという説――とフラハティの偏見も意図的な選択もないカメラ(p.49)とをあてはめて論じている。その要点は、ドキュメンタリーの傾向の疑わしい連続性とは違う別のところにある。つまり、著者の見方では、ほとんどの革新者は、ビジョン(映像)あるいはファンタジー(空想)としての映画と、「まことしやかな」映像との間の不協和音を、もしくはフィクションが現実を侵略すること、あるいはフィクションが現実を覆すことを、刺激しようとしてきた(p.53)。だとすれば、同書がドキュメンタリー映画史であると同時にそうでないともいえるのは不思議ではない。1930年代初頭のアバンギャルドからプロパガンダについての記述を読めば、読者はラウル・ルイスの最近の学説やヴァルター・ベンヤミンに思いをはせるかもしれない。
第2章「Du parlé au parlant(話者の台詞)」では、監督の手腕は今や映画の働きそのものほどは問われていないと説いている。フランス・ヌーヴェルバーグの先駆者だった若い監督たちが、映像(フランス語の「イマージュ」が持つ特定の意味での映像)を、たとえ曲解された世界であれ、現実社会の投影というだけでなく、現実社会の手段として見るようになったことで、この必然的なターニングポイントがニネイの研究の核心となっている。ジョルジュ・フランジュ、アラン・レネ、ジャン・ルーシュ、クリス・マルケルといった監督たちの手によって、映画は現実世界に疑問を投げかけ、それを再び作り上げるという役割を持つようになり、後年、ゴダールをして「映画は20世紀の歴史を描いてきた」と主張せしめたのである。映画を再発明する必要性があるのは、第二次世界大戦後に世界を再定義する必要性があったこととよく似ている。映画製作者の姿勢は、かくも道徳観を帯びるものであるが、これはドキュメンタリー製作者だけに終わらない。要約すれば、フレデリック・ワイズマン、ジャン・ルーシュ、ジョン・カサヴェテスは各々のレベルで「現実」を介在し、小細工し、フィクション化し、またそれによって「現実のフィクション」と名付けられる領域に入れられる。
60年代のシネマ・ヴェリテおよびディレクト・シネマが見せてくれるのは、観客との新しい関係を確立するものとしての映画とテレビとの関係性である。これは、ある程度は映画製作者たちが予測していたことではあったが、テレビのリアリティ・ショーやドキュメンタリー仕立てのソープドラマの出現まで予測していたわけではない。(たしかに最近のメディアないしマスイベントになっているフランス初のリアリティ・ショー「Loft
Story」(2001年5月)を取り上げていれば、同書はさらに充実したかもしれないが、著者ニネイはそれらがなくても言うべき点は十分に言い尽くしている。)それにまた、この章では「シネマ・ヴェリテからテレ・レアリテまで」を解説しつつ、ジャック・タチの『プレイタイム』というフィクション映画が、自給自足的かつ明らかに麻痺性の究極のエンターテイメント性というテレビの理想概念を鮮やかに予期してくれたと言っている(p.175)。
以上のような変化は「古典的なシネマ」の大黒柱である「視点」(ジャン・ヴィゴが造った「ドキュメントされた視点」)の消滅を許し、さらに監視カメラやCNNのような世界規模でのニュース報道における「視点なき視点」を招く。この新しい状況の先駆者は、ハルン・ファロッキが『この世界を覗く――戦争の資料から』の中に書いた戦争のエピソードに如実に描かれている。それによると、米国の諜報部隊がドイツの上空から撮影した航空写真にアウシュヴィッツの強制収容所が見つけられなかったのは、それが偵察の目的ではなかったためである。しかしニネイは尻込みせず、別の重大な「事実に基づく」事例、すなわちロジャー・コーマン監督の『X線の眼を持つ男』を繰り返し引用する。ニネイの学識はかくも広く、この寓話を通してさえも面白おかしく持論を強調することができる。
また、本書では、資料映像の利用が、明らかに映画編集のための技術的な土台としてではなく、さまざまな「記憶の舞台」の手段として、クロード・ランズマンの『SHOAH〈ショア〉』、あるいはマルセル・オフュールスやリヒャルト・ディンドの作品に見られるように議論されている。最終章「Vertus
du faux(虚偽の美徳)」は、4章までに述べられたさまざまな複線の最終的な弁明(の章)であり、クリス・マルケルの『大使館』、『ルート1/USA』のロバート・クレイマーなどを挙げている(なお、同書はロバート・クレイマーに捧げられている)。なるほど「フィクションとドキュメンタリーの干渉」という問いは、最近のフランスにおけるドキュメンタリー映画製作の格好のテーマではあるが、これほどまでに広範におよぶ資料が呈示されることは珍しい。
――訳:庄山則子
ベルナール・エイゼンシッツ(Bernard Eisenschitz)
映画翻訳者であり、映画史家。フリッツ・ラングやニコラス・レイに関する著書(英語版・日本語版/キネマ旬報)や、ドイツおよびロシア映画に関する著作がある。近著にロバート・クレイマーのインタビュー本『Points
de départ, entretien avec Robert Kramer(出発点――ロバート・クレイマーとの対談)』がある。『Cinémathèque』の編集委員を18号までつとめ、現在はその後継誌『Cinéma
02』の編集長。
編集注:原文は英語
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