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ヨハン・ファン・デル・コイケンの
いないカメラ

ケース・バカー


私には地球の顔が見えない。
私は地球の肩越しに光を見ている。
そして光というのは私だ…ほかのみんなの間で互いに。

『Filmmaker's Holiday(映画作家の休暇)』(1974年)に
おけるヨハン・ファン・デル・コイケンの発言


 2000年12月、ヨハン・ファン・デル・コイケンは、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭で、ベルト・ハーンストラ作品賞を受賞した。最新作『ロング・ホリデー』(2000年)の冒頭で、自分に対するパリでの評価について述べているように、「ちょうどよい時だ」と思ったにちがいない。こうした評価の形に感謝しつつ、この賞が通常は芸術家の晩年に与えられるものであるという事実認識に基づき、彼は演説を、皮肉だが真面目な言葉「自分が90歳のように思えます」で締め括った。皮肉というのは、彼がまだ62歳だったからだ。真面目というのは、彼が既に晩年を迎えていたからだ。2001年1月7日の日曜日、ヨハン・ファン・デル・コイケンは前立腺癌のためアムステルダムで亡くなった。

 ヨハン・ファン・デル・コイケンを、オランダのドキュメンタリー映画作家の第3世代を代表する最重要人物とみなした11月の映画祭という機会において、オランダのドキュメンタリー映画史の異なる3世代の3人の代表的人物が結びついた。第3世代を代表するファン・デル・コイケンが、ドキュメンタリー映画の開拓者にして第1世代の指導者でもあるヨリス・イヴェンスの名を冠した賞をもつ映画祭において、第2世代を代表する最重要人物ベルト・ハーンストラの名を冠した賞を受賞したのだ。そして間違いなく、ヨハン・ファン・デル・コイケンはこの2人の先人の影響を受けていた。ヨリス・イヴェンスの政治的、イデオロギー的実践とベルト・ハーンストラのユーモア、観察眼、カルヴァン主義的アプローチ。美学的には、ハーンストラよりイヴェンスに近いと思われるファン・デル・コイケンは長い歳月をかけて彼独自の美学を育んだと言えるだろう。

 ヨハン・ファン・デル・コイケンは1938年4月4日、アムステルダムに生まれた。12歳の時、祖父に写真の初歩を教わった。1955年に、最初の写真集『We Are 17(私たちは17歳)』を出版した。この写真集は、文化的な反逆者グループであった彼の友人たちの一連の肖像写真であった。ファン・デル・コイケン自身は、ただの写真集と考えていたにもかかわらず、批評家たちは、戦後の保守的な風潮に対する青年の反抗宣言と受けとめた。原注1 この写真集の成功によって、彼は、たびたび彼と共同制作を行なったベルト・シエルベーク、ルースベルト、レムコ・カンペルトらによる「50年代」運動のメンバーに出会った。1年後、ファン・デル・コイケンはパリのイデック(IDHEC)原注2 で映画を学ぶための奨学金を受けた。彼は写真を続けたが、次第に映画作りに傾倒し、1960年、最初の映画『Paris l'aube (夜明けのパリ)』を、ジェイムズ・ブルー、デリー・ホールと共に作った。彼は映画による試みを続け、1962年にアーティストについてのいくつかのポートレイト作品を作った。作品は次第に知られてきて、『Beppie(ベピー)』(1965)、『Herman Slobbe, Blind Child 2 (ヘルマン・スロッベ、盲目の子ども 2)』1967)や『Big Ben Webster(ビッグ・ベン・ウェブスター)』といった作品によって、批評家や他の映画作家からも評価を受けた。しかし、こうした評価が継続したわけではない。ファン・デル・コイケンは承認を求めていたが、『The Spirit of the Time(時代精神)』(1968)から、何度となく誤解に直面したように感じた。この映画は、ファン・デル・コイケンの初の明白な政治的映画でもあり、また特有の映画作りのスタイルを発展させた時代の作品である。そのスタイルは政治的だが美学的であり、傍観的だが能動的であり、個人的で、内省的なスタイルだ。高度に構成されたシークエンスと、非常に「ドキュメンタリー的な」映像が交互に現れ、彼の編集においては、結合論理がしばしば論争的論理にまさる。『Velocity: 40-70 (速度:40-70)』と『Beauty(美)』(共に1970)に続き、『The White Castle(白い城)』(1973)や『The Palestinians(パレスチナ人)』(1975)といった、より政治に関与した映画が作られた。彼のスタイルは短編『The Reading Lesson(読解の授業)』(1973)で例証されるだろう。10分の間に、生徒の子どもたちが、それぞれの映像の名前を言う伝統的な読解の授業が描かれる。この映画は、言葉が映像の対応を示すことから始まるが、次第に、映像は他の映像に代えられていく。言葉はもはや映像に対応しないが、連想を通じて、この映画において、新たなパターンが発展する。深い意味をもたない単語「羊」「火」「姉妹」は、今や、暴動、サルバドール・アジェンデ[訳注:1970年、世界初の自由選挙による社会主義政権を実現したチリ大統領]の演説、ピノチェトのクーデタ[訳注:1973年、アジェンデ政権を転覆し大統領に就任]と新たに結びつけられる。新たな結合は新たな意味を生み出すその戦略は、ファン・デル・コイケンが利用し続け、後期の映画作品で発展させる。

 それでも、彼が高い評価に値すると考えている作品は高く評価されていない。彼の最もオランダ的な映画『The Flat Jungle (平坦なジャングル)』(1978)と、同年の『カイエ・デュ・シネマ』の批評家セルジュ・ダネーとジャン=ポール・ファルジエによる彼の作品の「発見」によって、状況が変わる。これは、多少なりとも、ファン・デル・コイケンの国際的キャリアの始まりだったが、アンビバランス性は依然残ったままであった。『The Way South (南への道)』(1980)は一般に高い評価を受けたが、他方で『Storm of Images (映像の嵐)』(1981)は様々な論争を招いた。

 1985年は転機点とみなしうるだろう。ファン・デル・コイケンは重病に冒され始めた。医者は大腸癌と診断する。病から回復した後、彼は「世界を説明する」野心を弱め、(社会的、政治的、さらには美学的)対抗物が共存しうるという考えに一層のめり込む。初期作品に顕著だったイデオロギー的な価値判断は後景へと退く。たとえば『井戸の上の眼』(1988)は、美、伝統、知識、支配についての映画だ。「しかし、この伝統が完璧な世界の一部ではないということを示すために、すべてが混乱に陥るシークエンスを入れたんです。崩れた階段、肢体の不自由な人々が出てきます(略)。その両方を見せる編集を考えついたんです。私には新鮮でした。それは、私を罪悪感から解放してくれたんです」。原注3 また、この時代から、彼はますます多くの賞を受賞し、承認を求めてきた彼の努力はますます報われた。

 彼のアプローチは多少変わったとはいえ、彼のスタイルは依然としてはっきりとした特徴を保ち続けた。そうした特徴は、この後の『Face Value (フェイス・ヴァリュー)』(1991)、『Brass Unbound (柔軟性)』(1993)、『アムステルダム・グローバル・ヴィレッジ』(1996)といった映画に見てとれる。これらの映画は、世界中の異文化間の相互関係、併存、共存する対立を提示する。イデオロギー的価値判断は観客に委ねられるが、彼の映画の連想的な文体と高度に構成された構造は健在だ。アムステルダムの運河の環状が、写真を運ぶ(映像の運び屋!)バイク便のモロッコ人青年、チェチェン人の実業家やボリヴィア人のクリーニング屋を追っていく『アムステルダム・グローバル・ヴィレッジ』の構造を形成する。バイク便の青年がアムステルダムの運河沿いに周回するように、観客も、映画の中で出会う人々と共に世界を周遊する。アムステルダムは世界中の異文化を結びつける街になる。すなわちグローバル・ヴィレッジ。『Sarajevo Film Festival Film (サラエボ映画祭映画)』(1993)のように、共存する対立は時には苛酷なものとなる。この映画で、ファン・デル・コイケンは 戦火のサラエボ映画祭に通っている少女を追う。いくつかのシークエンスのひとつで、庭いじりをしている時、銃声が聞こえる。彼女と彼女の姉妹とファン・デル・コイケンは身をかがめ、銃撃の終わるのを待つ。その後、彼女は「ごめんなさい。危険じゃないと思ったの」と言い、内気そうに微笑む。観客は矛盾を感じるが、それがあまりに自然な出来事なので驚く。ファン・デル・コイケンはこのように観客を逆説的な状況について深く考察させる。

 1998年、ヨハン・ファン・デル・コイケンは前立腺癌と診断される。彼の遺作『ロング・ホリデー』は、彼の病気に動機づけられた旅だ。そこでは生と死が、この映画のあらゆる要素が関連する考察対象となる。他の映画と同じように彼は、妻のノシュカ・ファン・デル・レリーと一緒に旅をし、撮る。彼は「映像や音声と共に、異なる生活環境まで、冷たかったり暖かかったり、空虚だったり充実していたり、どこにいても人間がいて、困難な状況で生きて、立ち向かうもののない慰めとしての美しい物語の助けを借りて」旅をする。彼自身は無と立ち向かい、この映画はファン・デル・コイケンの遺言とみなすこともできるだろう。しかし、生と死という主題がこの映画の主役となるにもかかわらず、この映画を遺言とみなすのは、早計にすぎるだろう。彼自身の言葉に従い、この映画をある観点、すなわち世界観と、映画作家と撮影者の視覚的観点の双方の記録とみなす方がよいだろう。そうすることによって、この映画は彼の他の多くの映画と結びつく。

 たとえば、『ロング・ホリデー』と別の「休暇」映画である『Filmmaker's Holiday』(1974)の間に、いくつかの類似点を認めることができるだろう。それぞれが、生と死という題材について度々考察している。『Filmmaker's Holiday 』で、ファン・デル・コイケンは、アンドレ・バザンを引用する。バザンは、映画は、生から死への移行を見せることのできる唯一の媒体だと述べている。「私はその移行を何度も撮ったが、そこから何も学ばなかった。何も起こらなかった。死から生への移行を見せることはもっと難しい。なぜなら、移行を作る必要があるからだ。そうしないと、何も起こらない」。この一節は、生と死に対するだけでなく、それ以上に、映画作り、さらに映画作りにおける映画作家の能動的、洞察的、主観的役割に対するファン・デル・コイケンの態度を強調している。能動的というのは、映画作家は、映像を構成し、選択し、結びつけるからだ。洞察的というのは、世界で起きる事を把握し、映画の映像としてだけでなく、世界観としてフレームにはめるためだ。主観的というのは、映画作家はこのフレーミングの個人的な側面を自覚し、しばしば、カメラの前の出来事との関係において自分の立場の主観性を強調しようとするからだ。この観点に立てば、彼の映画におけるいくつかの先行例のある言明を互いに関係づけることができる。『ロング・ホリデー』では、リオ・デ・ジャネイロのシークエンスにおいて、ファン・デル・コイケンはダンスがされている中で撮影しようとするが、光量不足のため、映像をうまく作れない。彼自身、彼がスラム街の貧しい人々と落下傘を着けてカーニヴァルの上空を降下する金持ちの間に構築した意味を持たされた対立や光量不足のため撮影できないので、「死んでいるかのような」自分と、踊りを通して「生きている」スラム街の貧しい人々の対比に自覚的だ。彼はカーニヴァルの中で動かない。なぜなら、撮影用の光量がないからだ。一方、スラム街出身の貧しい人々はカーニヴァルに参加しにきたように見える。「そして光というのは私だ」と『Filmmaker's Holiday』の終わりで、彼は言うが、すぐさま、相対させるために、ありそうな宗教的解釈からその言葉を解放するために、「ほかのみんなの間で互いに」と言う。それは、映画作家としての彼が自分の映画にそうした自分の出番を作るという事実を強調する。光を、したがって映像を支配するのは彼なのだ。『Face Value』での「私は神だ」は、同じように、その直後に、相対化するものの暴露的な「誰もがそうであるように」という発言に続く。暴露的な、というのは、ここでも、ファン・デル・コイケンは、彼が自分の映画で見せる世界は彼の世界、彼が見たままの、彼が作ったままの世界だということを明示するからだ。また、だからこそ、『ロング・ホリデー』(さらに彼の他の多くの映画で)において観客が彼の身体を見ること、もしくは彼の存在を聞くことが、視覚的な観点のみならず、精神的かつイデオロギー的な観点をしっかりと固定するために、重要なのだ。それらの観点において、映画作家は作り出される映像の源泉であり、またその人が伝達する観念のフィルターであることを前提とする。『Face Value』で、彼は述べる。「眼鏡をかけないと、私は自分を見ることができない。眼鏡なしでは、私は自分を見ることができない。私は他人を見ることができる。他人を見つめることは到達不可能なものを探し求めることだ。私は他人を見ることができない(略)カメラは目の背後を見るが、思考は見えない。しかし思考は見えない」。ファン・デル・コイケンは自己矛盾に陥っているように思える(「私は他人を見ることができる」に対する「私は他人をみることができない」)が、まさにここに、彼が映画作家としての自分をどのようにみなしているかの本質がある。彼は事物(顔)を見ることができるが、目の背後の思考を全面的に理解することは到達不可能なままだ。ある意味で、ここに、ドキュメンタリーに常につきまとう問題設定を見ることができる。現実性を記録するカメラの機能は、記録されたものに決定的な解釈を付与することの純然たる不可能性によって自家撞着させられているように思われる。観察することは理解することと同じではないのだ。初期の作品において、ファン・デル・コイケンは世界を説明しようと試みた。後期の作品において、この試みは、世界を理解する、また世界の一部としての自分を理解するという企てへと変化した。『Face Value』で、しばらく後に、自ら言い換えながら、ファン・デル・コイケンは、この最終的に到達不可能な相の重要性を強調する。「レンズなしでは、私は自分をみることができない。私はレンズを用いずに自分を見ることはできない。明日私は生まれるだろう。私はレンズで音楽を作るだろう。私は自分を見ないだろう。」ここでもまた、彼は見ること、視覚的要素と生(生誕すること)の間に類似性を見いだす。さらに、ファン・デル・コイケンは、彼が自分の映画の中の世界を作ること、彼なりのやり方で、彼を取り巻く世界を把握しようとしていることのために生きていること、を明確にする。

 『ロング・ホリデー』の後、ヨハン・ファン・デル・コイケンは『Unfinished Present(未完の現在)』と題された新作企画にとりかかった。この企画は未完のままだろうが、現在は常に今だ。『Filmmaker's Holiday 』で、ファン・デル・コイケンは映画に写真を対置させる。「一枚の写真は思い出、記憶だ。映画は常に今だ」。彼が51本の映画を残し、それらが常に現在であり続けるだろうということに世界は満足するだろう。

 『ロング・ホリデー』は「予告された死の記録」とみなしうる。この映画で、ファン・デル・コイケンは、前立腺癌が再発し、あと数年しか生きられないことを医者から聞いたと言う。しかし、この予告された死は、この映画の撮影中、ファン・デル・コイケンが映画を作りながらの旅の間に教わった民間療法のおかげで延期されている。この映画は、彼は90歳まで生きるかもしれないという楽観的だが誤った希望と共に終わる。最初のショットと最後のショットは共に、それらの象徴主義において、ファン・デル・コイケンが自分自身と観客に信じさせた以上にリアリティに近いように見える。この映画は、磁器のカップの中で、ぐらついているもうひとつの磁器のカップで始まる。リズミックな動きと音は次第に遅くなり、すべての動きが止まると、カップの中のクロースアップになる。時が止まり、映像は空っぽになる。この映画の最後のシークエンスはオランダの川の事物と動きを見せ続ける。次第に映像は焦点が合わなくなって消えていく。生(時の流れ、生命をもたらすもの)と死(ギリシャ神話の三途の川のように)双方の象徴としての川もまた、空虚なイメージに変わる。この映画の他のシークエンスで、ファン・デル・コイケンは述べる。「私は映画を続けなければならない。映像を作れない時、私は死んでいる」。今、ヨハン・ファン・デル・コイケンはカメラを手離した。彼はもはや二度と映像を作ることができない。

 


原注

1. 1999年、アムステルダムのテレビ局AT5のインタビューでヨハン・ファン・デル・コイケンはこう説明している。

2. Institut Des Hautes Études Cinématographiques(フランス高等映画学院)

3. 「De Groene Amsterdammer」2000年2月2日号、マックス・アリアンによるインタヴューにおけるヨハン・ファン・デル・コイケンの発言。

――英語翻訳:細川晋


ケース・バカー Kees Bakker


映画研究家。1994〜2001年までヨーロッパ・ヨリス・イヴェンス財団に務めるかたわら映画学を教えている。『ドキュメンタリー・コンテクスト』監修、またイヴェンスについての評論を多数発表。またドキュメンタリー映画のセミナーであるドクス・キングダムのプログラマーとしても活躍。現在はヨーロッパ・オーディオヴィジュアル・オブザーヴァトリーのリサーチ・アシスタント。博士論「Representation and Interpretation of Reality--Towards a Hermeneutics of Documentary Film and Television(現実の表象と解釈――ドキュメンタリー映画及びテレビにおける解釈学に向けて)を執筆中。

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