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リアルなアイルランド:ドキュメンタリーにおけるアイルランドの発展

ハーヴィ・オブライエン著/マンチェスター大学出版/2005年/英語
Harvey O'Brien, The Real Ireland: The Evolution of Ireland in Documentary Film
Manchester: Manchester University Press, 2005, ISBN: 0-7190-690

評者:ルース・バートン

 2005年初夏、アイルランド国営放送局のRTÉは、前首相チャールズ・J・ホーヒーについての、4部作からなるドキュメンタリー・シリーズを放送した。政界を引退しているホーヒーは、アイルランドという国を象徴する存在である。複雑で、そして間違いなく魅力的なこの人物は、自らが率いた共和党とともに経済を瀕死の状態から立て直し、経済的に安定した新しい国家を作り上げることに尽力した。しかし問題は、多くのメディアや司法の捜査によって明らかになったように、ホーヒーが国の経済を徐々に立て直しながら、政治献金を党から着服し、国外の銀行の秘密口座に預けることによって巨額の私腹の富を築いたことだ。加えて彼は、経済回復の一因であった重い対人税を、自分自身には課していなかった。このシリーズはセンセーショナルな番組になると謳われていたが、終わってみると、ほとんどのメディア・アナリストも、また多くの視聴者も、内容に失望した。まず間違いなく言えるのは、製作者はホーヒーに甘かった。古い逸話や誰でも知っていることを焼き直しただけで、根強く残る神話への賞賛を切り崩し、“リアルな”歴史を暴こうとはしなかった。

 『ホーヒー』の完成は、ハーヴィ・オブライエンによるアイルランドのドキュメンタリーに関する基礎研究に含まれるには遅すぎた。とはいえこの番組は、オブライエンの著作の中心的な議題と多くの点で関係している。本書はアイルランドに関するドキュメンタリー、主に国内で制作されたものについて、詳細かつ緻密に検証し、初期の旅行記から国がスポンサーになった短編教育映画、そして1940年代のリアム・オレアリーや、'60年代のピーター・レノン、'70年代のボブ・クイン、'80年代のジョン・T・デイヴィスとアラン・ギルセナンなどの独自路線の作家たちまで、広範に扱っている。オブライエンは媒体を綿密に分析し、その結果、その歴史の中に批評の対象を数多く見つけることになった。アイルランドの他の多くの文化歴史学者と同様に、オブライエンもまた、「アイルランドの発展は内部からはどのように見えたか、そしてノンフィクション映画によってどのように描かれてきたか」という題材に関心を持っている(237頁)。それはつまり、この本は、アイルランドのドキュメンタリー史と、20世紀と21世紀初頭のアイルランド史の両方を描いたものとして、読まれることを意図しているということだ。それと同時に、彼は理論を採用し、ビル・ニコルズとジョン・コーナーの著作を主な根拠として論を展開し、アイルランドの映画作家たちを世界のドキュメンタリーの伝統の中に位置づけている。特に後者は、刺激的な並列へと彼を導いていく。たとえば「カソリックの意志の勝利:ブラウン神父の映画」と題された章の中で、オブライエンは、レニ・リーフェンシュタールの作品と、アイルランドのイエズス会のフランク・ブラウン神父の作品を、同列に並べて論じている。ブラウンは今では、タイタニック号の処女航海に乗船し、船内で撮影した一連の写真のほうでよく知られているだろう。ブラウンはそれ以外に、宗教祭日を描いた映画、『Eucharistic Congress(聖体大会)1932』を含む何本かの映画を作り、カソリック国家としての新しいアイデンティティを制定し、ローマへの忠誠を誓った人物として知られている。アイルランドのほぼ全域を旗と聖水で満たしたこの活気にあふれた行事は、国家の共通意識のひとつの表明であり、それがオブライエン自身に、人々の熱狂は、本当にブラウンの映画が提示しているように自然発生的であったのかという疑問を抱かせる。『意志の勝利』(レニ・リーフェンシュタール、1935)とブラウンの素人仕事を比較するのは「はなはだ不公平である」(33頁)と認めながら、それでもオブライエンはその類似性を追求し、そして最終的に、リーフェンシュタールの動機が依然として論議の対象とすれば、ブラウンの仕事は、彼の疑問の余地のない確信によって記録されていると結論づけた。ブラウンは、カソリック教会とその国家との不可分性について、他の立場を想像することができなかった。

 オブライエンが20世紀の大部分を決定づけていると見ているものは、カソリック教会、保守的な国家、そして彼が後に「存在論的、宗教的、または司法的な議論なら、ドキュメンタリーや他の文化的表現で提示されれば、どんなものでも受け入れる存在である。なぜなら、文字通りそうするように教えられてきたからだ」(59頁)として諦念とともに切り捨てた一般大衆の、三角関係である。先に名前をあげた独自路線の作家たちが現れ(その中で、あからさまに“政治色”を出す姿勢がもっとも少ないのがデイヴィスだ)、やっとこの関係に疑問が投げかけられた。しかし彼らとて、オブライエンが力説しているように、表面的なイメージを超えることを躊躇する気持ちにとらわれ、政治社会的な創作である“リアルなアイルランド”を脱構築するまでにはいたっていない。

 アイルランド史を描くことは、この国のドキュメンタリー作家たちの関心の中心であり、本書の大部分を占める主題もそれである。さらに最近では(『ホーヒー』は例外として)、アイルランド政治史という大きな主題から、社会の歴史、特に公的施設での権力濫用を暴くことに焦点が移ってきていて、その大部分はカソリック教会による不祥事だ。それと同時に、ドキュメンタリーの主な資金提供と放送は、RTÉが担うようになってきている。ルイス・レンティンの『Dear Daughter』(1996)やメアリー・ラフタリーの『States of Fear』(1999)などの作品は全国的に話題になり、国民が一斉に大きな怒りや憤りを吐き出すはけ口になった。私はここで、オブライエンはこれらの映画作家たちに対して、厳しすぎるのではないかと感じる。特に後者の作品について、彼は、教会の不祥事を早い段階で暴けなかったメディアの失敗を、十分に問題視していないことを執拗に責めている。ユ90年代後半の当時は、映画で描かれた事件の多くは昔話とはいえ、メディアが犠牲者たちに対して注目したことは、彼らの義憤をそれまでに見られなかった形で証明していると、私には感じられた。

 このパンチが効いていて、包括的で、写真がふんだんに使われ、詳細なフィルモグラフィーが付いた著作の中で、オブライエンは、多くの表現分野が議論の対象となる素地を作った。本書をきっかけとして、次の研究者たちが現れ、アイルランドにおけるドキュメンタリー製作の小さいけれども重要な伝統を、詳細に分析するという贅沢にひたることだろう。

――翻訳:桜田直美

 

ルース・バートン Ruth Barton
ダブリン大学オケイン映画研究センターの研究員。著作『Irish National Cinema』他。


ドキュメンタリーの力
鎌仲ひとみ・金聖雄(キム・ソンウン)・海南友子共著/子どもの未来社/2005/日本語
ISBN: 4-901330-52-7
評者:森達也

 鎌中ひとみに初めて会ったのは、1997年の山形国際ドキュメンタリー映画祭だ。僕にとっては初監督作品となる『A』の、プレミアム上映が終わったその日か、翌日だったと思う。市内の居酒屋のカウンター席に僕はいた。僕の隣には、僕も名前だけは知っていたドキュメンタリー映画界の大御所が座っていた。上機嫌の彼は、相当に酩酊していたように思う。ひとしきり話し終えてから、「ところで君の作品は?」と彼は、思い出したように訊ねてきた。

 「『A』といいます。アルファベットのAです」
 「Aって、あのオウムの映画のAか?」
 「はい」

 少しだけ間を置いてから彼は、「何だってそんな映画を撮ったんだ?」と低い声でつぶやいた。その言葉の真意を測りかねて「はい?」と聞き返す僕に、「あんな社会の敵を、なぜ被写体にするんだ?」と彼はもう一度言った。表情は一変していたし、声の調子は詰問だった。社会の弱者を撮り、権力に対峙することがドキュメンタリーの使命なのだ。オウムには被写体にするような価値はない。ドキュメンタリー映画は少なくとも、そんなマスメディアのような視点に立つべきではない。

 当時テレビなどで大量に消費されていたオウムの特番的なイメージを、彼が僕の作品に対して抱いていることは察しがついた。でもこの場で、彼に反駁できるほど僕は強くない。無言で俯いたままの僕の隣から、女性の声がした。

 「Bさん、映画はいつ観たの?」
 「映画? 観ないよ」
 「それは変よ。批判はいくらしても良いわ。でも観ることが条件よ。観ないで批判なんて、それは絶対におかしいわよ」

 その後の記憶は途絶えている。でも多分、僕のことだ。両隣にへらへらしていたのだろう。そのときの女性が、鎌仲ひとみであることは、後で知る。

 その鎌仲が、著者のひとりとなって刊行された本のタイトルは『ドキュメンタリーの力』。思わず吐息が洩れるほどにまっすぐだ。同じ時期に刊行された僕の本のタイトルは、『ドキュメンタリーは嘘をつく』。何とまあ、卑屈で媚びたタイトルだろう。書店で並んで平積みにされた2冊の表紙を眺めながら、「何も同じ時期に出版しなくてもなあ…」と、僕は心中ぼやいていた。もしかしたら鎌中も同じ頃、どこかの本屋の店先でぼやいていたかもしれない。相変わらず自虐的な男だなあと。

 その鎌仲はこの本で、自作のドキュメンタリー映画『ヒバクシャ――世界の終わりに』(2003)のメイキングを描写する。このメイキングの文章そのままが、まるで上質のロードムービーのように、映画と鎌中の軌跡をダイナミックに再現する。特に、イラクに暮らすムスタファの家族を撮るときのエピソードが印象的だ。以下に引用する。

情報省のガイドに明日も来ると言うと、びっくりした顔をして、「何でだ、もう撮影したじゃないか」と言う。「いや、これから毎日通いたい」と言うと、いきなり怒りだした。「自分はこれまでたくさんの国の取材班と仕事をしたが、同じ場所に2回行ったチームはいなかった。あんな何もないところに何をしに行くんだ」と言う。

 簡潔な描写だが、現場におけるドキュメンタリーとニュース映像の差異を、この顛末はとても鮮やかに活写している。ただしこれを以って、ドキュメンタリーは被写体との関係性が何よりも重要であるとか、そんなステレオタイプなアフォリズムに依拠すれば、たちまち「弱者を被写体にして権力に対峙」云々の慣用句に陥没してしまう。鎌中はムスタファの家族をもっと知りたかった。だから持続を希望した。単純なことだ。でもこの単純さが、今のマスメディアに最も欠落している要素だ。

 日本で暮らす在日一世のオモニたちを追い、その日常に入り込んだ金聖雄は、5年の月日を重ねて『花はんめ』(2004)を仕上げた。なぜ金は、彼女たちの日常に同化することを選択したのか? 当たり前だ。金も在日なのだ。だからこそ同化への欲望に金は抗わない。その瞬間にこの作品は、ドキュメンタリー映画として見事に昇華した。インタビューらしいインタビューがほとんどないことも、彼女たちの日常の一部になることを欲望した金にとっては、当然の帰結なのだろう。

 自己に徹底して誠実であること。これこそがドキュメンタリーの、しいて言えば必要条件だ。ただし金には、ひとつだけ苦言。「いちばん観てもらいたかったのは被写体となった彼女たち。」この文章に、僕は少しだけ引っかかった。僕はこれまでの自作で、被写体となった人たちに観てもらいたいなどと思ったことは一度もない。そもそも撮影が楽しいと思ったこともほとんどない。金の誠実な生理が紡いだ文章であることは承知で、もっと悪どくなることを、これから彼には期待する。

 『にがい涙の大地から』(2004)を監督した海南友子は、かつて報道局のニュースセクションにいた頃の自分を振り返りながら、こう記す。

“たったひとつの真実”と言うものは存在しえない。どんな記事も、ある記者やディレクターたちが現場で取材したことの中からつむぎ出す、ある視点からの真実に過ぎない。

 この文章に付け足すことなど何もない。だからこそ現場で獲得した感覚や情感に、徹底して誠実であることだけがドキュメンタリーの唯一の規範なのだ。語彙は微妙に違うが、その覚悟があることは3人とも共通だ。そしてもうひとり、森達也も全面的に同感。4人の中では、たぶんいちばん意気地がなくて卑屈だけど。

 

森達也 Mori Tatsuya
映像作家。『A2』(2001)はYIDFF 2001で市民賞、特別賞のダブル受賞。『A』(1998)、『A2』ともに数多くの海外の映画祭で上映。著作『ドキュメンタリーは嘘をつく』他、多数。

*『A』はYIDFF '97でプレミア上映されたが、翌年再編集して完成させたものが正式の作品となる。


ドキュメンタリーは嘘をつく
森達也著/草思社/2005年/日本語
ISBN: 4-7942-1389-1
評者:鎌仲ひとみ

 まずタイトルがいい、つい手に取ってみたくなる、そそられる。それはきっと人間というものが元来、“真実”よりも嘘の方に魅力を感じるからかもしれない。

 しかし、一旦、この本を読み始めると、まず森達也という男はなんて嘘をつくのが下手なんだろう、と感じてしまう。自分自身の弱さやずるさ、微妙な感情の揺れをてらいもなく書いている、自分自身を正直に晒している。

 草思社のPR誌『草思』に2002年から2年間にわたって連載された「ドキュメント・オブ・ドキュメンタリー」や講談社の『群像』に連載した「Review Films」を下敷きに加筆されたものだ。ドキュメンタリーの本質はどこにあるのか、著者は自分自身のドキュメンタリー人生に沿って語ってゆく。それはそのまま世間のドキュメンタリーに対する考え方や認識へのアンチ・テーゼとなっている。著者が自分自身の“ドキュメンタリー”というものを発見してゆくプロセスが豊かなディティールを持って描写されてゆく。著者自身がそのキャリアの最初から感じ続けているテレビ業界への違和感は彼自身がいわゆる組織に所属するテレビ・ディレクターとは対極にある本来生まれついての作家なのだということの証明のようなものなのだということが自然に納得できてゆく。

 前半の2章で歴史的なドキュメンタリーの定義に関する分析が行われている。制作する側の視点が「個人に立脚しているか、イズムや思想などの茫漠としたマジョリティに依拠するか、この微妙な差異」がドキュメンタリーの本質に触れているのだと著者は感じている。ロバート・フラハティの『極北のナヌーク』、亀井文夫の『戦ふ兵隊』、牛山純一のテレビ・ドキュメンタリーシリーズなどがいかにひとりの作家の眼によって描かれた主観であるか、それであるからこそ普遍的な映像の力を獲得できているのだとしながら、一方でそのような個の視点を切り捨て、抑圧してきた戦後のテレビ・ドキュメンタリーの変質を対峙させている。この3人のドキュメンタリー映像作家の制作に対する態度はまさしく著者の制作姿勢に重なってくると以降の章を読み進むうちに納得できてゆく、体制側から無視され、批判されたとこもそのまま著者の体験へと重なってゆく。

 3人の作家たちの制作姿勢とはフラハティの場合「情熱や理論が先行したのではなく、あくまでもキャメラを回す実体験から始まった。」亀井文夫は「イズムや思想に踊らない亀井のむき出しの生理が、フィルムにひりひりと焼きついている。」牛山純一に関しては彼自身の言葉、「報道は客観的な事実を伝えるのではなく、事実を客観化することだ。観察者によって事実は百八十度転回する。映像は現実に直面し、対象を知覚したときの意味の世界であって、記録する者の現実の解釈なのだ。そしてそこには人間がかならず介在する。」や「記録者は不可能に対する挑戦のあがきを描くものかもしれない。どんな記録者も絶対に客観的な真実など表現できない。自分のたたかいの記録にしかすぎない。」を引用している。

 著者がオウム真理教をドキュメンタリーとして描いた、その根本にあったのは上にあげた3人の姿勢そのままではなかったのか。

 第3章以降はドキュメンタリー映画『A』(1998)の制作開始から完成までのエピソードと共に著者自身のドキュメンタリー映画論が展開されてゆく。それはあくまでも徹底して具体的な現場からの報告というスタンスが貫かれている。テレビ業界で多用されている“客観性”や“中立性”という言葉に対し、自分自身の生理として違和感や懐疑を持ち、それに正直になればなるほど隘路にはまってゆく様が、そのままテレビ・ドキュメンタリーが陥っている落とし穴をはっきりと浮かび上がらせている。初めて自分でカメラを廻して著者は「被写体にカメラを向けながら主体は自分なのだと(今更だけど)つくづく思い知った。ファインダーに浮かび上がる映像は、混沌とした現実から自分が主体的に意味を感知して、自らの判断で切り取った情景なのだ。その主観の果実に、編集作業という作為的な加工が施されて作品が完成する。そこに中立や客観などの概念が入り込む余地などまったくない」と再確認する。そしてやがて映像を制作する主体としての自分自身の加害性をはっきりと自覚する。「ありのままの事実など撮れない。キャメラのフレームに映りこむ世界は、キャメラという異物によって触発され、加工された虚構によって再構築される現実なのだ」と。つまり「ドキュメンタリーというジャンルは、徹頭徹尾、表現行為そのものなのだ」、だからこそ“客観”や“中立”などとは対極にあるのは自明なことなのだ。“客観”や“中立”などという言葉を未だに使い続ける輩は自らの表現者としての責任を投げ捨てているに等しいと著者は言っているのだ。

 ドキュメンタリーがその本来の豊かさを取り戻してゆくには、ドキュメンタリーそのものがしょわされている“真実を描く”という誤解から自由にならなければならない。人間はカメラの前で演じる存在なのだ、カメラもまたその演技をそのままに受け入れ、利用してゆく。その虚構性こそが人間存在の本質的なものであり、ドキュメンタリーはそこを描いてこそより、豊かに輝くことができる。そんなわかってしまえば当たり前のことをこの本は丁寧に実感をこめて語っている。そして一方でいまだにこの当たり前から遠くはなれたマジョリティが存在することもまた私達はよく知っている。だからこそあんなに面白いドキュメンタリー映画『A』が獲得して当然の観客を動員できていないのだ。そのような観る側と作る側との“ドキュメンタリー”そのものに関する認識の差異をこの本は埋めてくれるはずだ。さもなければこの優れたドキュメンタリー作家が今後、作品を作り続けてゆく可能性がますます狭められてゆく、それを憂慮する。

 

鎌仲ひとみ Kamanaka Hitomi
映像作家・東京工科大学助教授。『ヒバクシャ――世界の終わりに』(2003)はYIDFF 2003アジア千波万波など、数多くの国際映画祭で上映。 共著『ドキュメンタリーの力』他。