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審査員
東琢磨


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●審査員のことば

 私たちは、うたを聴く時、声を聞いているとするならば、写真やドキュメンタリー映像を見る時、顔を見ている。とりあえず、そう言ってみることもできるかもしれません。

 では、まず、聞いたり見たりして得た感受や経験をどのように語ることができるでしょう。私や他者の、声や顔を、そこから受け取った、受け止めてしまった〈何か〉をいかにことばにすることができるのか。

 こう問うこともできるはずです。声を聞く、顔を見るとは、どういうことなのかと。ひとつの声の向こうには多くの声が残存し響いているかもしれませんし、ひとつの顔にはそれを織りなす無数の顔が刻みこまれているかもしれません。

 また、時に人は、声を見て、顔を聞いているかもしれません。そのものを、聞く、見る、だけではなく、さまざまに喚起されるものに晒される、曝されるといってもいいかもしれないという意味です。

 「声」や「顔」が、ある時代や集団を代表する、象徴するような存在として言い表される時もあります。特定の声や顔が、その背後の人びとだけではなく時間や土地についても雄弁に語ってしまうことがあるということです。

 しかし、時にその雄弁さは、ことば通りではないこともあります。むしろ、説明することばとはまったく違う豊かさで語るということです。それは時にまったくの沈黙として現れざるをえないような雄弁さですらあったりもします。

 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、狭いものとして見られがちなところもある「ドキュメンタリー映画」が持つ、そんな声や顔、さまざまな雄弁さを誇る映像たちを、私たちに伝えてくれてきた存在です。ドキュメンタリーの拡張であるだけではなく、世界の結節点のようにしてある、もうひとつの世界ですらあると、私は受け止めてきました。

 今回、審査員のお誘いをいただき、喜んで参加させていただくことにしました。観客のひとりとしてこの映画祭に自らを曝してみようと思います。数多くの作品、作家の方々、現出する声や顔に出会うことを心から楽しみにしております。よろしくお願いいたします。


東琢磨

1964年、広島生まれ。東京生活を経て、2005年から広島在住。音楽批評を中心にしながら執筆稼働を続けている。著書に『ラテン・ミュージックという「力」』(音楽之友社、2003年)、『全-世界音楽論』(青土社、2004年)、『ヒロシマ独立論』(青土社、2007年)、『ヒロシマ・ノワール』(インパクト出版会、2014年)、『忘却の記憶 広島』(月曜社、2018年、共編著)など。東京外国語大学、成蹊大学、広島女学院大学などで教壇にも立ってきた。ヒロシマ平和映画祭事務局長なども務め、核問題・「ヒロシマ」に関わるドキュメンタリー、日本のプログラムピクチャーなどの映画に関しての紹介・批評もある。長くフルタイムのフリーランスとして活動してきたが、近年は会社員にも復帰、「全身アマチュア・パートタイム批評」を標榜している。